イスマイル・カダレを読む(「幻視社第五号」より)

アルバニアの小説家イスマイル・カダレが亡くなった。
アルバニアの著名小説家が死去 イスマイル・カダレさん、88歳(共同通信) - Yahoo!ニュース

15年ほど前に『誰がドルンチナを連れ戻したか』を読んだのをきっかけに東欧文学に関心を抱いて〈東欧の想像力〉叢書その他を読みはじめ、その挙句に二年後の2011年にはイスマイル・カダレと〈東欧の想像力〉特集として同人誌「幻視社第五号」を出したきっかけになった作家だ。後に『ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち』にもカダレの項目を書くことになった。

イスマイル・カダレ - 誰がドルンチナを連れ戻したか - Close To The Wall
2011 幻視社第五号PDF版

ノーベル文学賞でも取ってもっと翻訳が出て欲しいと思っていた作家の筆頭だったので惜しい気持ちはあるけれども、死去を機に「幻視社第五号」で私が担当したカダレガイドの部分をこちらに掲載することにした。十数年前の時点で読めるものをある程度抑えたうえで書いたので今でも結構参考になるのではないかと思います。

なお、カダレの特集にはあと渡邊利道さんのエッセイが載っています。それと〈東欧の想像力〉ガイド全体のほうは上掲の電子書籍をチェックしてみてください。文中にもリンクしていますけれども、以下で書いた時点よりも井浦伊知郎氏のウェブサイトにはカダレ含めてアルバニア文献の翻訳がより増えていますのでご参照ください。
井浦伊知郎web


ブログ掲載に当たって適宜書影を差し込んでいます。☆マークは空きスペースに差し込まれたコラム。

はじめに

 アルバニアの小説家、詩人のイスマイル・カダレは国際的な評価は高いものの、日本での翻訳はまだまだ少ない。そのうえ、カダレを有名にした『死者の軍隊の将軍』が2009年に翻訳された以外は既訳書が全て品切れという状況にある。
 そんなカダレのさらなる読者増加を願って、本項では、未刊のものも含めてカダレの翻訳された(おそらく)全作品の紹介等を掲載し、カダレ作品へのガイドとしたい。
 補足説明として、簡単なアルバニア小史とカダレ略歴を冒頭に据えた。数奇なアルバニアの歴史自体が興味深いうえに、カダレ作品はアルバニアの歴史、政治を題材にした作品も多い。アルバニアの歴史をある程度把握しておくことは作品理解に資するところが大きいだろう。
 カダレの作品全体をつらぬくのは、アルバニアとは何か、という問いだ。

アルバニア小史 Shqipëria

 カダレの紹介のまえに、「世界一マニアックな国」「ヨーロピア北朝鮮」とまで呼ばれたアルバニアという国について手短に紹介しておきたい。以下はおおよそ『アルバニア・インターナショナル』の概説部の適宜要約なので、詳しくはそちらを参照。
 日本語の表記としては「アルバニア共和国」。正式にはRepublika e Shqipërise。通称はShqipëria(シュチパリア)となっている。
 アルバニアはヨーロッパの南東にあるバルカン半島の西岸側に位置し、アドリア海エーゲ海黒海に囲まれた小国で、アドリア海を挾んでイタリアと向かい合っている。また、モンテネグロコソヴォマケドニアギリシャと国境を接する。人口は350万人。ただバルカンの常として他国にもアルバニア人は多く居住し、特にコソヴォの人口180万人のうち、およそ九割がアルバニア人となっており、このことはコソヴォを歴史的に重要視するセルビアとのあいだで紛争を起こし、今もコソヴォ共和国の独立をめぐって対立が続いている。
 アルバニアの地は古代にはイリュリア、イリュリクムとも呼ばれ、現在のアルバニア語、アルバニア人はこの時代から続くものだとされている(カダレの作中にバルカン半島ホメロスが生まれた場所で、偉大な詩の故郷だという下りがある)。中世はオスマン帝国支配下にあり、住民の多くがイスラム教に改宗した。このこともあって、「無神国家」を経た今でもイスラム教徒が多い。ただし、戒律に対しては非常に柔軟で世俗的。
 独立運動露土戦争オスマン帝国が弱体化したことをきっかけとして始まり、第一次バルカン戦争後の1912年アルバニア独立が宣言される。
 その後、アフメド・ゾグによる王制が敷かれ、イタリアに対して政治的経済的に依存していくようになった。イタリアは1939年アルバニアを武力制圧し、ゾグ夫妻は国外逃亡した。イタリアが降伏するとかわってドイツによる支配がはじまり、これに対するアルバニア人抵抗運動が組織される。ユーゴのチトー率いるパルチザンに支援された共産党系の組織が主導権を握り、1944年アルバニア全土を解放する。戦後アルバニアに40年にわたって君臨した独裁者エンヴェル・ホジャはこの解放軍の指導者だった。
 親ソ、親ユーゴだったアルバニアは、1948年コミンフォルムでユーゴが除名されると国内の親ユーゴ派を粛正し、スターリンへ接近する。
 東欧史では大きな事件として、1956年のスターリン批判、ハンガリー革命、1968年のプラハの春チェコ事件)、そして1989の東欧革命の三つの年号が重要だと思われる。これらはアルバニアにおいても重要な転機をもたらしている。
 1956年、フルシチョフによるスターリン批判が表沙汰になり、ソ連がユーゴとの関係見直しを始めると、親ユーゴ派を粛清してまでスターリンに寄り添ったアルバニアソ連を批判、1961年には国交断絶に至り、同時に国内の親ソ派を追放する(『大いなる冬』『草原の神々の黄昏』の時期)。
 この時期、中ソ対立を背景に、ソ連と敵対したアルバニアソ連の敵、中国へと接近する。後にホジャは毛沢東文化大革命に共鳴し、国内でも宗教活動を禁止し世界初の「無神論国家」となった。1968年のプラハの春では、ワルシャワ条約機構軍のチェコ侵攻を批判し、機構を脱退。
 中国との関係も長くは続かなかった。中国がアメリカとの関係を深めていくとこれを批判し、1978年中国政府はアルバニアに対して経済的軍事的援助の全面停止を発表し、事実上絶縁、アルバニアは実質的な鎖国国家となる。
 米国を「帝国主義」とし、ソ連、中国他の社会主義国は「修正主義」と見なして孤立の度合いを深め、外国からの借款停止など「鎖国」と呼ばれる政策をとることになる。
 同時に、イデオロギー統制、監視に始まり、国内の至る所に塹壕・トーチカを設置し、国民に軍事教練を義務づけ、武器を配備し、国民総武装体制を敷いた。
 鎖国とは言っても最低限ながら外交、貿易は維持されており、日本とも1981年に国交を樹立している。
 1985年、ホジャの死去とともに権力はラミズ・アリア第一書記に移る。そして1989の東欧革命の波にさらされることになる。反政府デモや国外逃亡などの煽りを受け、民主化路線をとり、東欧諸国に比べればかなり遅れた1991年、ようやく複数政党制の選挙が行われたものの、従前の労働党がそのまま政権に居座った(『アルバニアの雪どけ』の時期)。
 この後徐々に自由化が進められ、労働党が政権の座を降りたものの、90年代中盤、有名な「ネズミ講」事件が起こる。国内大手金融会社による「ネズミ講」が行われ、しかも政府による黙認もあって、人口の三分の二が投資していたと言われるこれが破綻、抗議運動は加熱して反政府暴動へと発展し、アルバニア無政府状態に陥った。この事件でおよそ二千人が死亡している。
 欧州最貧国とも呼ばれたアルバニアも、いまはNATO加盟を果たし、EU加盟へ向けて努力を続けている。

イスマイル・カダレ略歴 Ismail Kadare

 1936年、アルバニアはジロカスタル(ギロカステル、ギロカストラ等とも)に生まれる。戦後のアルバニアを代表する作家として知られ、2005年には英語圏の作家を対象としたブッカー賞の国際版として作られた第一回国際ブッカー賞に選ばれるなど、国際的にも高く評価されている。
 1958年、ティラナ大学の文学・歴史学科を卒業すると、モスクワのゴーリキー文学研究所に留学する。しかし60年頃のアルバニアソ連の関係悪化を受けて帰国を余儀なくされる(この時期のことは『草原の神々の黄昏』に詳しい)。この留学での同期生に同じくアルバニアの作家、ドリテロ・アゴリがいる。
 帰国後はジャーナリストとして活動しつつ、かたわらで詩、小説を書く。1963年には「死者の軍隊の将軍」を発表し、30以上の言語に翻訳されるなど国際的にも知られるようになる。
 同郷のエンヴェル・ホジャとも親しく、作家芸術家同盟や人民議会の代議員、アルバニア民主戦線(労働党指導下の大衆翼賛組織)の副議長(議長はホジャの妻)などの要職を務め、きわめて体制側に近い知識人だった。自身も自分が反体制の人間だったことはないとも言っている。しかし作品のいくつかは発禁(『怪物』等)になるなど、保守派の批判を受けてもいた。
 90年代東欧革命の大きな流れを受けて、アルバニアでも経済的危機から民主化改革への要望が高まっていく。カダレは時の最高指導者ラミズ・アリアと接触し、改革への要望を伝えたり、党指導部への批判を行っていた。しかし改革の挫折とともにフランスへ亡命することになる(『アルバニアの雪どけ』でこの経緯を詳しく描いている)。現在はアルバニアに戻っている。

 作風は幾つかの傾向を持つものに分けられる。
 第一に、『死者の軍隊の将軍』のように、アルバニアの戦後を描いたもの。未訳のものに、『婚礼』、自伝的な『石の年代記』等がある。
 第二は直近の政治情勢を扱ったもの。アルバニアソ連の関係悪化を描いた『大いなる冬』、その状況を当時留学生だったカダレ側の目から描いた『草原の神々の黄昏』がある。未訳のものにはアルバニアと中国の関係悪化を題材にした『コンサート』がある。
 第三に、アルバニアの伝説伝承や因習を取り上げたもの。『誰がドルンチナを連れ戻したのか?』『砕かれた四月』の『冷血』二部作や、未訳のものでは『城』や、ユーゴのアンドリッチが『ドリナの橋』でも触れた橋に塗り込められた人柱の伝承をモチーフにした『三本柱の橋』がある。
 第四に、より幻想的なものや古代に材をとったものがある。オスマン帝国時代を舞台にして夢を管理する機構を描いた『夢宮殿』や短篇「凶夢」、未訳のものでは『アイスキュロス、この偉大なる敗北者』、『ピラミッド』がある。
 後に紹介する初期の長篇『怪物』はこのうち二、三、四の要素を併せ持つ作品で、カダレ世界のプロトタイプとも呼ばれているやや特殊な位置づけになる。

アルバニアとカダレ

 アルバニアといっても普通はあまりなじみがないと思われるけれども、マザーテレサといえば誰でも知っているだろう。彼女はマケドニア出身のアルバニア人だ。本名をアグネス・ゴンヂャ・ボヤヂウといい、姓は「ペンキ塗り職人」の意らしい。彼女自身はインドのほうにより親近感を持っているようで、特にアルバニアについて発言することは少ない。また、サッカーの神様と呼ばれるペレがカダレの作品を読んでいて、大変感銘を受けた、と発言したことがある。ちなみに、『砕かれた四月』がブラジルで映画化されており、日本その他では『ビハインド・ザ・サン』というタイトルになっている。他にも『死者の軍隊~』はマルチェロ・マストロヤンニ主演で映画化されている。

カダレ邦訳作品ガイド

死者の軍隊の将軍 1963

(井浦伊知郎訳 松籟社 2009年)

 松籟社の〈東欧の想像力〉第五巻。
 これ以前にも詩集の発表はあったようだけれど、小説デビュー作はおそらく本書。ただし、元々は中篇だったらしく、幾度かの改稿を経て現在のものになったとのこと。
 戦後二十年ほど経ったある国の将軍が、戦死した兵士の遺骨回収を命じられて、アルバニアの地を踏むところから話は始まる。将軍、それとアルバニア語を解する司祭の二人を中心人物として物語は進む。将軍は戦時中にアルバニアを占領していたイタリアの軍人であろうことは歴史的経緯からも確実なのだけれど、作中では一度も明示されない。作中では一貫して、将軍、司祭、技師、中将、兵隊さんといった呼ばれ方をしている。固有名で呼ばれるのはアルバニア人あるいは一部の女性ばかりだ。
 この作品が書かれたのは1963年。作中での時間とほぼ差はないだろう。二十年前という時間は、戦ったことを忘れるには短すぎ、死んだ兵士を掘り起こす作業は、アルバニア人の微妙な敵意を呼び起こす。ひどく暗い、徒労感にあふれた作品で、物語には断絶が刻み込まれている。
 戦後の二十年という時間が遺骨の発掘を難しくし、敵国同士の遺恨は消えず、生者の将軍が率いるのは青いナイロン袋に入った死者の軍隊で、言葉の壁もあり、さらには同行する司祭との仲も離れていく。この圧倒的な溝の深さには唸るほかない。死者を掘り起こし、死者の記録、村人たちの記憶に触れ、同行する男の死に見舞われ、延々と死に近づいていき、将軍はさらに自分の身長が遺骨を持ち帰らねばならぬ大佐と同じ一メートル八十九センチであることに気がつく下りは怖気を震う。かといって彼は死者ではなく、孤独のなかに突き放される。
 面白いのはこの断絶を書くに当たって、カダレはイタリア人将軍の目からアルバニアを描いた、というところだ。アルバニア人が異国に赴くというのでもなく、アルバニア人であるカダレが、イタリア人の目からアルバニアを描く、と言うひねりを加えた方法がとられている。そして描かれるアルバニアがまたなんともいえず野蛮さや後進性を強調したものになっている。
 司祭は言う。

アルバニア人というのは、粗暴で後進的な民族ですよ。彼らは生まれたばかりの頃から、揺りかごに銃を置いてもらっていて、だからこそ銃は彼らの生活に欠くことのできない部分になっているのです。
―中略―
アルバニア人はいつだって、殺し、殺されたいと望んでいるんですよ。彼らは殺し合いますが、戦う相手が誰であるかはどうでもいいのです。彼らの血の復讐について、お聞きになったことは? 36頁

 司祭はこうしたアルバニア人を蔑んだような持論を繰り返し展開する人物だ。かと思えば、アルバニア人技師が「復讐でアルバニア人の心理が説明できると思う外国人は時々いますがね、失礼ながらそんなものは、ただのたわごとですよ」と釘を刺す。
 司祭と対照的に、将軍はもうすこしアルバニアに親しもうとしている。ただそれもやはり断絶に押し返されることになる。アルバニア人の婚礼の場にふらりと訪れ(アルバニアの風習として、こういう場では身も知らぬ他人も歓迎されるものらしい)、なんとか親しもうとするところからの展開は本作のクライマックスをなしている。
 自虐的なようでいて強烈な皮肉のようであり、アルバニアの前近代性を批判しているように見えて、逆のようでもある。かなりアンビヴァレントなものが見え隠れする書き方で、国外留学組の知識人が自国を批判するというような単純なものではないだろう。これは後の『砕かれた四月』『誰がドルンチナを連れ戻したか?』あたりにも感じる。これらの作品では「アルバニア」とは何か、という問いがつねに大きな背景として存在している。自国を肯定的に見る目と批判的に見る目とがねじれて繋がっているような印象だ。『草原の神々の黄昏』も、国外留学の時の話に関わる自伝的作品で、「アルバニア」というのが各作品を貫く大きなテーマとしてある。
 トーンは常に暗いのだけれど、そのなかでも印象に残るエピソードが二つ。街に娼館ができ、そこに軍人が出入りするようになって、というものと、脱走兵が脱走先の農家に雇われて、そこの娘に恋をする話。どちらもやはり暗い結末なのだけれど、巻末の解説を読むと、娼館の話の舞台になっているジロカスタルという街はカダレの故郷で、他の作品にも同一のエピソードが出てくるらしく、これはたぶん実際の話なのだろう、と訳者は見ている。
 山岳地帯や復讐とかのモチーフが作中にさらっと出てくるところは後の『砕かれた四月』を予示しているようだ。

草原の神々の黄昏 1978

(桑原透訳(仏語より重訳) 筑摩書房 1996)

 刊行されている訳書のなかではもっとも自伝的要素の強い作品。カダレ本人と同じくモスクワに留学しているアルバニア人が主人公で、彼は『死者の軍隊の将軍』を思わせる作の構想を練っている。作中には多数の作家らが実名で登場していて、さらには中央アジア出身者、ラトビア人、アルメニア人、ギリシャ人、グルジア人など多彩な出身の留学生らが集まっていて、多民族国家ソ連の縮図となっている。
 留学生活と共に、ロシア人の女性、リダ・スニェギーナとの恋愛が全体を貫く大きな筋となっている。この恋愛はさらに、主人公が語るアルバニアの「コンスタンチンとドルンチナ」伝説をモチーフに展開していくことになる。主人公は一時の迷いからリダと別れ、友人にリダを譲り、リダには自分は死んだと伝えてくれ、と願う。そのため、リダにとっては主人公は死者となってしまうのだけれど、約束を果たすため、彼女ともう一度会うことになる。この展開は約束を果たすために墓場からよみがえるドルンチナ伝説が下敷きになっていて、作中でも自身をコンスタンチンに擬す表現がしばしば現れる。

私は、いったん口にした約束についての崇高な伝説が生きているバルカン半島のいにしえの国からきた人間なのだ。 7頁

 こうした伝説を軸にした恋愛に介入するのが当時の政治状況だ。作中では、主人公がとつぜん寮の管理人から身分証明書の提示を求められたことに始まり、アルバニアソ連の関係が冷え込みつつあることがわかるようになっている。そして終盤では、そのことを受けて、アルバニア人に対しロシア人との恋愛を禁止する通達が出されるまでになる。
 作中の時代は1958年頃、フルシチョフによるスターリン批判のあとにあたる。中盤からの主要な軸は、ボリス・パステルナークにノーベル賞が授与されることが発表されたことによる騒動だ。そのことはソ連中のメディア、そして主人公のいる大学などまでを巻き込んだ大騒動に発展し、「国際ブルジョア階級の代理人パステルナーク批判とノーベル賞受賞辞退を迫る大キャンペーンが展開されることになる。
 社会主義国家の抑圧、弾圧を如実に示すこの騒動と、アルバニアとの関係悪化とが、主人公のソ連に対する見方を印象づけることになる。タイトルにある「草原の神々」とは、クレムリンつまりソヴィエトの指導者たちのことを指している。

この連中が社会主義圏の貧相な神々なのだ。私の国を地表から一掃せんとして、その恐ろしげな頬をまさに膨らまらそうとしていたステップ草原のスキタイ人の神々よ。 198頁

 神話的な表現ながらソ連批判を示唆していることが見て取れる。そしてドルンチナ伝説を意識しながら、アルバニア人は約束を守るということを重視し、アルバニア人というアイデンティティを強く意識している。ドルンチナ伝説、またはホメロスの国という自負と、スラブ主義、ステップの神々という対立が埋め込まれている。
 このように、モスクワ留学生の恋愛とソ連アルバニア間の政治状況などが、アルバニアの伝説や神話的な表現によって重層的に描かれている。つまり現在の状況に古代の伝説をのぞき見ているわけで、中世の幻想的な物語から現代を映し出す『ドルンチナ』とは対照的な位置づけにあるといえる。
 こう見てくると、ソ連との関係が悪化し、社会主義圏での孤立の危機に立たされるアルバニア人の主人公が自身を死者コンスタンチンに擬す意味が明瞭になる。孤立しつつあるアルバニアは埋葬された死者と重ねられ、約束あるいは妹ドルンチナを求めて国外のロシア人を愛するものの、それは死者と生者という絶望的な断絶によって遮られる。
 アルバニアソ連の国交断絶は、カダレ自身を直撃したせいもあってか重要なモチーフのようで、後述するカダレの大作『大いなる冬』ではこの当時の状況を指導者に近い視点から描き出している。むしろ発表順としては『大いなる冬』が73年と先になるけれど、大幅な改稿が施されたのは77年頃なので、この時期に立て続けに国交断絶期の作品が書かれたことになる。

誰がドルンチナを連れ戻したか 1981

平岡敦訳(仏語より重訳) 白水社 1994

 『砕かれた四月』と共に『冷血』の書名で刊行された長篇。中世アルバニアを舞台に、カダレが多くの作品中で言及する民間伝承「ドルンチナ伝説」を正面から取り上げている。
 ある夜、遠い異国の地に嫁いだはずのヴラナイ家の娘ドルンチナが、ただ一人残された母親の元に帰ってきたということが警備隊長に報告される。不可思議なのは、対面した親子ともにショックで寝込んでしまったことと、ドルンチナは三年前に死んだはずのコンスタンチンという長兄に連れられて帰ってきたと主張したことだった。人々は、これはコンスタンチンが誓い(ベーサ)を果たしたのだと噂しあった。
 三年前にドルンチナが結婚相手を決める時、近い場所の相手か、遠方の国かということで論争となり、そのさい、コンスタンチンは強硬に遠方に嫁ぐべきだと主張した。そのことに不安を抱く母を説得するため、コンスタンチンは母が望む時はいつでも自分がドルンチナを連れ戻る、と約束しており、ドルンチナの帰還はこの約束を果たすべくコンスタンチンが墓から蘇ったのだと人々は受け止めた。
 これは本当に死者の蘇りなのか、それともドルンチナの誤解か狂言なのか。
 この魅力的な謎を導入に、墓からの蘇りなど信じるはずもない警備隊長ストレスがその謎を解明すべく奔走する。幾つかの説が提示され、捜査が進み、真相が明らかになったかと思うとさらに異なる展開が待つという、推理小説の形式が採用されており、170ページほどの短さのなかで間断なく物語が進行するため、非常にスリリングかつ密度の濃いものになっている。
 捜査がすすむものの、いったい誰が連れ戻したのかということがいっこうに明らかにならない状況は、次第に大きな問題へと発展していく。この頃、アルバニアローマ・カトリックコンスタンチノープルを中心とするビザンチン正教会とで勢力を二分しており、舞台となっている公国は半世紀前に正教会派になったばかりで、カトリック勢力は自派に取り戻す意志を捨ててはいない。キリスト教のもとでキリスト以外の者が復活を果たすなど、認められるはずがなく、ストレスは、いかなる方法を以てしても蘇りを否定するよう公国の大主教の厳命を受ける。死者の蘇りの噂が広まると、ローマ・カトリックに弱みを握られることになるという宗教対立の状況が事態をいっそう複雑にしていた。
 こうしてドルンチナの帰還は国家的なスケールの問題に移行する。さらに、婚姻する先は遠方か近郷かという論点は、外部とのコミュニケーションをいかに行うかという政治的な問題とも重なってくる。
 ここにおいて、この小説が中世の伝説の描写に現代の政治状況を映すような二重性において書かれていることが明らかとなってくる。主人公ストレスの思考様式もまた中世人のそれのようにはとても見えず、むしろ意図的に現代人の思考を描いているように見える。
 この小説は、コンスタンチンは母親が求めるときにはどんなことがあっても娘を連れ戻すという誓い(ベーサ)を立てたこと、この伝統的観念をひとつの国家的倫理として、「アルバニア」を立ち上げようとしている。国民国家を形成する過程で一定の役割を果たす文学を、「近代文学」と呼ぶことがあるけれど、本作にもそういう意図がうかがえる。作中でも、生前のコンスタンチンの口を借りて述べられているのは、外から押し付けられたような外的な制度ではなく、この危機的な状況においてアルバニアという存在を守るためには、誓いのように自らの中に「永遠で普遍的な機構」を作り出さなくてはならないという主張だ。
 つまり、カダレは「誓い」のこの超自然的な民間伝承のなかに、「アルバニア」という「永遠で普遍的な機構」の核を見いだしたということだろう。作中のアルバニアがおかれた状況や、コンスタンチン、ストレスの主張はそういう読み方を明らかに誘っている。
 独裁と孤立化の迫る現代アルバニアの危機において、いかにアルバニアあるべきか、という問いを民間伝承の生まれる瞬間へと時を遡って描き出したのが本作だと、とりあえずは言える。
 ただ、このような解釈は、終盤の長広舌で今作を読み解こうとするとこうなる、という体のものだ。そうした意図は確かにある(解説でもそういう読解が引用されている)けれど、小説として面白いのはもうちょっと違うところで、中世で現代を書く、というこの設定が生み出すねじれの部分だ。
 自然主義的なリアリズムをベース(とも言い切れないところがあるけれど)に、墓から亡霊が蘇って生前の誓いを果たした、というオカルト的な解釈は主人公ストレスに拒絶され続けるのだけれど、民衆の噂などのレベルでは常に優勢を誇っている。このような土俗と理性的なストレスとの対立を思わせるけれど、むしろ両者は密接に絡んだものとして現れてくるところがある。
 中世によって現代を書くために、土俗的なものをも同時に召喚してしまっている印象がある。この小説は、中世と伝承と現代などの複数のレイヤーを雑巾を絞るようにぎゅっとねじったような絡まり方をしている。ラストの長広舌のところでも、この絡まりが踏まえられていて、そう簡単に「近代国家」がどう、とかでまとめきれない複雑さがある。
 超自然的なファンタジーとまではいかず、幻想的なモチーフが現実にうすくベールのように被さるような不穏さがあり、「神話的」というより「伝説的」な感触をもつ点がきわめて特徴的だ。
 個人的には、既訳のカダレ作品のなかではもっとも重要かつ、エンターテイメント的面白さを併せ持っていると思うので、手始めにカダレを一作読むとすればまず本作を勧める。

砕かれた四月 1981

平岡敦訳(仏語から重訳) 白水社 1995

 『冷血』二部作のもうひとつ。おそらく20世紀初頭の現代を舞台にしている。高地(ラフシュ)を訪れた作家夫妻と、掟に縛られた血の復讐を遂行しようとする青年がそれぞれ視点人物となり、近代国家の管理の外にあるという風習の支配する土地を描く。
 作家のベシアン・ヴォルプシと妻のディアナが新婚旅行で訪れる高地(ラフシュ)は、「近代国家の一部を成しながら、法律も、法組織も、警察も、裁判所も、つまりはあらゆる国家機構を拒絶している」、独自の「道徳律」を持った、「国家管理の外」にあるという場所だ。そこを支配している掟は、『誰がドルンチナ~』で展開されたコンスタンチンの伝承を礎石としたものと語られる点で、繋がりを示唆している。
 『誰がドルンチナ~』について、中世の舞台に現代の問題を重ねた手法で書かれている、と書いたけれど、今作では、現代のなかに中世の掟を保持する場所が存在しているように、時間的な操作に対して空間的な操作というふうに手法を変えているのが分かる。
 もう一人の視点人物は高地の住人で、掟によって対立する一族の青年を今殺したばかりのジョルグ・ベリシャ。
 そこでは一人の客人が殺されたことに端を発する何十年にも渡る復讐の連鎖があり、ジョルグはまさにその渦中にたたき込まれたところだ。掟によって相手の一族の人間を殺さなければならないことを運命づけられ、復讐を遂げると、次は相手の一族からの復讐が待っているという血の応酬に青年は閉ざされている。ジョルグは復讐を終えると、復讐に伴う「血の税」を納めに「オロシュの塔」というところへ行かねばならない。
 小説は終始息苦しさで覆われている。掟や誓いはここでは人々を拘束する鎖のように感じられ、ジョルグはその復讐の檻の中にとらわれて決して出ることができない。だからこそ、ジョルグは一目見た外部の人間、ベシアンの妻ディアナを探し求めることになる。
 高地の掟、誓いもまた、外部の人間たちに「血の産業」と批判され、掟は変質し、血の奪還が利潤に基づく資本主義事業になってしまったと論じられることになる。事実、血の管理官と呼ばれる人物は、血の奪還つまりは復讐による殺人が減少してきたことを悲観し、一件も奪還が行われない日が来るのではないかと戦々恐々とし、ジョルグがいなければ記録上初めて一日も血の奪還が行われない日になるところだったなどと考えている。血の管理官はその外部の論説を悪書として蔑視している。
 私は「ドルンチナ」を、古い伝承に「アルバニア」の普遍を見いだす国家の立ち上げを企図したものでもあるだろうと考えたけれど、こちらはその「永遠で普遍的な機構」が時代を下るにつれて形骸化し、色褪せてしまった状況を描いているように思える。
 この二部作は同時に読んでこそ、より面白くなる。手法的な類比、主題的な類比等々、様々なコントラストを成していて、非常に興味深い。ただ小説として吸引力があるのは『誰がドルンチナ~』の方だと思うので、そちらを読んでからこれを読むのが丁度良いだろうか。
 この二作において掟とともに重要なものが、客人、外部ということだ。『誰がドルンチナ~』でコンスタンチンが妹を遠い国に嫁がせることに賛成したのは、内にこもることの弊害と外部との交流を求めたからだという。そして今作では掟の核心として、客人はもっとも神聖なものであり、どんなものであっても最大級のもてなしをしなければならず、もし迎えている間にその客人が殺されるようなことがあれば、一族を挙げて復讐しなければならないとされている。客人はほとんど神そのものとも言われている。そして、『砕かれた四月』では、高地の外部から来た人間と高地の内部の人間との一瞬の出会いが描かれる。しかし、この二作において、外に出たドルンチナ、外に出たいと願ったジョルグらには苦い結末が待っている。
 この客人に対するもてなしというのは現代アルバニアでも生きているようで、民族的風習として根強いものらしい。同時に、共産主義時代に禁止されていたこの「血の復讐」(「血讐」あるいは「ジャクマリャ」)は、政権崩壊と共に八十年を経て復活している。本作で扱った問題は、今もって復讐におびえる数千人の家族が存在している点で、過去になってはいない。

夢宮殿 1981

村上光彦訳(仏語から重訳) 東京創元社 1994

 本文によると執筆は1981年、しかし発表は90年代に入ってからだと思われる(井浦氏は発表年を95年とし、アルバニア語版wikipediaには96年の表記が認められる。本書のクレジットによるとフランス語版が90年に出ており、日本語訳書はそれに基づいたもの)。
 本書は訳されたもののなかではもっとも幻想的な作風となっており、迷宮的な不安が充満した雰囲気はカフカ的とも評された。本書で舞台となっているのは、帝国全土から夢を回収し、選別し、解釈し、特に重要なものを皇帝(スルタン)に献上する、不可思議な官庁「夢宮殿(タビル・サライ)」だ。宮殿というと絢爛なものを想起しがちだけれども、アルバニア語原題は「夢宮殿の職員」という程度の意味合いだといい、描写としても官僚機構そのものといっていい。
 この夢宮殿に、キョプリュリュ(橋の意)というアルバニアの名家の青年、マルク=アレムが勤務することになる、というところから物語は始まる。かつては何人ものオスマン帝国宰相を輩出した代々続く名家で、青年自身は名字こそ異なるものの、大臣の伯父をもち、彼らの尽力によって宮殿への勤務が決まったらしいことが語られる。
 幻想性が強いながらも、オスマン帝国治下という具体的な舞台を設定してあり、最終章では露土戦争が終わり、ギリシャが帝国から離脱、バルカン全土が独立への気運を高めている時代だと言うことが明らかになる。コンスタンティノープルが舞台だと思われるけれども、街の描写はアルバニア人にはティラナを思わせるという。キョプリュリュ家の人々はアルバニア系らしく、アルバニア系とスラヴ系の双方の武勲詩の違いが重要な意味を持っている。非現実的な設定を持ちながらも、オスマン帝国下のアルバニアという背景が意外に大きな意味を持っていることがわかる。
 さらに、これは結局マルク=アレムおよび読者にははっきりとは見えてこないのだけれど、キョプリュリュ家と皇帝他の派閥で権力争いがあるらしく、マルク=アレムはその争いのひとつの駒として宮殿に送り込まれたらしいことがわかる。しかし、彼には何が起こっているのかほとんどわからず、迷宮的な不安に襲われる。
 物語はこの青年が、夢宮殿で何故かトントン拍子に出世していくなかで、宮殿の働きがいかなるものかを知っていく、というのが主軸となっている。この異例の出世そのものがマルク=アレムには不安の種でもある。
 夢は重要かそうでないかでまず選別され、次に夢が何を意味しているかを解釈され、なかでも特に重要なものは皇帝に献上されるということになっていて、それぞれの課をマルク=アレムが勤めていく。
 統治者の運命を予想するために、古代からの夢の役割が語られ、夢解釈を制度化したものが夢宮殿だ。帝国全土の夢を精査することで、事前に危機を知ることがその大きな目的となっている。夢の解釈、というきわめて不安定なものに立脚していて、この夢宮殿の機構は「事実を基礎としない、恐るべき権力」とも呼ばれている。
 宮殿は、重要な夢の細部を夢見人自身に聞き質すのだけれど、本人にしてみればもう時間の経った夢など覚えておらず細部など調査しようがないのに、延々と拷問のごとく尋問を続けた挙げ句に棺桶になって部屋から出てくるさまをマルク=アレムは目撃する。
 夢宮殿のシステムは、夢という私的な内面をも回収監視するというかたちで、あからさまなまでに「全体主義の悪夢」をあらわしている。
 これらの宮殿の仕組みは検閲等のイデオロギー統制を悪夢的に誇張したものと考えられ、当時強まっていたアルバニアでの独裁体制の強化を背景にしたものなのかもしれない。
 当然そのとき発表することは不可能だろう。
 とはいっても、作風は淡々としており、「全体主義の悪夢」を告発するというよりは、夢宮殿であれ権力争いであれ、いずれもその核心にはたどり着けない曖昧な不安の印象が強い。アルバニア人という民族意識について随所で示唆されているあたりはカダレらしいところでもある。

短篇 災厄を運ぶ男 1985

平岡敦訳(仏語から重訳)岩波書店 1997

 岩波書店から出ていた叢書『世界文学のフロンティア』の第三巻『夢のかけら』所収の短篇。
 オスマン帝国時代、併合したばかりのバルカン半島に対してチャドル(イスラム教徒の女性が付けるヴェール)着用の勅令が出され、五十万枚のチャドルをバルカンに運ぶことになった官吏が主人公として話は始まる。
 旅の途中、バルカンでヴェールを付けない快活な美しい女性たちを見て、彼はすっかり魅了されてしまう。彼は自分が女性たちの顔を覆う五十万枚のヴェールを運んでいるということに苦悩する。『死者の軍隊の将軍』の将軍と同じように、本作も「アルバニア」を外から眺める視点から語られていて、自身とアルバニアの断絶を知る。
 また、帝国が辺境を文化的に同化する、というあたりこれはむしろ現代的な話にも思える。オスマン帝国はもちろんイスラムが主要な宗教だけれども、それ以外の宗教も、一段低い位置に置かれるとはいえその信教に対して干渉しなかったという。
 なお、勅令発布にはある人の見た夢がきっかけだとされていて、『夢宮殿』らしき組織の話が出てくるところに、作品同士の繋がりが暗示されている。

未刊作品

井浦伊知郎web
 『死者の軍隊の将軍』の訳者井浦伊知郎氏のサイトには長篇を含めたいくつかのカダレ作品(と、インタビュー等)が訳載されている。いずれも本邦初訳で単行本化されていない。ただし、最後まで訳されている長篇は『怪物』一作のみ(当時)。なお、翻訳時期は書かれていないものが多く、おそらくだいたいが90年代末から2000年代前半にアップロードされたものと思われる。それ以前にアルバニア関係の雑誌に連載していたものらしいけれど誌名は不明。当然以下のすべての著作は井浦伊知郎訳。

怪物 1965

 1965年に部分的に雑誌発表されるも発行禁止となった作品で、カダレのごく初期の作品。歴史的には、ソ連アルバニアの国交断絶以後の状況が背景となっている。このことは序盤に示唆される程度だけれど、作品全体に大きな影響を与えていると思われる。本作ではいくつもの層において、政治と外交が主たる関心として扱われているからだ。それを象徴するのが、ギリシャ神話の「トロイの木馬」で、これは表題の「怪物」の別名でもある。
 前面で語られるのは、国交断絶でモスクワから帰還せざるを得なかった留学生ゲント・ルヴィナと、恋人レナ、そして元レナの婚約者マックスの三角関係だ。婚約パーティの会場から連れ出して略奪したゲントは、マックスに恨まれていて、ここに緊張関係が生まれている。なお、レナは「トロイの木馬」という映画を見た子供たちによって、「トロイのヘレナ」と呼ばれ、そこからヘレナという通称で呼ばれるようになっている。ここで、トロイア戦争でのヘレネーと、作中のレナとは、ともに奪われた女性として二重写しにされていることがわかる。
 そして、ゲントとレナと平行に語られるのが、町の外にうち棄てられている「ワゴン車」についてだ。このワゴン車、車体部分しか残っておらず、何故か短い四本の杭によって持ち上げられたままになっているという描写が冒頭にある。冒頭では「ワゴン車」だけれど、第三章では「巨大な木馬」と呼ばれ、しかも中には数人の男たちが虎視眈々と町をにらんで、何かしらの計画を立てている様子が描かれる。その男たちのなかには、オデュッセウス・Kという人物がおり、「トロイの木馬」およびトロイア戦争を示唆している。またレナの元婚約者マックスも木馬の中でゲントに対する憎しみをふくらませている。
 この木馬の内部の話は非現実的でファンタジー的なのだけれど、その存在のおかしさ以外の登場人物たちの会話などはリアリスティックでゲントやレナのパートと比べて特別に空想的なわけではない。そして、この木馬の存在は作中では夢や幻ではなく、他の一般人たちからも認識されている。
 というように一点きわめて奇妙なこと以外は三角関係の愛憎を軸に展開されるのだけれど、もうひとつ重要なのが、ゲントが書いているギリシャ神話、トロイア戦争についての再解釈を主張する論文だ。ゲントは、「トロイの木馬」のような稚拙な作戦が奏功したとは考えづらい、として思考を重ね、最終的に実際にはトロイア内部に親ギリシャ派を形成する政治工作が行われたのだと結論する。そして「トロイの木馬」とは、「和平協定のための使節団」という策略を味方の目からも隠すためのおとりでしかなかったのだ、と。和平の調印によって油断したところに、ギリシャ軍勢力が襲いかかり、トロイアを陥落させたのだ、とゲントは解釈している。この解釈、というより解釈の姿勢や語彙は明らかに現代政治を思わせるものとなっている。
 ここでの再解釈されたトロイア戦争の経緯と、ゲントがマックスからヘレナを奪ったというトロイア戦争のきっかけを思わせる物語展開がリンクし、作中では本当にトロイの木馬が町の外れに佇んで、侵入する時機をうかがっている。そして木馬のなかの人物の夢想として、町に侵入し人々を虐殺する光景が描かれる。
 さらには、古代ギリシャを舞台にしたトロイア戦争後のヘレナとメネラーオスの様子が描かれたり、ラーオコオーンの迫害や、ホメロスに接尾辞を加えて逆さ読みしたスレモフという詩人に対する検閲、弾圧の状況が描かれるなど、非常に暗示的に現代を描いたような描写もある。
 作中では、ゲントとレナとが社会主義陣営におけるアルバニアのあり方について不安を抱いてる様子も描かれている。ソ連との関係悪化の後を受けてのことだろうか、レナは他国から見放されるのではないかと不安を語っている。「怪物」という言葉は、その流れを受けて作中に初めて現れ、郊外の「木馬」に触れつつ、あの「怪物」への恐怖におびえて暮らすのか、と語る部分がある。
 何かしら明確に政府を批判している、という感じはしないけれども、トロイア戦争トロイの木馬、などを現代的に読み解きながら、トロイアの滅亡を示唆しつつ、アルバニアという小国が孤立することのへの不安が表れているのだともいえるかもしれない。
 神話、幻想、政治状況などが絡み合ったやや複雑な作品で、後の作品の全ての萌芽があるプロトタイプという評価があり、初期の重要な作品と見なされている。実際、ここでのトロイア戦争の現代的解釈は、「ドルンチナ」での演説がきわめて現代政治的な言葉で語られていたことを彷彿とさせる。
 井浦氏のサイトにある未刊の翻訳としては唯一完訳されている作品で、なおかつ神話を題材にして幻想が入り交じり、全体主義国家の不安が描かれている作風は、『誰がドルンチナ~』や『夢宮殿』とも通じる。

大いなる冬 1977

 1973年『大いなる孤独の冬』として発表されたものを増補改訂したもの。
 カダレの最大長篇。訳出されているのは第二部までで(執筆当時)、それでもおよそ六百枚ある。もっともリアリズムに徹した作品で、1960年頃のソ連アルバニアの関係が悪化していく状況が描かれる。人々の生活から指導者同士の会談の様子と、上から下まで総体的に描き出そうとした野心的な作品。
 主人公はいるものの、視点人物はさまざまに転換していき、ドキュメンタリーの要素も併せ持っている。フルシチョフとエンヴェル・ホジャとの会談の様子が具体的に描かれる部分では、実際に行われたやりとりも取り入れているらしく、歴史的状況を事実に即して描こうともしている。
 第一部では、元パルチザンの父を持つ主人公ベスニクと閣僚の父を持つ婚約者ザナ、そして著名な作家などを含む両家族の交流や、人々の生活の様子が、アルバニアソヴィエト友好月間らしい街とともに描かれている。そして第二部でベスニクはエンヴェル・ホジャの一行に同行し、モスクワで行われる会談での通訳という大きな役割を担うことになる。
 大きな話題となっているのは、ソ連アルバニアの関係悪化についてだ。ソ連共産党による中国共産党批判に対してアルバニア労働党代表が反対したことによって、ソ連アルバニアに対する穀物輸出を停止した。このことが両国間において軋轢を生み出し、社会主義ブロック内部でのアルバニアに対する圧力がかけられることになる。ポーランドのゴムウカやチェコスロヴァキアのノヴォトニーなど、当時のトップらが実名で登場する。
 ホジャはソ連に対する家父長的態度などに反対し、

我々は団結という名の下での屈従を受け入れることなどできないということだ。

と宣言する。その後の会議では他国の代表らからさまざまに糾弾が行われ、小国アルバニアは徹底的に攻撃される。このあたりは『草原の神々の黄昏』でのパステルナーク批判を想起させる。
 この致命的な関係悪化を受けてベスニクはアルバニアへと帰国する。『大いなる冬』という表題の言葉はこのときはじめて作中に顔を出し、社会主義ブロックから見放された不安と失望を思わせる。このニュースはまだアルバニアでは知られておらず、意気消沈した様子のベスニクを婚約者のリダが心配しているところで、第二部は終わる。
 これ以降の展開は不明だけれど、国外留学者の個人的視点から眺めた『草原の神々の黄昏』と、ジャーナリスト、通訳、国のトップらの会談など政治的状況をも含んだ描写がある本作とで、いわば相補的にソ連との国交断絶にいたるまでを描き出している。カダレ自身アルバニアを誇りに思い、小国を襲う運命を悲劇的に描き出しているのがわかる。
 なお、この作品によって権力側の反感を買い、筆を折ることを示唆されたという。

短篇 凶夢(まがゆめ)

 同名短篇集の表題作。ゼウスによって出された使いが、歴史上のさまざまな人物にインスピレーションを与えるという筋書きで、使いがダイダロスとダンテを取り違えてしまったとか、作中にさりげなくカダレ自身の名前を挿入するなど、一種のコメディ的作品。

アルバニアの雪どけ 1990

 フランス亡命後に発表された著作。1989の東欧革命を受けて、アルバニアでも民主化の波が訪れたものの、それが挫折し、民主化推進を支持していたカダレ自身が亡命せざるを得なくなるまでが描かれている。サイトに掲載されているのは三部構成のうちの第一部までで、ちょうどフランスに亡命するまでの経緯が書かれている。
 体制側に近い知識人だったため、当時のトップだったラミズ・アリアに対して直接進言したり、書簡を送ったりして、改革に大きな影響を与えたことが書かれている。同時に、アルバニアの秘密警察「スィグリミ」による不断の工作やいやがらせなども書かれており、カダレが当時のアルバニアでどのような状況に置かれていたかがわかる。さらに、当時のアルバニア国内での民主化運動とその弾圧、流血の惨事に至るまでの経緯も述べられ、東欧革命についての著作でもほとんど触れられることのないアルバニアでの民主化の経緯がかなり具体的に知ることができる点で、非常に貴重な著作となっている。
 また、『草原の神々~』ではソ連を追われるように帰国する主人公は、この著作ではアルバニアから追われるように国外へ亡命するという鮮やかな逆転を生んでいることが運命の数奇さを感じさせる。

 参考文献
(カダレ特集の東條担当部分全体の参考文献)
井浦伊知郎『アルバニア・インターナショナル』社会評論社 2009
同「イスマイル・カダレ『死者の軍隊の将軍』に見る戦後アルバニア広島文教女子大学紀要43 2008
同「「トロイアの木馬」異聞――イスマイル・カダレ『怪物』におけるホメーロス解釈」広島文教女子大学紀要44 2009
(「HARP 広島県大学共同リポジトリhttp://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/ より閲覧可)
岩田好司「イスマイル・カダレとアルバニア : ドルンチナをめぐる変奏」久留米大学外国語教育研究所紀要6 1999(「Cinii論文情報ナビゲータ」http://ci.nii.ac.jp/ より閲覧可)

☆カダレとフランス

 カダレはフランスと縁が深い。亡命先もそうだし、カダレの全作が訳されているのはフランス語のみだ。日本語訳も多くが仏語訳からの重訳となっていて、加藤周一などもこの仏語版を読んでいる。そしてこのほとんどすべてを訳しているのがユスフ・ヴリオニという人物だ。じつはこの人物、独立初期のアルバニアで三度首相を務めたイリャズ・ベイ・ヴリオニの息子。パリで青年時代を過ごした後アルバニアに戻ったのだけれど、フランスのスパイと見なされ拘留ののち「国内流刑」となり、そこで翻訳者として生計を立てることになった。『死者の軍隊~』で高い評判を得てから、ほぼカダレ専属訳者として活躍する。なお、『誰がドルンチナ~』あとがきによると、カダレにフランス語を手ほどきしたのはこのヴリオニだという。

死者の国から

 ここでは、作品紹介の項では触れられなかった幾つかの点について書いておきたい。
 カダレの小説のなかでは常にアルバニアという小国の運命が問われている。現代史を扱った作品でも、中世を扱った作品でもそれは変わらない。その作品群のなかで、重要な意味を持っているのが墓場から蘇ったコンスタンチンが誓いを守るために遠方に嫁いだ妹ドルンチナを馬に乗せて帰ってくるという、「ドルンチナ伝説」だ。これは『誰がドルンチナを連れ戻したか?』で全面的に扱われているけれども、『草原の神々の黄昏』でも、主人公が自身をコンスタンチンに擬す記述が現れる。その他にもカダレはしばしばドルンチナ伝説に言及している。
 なぜ「ドルンチナ伝説」が重要なのか。それは『草原の神々の黄昏』の項でも書いたように、ソ連との関係悪化のために社会主義圏で孤立しつつある小国アルバニアを墓に閉ざされた死者コンスタンチンになぞらえることで、ドルンチナ伝説を現代アルバニアの危機として読みかえているからだ。ここにいたって、ドルンチナ伝説はきわめて政治的現代的な意味を持ちはじめる。
 この点に関しては既に岩田好司の『イスマイル・カダレとアルバニア―ドルンチナをめぐる変奏―』という論文が詳しく述べている(紀要論文だけれど、ウェブで公開されている)。その論文では、『誰がドルンチナを~』と『草原の神々の黄昏』の他に、独裁体制の強まる時期に書かれたため弾圧をおそれてパリの貸金庫に隠され、もしもの時に出版されることになっていたといういわくつきの長篇『影』をもあわせて論じている。鎖国体制への批判がきわめて率直に描かれているらしい『影』では、フランスの女性をどうやって獲得するか、という物語が主軸となっている。この恋愛がやはりドルンチナ伝説と重ねられており、著者は墓に閉ざされた死者が蘇るために生者との交渉を求める物語という読解を提示している。また同時に、鎖国状態にある閉ざされた国アルバニアが、ヨーロッパと再び出会い、解放されることを含意しているとも。

さまざまな事情があって、私はシルベーヌと親密になれずにいたが、それは祖国アルバニアが世界中から孤立していることの一端をなしており、だから、このアバンチュールは宿命的な性格を持つことになった。私のこの宿命に打ち勝ち、運命の国境を超えなければならなかった。自己の民族に降りかかった呪いを振りはらおうとする者のように、「鎖国」を打ち破り、「東(欧諸国)」を脱し、私のヨーロッパ的存在になおまとわりついているアジアの束縛から解放されなければならなかった。 『影』前掲論文より引用

 このあまりにも直截な表現は、さすがに検閲時代の諸作には伺えないものだ。カダレの諸作に横たわるあの出口のない不安感は、鎖国体制と、そのことに表だって言及することのできない独裁体制という二重の閉鎖性から滲み出たものだとも言えるだろう。
 同じく、未訳作品に『三本柱の橋』という作品がある。これは旧ユーゴの小説家アンドリッチも『ドリナの橋』(『草原の神々の黄昏』の序盤で、語り手がアンドリッチを高く評価している記述がある)の冒頭で取り入れていた、人柱として橋に埋め込まれた人間、についての伝説を題材にしているようだ。アンドリッチのものでは、人柱の双子に隙間から乳を与える母、という筋書きだったけれど、異聞も多く存在し、カダレの採用しているものはこれとは異なるらしい。
 この伝説も、何かに閉ざされた状況という意味では「ドルンチナ伝説」と通じるものがあり、『草原の神々の黄昏』で「ドルンチナ伝説」と同時に語り手の脳裏に浮かんだものとして触れられていた。
 このようにしてカダレは幾つかの作品において、アルバニアの閉ざされた状況をバルカンの伝説になぞらえて描いていることがわかる。このとき、アルバニアは人柱であれ死者であれ、そのような存在として喩えられている。ではその閉鎖状況において、もっとも重要なものは何か。カダレが自国を閉ざされた場所として描くわけだけれども、その状況において物語を駆動するものとして現れるのが、外部から内部へ、あるいは内部から外部へと境界を越え出る「使者」だ。
 カダレはその作品のほとんどにおいて、主人公あるいは語り手を「使者」として設定している。『死者の軍隊の将軍』では外国からアルバニアにやってくる将軍を、『草原の神々の黄昏』ではアルバニアからモスクワへ留学した学生を、『砕かれた四月』では「高地」の外からやってきた作家夫妻を、『夢宮殿』では新しく勤務することになった新人、「災厄を運ぶ男」はアルバニアへとチャドルを運ぶオスマンの官吏を、『大いなる冬』ではベスニクは通訳としてホジャらとともに使節団と同行してモスクワへと赴く。『誰がドルンチナを~』は主人公ではないけれど、遠くから帰ってきたドルンチナが、『怪物』ではトロイの木馬使節団というのが核心となり、どちらも「使者」が重要なのは変わらない。
 これらの使者はしかし、多くの場合出先で大きな断絶に直面し、苦い結末を迎えるばかりだ。これが鎖国状況下でのカダレが直面していた断絶でもあるのかもしれない。このことと併せて特徴的な点として、カダレ作品のなかでは、しばしば秋から冬にかけての季節が舞台となっている点だろう。『大いなる冬』という題もそうだけれど、とにかく多くの作品での舞台は次第に寒さを増していく時期に設定されている。この時季設定の意味するところは言うまでもないほど明瞭だ。
 そしてきわめて運命的なのは、こうした状況を何度も小説として描いてきたカダレ自身が、90年代の民主化の挫折のなかで、死者の国から使者として国外へ亡命せざるを得なくなったことだろう。最近はカダレもアルバニアに戻っているようで、鎖国体制の終焉とともに作風がどのような変化をしたかあるいはしなかったのか、興味のあるところだ。
 ついでに書いておくと、歴史的政治的状況を死者と使者の伝説として描き出したカダレに対して、後述する旧ユーゴ、セルビアの小説家ダニロ・キシュはアウシュヴィッツで消えた父親を描いた三部作をはじめ、つねに歴史のなかの個別の死者について書いている。初期にはアウシュヴィッツ強制収容所を舞台にした作品を書き、三部作を書き、さらに短篇集『死者の百科事典』、そしてボルヘスの汚辱の世界史へのオマージュとして書かれたスターリンによる粛清をテーマにした作品集『ボリス・ダヴィドヴィチの墓』というように、キシュの多くの小説は歴史と死者というモチーフに貫かれている。キーワードとして並べてみると共通するところもある両者だけれど、その扱いは大きく異なっていて、その対比も面白い。