アマテラスの誕生と誕生ならびに変貌

アマテラスといえば皇祖神として天皇の権力を根拠づける記紀神話の主神とも言うべき神で、天の岩戸や天孫降臨などエピソードも多く特に知名度の高い存在だろう。同時に天皇制を象徴する神でもあり、政治的色彩がいまだに色濃いものと見られている。今回はちょうどアマテラス本がたまっていたのでそれぞれの本でのアマテラス像を紹介してみる。

筑紫申真 - アマテラスの誕生

アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)

アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)

本書では冒頭、アマテラスが男の蛇の神だとする説の存在が紹介されている。ひとつは鎌倉時代のある僧の記録によるもので、もうひとつは著者自身が、アマテラスを祭る皇大神宮伊勢神宮内宮)の別宮、伊雑宮の神官の家筋の者からじかに聞いた話だという。

アマテラスが蛇神であった、というこの神格の混乱を枕として、著者はアマテラスが今あるような皇祖神としての神格を確立するまでの経緯を丹念に追っていくことになる。この著者は折口信夫の弟子にあたる人らしく、折口民俗学をベースにしつつ、歴史学と絡めていくことで、日本の歴史的な祭儀の解説なども交えた膨らみのある叙述になっている。民俗学歴史学、そしてじつは最後にはかなり文学的にもなっていくあたりは、解説にもあるように「帰納的実証性に欠ける」と、素人にすら思わせるところがあり、論証の甘さ、恣意性からは免れていないけれど、全体としては興味深い説になっている。一般向けを意識したですます調で書かれていて、とても読みやすいのもよい。

この本で論じられているのは、いくつかの疑問を中心にしている。上記の神格の混乱もそうだけれど、天皇家の祖神であるはずのアマテラスが、なぜ伊勢という僻地に祀られているのか、という謎や、アマテラスが女神であるのは何故なのか、というような疑問がそれだ。

アマテラスがなぜ伊勢に祀られているのか。これは考えてみれば不思議な話で、ヤマト王権の中心地である畿内にあるならまだわかるのに、何故伊勢になるのか。このことを著者は皇大神宮の成り立ちから説き起こしている。そこでは民俗学を援用して、古い祭の様式の解説などが丁寧に説明されているのだけれどそこらは飛ばして、アマテラスという神格が確立する前、伊勢に一大勢力を誇っていた渡会氏という豪族の太陽神信仰があったことが指摘される。そもそも、書紀にもアマテラスが始めて降りたところは伊勢だと記されている。様々な史料から著者は、アマテラスというのは元々はこの地方に存在していた自然神的な信仰の対象であったもので、ある時期より前には皇祖神というような性格を持っていなかったのではないかと述べている。

そもそも、大化の改新以前には、天皇家はアマテラスを祀った形跡がほとんど見られないという。神武と崇神がそれぞれ一回ずつ祀った記録はあるにしても、その二人はともにハツクニシラススメラミコトとして建国神話の要所にあるため、これは後付の記録である可能性が高いと著者は言う。すると、天武・持統帝になるまで、アマテラスを天皇家が祀った形跡が存在しないことになる。著者は皇大神宮も皇祖神も、天武・持統の時期に確立されたものだと結論している。

アマテラスオオカミは、天武・持統両帝がつくったカミです。皇大神宮は、天武・持統両帝が築きあげた神社です。この両帝は、壬申の乱というクーデターを敢行し、身命をかけて二人の政権を獲得しました。その政権を永遠にするために、自分たちの権力の美化に熱心であったのは当然のことでした。なぜなら、この両帝は、日本における最高の古代専制君主であったからです。それまでまだ地盤の固まっていなかった天皇政権を絶対なものに築き上げたのは、天武・持統両帝の七世紀後半における活躍であったのです。アマテラスと伊勢神宮が、どうして彼らと無縁であることができましょう。
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天武というのは古事記日本書紀の編纂を命じた天皇でもあり、皇祖神アマテラスの確立とはまさに密接な関係があるというのはその通りだろう。また、持統は日本最初の条坊制をしいた本格的な中国風都城藤原京に遷都した天皇でもあり、律令制が完成し施行されたのも持統朝の頃のことだ。この時期が、古代日本国家の重要な画期であることは確かだ。

つまり、国家神話の確立にあたって、伊勢の信仰、伝承が取り込まれたものが記紀のアマテラスになった、というのが著者の視点だ。その過程は有力豪族の渡会氏が朝廷の支配を受けその独立性を徐々に失い、様々な産物を朝廷に差し出すようになることの裏面でもあるだろう。これは、出雲神話記紀に取り込まれた過程とも共通する。大物主の国譲りの神話が、出雲国がヤマト朝廷に支配される過程で土着の伝承もまた取り込まれたとする説はわりとポピュラーだけれど、同じことが朝廷と伊勢との間でもあったというこの見方は、なかなかに面白い。出雲神話にこの中央と地方との相克を見いだすというのはなじみがあるけれど、それをアマテラスにも見いだすというのはなかなか新鮮な視点だった。

なお、著者はアマテラスを伊勢の太陽信仰と密接に絡むものと見なしているのと同時に、伊勢の宇治土公氏の祖先神のサルタヒコもまた太陽霊として稲の生育を見守るカミで、それが夏にまつられるときはサルタヒコで、冬にまつられるときはアマテラス(天の岩戸神話)になる、もともとは同根のカミだと述べている。つまり天孫降臨神話の原形を「南伊勢地方の土俗的信仰」に求めている。

また、ヤマトタケルの神話では、天皇に酷使されたヤマトタケルが私に死ねというのかと涙に暮れる場面(「古事記」のみ)があるけれど、この嘆きを著者は上田正昭の説を引いて東国征伐戦争に駆り出された伊勢の豪族の嘆きなのだと述べている。

上田正昭氏は、その意欲的な著書「日本武尊」の中で、タケルの嘆きをつぎのように説明されています。

尊の悲劇性は、英雄の悲劇性というよりは、伊勢の海部や渡会氏の信仰や伝統が、王権に屈服してゆく意味における悲劇性であり、……あわれさであったとわたくしは推測するのである。

 渡会氏や宇治土公氏のような伊勢の海部のかしらは、朝廷に命ぜられて東国征服戦争に駆り出されたときには。さぞ板挟みのつらさを身にしみてあじわったことでしょう。
232

それがなぜ古事記に記載されたかというと、古事記を暗誦した稗田阿礼は猿女君の一族であるらしく、著者いわく猿女君は伊勢から朝廷に出廷し神話などを語ったりして奉仕している一族だとしているため、伊勢の人々の嘆きがここに取り込まれたのだと述べている。古事記と書紀とで記述が異なるのは、書紀には猿女君が参加していないからということだろう。

また、天孫降臨で、アマテラスがなぜ息子にではなく、孫のニニギに天壌無窮の神勅を下したのかという点について、これは持統天皇の息子の草壁皇子が即位を待たずに死んでしまったため、まだ幼児であった軽皇子を即位させたことを反映しているのだと指摘している。アマテラスの天壌無窮の神勅とは、自らの政権を盤石なものとし、孫の皇位継承を神話的に根拠づけるものだという。

アマテラスがオシホミミを飛ばして、孫のニニギを日本の王にするのは、持統女帝が草壁皇子を飛ばして孫の文武天応に皇位を与えた、という史実が投影したものに違いありません。そうでもなければ、アマテラスが、ことさら子をさしおいて、孫を地上に下さなければならぬ理由は、ほかに見いだせないからです。
アマテラスがニニギに送った祝福は、持統女帝が若い文武天皇の前途を危ぶみながら、贈りたがっていたろうと思われる祝福の心情と、あまりにも酷似しすぎています。アマテラスの心情とは、じつはことごとく持統女帝の心情であったのでした。アマテラスの宣言は、実はそのまま、持統女帝が軽皇子天皇にして世に送り出すにあたっての、期待・保障・決意・祈りの心情をこめた、宮廷の内外への宣言なのでした。
264-265

この最終章での持統への思い入れあふれる叙述はなかなか文学的で興味深い。アマテラスをめぐって、裏では中央に自らの信仰や権力を奪われていった伊勢の豪族らの嘆きがあり、表ではアマテラスに心情を仮託した持統の祈りがあり、と学問的にはどうなのかという部分が多いけれど、話としてはけっこう面白い。

天照大神 - Wikipedia
伊勢神宮 - Wikipedia
持統天皇 - Wikipedia

溝口睦子 - アマテラスの誕生

アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る (岩波新書)

アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る (岩波新書)

筑紫本とまったく同じタイトルのこの本は同じ論題を扱いながらも相当に違った論を立てていて、併せて読むととても面白い。そもそも視点からして相当に異なるのだけれど、この本では特に当時の東アジアの国際情勢や、外国文化と土着文化の交錯といった要素が中心的なものとして扱われる。

筑紫本では折口信夫民俗学に依拠した部分が非常に多かったのに対し、この本では冒頭からして折口の「ヒルメ」=「日の妻」説を否定しているように民俗学的な視点を重視してはおらず、歴史学的な実証的な方法にこだわっていることが見て取れる。書き方も、筑紫のやや独断と推測の多いものと比べ、溝口は学問的定説の部分と私見とをきちんと分けて書いており、慎重な論述を心がけている。全体に、溝口の論述は筑紫の方法に対する批判として機能するような形になっている。

天孫降臨北方由来説

ここでは筑紫本ではまったく省みられなかった天孫降臨神話の外国由来説が大きな意味を持っている。天孫降臨のエピソードが朝鮮の檀君神話とかなりの類似をみせていることは割合に有名な話だけれど、筑紫本ではそのことに対する視点が欠落していた。筑紫の論は国内ですべてが完結している。そのため、日本、というかヤマト王権が当時おかれていた国際関係のなかの緊張に対する視点がやや薄い。

溝口はここで、広開土王碑(好太王碑 - Wikipedia)に記された五世紀当初の歴史から説き起こして、当時の王権がおかれた状況を概観している。詳細は端折るが、とりあえず、四〇〇年頃、新羅を占拠していた倭軍が高句麗に大敗したことと、それからも高句麗と倭とが敵対関係にあり、かなりの緊張状態にあったことは確かだろうとしている。

そして考古学の知見に拠ればこのころ、日本では大きな文化的変動があったと言われている。大まかに言えば、倭国独自の文化から、朝鮮半島の影響を強く受けた文化への変化だという。例えばそれまでまったく見られなかった馬具が副葬されるようになり、武器も騎馬戦向きのものに変わったという。同時に「王墓とみられる巨大古墳の設営地が、この間に奈良盆地から大阪平野へと移動した」ことが挙げられる。これを王権の交代と見るかどうかは別としても、この頃、政権内部に大きな変動が起きたことは明らかだとしている。

この変動を、溝口は黒船来航や白村江の敗北などの日本史上の画期と似た事態が起こったのではないかと見ている。黒船も白村江も、敗北後の危機感から政権の強化、国家統一への動きが起こり、その際には相手国からの文物の輸入という方法で対応したことが共通した点だ。高句麗との戦いでの敗北から後の文化変動もまた、そのような歴史的な画期だったのだろうと見る。

当時の政権ではいまだ豪族の連合というような緩いつながりでしかなく、そこから強力な国家を立ち上げるには、専制的な統一王権を支える新しい政治思想が是非とも必要となった。そこで求められたのが、「天」の王権思想だという。

新しい政治思想、すなわち王の出自が天に由来することを語る「天孫降臨神話」は、この時期に、当時朝鮮半島きっての先進国であり、かつ、先述のように、日本が主敵としてつよく意識していた、当の相手の高句麗の建国神話を取り入れる形で導入されたのではないかと私は考える。そう考える最大の理由は、両者、すなわち高句麗の建国神話と日本の神武東征を含む建国神話との類似である。両者は、全体の枠組みだけでなく、細部にいたるまできわめてよく似ている。
38-39P

この王権思想は朝鮮半島の諸国が軒並みに取り入れた流行であり、その元をたどれば北方ユーラシアの遊牧民族が持っていた思想であり、北東アジア全域を覆う普遍思想だったという。

皇祖神タカミムスヒ

さて、アマテラスが元々は皇祖神ではなく、天武以前にアマテラスを天皇家が祀った形跡がないということについては筑紫、溝口の両氏がともに認めていることだ。溝口はそこから一歩踏み込んで、では天皇家の祖神は元々何であったか、ということについて論じている。

ここで登場するのがタカミムスヒだ。天孫降臨神話を良く見てみると、じつは天孫降臨を命じたのはアマテラスだという伝承よりは、アマテラスとタカミムスヒ、あるいはタカミムスヒのみと言うモノの方が多く、研究者の間ではこの件については、本来天孫降臨神話の主神であったのは、タカミムスヒだろうということで決着しているという。

タカミムスヒが古来の国家神、皇祖神だったことのもう一つの大きな根拠は月次祭という宮中の祭に求められるという。

日本古代では、他の国々とは違い、王(天皇)がみずから先祖神を祭ったことはなかったと長い間言われてきた。しかしそれは、アマテラスを先祖神とした場合のことであって、タカミムスヒは、年二回、天皇がみずから祭っていたのである。それが「月次祭」である。
(中略)
 それによると、数多くある公的祭祀のなかで、二月に行われる祈年祭と、この年二回の月次祭に限って、百官が神祇官に参集し、中臣(神祇担当の氏)による祝詞の宣上と、忌部(同じく神祇担当の氏)による班幣(全国三百あまりの主だった神社の神々に、神への供物である幣帛を分かつ行事)が行われることが規定されている。つまり朝廷で行われる祭りのなかでも、とりわけ重要視された祭りだった。しかも月次祭は「天皇親祭」である。古代に天皇親祭で行われた祭りは、この年二回の月次祭新嘗祭のみだった。
70-71P

この祭りで読み上げられる祝詞は、第一段でタカミムスヒを含みアマテラスを含まない宮中八神に対して、皇祖神の加護に対する感謝を述べている。この祝詞には明らかに後付のアマテラスへの言及が含まれていて、アマテラスが新しい後発の皇祖神であることが明らかになっている。つまり、天皇家の古来の皇祖神はタカミムスヒだということだ。

そしてアマテラスが皇祖神の位置に就くようになったのは、八世紀頃、律令国家の成立と時を同じくするものだろうと見ている。

タカミムスヒを主神とした天孫降臨という、天から降りてくる神が王権の正統性を根拠づける神話は、五世紀頃に朝鮮半島から輸入したものだろうというのがアマテラス誕生前史になる。タカミムスヒという神の存在感の薄さや土着の伝承があまりないのは、天の思想とともに神自体が輸入であり、土地に根付いたものではなかったことが原因だろうと思われる。

律令国家形成にあたって、タカミムスヒのかわりにアマテラスが召喚されたのは、タカミムスヒが宮中と一部の氏だけが祭るマイナーな神だったからだろうとしている。アマテラスはその点、伊勢の土着信仰であり、また広く親しまれていたため、統一国家形成のためにはアマテラスの方が有利だという考えが働いたのだろうという。

他にも著者は様々な理由を挙げ、氏族間の政治力学にも項を割いているけれど、とりあえずはこれがアマテラスの誕生の経緯、となる。

海から天へ

このタカミムスヒとアマテラスの交代劇ということにまつわり、著者が行っている記紀神話の解釈がかなり興味深いものになっている。このことは以下のように筑紫本でも触れられていた。

日本の古い信仰の移りかわりの中では、カミのすみかは“海(あま)から天(あま)へ”と変化していったと折口博士は説かれました。そのような変化は、大和においては六世紀の半ばごろ進行したとわたくしは思っています。(そのころから天皇の名に「天」という字が付けられるようになることから、天つカミ信仰の確立が推定されるのです)。
筑紫「アマテラスの誕生」205-206P

溝口はこの、海と天というふたつの要素に対する分析をもっと踏み込んで、記紀神話自体をイザナキ・イザナミ系と、ムスヒ系のふたつに腑分けすることを試みている。イザ系は国生みに始まり、オオクニヌシの国造りに至る系統を指し、ムスヒ系は天孫降臨から神武東征までの系統を指す。

溝口はイザ系の神話では多神教的世界観、海洋的世界観という二つの特徴があるという。様々なモノから神が生まれてくる生命力のある世界観であり、またオノゴロジマの形成がそうであるように、島、海というモチーフが多い。アマテラスも海辺の河口で禊ぎをすることで生まれている。八嶋、八洲という日本の古称もその証左だ。さらに因幡の素兎だとか、スクナヒコナが海の向こうからやってくるというエピソードもある。これが日本神話が一般に南方系だと言われることの一つの根拠となっている。

そして、オオクニヌシの国造りがおわり、国譲りの神話を経て、話がムスヒ系とされる天孫降臨になるのだけれど、オオクニヌシが平定し、地上には誰一人敵対する者がいないとされたのにもかかわらず、神武はなぜか九州に降り、再度平定の東征を行っている。これは、土着の伝承を元にしたイザ系の神話に、北方の王権思想に由来するムスヒ系神話を無理矢理つなぎ合わせたことによる矛盾であろうと著者は見る。

この分析は面白い。ここからいろいろな考察が可能になると思う。今でも、例えば高天原と黄泉の国という場所を、天上、地上、地底という垂直構造に捉える解釈は見られるけれど、この分析を前提にすると、こういうコスモロジーが古来存在したという議論はその正当性がかなり怪しくなってくる。神話にこの二元構造を見いだすことで、かなり議論を整理することができるだろう。

たとえば、著者は「天岩屋神話」について、西郷信綱神野志隆光という国文学の著名な学者の説をこう紹介している。

両氏は、この神話の意義、本質を、アマテラスが至上神・最高神として(西郷)、また天上界と地上界を貫く宇宙的秩序の体現者として(神野志)、はっきりと姿を現したことにあると見ている。
119P

著者はこれらの説に対してこう述べる。

ここで天孫降臨神話と切り離して、この神話でのアマテラスをもう一度よくみてみよう。彼女は、この事件に関して、スサノヲの暴虐に恐れをなして、岩屋に引きこもる以外の行動は何一つしていない。岩屋から出てきたのも八百万の神々の策略にのって引き出されたのであって、自分の意志で出てきたわけではない。混乱を収めるために誰かに命令したり指図したりすることも一切ない。宇宙の秩序を乱す原因になったスサノヲを、最後に断罪して天上界から追放したのも神々である。彼女自身はそれになんらかかわっていない。
 『秩序の回復』はたしかになされたが、それはアマテラスの働きによるものではなく、神々が一致協力して行った、祭りや呪術によってもたらされたものである。アマテラスは、いってみれば光り輝く存在であるという太陽神としての属性によって、世界を再び明るく照したに過ぎない。
120P

西郷・神野志両氏が見出したアマテラス像は、私のみるところ、皇祖神であり最高神であり、天孫降臨神話の主神でもある、八世紀以降につくられたアマテラスの映像を「天岩屋神話」のなかに持ち込んで、その映像をとおしてみたアマテラス像である。
121P

天岩屋神話にあるのは、「多神教世界の自然神のひとりとしての太陽神」という、皇祖神になる前のアマテラスの姿であり、ここでは至上の絶対神としての属性は見られない。

これは確かにそうだな、という説得力のある話だ。ここでの議論は、西郷・神野志両氏の神話を一つの総体としてみる文学的視点と、神話を歴史的な多層性のあるものとしてみる歴史学的な視点の対立とも言えるかと思うけれど、溝口説の主張は非常に納得がいく話だと思う。

さらに、この神話やウケヒ神話(アマテラスとスサノオの誓約 - Wikipedia)等の物語は、本来はイザナギからオオクニヌシへ連なる系譜にあるスサノヲを主役とした神話だったのではないかと論じているのも面白い。つまり、古い話では、日本の最高神オオクニヌシだったのではないか、という。

記紀神話の不整合は、イザナギからスサノヲ、オオクニヌシへとつながる土着の神話(各地に膨大な伝承が存在する)に、タカミムスヒによる天孫降臨という別系統の王権思想をつなぎ合わせ、その後、元々土着の神話の登場人物であったアマテラスにタカミムスヒの役割を移譲したために起こった、ということだろう。

以上、歴史学的により緻密な方法でアマテラスを論じた本。古代アマテラスについてはたぶん筑紫本よりはこちらの方が妥当性が高いだろうと思う。神話の二元構造を軸にした記述は記紀神話解釈としても面白く、いろいろ面白い視点を含んだ本だ。

参考

諏訪春雄通信 49

佐藤弘夫 - アマテラスの変貌

アマテラスの変貌―中世神仏交渉史の視座

アマテラスの変貌―中世神仏交渉史の視座

中世の思想、宗教にかんする議論を主なフィールドとする佐藤弘夫のこの本では、冒頭、長谷寺で護法童子のアマテラス像を見たことを枕に、古代から中世にかけての日本において、神仏の世界がいかなる変貌を遂げたのかを検証している。

佐藤の本については以前に『神国日本』を取り上げたので、そちらを参照。
日本の中世についての三冊 - 「壁の中」から (アーカイブ)
[[神国]日本]はこの本でも一部取り上げられている議論の個別具体例についての踏み込みでもあるので、相互補完的に読むとさらに面白い。

で、本書はアマテラスと銘打ってはいるけれど、全体的には中世の神仏習合にかんする議論が主で、アマテラスの割合は薄い。とはいっても、中世の神仏観について独自の見解を提出していて、非常に読み応えのある本だ。

佐藤は古代から中世にかけての神仏概念の変遷を、ひとまず「祟る神」から「罰する神」へ、というかたちで捉えている。このキーワードは「命ずる神」と「応える神」とも言い換えられる。そしてこの変化に関わるのは仏法の浸透がその大きな要因として存在している。と、ここまで言えば佐藤がここで展開している議論の図式がだいたい分かった人も多いと思うけれど、どういうことか紹介してみる。

「祟る神」の事例として挙がるのは允恭天皇仲哀天皇だ。允恭天皇の件は狩りの時、獲物がまったく獲れないという程度の害だったのだけれど、仲哀天皇熊襲討伐のおり、神功皇后に憑いた神の託宣を無視したことで、祟りを受けて死んでしまう。

このくだりに出てくる神は、いま私達が観念しているような祈りを捧げて御利益を願う、というような神では全くない。

神は、特定の社に常住していていつでも気安く人の願いを聞き届けるものとはみなされていない。どちらの話(仲哀、允恭の件・引用者註)でも神は何の前触れもなく突然出現して、人々にある命令を下した。その指令に従わなければ、人は神の下す過酷な災いを避けることができないのである。人々があらかじめ神の出現を予知することは不可能だった。また、神が何を要求してくるかも予測のたてようがなかった。そもそも。指令を下した神の名さえ当初は不明であった。それがいかに不合理なものであっても、人は神の下す命令に無条件に従うしか道はなかったのである。
19P

古代の神はこのような「命ずる神」だったと佐藤は言う。そして祟りというのは神意をそこに見出すべき神からのメッセージの表れだった。人々はその祟りを解読し、そのメッセージの意味とどの神からの祟りなのかを特定するために奔走しなければならなかった。

しかし、平安時代にはいると不合理な祟りという悪い側面はもっぱら邪気、霊気、モノノケといった邪霊が担うようになっていく。それと平行して、神の作用は「罰」と表現されるようになっていくという。

そして、「罰」と同時に、「賞」という言葉もセットで用いられるようになっていて、神の下す作用が、ある基準を持った合理的なものへと変化していることが見て取れる。この「祟り」から「罰」への変化は、同時に神の性格の変化だ。「神は人々を仏法に結縁させるべくこの世に垂迹したとみなされていたがゆえに、仏法への敵対はとりもなおさず守護神への敵対と見なされ、下罰の対象とされた」。

神は信心を要求し、人々の態度に応じて賞罰を下す。(中略)中世に入ると、神はあらかじめ人がなすべき明確な基準を示し、それに厳格に対応する存在と捉えられるに至っていた。私はこうした性格を持った神々を〈応える神〉と規定したいと思う。
46P

古代の神は、人格的と言うよりは自然そのものの擬人化に近いように思える。まず祟りがあり、それを解読し原因を追及し対策する、という一連の流れは現代の自然災害に対するそれのようだ。そうした神が、仏教による神仏観の変遷によって、仏法を背景にした合理的存在へと変化し、同時に、現実の不合理を象徴する存在として邪霊、モノノケの存在がクローズアップされるようになっている。

ここまでは常識的な神仏習合論に見えるけれども、独自性を発揮するのはここからになる。佐藤は、起請文(起請文 - Wikipedia)という史料から、中世人にとって仏がどのように見られていたかを検証していく。起請文は「人が約束や契約を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書」で、そこには主にこの地に垂迹している土着の神が勧請されるのが普通だけれど、同時に仏も勧請されていることが少なくない。

神仏習合理論としては、仏は次元の異なる世界に住まう存在であり、直接人々に作用するのは垂迹した土着神の役割のはずだ。そこで、勧請されている仏の特徴を探してみると、どれもが仏像などの形で、国内に特定の場所を占める存在であることがわかる。これらの特定の仏は、他界にあって救済を行う仏とは異なる役割を持たされており、賞罰を司る神と同質の働き持つと見なされていた。ここにおいて、中世の神仏は、神と仏という単純な二分法ではなく、彼岸の仏と、此土の神仏という形で把握されるべきだと佐藤は主張する。

また中世において、この賞罰を司る神仏は、同時に荘園制を背景とした世俗化にさらされることにもなったという。この時期、寺社勢力が国家から独立し、荘園領主となるのだけれど、その時、田や金銭の寄進を仏法への結縁と位置付け、宗教的善行とみなすのに伴い、年貢、公事の出し渋りはとりもなおさず神仏への敵対と見なされ、そうしたもの経ちに対しては神仏の名において脅迫を加えると言うことが行われていたという。


そしてアマテラスの話になる。皇祖神として至高の地位を持つアマテラスだけれど、古代から中世のコスモロジーの変容のなかで、その位置付けも変わっていった。以前は私幣禁断の制によって、天皇家以外の参拝を禁じていた伊勢神宮は中世に入ると「日本国主」として開かれた信仰の対象へと変化していった。アマテラスは天皇家の神から、日本全体を知行する開かれた神へとそのポジションを微妙にずらしていく。皇祖神から国家神への変貌といえる(溝口はこれを同義として用いていたけれど、佐藤の観点からは異なる意味を持つことになる)。

これがアマテラスの地位の向上かというと違う。中世日本は須弥山から遠く離れた辺土粟散であり、そのために仏ではなく神が垂迹していると考えられていた。つまり、この意味ではアマテラスという国主は、ヒエラルキーのなかでは仏教の梵天、帝釈といった諸天からすれば明らかに下位の存在として観念されていた。

中世における「日本国主」の称号は、日本全体の主宰神であることを強調すると同時に、日本という特定の限られた領域の主に過ぎないことを意味するという、二つの側面があった
146P

皇祖神アマテラスもこのなかで、護法神的な性格を帯びるようになっていく。同時に天皇仏教徒は無縁であり得ず、葬式が仏教的な形をとるようになり、秘印を結び、真言を唱える即位灌頂という儀式を行うようにもなっていく。中世はそうした仏教的世界観の覆う時代だった。

この本地垂迹理論と日本のローカリティについては、「「神国」日本」でより丹念に論じられているので、そちらを参照してもらいたい。神国思想が元々は日本の絶対的優位性を説くものではなく、上記のアマテラスの位置づけのように、普遍的な仏法に対する日本の固有の位置づけ(仏教的世界観に日本を組み入れるとということ)を説くものだったというのが佐藤の主張だ。

上に見たように、本書では古代から中世にかけて、仏教の影響による神仏のコスモロジーの変遷をたどっている。

と、三冊かけて古代から中世にかけてのアマテラス像を辿ってみました。ちなみに、「アマテラス」でGoogle検索をかけると、トップこそwikipediaですが、それ以降は現代天皇制国家日本の大変な寛容さを目の当たりにすることができます。なんという現代。