溝口睦子 - アマテラスの誕生

アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る (岩波新書)

アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る (岩波新書)

筑紫本とまったく同じタイトルのこの本は同じ論題を扱いながらも相当に違った論を立てていて、併せて読むととても面白い。そもそも視点からして相当に異なるのだけれど、この本では特に当時の東アジアの国際情勢や、外国文化と土着文化の交錯といった要素が中心的なものとして扱われる。

筑紫本では折口信夫民俗学に依拠した部分が非常に多かったのに対し、この本では冒頭からして折口の「ヒルメ」=「日の妻」説を否定しているように民俗学的な視点を重視してはおらず、歴史学的な実証的な方法にこだわっていることが見て取れる。書き方も、筑紫のやや独断と推測の多いものと比べ、溝口は学問的定説の部分と私見とをきちんと分けて書いており、慎重な論述を心がけている。全体に、溝口の論述は筑紫の方法に対する批判として機能するような形になっている。

天孫降臨北方由来説

ここでは筑紫本ではまったく省みられなかった天孫降臨神話の外国由来説が大きな意味を持っている。天孫降臨のエピソードが朝鮮の檀君神話とかなりの類似をみせていることは割合に有名な話だけれど、筑紫本ではそのことに対する視点が欠落していた。筑紫の論は国内ですべてが完結している。そのため、日本、というかヤマト王権が当時おかれていた国際関係のなかの緊張に対する視点がやや薄い。

溝口はここで、広開土王碑(好太王碑 - Wikipedia)に記された五世紀当初の歴史から説き起こして、当時の王権がおかれた状況を概観している。詳細は端折るが、とりあえず、四〇〇年頃、新羅を占拠していた倭軍が高句麗に大敗したことと、それからも高句麗と倭とが敵対関係にあり、かなりの緊張状態にあったことは確かだろうとしている。

そして考古学の知見に拠ればこのころ、日本では大きな文化的変動があったと言われている。大まかに言えば、倭国独自の文化から、朝鮮半島の影響を強く受けた文化への変化だという。例えばそれまでまったく見られなかった馬具が副葬されるようになり、武器も騎馬戦向きのものに変わったという。同時に「王墓とみられる巨大古墳の設営地が、この間に奈良盆地から大阪平野へと移動した」ことが挙げられる。これを王権の交代と見るかどうかは別としても、この頃、政権内部に大きな変動が起きたことは明らかだとしている。

この変動を、溝口は黒船来航や白村江の敗北などの日本史上の画期と似た事態が起こったのではないかと見ている。黒船も白村江も、敗北後の危機感から政権の強化、国家統一への動きが起こり、その際には相手国からの文物の輸入という方法で対応したことが共通した点だ。高句麗との戦いでの敗北から後の文化変動もまた、そのような歴史的な画期だったのだろうと見る。

当時の政権ではいまだ豪族の連合というような緩いつながりでしかなく、そこから強力な国家を立ち上げるには、専制的な統一王権を支える新しい政治思想が是非とも必要となった。そこで求められたのが、「天」の王権思想だという。

新しい政治思想、すなわち王の出自が天に由来することを語る「天孫降臨神話」は、この時期に、当時朝鮮半島きっての先進国であり、かつ、先述のように、日本が主敵としてつよく意識していた、当の相手の高句麗の建国神話を取り入れる形で導入されたのではないかと私は考える。そう考える最大の理由は、両者、すなわち高句麗の建国神話と日本の神武東征を含む建国神話との類似である。両者は、全体の枠組みだけでなく、細部にいたるまできわめてよく似ている。
38-39P

この王権思想は朝鮮半島の諸国が軒並みに取り入れた流行であり、その元をたどれば北方ユーラシアの遊牧民族が持っていた思想であり、北東アジア全域を覆う普遍思想だったという。

皇祖神タカミムスヒ

さて、アマテラスが元々は皇祖神ではなく、天武以前にアマテラスを天皇家が祀った形跡がないということについては筑紫、溝口の両氏がともに認めていることだ。溝口はそこから一歩踏み込んで、では天皇家の祖神は元々何であったか、ということについて論じている。

ここで登場するのがタカミムスヒだ。天孫降臨神話を良く見てみると、じつは天孫降臨を命じたのはアマテラスだという伝承よりは、アマテラスとタカミムスヒ、あるいはタカミムスヒのみと言うモノの方が多く、研究者の間ではこの件については、本来天孫降臨神話の主神であったのは、タカミムスヒだろうということで決着しているという。

タカミムスヒが古来の国家神、皇祖神だったことのもう一つの大きな根拠は月次祭という宮中の祭に求められるという。

日本古代では、他の国々とは違い、王(天皇)がみずから先祖神を祭ったことはなかったと長い間言われてきた。しかしそれは、アマテラスを先祖神とした場合のことであって、タカミムスヒは、年二回、天皇がみずから祭っていたのである。それが「月次祭」である。
(中略)
 それによると、数多くある公的祭祀のなかで、二月に行われる祈年祭と、この年二回の月次祭に限って、百官が神祇官に参集し、中臣(神祇担当の氏)による祝詞の宣上と、忌部(同じく神祇担当の氏)による班幣(全国三百あまりの主だった神社の神々に、神への供物である幣帛を分かつ行事)が行われることが規定されている。つまり朝廷で行われる祭りのなかでも、とりわけ重要視された祭りだった。しかも月次祭は「天皇親祭」である。古代に天皇親祭で行われた祭りは、この年二回の月次祭新嘗祭のみだった。
70-71P

この祭りで読み上げられる祝詞は、第一段でタカミムスヒを含みアマテラスを含まない宮中八神に対して、皇祖神の加護に対する感謝を述べている。この祝詞には明らかに後付のアマテラスへの言及が含まれていて、アマテラスが新しい後発の皇祖神であることが明らかになっている。つまり、天皇家の古来の皇祖神はタカミムスヒだということだ。

そしてアマテラスが皇祖神の位置に就くようになったのは、八世紀頃、律令国家の成立と時を同じくするものだろうと見ている。

タカミムスヒを主神とした天孫降臨という、天から降りてくる神が王権の正統性を根拠づける神話は、五世紀頃に朝鮮半島から輸入したものだろうというのがアマテラス誕生前史になる。タカミムスヒという神の存在感の薄さや土着の伝承があまりないのは、天の思想とともに神自体が輸入であり、土地に根付いたものではなかったことが原因だろうと思われる。

律令国家形成にあたって、タカミムスヒのかわりにアマテラスが召喚されたのは、タカミムスヒが宮中と一部の氏だけが祭るマイナーな神だったからだろうとしている。アマテラスはその点、伊勢の土着信仰であり、また広く親しまれていたため、統一国家形成のためにはアマテラスの方が有利だという考えが働いたのだろうという。

他にも著者は様々な理由を挙げ、氏族間の政治力学にも項を割いているけれど、とりあえずはこれがアマテラスの誕生の経緯、となる。

海から天へ

このタカミムスヒとアマテラスの交代劇ということにまつわり、著者が行っている記紀神話の解釈がかなり興味深いものになっている。このことは以下のように筑紫本でも触れられていた。

日本の古い信仰の移りかわりの中では、カミのすみかは“海(あま)から天(あま)へ”と変化していったと折口博士は説かれました。そのような変化は、大和においては六世紀の半ばごろ進行したとわたくしは思っています。(そのころから天皇の名に「天」という字が付けられるようになることから、天つカミ信仰の確立が推定されるのです)。
筑紫「アマテラスの誕生」205-206P

溝口はこの、海と天というふたつの要素に対する分析をもっと踏み込んで、記紀神話自体をイザナキ・イザナミ系と、ムスヒ系のふたつに腑分けすることを試みている。イザ系は国生みに始まり、オオクニヌシの国造りに至る系統を指し、ムスヒ系は天孫降臨から神武東征までの系統を指す。

溝口はイザ系の神話では多神教的世界観、海洋的世界観という二つの特徴があるという。様々なモノから神が生まれてくる生命力のある世界観であり、またオノゴロジマの形成がそうであるように、島、海というモチーフが多い。アマテラスも海辺の河口で禊ぎをすることで生まれている。八嶋、八洲という日本の古称もその証左だ。さらに因幡の素兎だとか、スクナヒコナが海の向こうからやってくるというエピソードもある。これが日本神話が一般に南方系だと言われることの一つの根拠となっている。

そして、オオクニヌシの国造りがおわり、国譲りの神話を経て、話がムスヒ系とされる天孫降臨になるのだけれど、オオクニヌシが平定し、地上には誰一人敵対する者がいないとされたのにもかかわらず、神武はなぜか九州に降り、再度平定の東征を行っている。これは、土着の伝承を元にしたイザ系の神話に、北方の王権思想に由来するムスヒ系神話を無理矢理つなぎ合わせたことによる矛盾であろうと著者は見る。

この分析は面白い。ここからいろいろな考察が可能になると思う。今でも、例えば高天原と黄泉の国という場所を、天上、地上、地底という垂直構造に捉える解釈は見られるけれど、この分析を前提にすると、こういうコスモロジーが古来存在したという議論はその正当性がかなり怪しくなってくる。神話にこの二元構造を見いだすことで、かなり議論を整理することができるだろう。

たとえば、著者は「天岩屋神話」について、西郷信綱神野志隆光という国文学の著名な学者の説をこう紹介している。

両氏は、この神話の意義、本質を、アマテラスが至上神・最高神として(西郷)、また天上界と地上界を貫く宇宙的秩序の体現者として(神野志)、はっきりと姿を現したことにあると見ている。
119P

著者はこれらの説に対してこう述べる。

ここで天孫降臨神話と切り離して、この神話でのアマテラスをもう一度よくみてみよう。彼女は、この事件に関して、スサノヲの暴虐に恐れをなして、岩屋に引きこもる以外の行動は何一つしていない。岩屋から出てきたのも八百万の神々の策略にのって引き出されたのであって、自分の意志で出てきたわけではない。混乱を収めるために誰かに命令したり指図したりすることも一切ない。宇宙の秩序を乱す原因になったスサノヲを、最後に断罪して天上界から追放したのも神々である。彼女自身はそれになんらかかわっていない。
 『秩序の回復』はたしかになされたが、それはアマテラスの働きによるものではなく、神々が一致協力して行った、祭りや呪術によってもたらされたものである。アマテラスは、いってみれば光り輝く存在であるという太陽神としての属性によって、世界を再び明るく照したに過ぎない。
120P

西郷・神野志両氏が見出したアマテラス像は、私のみるところ、皇祖神であり最高神であり、天孫降臨神話の主神でもある、八世紀以降につくられたアマテラスの映像を「天岩屋神話」のなかに持ち込んで、その映像をとおしてみたアマテラス像である。
121P

天岩屋神話にあるのは、「多神教世界の自然神のひとりとしての太陽神」という、皇祖神になる前のアマテラスの姿であり、ここでは至上の絶対神としての属性は見られない。

これは確かにそうだな、という説得力のある話だ。ここでの議論は、西郷・神野志両氏の神話を一つの総体としてみる文学的視点と、神話を歴史的な多層性のあるものとしてみる歴史学的な視点の対立とも言えるかと思うけれど、溝口説の主張は非常に納得がいく話だと思う。

さらに、この神話やウケヒ神話(アマテラスとスサノオの誓約 - Wikipedia)等の物語は、本来はイザナギからオオクニヌシへ連なる系譜にあるスサノヲを主役とした神話だったのではないかと論じているのも面白い。つまり、古い話では、日本の最高神オオクニヌシだったのではないか、という。

記紀神話の不整合は、イザナギからスサノヲ、オオクニヌシへとつながる土着の神話(各地に膨大な伝承が存在する)に、タカミムスヒによる天孫降臨という別系統の王権思想をつなぎ合わせ、その後、元々土着の神話の登場人物であったアマテラスにタカミムスヒの役割を移譲したために起こった、ということだろう。

以上、歴史学的により緻密な方法でアマテラスを論じた本。古代アマテラスについてはたぶん筑紫本よりはこちらの方が妥当性が高いだろうと思う。神話の二元構造を軸にした記述は記紀神話解釈としても面白く、いろいろ面白い視点を含んだ本だ。

参考

諏訪春雄通信 49