佐藤弘夫 - アマテラスの変貌

アマテラスの変貌―中世神仏交渉史の視座

アマテラスの変貌―中世神仏交渉史の視座

中世の思想、宗教にかんする議論を主なフィールドとする佐藤弘夫のこの本では、冒頭、長谷寺で護法童子のアマテラス像を見たことを枕に、古代から中世にかけての日本において、神仏の世界がいかなる変貌を遂げたのかを検証している。

佐藤の本については以前に『神国日本』を取り上げたので、そちらを参照。
日本の中世についての三冊 - 「壁の中」から (アーカイブ)
[[神国]日本]はこの本でも一部取り上げられている議論の個別具体例についての踏み込みでもあるので、相互補完的に読むとさらに面白い。

で、本書はアマテラスと銘打ってはいるけれど、全体的には中世の神仏習合にかんする議論が主で、アマテラスの割合は薄い。とはいっても、中世の神仏観について独自の見解を提出していて、非常に読み応えのある本だ。

佐藤は古代から中世にかけての神仏概念の変遷を、ひとまず「祟る神」から「罰する神」へ、というかたちで捉えている。このキーワードは「命ずる神」と「応える神」とも言い換えられる。そしてこの変化に関わるのは仏法の浸透がその大きな要因として存在している。と、ここまで言えば佐藤がここで展開している議論の図式がだいたい分かった人も多いと思うけれど、どういうことか紹介してみる。

「祟る神」の事例として挙がるのは允恭天皇仲哀天皇だ。允恭天皇の件は狩りの時、獲物がまったく獲れないという程度の害だったのだけれど、仲哀天皇熊襲討伐のおり、神功皇后に憑いた神の託宣を無視したことで、祟りを受けて死んでしまう。

このくだりに出てくる神は、いま私達が観念しているような祈りを捧げて御利益を願う、というような神では全くない。

神は、特定の社に常住していていつでも気安く人の願いを聞き届けるものとはみなされていない。どちらの話(仲哀、允恭の件・引用者註)でも神は何の前触れもなく突然出現して、人々にある命令を下した。その指令に従わなければ、人は神の下す過酷な災いを避けることができないのである。人々があらかじめ神の出現を予知することは不可能だった。また、神が何を要求してくるかも予測のたてようがなかった。そもそも。指令を下した神の名さえ当初は不明であった。それがいかに不合理なものであっても、人は神の下す命令に無条件に従うしか道はなかったのである。
19P

古代の神はこのような「命ずる神」だったと佐藤は言う。そして祟りというのは神意をそこに見出すべき神からのメッセージの表れだった。人々はその祟りを解読し、そのメッセージの意味とどの神からの祟りなのかを特定するために奔走しなければならなかった。

しかし、平安時代にはいると不合理な祟りという悪い側面はもっぱら邪気、霊気、モノノケといった邪霊が担うようになっていく。それと平行して、神の作用は「罰」と表現されるようになっていくという。

そして、「罰」と同時に、「賞」という言葉もセットで用いられるようになっていて、神の下す作用が、ある基準を持った合理的なものへと変化していることが見て取れる。この「祟り」から「罰」への変化は、同時に神の性格の変化だ。「神は人々を仏法に結縁させるべくこの世に垂迹したとみなされていたがゆえに、仏法への敵対はとりもなおさず守護神への敵対と見なされ、下罰の対象とされた」。

神は信心を要求し、人々の態度に応じて賞罰を下す。(中略)中世に入ると、神はあらかじめ人がなすべき明確な基準を示し、それに厳格に対応する存在と捉えられるに至っていた。私はこうした性格を持った神々を〈応える神〉と規定したいと思う。
46P

古代の神は、人格的と言うよりは自然そのものの擬人化に近いように思える。まず祟りがあり、それを解読し原因を追及し対策する、という一連の流れは現代の自然災害に対するそれのようだ。そうした神が、仏教による神仏観の変遷によって、仏法を背景にした合理的存在へと変化し、同時に、現実の不合理を象徴する存在として邪霊、モノノケの存在がクローズアップされるようになっている。

ここまでは常識的な神仏習合論に見えるけれども、独自性を発揮するのはここからになる。佐藤は、起請文(起請文 - Wikipedia)という史料から、中世人にとって仏がどのように見られていたかを検証していく。起請文は「人が約束や契約を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書」で、そこには主にこの地に垂迹している土着の神が勧請されるのが普通だけれど、同時に仏も勧請されていることが少なくない。

神仏習合理論としては、仏は次元の異なる世界に住まう存在であり、直接人々に作用するのは垂迹した土着神の役割のはずだ。そこで、勧請されている仏の特徴を探してみると、どれもが仏像などの形で、国内に特定の場所を占める存在であることがわかる。これらの特定の仏は、他界にあって救済を行う仏とは異なる役割を持たされており、賞罰を司る神と同質の働き持つと見なされていた。ここにおいて、中世の神仏は、神と仏という単純な二分法ではなく、彼岸の仏と、此土の神仏という形で把握されるべきだと佐藤は主張する。

また中世において、この賞罰を司る神仏は、同時に荘園制を背景とした世俗化にさらされることにもなったという。この時期、寺社勢力が国家から独立し、荘園領主となるのだけれど、その時、田や金銭の寄進を仏法への結縁と位置付け、宗教的善行とみなすのに伴い、年貢、公事の出し渋りはとりもなおさず神仏への敵対と見なされ、そうしたもの経ちに対しては神仏の名において脅迫を加えると言うことが行われていたという。


そしてアマテラスの話になる。皇祖神として至高の地位を持つアマテラスだけれど、古代から中世のコスモロジーの変容のなかで、その位置付けも変わっていった。以前は私幣禁断の制によって、天皇家以外の参拝を禁じていた伊勢神宮は中世に入ると「日本国主」として開かれた信仰の対象へと変化していった。アマテラスは天皇家の神から、日本全体を知行する開かれた神へとそのポジションを微妙にずらしていく。皇祖神から国家神への変貌といえる(溝口はこれを同義として用いていたけれど、佐藤の観点からは異なる意味を持つことになる)。

これがアマテラスの地位の向上かというと違う。中世日本は須弥山から遠く離れた辺土粟散であり、そのために仏ではなく神が垂迹していると考えられていた。つまり、この意味ではアマテラスという国主は、ヒエラルキーのなかでは仏教の梵天、帝釈といった諸天からすれば明らかに下位の存在として観念されていた。

中世における「日本国主」の称号は、日本全体の主宰神であることを強調すると同時に、日本という特定の限られた領域の主に過ぎないことを意味するという、二つの側面があった
146P

皇祖神アマテラスもこのなかで、護法神的な性格を帯びるようになっていく。同時に天皇仏教徒は無縁であり得ず、葬式が仏教的な形をとるようになり、秘印を結び、真言を唱える即位灌頂という儀式を行うようにもなっていく。中世はそうした仏教的世界観の覆う時代だった。

この本地垂迹理論と日本のローカリティについては、「「神国」日本」でより丹念に論じられているので、そちらを参照してもらいたい。神国思想が元々は日本の絶対的優位性を説くものではなく、上記のアマテラスの位置づけのように、普遍的な仏法に対する日本の固有の位置づけ(仏教的世界観に日本を組み入れるとということ)を説くものだったというのが佐藤の主張だ。

上に見たように、本書では古代から中世にかけて、仏教の影響による神仏のコスモロジーの変遷をたどっている。

と、三冊かけて古代から中世にかけてのアマテラス像を辿ってみました。ちなみに、「アマテラス」でGoogle検索をかけると、トップこそwikipediaですが、それ以降は現代天皇制国家日本の大変な寛容さを目の当たりにすることができます。なんという現代。