津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』

長篇の前に、同じタイトルを持つ短篇について。

「ジャッカ・ドフニ――夏の家」

北海道にあるウィルタ民族のダーヒンニェニ・ゲンダーヌが建てた資料館「ジャッカ・ドフニ」。ウィルタ語で「大切なものをしまっておく場所」だという。そこにある、息子達と写真を撮った小さな「カウラ(夏の家)」がタイトルの由来。

序盤は不思議な叙述が続き、語り手はどうやら息子を亡くしているらしいけれども、いつか息子が帰ってくるのを待っているらしくもあり、リアリティの位相がにわかには判別できないようになっている。そこで、過去に新居を建てるという話が出た時に子供たちと考えていた新しい間取りの話になる。子供たちは銘々自分の大切なものを中心に間取りを夢想し、考え、図面を起こし、それはひとときの幸せな時間として感じられる。

その後息子はとつぜん亡くなった。にもかかわらず、小説は子供たちと暮らした新居がさまざまに語られだし、実現されなかったはずの幻想が膨らんでいく。

たとえそれがどんなに適確な、しかも一般的な言い方であるとしても、私は、息子が死んだ、という言葉を口にする人を恨み、腹を立てるのを通り越して、軽蔑してしまう。気の毒に、かわいそうに、という人も許せない。立ち直れましたか、と聞く人にも腹を立て、今頃、天国で楽しく過ごしていますよ、とこともなげに言う人を馬鹿にしてしまう。それでいて、私自身も言葉を見出せないままでいるのだ。ちがう、ちがう、と身に襲ってくる言葉を否定することしかできない。せめて、否定し続けていなければ、とんでもないことをいつの間にか押しつけられてしまう。P271

語り手は、息子を死んだ、と明確に言葉にすることを拒む。そうすることで別の場所に息子がいる、という感覚を保持し、それによってさまざまな幻想が流れ込み、現実との境界を突き崩していくわけで、愛する人が死んだ、ということとそれを受けとめると言うことについて、非常に印象的な短篇になっている。ジャッカ・ドフニ、夏の家、そして新居のイメージが連鎖して、大切なものを収める場所という意味を変奏していく。

1987年、息子を亡くした二年後の作。

私が読んだのは詳細を貼った本でだけど、短篇集『夢の記録』や人文書院津島佑子コレクション、同じく文芸文庫の現代小説クロニクルにも入っている。

『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』

同題の短篇から三〇年後、津島佑子最後の長篇として残された大作がこちら。「すばる」に連載後、2016年刊行、今年文庫化された。十七世紀のエゾ地、日本、マカオバタビアジャカルタ)までを舞台に、和人とアイヌの混血の少女が海を渡り、アイヌの歌を心に生き抜くスケールの大きな小説だ。キリスト教の国際ネットワークがそのスケールを支えている点も印象的。

主人公チカップ(鳥の意)は、和人に捨てられたアイヌの女性を母に持ち、馬小屋で生まれ生後間もなく巡業の軽業師に売られた旅の途中でパードレにしがみついたことで以後キリスト教徒としての生をはじめ、兄代わりのジュリヤンと二人で、兄の神学を修めにマカオへの旅に出発する。つまり混血アイヌキリスト教徒という存在だ。

このメインストーリーを枠づけるのが、作者とよく似た現代の「わたし」の三度の北海道旅行で、2011年震災後に北海道を訪れ、短篇版でも描かれた「ジャッカ・ドフニ」訪問の記憶を想起しつつ短篇版を別様にリライト*1しながらその体験が描かれるのには重要な意味がある。ウィルタ民族が日本兵となっても戦後その恩給から外され続けた歴史を書き込んでいることや、現代におけるアイヌとシサム(隣人=和人)の関係、震災と原発事故の枠組みは、解説で川村湊がいうように原発事故後の被災者の離散と禁制されたキリシタンの流浪が重なっていることのほかに、朝鮮系が出てくるように現代日本の排外主義とキリシタン排斥も重ねられ、国家の枠組みを批判的に見返す。十七世紀日本のキリシタン迫害と天正遣欧使節を絡め、西欧列強の植民地を旅しながら、日本という国を外側から眺め、その迫害や多民族社会での憎悪にも批判的意識を向けていくわけだ。

ウィルタ民族のゲンダーヌが「土人」という言葉に怯えていた、というくだりに続く以下の部分は、ウィルタアイヌという少数民族原発事故とが作者においてどのように繋がっているかを語る箇所だ。

土人」ということばは、原発の事故で古い過去からふたたび噴き出てきた「ヒバクシャ」ということばをも、あなたに連想させる。あなたが中学生のころ、このことばが得体の知れないおびえとともに、まわりでどれだけささやかれていたことか。原爆による「ヒバク」で実際に苦しむひとびとを置き去りにした身勝手なおびえ。被害を受けたひとたちがさらに、心理的に追いつめられてきた日本の社会だった。(上巻46P)

そして、キリシタンについてのこの記述は当然現代においての同根の問題を視野に入れたものでもある。

眼に見えぬ敵ほど、こわかもんはねえ。そげな敵を作っとけば、国内を支配しやすくなるっちゅうのが、お国の本音なんかもしれん。きりしたんをやめんのは、反逆罪ちゅうふっとか罪になるとよ。お国にとって、わしらは逆徒ずら。(上巻76P)

憎しみがうえから与えられて、そいに身をまかせるのは、まっこと、気持よかごたるし、いくらでん伝染するんや。憎まなけりゃならん理由なんぞ、だれも知らん。知りたいとも思っちゃいない。チョウセンを攻めたニホン人もチョウセン人に対して、同じやったそうな。憎しみというより、残酷さを楽しむ心が、人間にはもともと隠されておるんやろうな。(下巻70P)

カップが旅する、マカオバタビアなど東アジアの海域には、キリスト教の根拠地として多民族社会ともなっており、こうした社会を生きながらも、心に母親の残したアイヌの歌を抱え、アイヌ系混血児かつキリシタンという「日本」の異分子と化した主人公がエゾを望郷の心で眺める。チカップというアイヌ語で鳥と名付けられた主人公の流浪の旅。風は南から再度北海道にたどり着く。


キリスト教ネットワークの中継地点で、重要な文書を書き写して伝送していく部分が興味深かった。伝えると同時にストックしておき、情報をコピーしていくシステムがあったのか、と。

ただ、マルチリオ=殉教がよく出てきて、命より信仰を上に置く感があるのが、キリスト教ちょっと好感持てないなって感想もある。あと、短篇とはジャッカ・ドフニの語の意味が違う風に訳されている。本書では「大切なものを収める家」、とある。これは意味のある違いなのかどうか。

気になったところ

とまあ傑作と言っていい作品なんだけど、ただ、文庫下巻240ページでぞっとするところがあって、読み進めづらくなり、さらに脳内に批判や不満が渦巻いて全然集中できなくなった。個人的にどうしても気になるところで、作品の印象に強い影響を与えた箇所なので、書き記しておく。

未読の人は気をつけて欲しいけど、終盤チカはバタビアにいて、そこで結婚して子を産み十歳と九歳の兄妹を持っているんだけれど、金銀の島を求めてエゾへ探索船をだす話を聞きつけ、エゾへの郷愁冷めやらぬチカは身重では無理だとさとり、そうだ、私の子がいるじゃん、と子供を密航させようとする。ここめちゃくちゃ驚いたんだよね。

はんぶんえぞ人なのだからえぞ地たんさくの船にのせてほしい、とコンパニーのおえらがたにこんがんするとしても、じっさいには、いくつかの、しかもまちがっとるかもしれんアイヌのことば、そして、いくつかのうたをうたえるだけなんやから、通辞としてつかいものにならんし、そもそもおなかのおおきかおなごなんぞ、たんさく船にのせてもらえるはずがなか。
 兄しゃま、そこで、チカップはおもいついたんや。チカップにはおおきくそだったレラとヤキがおるではないか、と。あの子らをもぐりの水夫として船にのせてしまえ ばええ。(下巻240P)

自分のエゾへ行きたい気持ちを代わりに子供に果たさせるつもりなの? 南国生まれの子供に? 夫に隠して? エゾには氷や雪があるよって自分でもほとんどしらないアイヌやエゾへのロマンを説いて聞かせて幻想を育てて?正気?こいつ子供を自分のものだと思ってくる毒親クズじゃんって。

びっくりするとともにゾッとした。その後まんまと子供達を密航させていなくなったことを知った夫に神隠しだとデマを吹いて、一向に戻ってこないのを怪しんでこれはチカがやったんじゃと感づいた夫が、元々そういう傾向はあったにせよよりチカへの暴力を振るうようになるんだけどこれに被害者意識もっているのまったく理解できない。子供を勝手に売り飛ばすようなマネをしておいて、なんで被害者気取りなんだ。

夫がわりとDV傾向あるとかバタビアで日本人は肩身が狭いとかなんだかんだここにいないほうがいい状況づくりをしてるんだけど、このあまりに身勝手な毒親ぶりはほんと理解できない。ちょっと邪悪すぎない?

もっと自然に子供たちの自発性に任せる流れは作れるはずで、こうなのには理由があるんだろうけど。息子の墜落死を自分の責任と思っている罪責感の反映とか、親から子供たちがまた旅立っていく連鎖を読み込むとか。ちょうど息子が死んだ年齢が八歳で、この兄妹はそれより年上だったりして。いろいろ考えられるんだけども、端的にここにどん引きして読むの辞めようとか思った箇所だ。

このレラとヤキの扱い、この箇所をほかの人がどう読んだのか気になる。まあ一七世紀だしそういうものとして流してもいい気はするけど、ここで突然主人公がクズっぽくなるの違和感すごいうえに、これがおかしなこととは思われてなさそうなのが。

*1:家族の構成から違っている