石川博品『あたらしくうつくしいことば』

石川博品のネット公開された中篇をふたつ収録した同人作品集。いずれもウェブ版を既読で当時もTwitterに感想を書いたけれど、昨年本書が刊行されていたので、いま改めて再読して記事にまとめておく。

異世界求法巡礼行記」

異世界求法巡礼行記
オリエント風帝国の後宮では野球によって皇帝の寵愛を競っていた、という奇想野球ラノベ後宮楽園球場』があったけれども、これは異世界転移と禅宗を掛け合わせたコミカルな中篇。異世界に転移した禅僧が、詭弁めいた仏教トークや身体能力などで問題を解決していく、軽薄、軽妙、軽快なコメディ快作。

禅問答的なロジックで話を回したり、漢字語彙に現代的ルビを振っていく語りのギミックも心地よく、下ネタの応酬がほんとうにひどくて随所で笑わされてしまう。仏教用語がよく出てくるので随所にルビが振られているんだけど、かなり自由で、逆に擬態語とかを漢字にしたりする遊びが面白い。「美童」が「エロショタ」ってルビ振ってあったりとか、「大伽藍」に「デケーてら」って振ってあるかと思えば、「ちゃっかり」が「着稼利」って書かれていたりする。

どっかで聞いたようなオタクチックなフレーズやワードが飛び出てきたり、かと思えば仏教説話が出てきたり、ネットスラングも教養も一緒くたに闇鍋されたこの石川博品らしい語り口はやはり良い。下世話で下品なサービス精神あふれる中篇で、話としても仲間が揃ってきてまだこれからってところなので長篇にしてもよさそうな感じなんだけど、まあ、うん、企画通らなそうだよなあとは思ってしまった。

「あたらしくうつくしいことば」

あたらしくうつくしいことば
後半に置かれた中篇は確か作者の三つ目の百合小説で、しかも題材は手話。音声言語とは異なる別様の言葉を通して、壁と壁を越えるものとしての言葉や表現することについて描いた傑作といっていい。

この作品では、現実の手話とは別に、日本に古くからある国語手話、アメリカ人が考案した統合手話、という二つの手話があるという設定で、さらに聴者などが使う、日本語の語順で単語を翻訳したようなものと思われる、日本語同期手話というのがあることになっている。この設定をベースに、統合手話を使っていた聾学校が潰れ、その生徒を受け入れた国語手話の聾学校を舞台にしている。

物語は女子聾学校の高校生、木之瀬紗雪のクラスにある日、三宅真奈美と泉千尋という統合手話の学校から二人が編入されてきたことから始まる。どうやらその二人は付き合っているらしいと言う噂があって、という導入から、友達関係や恋愛関係のもつれが語られていく。

ここで言葉はまず通じなさにおいて描かれる。聾者は聴者との齟齬を抱えているうえに、先述したように聾者同士でも手話の種類によってディスコミュニケーションが起こっている。そのうえで、目の前の相手と話すため、あるいは王子様のような転校生に近づくために違う種類の手話の混成語が作られることになる。王子様と呼ばれる泉千尋と話すためにつくられた「ちーさま語」というのがそれだ。いわばピジン手話だ。このピジン手話は自分たちだけに通じる言葉、という「秘密」をめぐる相反した性質を抱えている。自分たちだけに通じるサインとしての秘密は、隠しておきたいのと同時に知ってもらいたいという矛盾を抱えており、言葉としてそれはつねに交流へと開かれる可能性をもっている。

また印象的なのは、聾学校には教室と廊下に壁がない、という描写から始まっていることだ。音が広がらないので、壁が要らないわけだ。しかし、聴者の先生の手話は何を言いたいのか分からないことも多く、手話形式が違う転校生たちの言葉も、すぐには通じないわけで、壁がない教室の中の「壁」がある。

そして語り手の親が聴者か聾者かで家庭内でのコミュニケーションも違っている。それでいて、手話なら街中で変なことを喋っても他の人に気づかれることはないなんて利点もあったりする。この作品はこうした、音声言語と異なる手話というコミュニケーションの特性を随所に描いていて、聞かれてはいけない人の隣で話をしたり、後ろから抱きつかれたまま鏡文字のような手話を見せられるシーンや、音ではない拍手など、ものとしての言葉、が印象的だ。

 わたしたちの秘密のはなしはドアを閉めておけばどこにも漏れる心配はなかった。
 お風呂からあがり、ベッドに入ってもはなしは続く。
 わたしたちは電気を消してしまうとことばが見えなくなるので、携帯のメールで会話する。P203

聾者を社会的弱者として書こう、という小説ではない。ある程度意識的に、単に別のコミュニケーション様式を持つ人たち、というようなニュアンスが強い。とはいえ、マイノリティの社会性について作者が無自覚なわけではない。聾者あるいは同性愛者のマイノリティ性については明確に意識されており、後半の展開でそれが現われてくる。聴者と聾者の壁、そして聾者のなかでも同性愛者と異性愛者の壁がある。ある事件を契機として紗雪はこう語る。

何かであるというだけで攻撃されることがある、そのとき、ことばは役に立たないのだろうか。247P(傍点と太字にして引用)

壁と壁を越えるものが幾重にも折り重ねられて埋め込まれている本作において、統合手話を学び、海外留学を目指す三宅は、いくつもの壁を越えていく存在として紗雪から見られている。三宅は紗雪にとってのそうした希望の一端なわけだ。それに対して紗雪は書くということへの躊躇いにふさがれている。

 ホームルーム明けの生徒たちが教室から溢れだし、廊下を満たす。目がくらむほどに騒がしい。あのことばがあいもかわらず結ばれ、ほどかれて、また結ばれる。その起源など知らぬくせに、あたかもいまこの手で生みだしているかのような顔で少女たちは、おごそかに、時に無造作に、ことばを発する。P251

自分(たち)だけのものと、だからこそ書く意味がある、という秘密をめぐる矛盾がそして書くことへの動機へと転化する。

かつてわたしもその一部だった秘密が、水面に生じる波紋のように、廊下を渡っていく。P252

冒頭と結句に現われる、広がる波紋の比喩は、壁のない教室から広がっていく希望としてある。「遠慮会釈もない」「明け透け」な言葉。壁のない教室のなかの「壁」を踏まえた上での、言葉が断絶を越える可能性を指し示すわけだ。手話が音のないもの同士の断絶を越えるために作られたならば、そして文字は言語様式の違う世界を繋ぐことができる。手話を通して、言葉そのもの、表現することへの祈りと希望が込められている。


と書くと非常に繊細な百合小説っぽく見えるかも知れないけれども、そういう側面とともに『四人制姉妹百合物帳』で剃毛ネタが出てきたように、今作では主人公というか作品全体に「ガラッパチ」な感じがあって、竹を割ったような軽快さがある。スタバでローファットのラテ飲んでるかと思えば、他に出てくるのがラーメンと餃子とかだったりするのが面白いし、バットで殴り込んでくるバイオレンスな場面は笑ってしまう。特に紗雪のラーメン屋での手際良くスタイリッシュに味わい尽くす熟練ぶりは、

「ラーメン食べるのに自分のスタイル持ってない奴は何やらしても駄目だと思ってる」195P

というセリフが面白いし、「このかんがえはいまでもかわらない」という時のスタイルとはつまり文体ということかね、という感じもある。紗雪が小説を書こうとしていることに、表現することのテーマがあるけど、もう一人の表現者としてYoutuberが出てくるところとか、なかなかにコミカルでいい。

そういえば本作で、家族に知らせるために照明を明滅させる場面があったけど、アニメ「18if」の第8話では、聴覚障碍者の家の来客チャイムが照明の明滅だったのを思い出した。机を叩いて勘定を求めたり、タブレットでの筆談、DVDやブルーレイに字幕がないことにがっかりしたり、そういう聴覚障碍者の日常を描きつつ、手話でバンドをやっているというなかなか興味深い話だった。


18if.jp