マルセル・プルースト - 失われた時を求めて 全巻メモまとめ

「失われた時を求めて」メモ - Close to the Wall
「失われた時を求めて」メモ2 - Close to the Wall
今年一月から読み始めて月一冊ペースできたけれど、キリがよいので今月一気に二冊読んで読了となった。すでにメモその1その2があるけれど、その3のかわりに全巻の感想メモを一括して記事にすることにした。8巻までの分は元のまま。


失われた時を求めて〈1〉第一篇 スワン家の方へ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

失われた時を求めて〈1〉第一篇 スワン家の方へ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

失われた時を求めて」のこの巻については実は六年ほど前に一度読んでいるので、再読ということになる。その時の記事はこちら。

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現在入手可能なものとしては、井上訳とこの鈴木訳があるわけだけれど、文章の読みやすさと註釈などの親切さ、そしてこの訳で読んだ人が薦めていたので、わたしはこれを選ぶことにした。読みやすさについては徹底していて、各巻冒頭に本文の現在時や、語り手の位置などについて簡単な説明がされているし、一巻には巻末に主要登場人物百人の紹介や、スワン、ゲルマント、語り手の三家族の家系図が付されており、全七篇のあらすじもついている。月報には、母国フランスでのプルーストについてのエッセイ(一巻にはル・クレジオ)や、実在の土地と作中の土地の関係についての解説、そして清水徹と鈴木道彦による連続対談など、付録がたくさんある。邪魔だと思う人もいるだろうけれど、これはうれしい長旅の供だ。

 あらすじを説明しても仕方がないのだけれど、この作品は語り手がかなり後の時間から子供時代を回想している作品なので(原語では時制が正確に書かれているのでそうでもないらしいのだけれど)、けっこう語りの現在時と語られている時間とが、こんがらがってしまう。はじめに語られているのは、もはや記憶の彼方にありほとんどのことを覚えていないコンブレーという街での夜のことである。いま現在の語り手が、寝入りばなや寝起きの時にまつわる夢想と記憶の不思議さについて考察しているうちに(この部分、冒頭からなかなか魅力的なところ。「私」は起きてから周囲の情報を得ていくなかで再構成されるのだ、というような面白い描写がある)、コンブレーという街でのことがほとんど思い出せないことに気づく。思い出せるのは寝入りばなに母親にキスしてもらえず、悶々としていた夜のことばかり。母親と父親、祖母や叔母などの印象的な人物が現れ、スワンという人物が呼び鈴を二回鳴らすという訪問の記憶などがわずかに触れられる。
 そして語りはまた現在に戻り、紅茶に浸した帆立貝型のマドレーヌを食べた瞬間、言いようのない不思議な感覚に襲われる(本書では86頁から)。ここでも微に入り細を穿った考察が続く。そして思い出されたコンブレーでの記憶が、あふれ出す。
以降語られるのは、コンブレーの街でのさまざまなエピソードで、ここではまだ物語は始動していないという感じがする。スワン家の方と、ゲルマントの方、という階級を異にする二つの象徴的な方角を散歩する描写が続く。末尾の方で語り手が作家になるという文学的野心を抱いていることが明らかにされ、この作品に通底するテーマ(とは、作家になるということらしい)の萌芽を見ることができる。

 というわけで、とりあえず第一巻を読み終えてみての感想は「長い」だった。
 この時点ですでに長い。それはもう、畳みかけるような比喩と描写の積み重ねで主語と述語を見失ってしまうときがしばしばあるようなワンセンテンスの長さもさることながら、ひとつの事物、風景、心理について費やす文章の長いこと長いこと。まさにその長く細微で熱のこもった描写が読みどころでもあり、一番面白いところでもあるのだが、そこはさすがに気力が続かないこともあり、けっこう頻繁に中断して読みやすい他の本に寄り道したりもしてしまう。まだ先は長い。

 この作品は、気長に、かつ没入して読むことを要求される。読みながらわたしが連想した吉田健一の「金沢」もまた、甘美な小宇宙を濃密で中断しない長回しの文章が延々続き、とばし読みにできない作品だった。物語や、怒濤の展開を求める姿勢をいったん捨てて読まないと、おそらく本作の肝であろう細微な描写がたんに余計モノにしかならず、冗長な作品になってしまうと思う。
語り手が見いだす美の世界、小さな仕草から観察する精緻な心理分析、そこにまず注意を向けること。見るもの感じるもの考えるものに自分も乗ってみると、面白く読める部分は多くなっていくと思う。さて、次は二巻だ。

以前のはハードカバーのものを二巻まで読んだところでふいと中断してしまって(安価な中古で端本を集めていたので、揃えてはいなかったのもある)、そのあいだに文庫版が出始めたので、じゃあ、文庫を買いそろえてから再開しようと思っていたらいつのまにか文庫完結から三年経っていた。

で、年明けに今年こそは全巻通読してみようと決意。あんまり中断しすぎたので三巻から再開するのはどうかと思われたので、第一巻はじめ、今度は中断しないように、ペースを月一冊ずつと決めて読み進める予定だ。いまは第四巻まで進んだところ。

メモがてら各巻に簡単にコメントしていこうと思う。

文庫ではハードカバー版にあった挿絵や月報の類がなくなっている点は残念だけれど、系図、人物紹介、あらすじ、各場面ごとの索引などの豊富な付録はそのままで、再読や中断、拾い読みに好適な編集になっているのはうれしい。

この巻ではまだ動きが少なく、さまざまな人物の紹介というか物語の土台固めという印象がある。フランソワーズという女中のキャラクターや二人の叔母の遠回しな感謝の表し方など、コミカルな部分もあって楽しい。とはいっても、この巻だけ読むとちょっとなあ、という人もいるかも知れない。そう言う人は二巻の「スワンの恋」から読むっていう手もあると思うけれど、どうだろう。

ここでは有名なマドレーヌからあふれ出す記憶の描写がハイライトだけれど、各登場人物の描写をじっくりと読んで次巻以降に備えておきたい。

しかし、函なしハードカバー版をどうしようか。

失われた時を求めて〈2〉第一篇 スワン家の方へ〈2〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

失われた時を求めて〈2〉第一篇 スワン家の方へ〈2〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

引き続き「第一篇 スワン家の方へ」を収録した二巻。ちくま文庫版に比べて付録が多量なので、分冊になっている巻があり、全体の巻数が増えている。第一篇はちくまでは一冊だった。

以前書いた感想はこちら
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 二巻目だが、冒頭の第一篇第二部「スワンの恋」は、その名の通り、コンブレーで幾度か語り手の家を訪れていたシャルル・スワンの若き日(語り手が生まれるかどうかという時期)の恋の物語である。これだけで優に一篇の恋愛小説足る分量と構成であり、ほとんど作中作のおもむきすらある。素直に恋愛小説として楽しめるだろうと思う。ただし、いつものプルーストの文体で、だが。つまり、一瞬を文章の圧力でもって延々と引き延ばしていくために、時間感覚が狂わされてしまう、幻惑的な文体である。

 そのスワンの恋を取り巻く重要な舞台背景が、ヴェルデュランというブルジョワの家で毎夜開かれる「小さな徒党」の集まりである。ヴェルデュラン家というのは、貴族階級ではないためにその階級に対して激しい嫉妬を抱いており、それらの人びとは退屈でありつまらない連中であると思いこむことで自らの優位を確認し、夜会にあつまる全員に対してその優位性をそろって賛同してもらわなければ気が済まない。本書冒頭に描かれている、ヴェルデュラン家の「小さな核」、「小さなグループ」、「小さな徒党」に加わるための、必要条件にして信仰箇条が意味しているものは、自らのグループのは何ものにも優るというその一事に掛かっている。だから、「ヴェルデュラン夫妻が、うちに来ない連中の夜会なんて雨の日のように退屈だと言ってもいっこうに納得しない「新入り」は、誰でもたちどころに除名された」のである。

 スワンは、それまでは様々な女たちに恋をし、多くの夜会を渡り歩いてきたが、オデット・ド・クレシーという女性を見つけてからはただ、彼女だけを愛するようになる。そして、彼女のいるところはすべてスワンの無償の愛の対象になるので、そのヴェルデュラン家の夜会のいやらしいまでの閉鎖的な仲間意識にも、拒否感を示したりはしないのである。ここでかなり細かく書かれているのはそういったスノッブたちの醜悪な振る舞いである。特に印象的なのは、参加者が繰り出すジョークに対して自分が笑っているのだと言うことを表す簡単なやり方をヴェルデュラン夫人が考えた挙げ句、ついに両手で顔を覆い肩を震わせることで、そのあいだずっと笑っていることができるという見事な演技を手に入れるところである。これで彼女はどんなつまらないジョークにも、上品な笑いの動作をもって答えることができるのである。

 オデットとスワンの恋は、スワンに愛情がわき上がるきっかけから、オデットがだんだんとスワンを拒んでいくようになる段階や、その後でスワンが結局オデットは自分の趣味でない女なのだ、と考えを変え、完全に恋が終わるまでを細微に描いてゆく。考えてみれば短い話なのだが、一瞬一瞬の描写、感情、感覚に割かれる描写が半端でなく、言いしれぬリアリティが立ち上がってくる。
 本章の最後、恋愛という感情について書きつけられた、この言葉が印象的だった。

「なぜなら私たちが愛だと思い、嫉妬だと信じているものは、分けることのできない継続した同じ感情ではないからだ。それらはつぎつぎと起こる無数の愛、異なった嫉妬から成り立っており、その一つひとつは束の間のものだけれども、あとからあとから絶え間なくあらわれるので、継続しているという印象、単一のもののような幻想を与えるのである」336頁

 それが同じ一続きのもののように思われるのは、それが同じ対象を原因としているからだ、と言うのである。三百頁の間彼らの恋愛を読んできて、終わりにいたってこのような文章が出てくると、それまでのすべてがひとつのうまい比喩によってすとんと胸に落ちるような快感を味わう。プルーストにはそういった瞬間が幾度もあるが、上記の場面も同じである。
ただ、その後の部分でジルベルトというスワンとオデットの娘が出てくるのだが、破局したはずの彼らは、そのあと、いったい何があったのだろうか。

ここに収録された第二部「スワンの恋」では語り手の生まれる前に遡り、第一部でも登場していたシャルル・スワンとオデット・ド・クレシーの恋の物語がほとんどをしめている。この部分は上流階級の見栄の張り合いを描いた部分(生々しい喜劇として読める)や恋愛物語としての展開があり、一巻よりはよほど読みやすい。なんなら、この部分だけ先に読んで、面白ければそこから一巻に戻って全体を読み通してみる、というのもアリなんではないかと思う。

プルーストの思索的で密度の高い描写とによる長々しい文体に慣れられるかどうかを、試してみるにはちょうど良いかも知れない。

第三部「土地の名・名」では、スワンの娘、ジルベルトと語り手の出会いが描かれる。これはそのまま第三巻への序章になっている。

前巻までは以前に読んでいたけれど、こっからは初めて読む部分だ。

第三巻は「第二篇 花咲く乙女たちのかげに」の前半。第一部、「スワン夫人をめぐって」では、語り手のとスワン家とのつきあい、特に前巻で出会い、恋に落ちたジルベルトとの幼い恋の顛末が語られる。

ジルベルトとの恋とその終わりは、前巻のスワンの恋と構成的に対応しているようにも思える。ここでは語り手は自らその恋を終わらせていく展開になっている。

巻末エッセイで野崎歓も語っていることだけれど、未知のものへの夢想的なあこがれの強さと、その実際を見た時の失望という落差がこの巻のみならず全体を通して印象的だ。この巻ではラ・ベルマの劇、バルベックという場所、あるいはジルベルトとの恋、それらへの強い情熱が語りを牽引していく。失望した時には逆に、周囲の人間にそれと気取られぬように苦心したりする顛末になったりもするのだけれど。

第二部、「土地の名・土地」は第一篇の第三部と対応するタイトルで、バルベックに行くまでとホテルでの生活が描かれる。しかし、フランソワーズがどんどんキャラ立ちしていくなあ。後の重要人物らしいアルベルチーヌもちょっと出てくる。

しかしまあ、長い。ワンセンテンスが長い上に改行もほとんどないのでページが真っ黒。他の本を読むよりもずっと時間が掛かる。これを一気に読もうとするとやっぱり挫折するだろうなあと思う。けれども文章自体は読みやすいので結構するすると読んでいけるので思ったほどは読みづらくはないところは鈴木訳の良いところだろう。

これでようやく全体の三分の一程度まで来た。

この巻は前巻終盤から始まる「土地の名・土地」の続きとなり、語り手のバルベック滞在が終わるまでが語られる。そのなかで、祖母の旧友でもあるゲルマント家につならなるヴィルパリジ夫人との交流や、新しく出会ったサン=ルーやブロックといった友人たちとのつきあい、さらには画家エルスチールとの出会いと、「花咲く乙女たち」こと年若い少女たちの一団、なかでも後の展開の重要人物っぽいアルベルチーヌに恋する過程が描かれている。

序盤のヴィルパリジ夫人とのやりとりは第一篇でもそうだったように、ブルジョワの連中めんどくせー、と思わざるを得ない虚栄心を皮肉に描き出すプルーストを読める。その後がまた面白くて、ヴィルパリジ夫人から甥がこっちに来ることを聞いてから、語り手のテンションがすごく上がる。未知のものへの憧れの強さと失望のダイナミクス、ということは前にも書いたけれど、ここではほとんど滑稽な様相でそれが反復される。

まだ会ってもいない内から「彼に好意を持たれて、大の親友になるだろう、と想像していたし」、彼がいま厄介な恋愛の最中にあると聞かされて、「この種の恋は宿命的に犯罪と自殺で終わるものと信じこんでいたので、まだ彼に会いもしないうちからすでに心のなかで大きく膨れ上がっていたこの友情も、ほんの短時日のものなのだと考えて、あたかも自分の大切な人が重病で余命いくばくもないと知ったときのように、この友情と、それを待ち受けているさまざまな不幸との上に、私は涙を流したのである」ときてはこれはもう笑うしかない。

当然この妄想は現実の出会いのなかで裏切られるのだけれど、その後サン=ルーは語り手の想像とは異なる形で付き合いが深くなっていく。このサン=ルーのついでに、彼を描写したある部分で、なかなか興味深いことが語られる。

ひとたび愛人を持つと、彼らは女に対する崇拝と尊敬のために、その気持ちを彼女自身が尊敬し崇拝するものにまで広げずにはいられない。そしてそのために彼にとっては、価値の基準が逆転することになる。

この逆転した価値観とは、女性が持つ繊細さや心遣いや動物に対する愛情を教え、社交界の利害関係と虚栄心に支配されることを防ぐというかたちで、サン=ルーに肯定的な影響を及ぼしたもののことを指している。女性自身はサン=ルーと関係が悪化しているけれど、サン=ルーのその価値観はなお生きている。端的に言うとここでは女性性の擁護が行われていると思われる。語り手のマザコンぶりなどと考え合わせると、子供っぽさや女性らしさというものをこの小説はずうっと肯定的に描き出しているようにも思える。

そして、ここで開始されるアルベルチーヌとの恋愛は、オデット、ジルベルトと描かれてきた恋愛のある種の反復ではないかと思っていたところ、後半で語り手はそれを先読みするようにこう書いている。

アルベルチーヌはどこか最初の頃のジルベルトのようなところがあったが、それは私たちが次々と愛していく女たちのあいだに、少しずつ変化しながらも一種の類似が存在しているからで、その類似はこちらの変わらない気質に拠るものなのだ。(中略)したがって小説家は、主人公の生涯を通じて次々と起こる恋愛を、ほとんどまったく同じようなものとして描くことができるし、そうやって自分自身の模倣ではなく、創造を行っているという印象を与えることができるだろう。なぜなら、人工的な斬新さよりも反復のなかにこそいっそうの力があり、これが新たな真理を暗示するはずだからだ。P423-424

そしてもう一つ付け加えて、「愛されている女に対してはいっさいの性格を与えることを控えれば、さらにもう一つの真理を表現することになるだろう」とも言っている。なかなか面白い。

しかし、次巻あたりからは難物で知られるらしいので、ちょっと不安が。

ゲルマントの方、ということで、この巻から主人公一家はなんとゲルマント家に間借りすることになる。ゲルマント家といえばこの作の中ではきわめて高貴な一族ということで、それまでは雲上の人だった人たちが隣人となり、話は新たな展開を迎える。

そこで語り手は今度はゲルマント公爵夫人に心を奪われて、ストーカーまがいの真似に走ったり、親戚であるサン=ルーが兵役で駐屯している場所に赴いたりと、なんとかお近づきになろうと涙ぐましい作戦を立てる。

そんななかで次第に重要な意味をもち始めるのがドレフュス事件だ。サロンの人々から使いのものまであらゆる人物たちがこの事件を口にし、世論はまっぷたつになっている。

ドレフュス事件とはユダヤ人将校に対する冤罪事件として知られている。対独スパイの証拠となるメモが発見されたことから始まり、このメモの筆跡からユダヤ人のアルフレッド・ドレフュスが逮捕、有罪とされた。事態に疑念を抱いたドレフュスの兄らが調査をはじめるなか、情報部長のピカール中佐は、メモの筆跡はドレフュスのものではなく、元参謀本部エステラジー少佐のものであることを突き止めた。しかし、この訴えは参謀総長らに握りつぶされ、ピカールには圧力が加えられ、捏造の証拠で有罪にされるなどして左遷された。ところがメモは新聞に掲載され、ドレフュスの兄は真犯人エステラジー少佐を告発するに至る。ここでも軍法会議エステラジーを無罪にするなど嘘と工作を続けていく。

十九世紀ヨーロッパの反ユダヤ主義の象徴とも言える事件で、ただの冤罪事件ではなく、反ユダヤ主義愛国主義、その他さまざまな議論を含んで、非常に紛糾したものとなっていく。エミール・ゾラが当局を糾弾する文章を書いたことが有名だ。ユダヤ人として出てくるブロック(この名は、ユダヤ系の歴史家マルク・ブロックの姓と同じものだろうか)は後半でサロンに現れ、ドレフュス事件を話題にして煙たがられる描写などもある。ドレフュス事件に対してどのような姿勢を現すかがきわめて重要な意味合いを帯びてくる。

この巻ではそんなに話が進むわけではないのにやたらと長い(全巻最長)ので挫折する人も多いらしいけれど、ドレフュス事件にまつわる人間模様はそれまでの関係に新たな光を当てていて非常に面白い。ドレフュス事件そのものも興味深く、簡潔に解説した註も面白い。

ちなみに、事件の真犯人エステラジーは、Esterhazyと書き、ハンガリーの一大貴族エステルハージ家の人間だということをさっきドレフュス事件Wikipediaで調べていて気がついた。本文を読んでいたとき「エステラジー」では気がつかなかった。同じ一族のエステルハージ・ペーテルというハンガリーの小説家がいて、ユーゴスラヴィアの作家ダニロ・キシュの友人であり、その死のニュースに触れたときのことが記されている「ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし」が松籟社から出ている。キシュにもエステルハージ家の人間を題材にした短篇がある。

第六巻。だいたい真ん中くらい。全篇中最長の第三篇の後半になっていて、冒頭で前巻の最後で発作に倒れた語り手の祖母の末期の様子が描かれる。しかし、そのことについてこの巻ではほとんど述べられずやたらとあっさりしているのに皆違和感を抱くだろう。このことは次篇への伏線になっている。

その後、語り手はバルベックで出会ったことのあるステルマリア夫人に入れ込んで(移り気過ぎると呆れるばかりだ)、なんとか会おうと画策していたとき、アルベルチーヌの訪問を受ける。アルベルチーヌは以前出会ったときとは様子が変わっていて、以前拒まれたことが今は受け入れられそうになっている。そこにフランソワーズが入ってきて邪魔をされるあたりは漫画みたいな展開だ。アルベルチーヌが去ったあと、ステルマリア夫人との約束を取り付けるのだけれど当日になって反故にされてしまう。ここのあたり、以前拒まれたアルベルチーヌが受け入れる姿勢をみせながらも、語り手の関心はステルマリア夫人にあり、しかし、ステルマリア夫人から拒まれる、という入れ構造になった構成はおもしろい。

そして後半、ゲルマント家のサロンに招かれ、そこでの人々のやりとりが延々語られるのだけれど、これが結構うんざりするところかも知れない。当代最高ともいわれる社交界での、鼻持ちならないコミュニケーションを皮肉にそして丹念に描いているわけで、これが丹念かつ丁寧なだけに読んでいる方のうんざり感も相当なものになる。しかもそういうやりとりが数百ページにわたってつづくわけで、挫折ポイントといわれるのもわかる。

まあ、ここを乗り越えてしまえば、シャルリュス男爵と語り手の対面場面で語り手がぶち切れる下りとかの面白いやりとりがあるので、頑張ってください、と。

しかし、前巻につづいて名前ネタだけど、ユダヤ人「ブロック」をあえて「ブロッホ」と違う発音で呼ぶ場面があるのだけど、これを読んで、ドイツのヘルマン・ブロッホの「ブロッホ」というのもユダヤ系の名前だったのか、と気がついた。

失われた時を求めて〈7〉第四篇 ソドムとゴモラ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

失われた時を求めて〈7〉第四篇 ソドムとゴモラ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

第七巻、第四篇「ソドムとゴモラ」その一。巻数としては丁度折り返し地点となる本作で、ようやくというかついに、此篇の題が暗示する同性愛の主題が全面的に展開されることになる。冒頭でシャルリュス男爵と元仕立て職人のジュピヤンとの同性愛者同士がお互いを一目で同類だと見てとる鮮やかな邂逅の場面をはじめ、あの傲岸で他人を汚らわしい女になったようだと他人を非難するシャルリュス男爵に「女」を見いだすところなど、興味深い場面が続く。ここで、読者はこれまでの不可解な場面などに同性愛の光を当てることで納得のいく説明を見いだすことができる(もちろん私などは忘れていて註釈等で教えられるわけだ)。

前巻ではドレフュス事件が本作での人間関係を眺め直す新たな視点を提供していたけれど、本作では同性愛が登場人物たちをまたさらに異なった関係の元に置き直す。語り手にそのことを促す大きな事件のひとつは冒頭に語られるシャルリュス男爵とジュピヤンの出会いを目撃したことだけれど、もうひとつの大きな事件は、アルベルチーヌに同性愛の疑いがかかるところだ。疑いどころか、語り手はアルベルチーヌとその友人が胸を触れさせながら踊っているのを目撃してしまう。さらにはブロックの妹とその友人の女優がスキャンダルを起こすなど、さまざまな同性愛の事件が起こっている。

ドレフュス事件ユダヤ人に続いて人間関係が大きく違って見えてくる同性愛の要素が現れたことでいよいよ佳境に入った感があり、これらがどう展開していくのかと気になり出す巻となっている。

そして重要なのは、序盤からの本作の重要なテーマとなっている無意志的な記憶の主題が、祖母の死を介してふたたび現れるところだ。前巻での祖母の死についてはやけにあっさりとした叙述で終わった感があったのだけれど、本書の中盤、二度目のバルベック滞在で語り手ははじめて本当にその死を受け止めることになる。

シャンゼリゼで彼女が発作を起こして以来、はじめて私は無意志的で完全な記憶のなかに、彼女の生き生きとした現実を見出したのだ。こうした現実は、私たちの思考によって再創造されないかぎり、私たちにとって存在しない(さもなければ、壮大な戦闘にまきこまれた人間は、みな偉大な叙事詩人になってしまうだろうから)。こうして、祖母の両腕のなかに飛びこんでいきたいという狂ったような欲望にかられながら、私は今しがた―事実のカレンダーと感情のカレンダーの一致をしばしば妨害するあのアナクロニズムのために、祖母の埋葬から一年以上もたって―はじめて祖母が死んだのを知ったところだった。
339P

この真の哀しみに襲われる場面は、第一篇のマドレーヌの挿話と対比的であるばかりでなく、一度目のバルベック滞在での語り手のマザコンぶりを辿り返しながら語られ、語り手にとっての祖母の存在の大きさが実感される場面であるだけに、きわめて印象的な挿話となっている。

第四篇ソドムとゴモラの続き。巻頭のトマト顔の双子とシャルリュス男爵がヴァイオリニストのモレルと遭遇する、男色でつながる二つのエピソードの喜劇的な描写がすでに面白い。

ソドムとゴモラの後半というわけで、ここではソドム=男の同性愛と、ゴモラ=女の同性愛にまつわる話がより深まっていく。シャルリュス男爵はヴァイオリニストのモレルを囲うようになり、モレルの関心を惹くために滑稽なまでの醜態をさらす。第一巻で、ヴァントゥイユ嬢とその女友達が同性愛にふけっているのを主人公は目撃していて、そのことを知らないアルベルチーヌがそのヴァントゥイユ嬢と親しいことを明かしてしまったため、アンドレとアルベルチーヌが「ゴモラ」の関係にあるのではないか、という前巻からの主人公の疑いは、確信に変わってしまう。

それまでアルベルチーヌと別れたがっていた主人公は、彼女が「ゴモラ」の女だということを確信したあと、急にある決意をし、この篇の最後でそれを母親に告げる。第四篇終わりになって、どうやらついに物語がある方向へと向かいだしそうな雰囲気を告げている。これまでも別に物語が全く進んでいない、というわけではないのだけれど、ここに来て土台固めが終わった、という感じがした。

第三篇に比べると、ずっと読み進むのが早くなった気がする。この巻はずいぶん面白くなってきている。文章にもだいぶ慣れて、特に同性愛のテーマが投入されてからは人物関係がより立体的になり、隠し事のある人間の挙措、というものが微妙に喜劇的な様子を生み出していて、より楽しく読めるようになったからだろうか。

また、この巻では20世紀冒頭の時代状況を反映してか、馬車以外の交通手段が大きく取り上げられている。今巻では鉄道の車内でのやりとりがかなりの分量を占めているし、自動車が登場して時間と空間の意味合いを大きく変えてしまう様子が描かれている。

最後にとても印象的な一文があったので紹介する。語り手はまず、世に認められている価値をほとんどどうでも良いと思っている人間(主人公もそうだ)は、幻影を必要としている、という。しかし、幻影はすぐに消え去ることがある。主人公がこれまで追い求めてきたジルベルトやゲルマント夫人、初めて見たときのアルベルチーヌなどなど、を思い返す下りにつづいて、こう語る。

こうした幻影、追い求めては忘れ去り、また新たに探し求める幻影、それもときにはただひと目会いたいがために、また束の間に消える非現実の生活にふれたいがために、追い求めた幻影、バルベックでたどる数々の道は、そうしたもので満ちていた。その道の木々、梨やリンゴや御柳などは、きっと私よりも長生きするだろう。そう考えると私には、それらの木々から忠告をもらうような気がした、さあ、永遠の休息を告げる鐘がまだ鳴らないうちに、そろそろ仕事にとりかかる時間だよ、と。
355P

ここでの「仕事」は、主人公がずっとやろうと思っていてしかし手を付けていない小説を書くことを指しているのは明らかで、この下りはこの小説が終盤にさしかかりつつあるということを非常に強く感じさせ、淋しさをも感じさせる部分だった。

失われた時を求めて〈9〉第五篇 囚われの女1 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

失われた時を求めて〈9〉第五篇 囚われの女1 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

第五篇はアルベルチーヌと語り手の関わりがクローズアップされる。これと次篇ではタイトルから思うにアルベルチーヌについての話が前面に出てくるだろうと思われる。

主人公は前篇のラストでの決意を受け、アルベルチーヌをパリに連れて帰り、彼女を自宅に住まわせることになる。囚われの女、という表題通り、この巻では語り手の愛と嫉妬の複雑な動きのために、まるで囚われたように自由を奪われたアルベルチーヌが描かれている。もう既に愛してはいないと語ったり、反面強い嫉妬を現したり、そうかといえばやはりアルベルチーヌへの愛を語ったりと、語り手の感情は強く揺れている。

自分でも分かっていたが、私はこれっぱかりもアルベルチーヌを愛していたわけではない。恋愛とはおそらくある強い感動のあとで、なお魂をゆり動かす波紋のひろがりにすぎないのだろう。P41

アルベルチーヌもまた、息を吐くように嘘をついていたりしている。しかし、嘘のなかには語り手に簡単に見透かされるものもあれば、まったくばれずにいるものもあり、女を嫉妬によって所有しようとする愚かな男とそれを手玉に取る狡知を持つ女、というような簡単な図式にはなっていない。息を吐くように嘘をつく、ので語り手が裏付けを持たないようなことがらについては何の問題もなく信じこんでしまい、後でその嘘に気づき愕然とするわけだ。

もうひとつ、シャルリュス男爵とモレルとの関係もそこそこ重要な話題として語られる。ここでも嘘、というこが大きくクローズアップされていて、モレルの以前の行動にかんして大きな嘘が介在していたことが明かされる。そして彼らの関係にも危機が訪れる。

嘘がかかわる二人の関係、ということで、語り手とアルベルチーヌ、シャルリュス男爵とモレルという二組が印象的だ。

失われた時を求めて〈10〉第五篇 囚われの女2 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

失われた時を求めて〈10〉第五篇 囚われの女2 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

今作では前巻の続きとなり、引き続き語り手とアルベルチーヌ、そしてシャルリュス男爵とモレルとの関係の危機が描かれる。危機、というよりは破局にいたる過程がこの巻になっていて、モレルとシャルリュス男爵の破局をもたらす、ヴェルデュラン邸での事件はかなり読ませる。ヴェルデュラン夫人の思惑と、モレルの誤解、そして何も知らないシャルリュス男爵が絶句する流れはこの巻でも特に盛り上がる部分だろう。

同時に、語り手とアルベルチーヌとの間でも、前巻から続く嘘と本当の話のからまりが、ついに巻末でアルベルチーヌの失踪、という結末を迎える。読んでいると、ついに、というよりようやくか、という感慨を抱いてしまうようなグダグダの関係も、やっと新しい展開に入ることになるだろうか。

面白いのは、ヴァントゥイユの残した傑作だという七重奏曲を語り手が聴きながら、ヴァントゥイユのこれまでの作品がこの七重奏曲に至るまでの叩き台だったように、自分のこれまでの恋愛もアルベルチーヌとのそれを準備するものだった、といっているところで、ここでこれまで辿ってきたさまざまな来歴を音楽の感動のなかで再構成しているところだろうか。とはいっても、そのすべての恋愛の極点のアルベルチーヌは逃げ去ってしまうのだけれども。

次巻、「逃げ去る女」を越えると最終巻となる。語り手、シャルリュス男爵の破局という関係の転換を迎えつつ、終わりに近づいてきた。

失われた時を求めて〈11〉第六篇 逃げ去る女 (集英社ヘリテージシリーズ)

失われた時を求めて〈11〉第六篇 逃げ去る女 (集英社ヘリテージシリーズ)

第11巻。第六篇は第五篇とあわせて「ソドムとゴモラIII」を構成していて、アルベルチーヌへの同性愛の疑いが始終語り手の心を離れない。

前巻ラストで、「囚われの女」アルベルチーヌはついに語り手の元を逃げ出してしまう。ここからがまさに急展開なんだけれど、語り手はもう自分はアルベルチーヌを愛していない、と思っていたのに、ここに来てやはり彼女を愛しているのだと感じ、なんとかして彼女を取り戻そうと、さまざまな方策を考えることになる。けれど、試行錯誤のそのさなか、アルベルチーヌが事故に遭い死亡してしまう。まことにあっけない、といおうか、読んでいてその唐突さになかなか驚いてしまう展開だった。

この後、彼女がゴモラの女だったのか否か疑問を確かめるために、さまざまな調査を行うのだけれど、どうにも決定的なものというのが出てこない。真実のアルベルチーヌにはどうしてもたどり着くことができない。

本書の後半は、語り手がいかにアルベルチーヌへの執着を薄れさせ、忘却していくか、という点から語られていく。そのなかでジルベルトの再登場は意外なかたちでやってくる。対象への思い入れの衰え、という点では、ここでジルベルトの再登場はまさに当をえたものだろう。

前半の方を読んでいて気づくのは、語り手が自ら意識しえない自己を語る部分だ。たとえば、アルベルチーヌについての以下の記述。

そうなのだ、さっきフランソワーズがやって来るまで、私はもうアルベルチーヌを愛していないと思いこんでいたし、正確な分析家として、何ひとつなおざりにすることなく、自分の心の底までよく知っているつもりになっていた。ところが私たちの知性は、どんなに明敏であっても、心を形作る要素を残らず認めることはできず、そうした要素はたいていの場合すぐ気化される状態にあり、何かのことでそれがほかのものから切り離されて固定されるようなことが起こるまでは、気づかれずに過ぎてしまう。19P

その悲しみは、全体のいまわしい状況から自由に引き出した悲観的結論などといったものでは毛頭なく、外部からやってきたある印象、私たちが選んだものではない特殊な印象が、断続的に、また無意志的に、ときおりよみがえるものなのだ。41P

なんと人は自分の心のなかにあるものを知らないのだろう! 132P

無意志的記憶、というのは有名な紅茶とマドレーヌのエピソードがそうであるように、今作の重要なモチーフだろう。アルベルチーヌとの別れが、語り手自身の思ってもいなかった感情を実感させ、それが上記のような記述を引き出す。「正確な分析家」として、さまざまなものを精緻に分析し語っていく語り手が、それでもなお、自身の内にある死角をまざまざと思い知らされる、そういう瞬間がある。というか、あまりに執拗に「見る」ことを突きつめたがために、自力で「盲点」を見つけ出した、と言えばいいだろうか。

また、そうした分析家の目が様々なことを述べたてていくうちにはきわめて身近な事柄も多く、たとえば今巻では語り手は自分の投稿した文章が新聞に掲載されたのだけれど、果たして他の読者はこの原稿にきちんと注目してくれるだろうか、と何も知らない人間になりきって紙面を眺めて、原稿が目立つかどうかを確かめようとすることについて細かく述べるのだけれど、このあまりにいじましい様子にはほとんどコメディの趣すらある。

プルーストが見つめ、考えていくことというのはこうした身近な人間の死だとか、生活上の細々したことだとか、多くの人がどこかで遭遇する具体的な事柄から始まることが多い。そこからいかに粘るかが、プルーストの文章の面白くもあり長ったらしいところでもある。

失われた時を求めて〈12〉第七篇 見出された時(1) (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

失われた時を求めて〈12〉第七篇 見出された時(1) (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

ついに最終篇「見出された時」に突入する。前巻の終盤で語り手は、タンソンヴィルにあるジルベルト、サン=ルー夫妻のいる邸宅に滞在することになり、そこから話が始まる。ここは第一巻でもスワン家の方として出てきた場所でもあり、最終篇で冒頭に接続するかたちになっている。いかにも終わりつつある印象を与える。そればかりか序盤の紅茶に浸したマドレーヌの件の再演のような、不揃いな敷石を踏んだ感覚で語り手の無意志的記憶があふれ出す経験が語られる。

そうして語り手は作品にとりかかりはじめ、これまでの経験と文学との関係を執拗に考察していくことになる。これまでの語り手が経てきた経験を総覧しながら文学論が熱を込めて語られることになる。ここらへんはかなり読ませる。

真の生、ついに見出され明らかにされた生、したがって十全に生きられた唯一の生、これこそが文学である。この生はある意味で、芸術家と同じくすべての人のなかに各瞬間ごとに宿っている。しかし人びとはこれを明らかにしようとはしないので、目に入らないのだ。こうして人びとの過去には無数の陰画があふれているが、知性が「現像」しないので、陰画は役に立たないまま残される。それは私たちの生だ。そしてまた他人の生でもある。なぜなら作家にとっての文体は画家にとっての色彩と同じで、技術ではなく視覚(ヴィジョン)の問題だからだ。文体は、この世界が私たちの前にあらわれる仕方の質的な違いを明らかにするもので、直接の意識的な方法ではそれは不可能であり、もしも芸術がなかったとしたら、その違いは各人にとって永遠の秘密になるところだろう。芸術によってのみ、私たちは自分自身からぬけ出して、ひとりの他人がこの宇宙をどんなふうに見ているかを知ることができる。423P

経験と芸術の関係が大きなテーマとしてあって、経験はこれまで語り手が長々と語り来たったことそのものでもあり、芸術もまた語り手の最大の関心のひとつである以上に、この文章そのものが語り手の言う芸術でもあるわけで、この長大な文学論としての文学の核心部分がこのあたりになるだろうか。

同時にこの篇の目立った特徴に、第一次世界大戦についてかなり大きく取り上げられていることが挙げられる。取り上げられるというか、作中では戦争まっただ中であり、サン=ルーはその戦争で戦死するのだし、語り手もパリ空襲を目にすることになる。

そのなかでも社会全体がドイツへの敵愾心を燃やし、戦争になだれ込んでいく状況についてシャルリュス男爵が痛烈な批判を繰り出しているところは印象的。

彼はたいそう鋭敏な人間だったが、どこの国でも一番数が多いのは愚か者である。もし彼がドイツに住んでいたら、愚かにも情熱を込めて不正な立場を擁護するドイツの愚か者たちにすっかりいらいらしたことは、疑いの余地がない。けれどもフランスに住んでいたので、愚かにも情熱を込めて正しい立場を擁護するフランスの愚か者たちが、やはり彼をいらだたせた。
(中略)
シャルリュス氏は彼のようにドイツとその力を知らない連中の勝ち誇った楽観主義に我慢がならなかった。その人たちはくる月もくる月も、翌月こそはドイツがぺしゃんこになるだろうと信じており、一年たっても、これまで何度も自信たっぷりで同じように間違った予想を立てたことなどすっかり忘れて、まるでそんなことはなかったかのように確信を持って新しい予想を立てる。そして人からそのことを注意されると、あれとこれとは違うよ、と言う。176-177P

シャルリュス男爵はこの篇ぐらいになるとかなり落ちぶれた存在になりつつあって、そういう狂人に近いポジションだからこそ、この戦争批判が可能になるのだとも言える。ドレフュス事件第一次大戦は、特に社会的政治的な案件として出てきていて、これは全巻のなかでも重要な位置にあると思うけれど、同時に、この件が人びとの姿勢や関係を違ったかたちで浮き彫りにする機能を持っているところも面白い。

また、この戦時中、語り手が偶然ジュピヤンのいるホテルにたどり着くのだけれど、そこではシャルリュス男爵が若い男性に鞭打たれている様を目撃し、ここがさまざまな倒錯者たちのための場所となっていることがわかる。ここは空襲の危機のなかでも妖しい輝きを放っていて、まさにソドムとゴモラという感がある。ここだけ何か違う小説のようにも感じる興味深い場面。

戦争の状況描写と、語り手の文学論が印象的な今巻もおわり、次でいよいよ最終巻となる。

失われた時を求めて〈13〉第七篇 見出された時(2) (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

失われた時を求めて〈13〉第七篇 見出された時(2) (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

最終巻となる今巻では最終篇の続きを収録しているけれども、巻末に詳細な索引等が含まれているため、本文は300頁に満たない程度だ。前巻では文学と経験、第一次大戦などが語られていたのだけれど、特に部を分けているわけでもないのに、今巻の内容はがらりと変わっている。

この巻では、ゲルマント大公夫人邸で行われる午後の集まりに語り手が参加する場面から始まるのだけれど、ところどころの記述からどうも語り手にとっては二十年ぶりの参加らしく、「時」の経過がいかに多くの人に大きな変化が現れたのか、そしてどういう風に関係がかわったのかということを丹念に辿っていく。

そのなかで<時>についてのさまざまな考察も続けられていくけれど、重要なのはジルベルトとサン=ルーの娘と対面する場面だろうか。この作品を象徴するものとして、スワン家の方とゲルマントの方があるということは第一篇と第三篇の標題からも知ることができるけれども、ジルベルトというスワンの娘、サン=ルーというゲルマント家の男の子供であるサン=ルー嬢は、語り手の人生における「道」が一箇所に集まる合流点のようなものかも知れない、と語り手は述べている。そこで語り手とサン=ルー嬢との対面が果たされ、そこにサン=ルーやジルベルト、オデットの面影を見出す。

まだ希望に満ちあふれており、いかにも明るい笑みを浮かべ、私の失ってしまった歳月そのもので形作られた彼女は、私の青春に似ていた。
 結局のところ、この<時>の観念は、私にとってぎりぎりの価値を持っていた。それは人を奮い立たせるもので、私にこう語っていた、もしも私が自分の人生の過程で、たとえばゲルマントの方やヴィルパリジ夫人と馬車で散歩していた折りなどにときどきちらりとでも感じたもの、人生を生きるに価するかのように思わせたもの、そのようなものに到達したいと望むのなら、今こそ始めるべきときだ、と。人が暗黒のなかで送っている人生も光で照らしだすことができ、人が絶えずゆがめている人生もその真の姿に引き戻すことができる。つまりは一冊の書物のなかにそれを実現することができる。そんなふうに見えるようになった今、どんなにかこの人生は私にとって、いっそう生きるに価するように思われはじめたことだろう! そのような書物を書ける人は、どんなに幸せだろうか! と私は考えた。またその人の前には、どんなにつらい仕事が横たわっていることだろう!
247P

と、こう述べたすぐ後では、読者は私の読者ではなく、自分のことを読む読者だ、私は彼らに自分自身を読むための拡大鏡を提供するに過ぎない、という有名な文学の「光学器械」説を語っている。

人と時について、もうひとつ引用したい箇所はあるのだけれど、それはもうこの作品の終わりの部分で、自分で辿り着いて読んで欲しいところなのでここには引かない。

と、まあこれで最終巻も読み終わり、プルースト失われた時を求めて」を一応は通読、となったけれど、まあこれ全然読めた気にはならない本だね。終盤で喚起される序盤の場面とかはずいぶん忘れているし、まあそもそも私に読みこなせる本ではないのだけれど、いろいろ面白かったとはいえる。ただ、これ人に勧める類の本ではないなと思った。面白いとか以前に、これだけの長さと密度の本なので、積極的な興味と意志がないと続かないし、なによりも叙述の性質からして、密やかな偏愛を誘う類の小説だと思った。

というわけで、とりあえずこれで一年かけたプルーストラソンはひとまず終了。
読もう読もうと買ってはあるが未だに積んでる世界十大小説 - Close to the Wall
もう三年前になるけれど、ここでリストアップしたものの筆頭をクリアできた。このリストだと、プルーストゴーゴリ、あとフローベールの「ボヴァリー夫人」は記事にはしてないけど河出文庫版が出た時にそれを読んだので、三作クリアになった。月一冊ペースで大作を読んでいくのは続けてやりたいけれど、作品を何にしようかが考えどころ。リストの作品から選ぶのも良いけれど、時々「失われた時を求めて」と比較されることもある「源氏物語」なんかは長さ的にちょうど良い感じもするけれど。


あとはいくつか関連本も読んでおこうかなと思ってはいる。光文社の「消え去ったアルベルチーヌ」とか、海野弘の「プルーストの部屋」はとりあえず手元にあるのでそのうち読んでみるつもり。

細部の照応などをつかむには一気に読んでみる必要もあるという話(単行本の月報)もあり、復習として文庫になっている三巻本の抄訳を読もうかとも思ったけれど、当分は先の話。全訳はいま高遠版も吉川版も一巻が出てるところだけれど、さすがにもう一度で全巻読む気にはならんので、せっかくだから鈴木訳ではない抄訳版が出ないかなと思うんだけれども。

訳文の読みやすさは最近出ている新訳のほうが良いような雰囲気だけれど、それとは別に鈴木訳については、全巻通じての編集方針に異議がある。なんというか、解説訳注が懇切丁寧なのは良いのだけれど、親切すぎて巻頭でその巻の先の展開を書いたり、注釈でこのあと誰がどうなるか、とかまで書かれていることがあり非常に興ざめする。あまつさえ、巻末に様々な書き手によるエッセイがあるのだけれど、載っている巻について書いているのではなく、先の展開について書いているものもあるのに気づいてからは、ほとんどとばし読みしかしていない。最終巻まで読み終えて、ようやく全巻のエッセイを落ち着いて読むことができた。

まあ筋の面白さで引っ張る小説ではないとはいえ、まっさらな状態から読もうとしているのに、いちいち先の展開をお知らせされるのは不愉快すぎる。その点では高遠訳の第一巻の訳者前書きの姿勢は非常に好感が持てるものだった。全巻揃っている状態で読み始めるとしたら、光文社版を選んでいただろうと思う。しかし、光文社版は刊行ペースがまるで見えないな。岩波版はまだチェックしていない。こちらは半年ごと一冊の七年計画らしいけれど。

失われた時を求めて (まんがで読破)

失われた時を求めて (まんがで読破)

ついでにせっかく読み終わったので、最近多数の古典漫画化を試みているシリーズのひとつとして出されたこの漫画版を読んでみた。Amazonのレビューだとおおむね好評だけれど、挫折組が多く、どうもレビュアーのなかに原作を読み通した人が一人もいないようだ。

文庫本全十数巻の大作が厚めの漫画一冊で、というなかなかに無謀な試みだけれど、これはこれで悪くはない。内容はダイジェストもいいところで、話の展開や繋ぎ方を最低限に切りつめ、出来事や思考を単純化して、随所に「漫画的」演出に変えられているところもあるけれど、それなりに上手くコンパクトに漫画化できているんじゃないか。やたら分かりやすくなっていて、そういう言い換えはありなのかな、と思うところはあるけれど、ラストはけっこう感動的だった。未読の人でも満足感が味わえる程度にはドラマがある。

ただ、絵がなんか微妙、というか顔の書き方に違和感があって、特にスワンの目は両目とも外側向いているように見えておかしい。また、登場人物のキャラクターがずいぶん違うところもある。もっと峻厳、傲然なはずのシャルリュス男爵がやけにこやかに描かれているのは違和感があるし、原作の大半を支えるヒロインたるアルベルチーヌが人物としてペラ過ぎるのがどうにも。漫画のアルベルチーヌは嘘をつきそうにない。語り手が弱気で人にからかわれて赤面しがちの風なのは、叙述が一人称でなくなるとこうなるのか、と思わせるところはあるけれど。

もちろん、文体は漫画化できないので、これは小説のプロットのみを漫画にしたものに過ぎない。そしてそこで削ぎ落とされたものは、小説にとって本質的に重要なものだというのは作品内でも書かれているけれど、そこを理解した上で読むなら、別に良いんじゃないかなとは思う。

しかし、これを読んでも、あれ、そんな展開あったっけと思うほど忘れている部分が多いのは我ながら酷いと思った。