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原民喜『夏の花』

広島原爆投下直前までのある一家とその周辺を綴る「壊滅への序曲」、原爆投下直後の広島での悲惨な状況を短いなかに淡々と書き留めていく表題作、そして生き延びても後遺症などで死んでいく人を目の当たりにする「廃墟から」の三部作を収める。

表題作では最愛の妻を亡くして千葉から広島に戻ってきていた語り手は、妻の墓に花を手向けた翌々日に被爆する。厠にいたために爆発の瞬間を見ず、熱線での火傷などもない語り手は、家族や工場の従業員などと合流したりしながら、屍や水を求めうめく人々のあいだを避難していく。

水に添う狭い石の通路を進んで行くに随って、私はここではじめて、言語に絶する人々の群を見たのである。既に傾いた陽ざしは、あたりの光景を青ざめさせていたが、岸の上にも岸の下にも、そのような人々がいて、水に影を落していた。どのような人々であるか……。男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかないほど、顔がくちゃくちゃに腫れ上って、随って眼は糸のように細まり、唇は思いきり爛れ、それに、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼らは横たわっているのであった。84P
 
ギラギラと炎天の下に横たわっている銀色の虚無のひろがりの中に、路があり、川があり、橋があった。そして、赤むけの膨れ上った屍体がところどころに配置されていた。これは精密巧緻な方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換えられているのであった。94-95P

頭髪が刈り上げられた人を見て、後でそれが帽子によって熱線で焼けたところとその境目になっていることに気づく細部はぞっとさせられる。

表題作で気になったのは以下の箇所だ。

私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だという気持がした。長い間脅かされていたものが、遂に来たるべきものが、来たのだった。さばさばした気持で、私は自分が生きながらえていることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、今、ふと己が生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた。
 このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知ってはいなかったのである。79-80P

裏表紙のあらすじにもある「このことを書きのこさねばならない」というのは、原爆の被害というより、語り手が恐れていた二つに一つの生死という脅えがある破局を迎えて生き延びたことへの安堵してしまったこと、についてだと思った。そういう文章だろうと。その後からそういう安堵という問題を吹き飛ばしてしまう異様な惨状にぶつかるわけだけれども。次第にそうした小説的文章は影を潜め、ある種記録的な文章になっていき、それがこの作品の淡々とした地獄という感触を与える。事実著者のリアルタイムの記録、ノートを元にしているという。

地獄のような状況を脱し、ある村で落ち着く頃には青田の上を飛ぶトンボが目に入り、ある女中は火傷にウジが湧いて一月ほどして死に、甥は頭髪が抜け鼻血を出して死ぬ間近かと思われながらも、次第に持ちこたえていくという自然と生命力の描写で締められるのが印象的だ。

最後に挿入されたNという人物が妻を探して広島中の女性の屍を実検していく部分は、「廃墟から」の最後の一文「実際、広島では誰かが絶えず、今でも人を捜し出そうとしているのでした。」という箇所とも同様の締め方で、いかにここで人々が消えてしまったかが示唆される。

「瀬戸内海のある島では当日、建物疎開勤労奉仕に村の男子が全部動員されていたので、一村挙って寡婦となり、その後女房たちは村長のところへ捻じ込んでいったという話もありました」130P、壮絶な話だけど何を捻じ込みにいったんだろう。

冒頭にある「壊滅への序曲」は原爆直前の戦時下の一家の様子を描いており、被爆以後のものに比べて人間の描写などぐっと小説的な彩りがあって、書かれたのは三部作で最後だといい、いくらか時間が経ってから、その時失われたものがなんだったのか、をたどり返すような一篇。

集英社文庫版は冒頭に地図があって、市内をどのように動いたかがある程度把握できるようになっているのが良い。研究者による詳細な解説、リービ英雄による鑑賞、年譜もあり充実しているけれど、語注はつける基準がよくわからなくてやたら簡単な語句についたり初出でつかなかったりしてる。

文學界」2023年5月号の特集「12人の“幻想”短篇競作」

山尾悠子や川野芽生といった近刊書からの抄出や近年の新鋭も多く参加した書き下ろし幻想短篇特集。日常から幻想へ繋がるものや文章で世界を作り出す力のあるものまで多彩で、特に山尾、諏訪、石沢、川野、高原、大濱が良かった。

山尾悠子メランコリア」は『海泡石たち――親水性について』という著書からの抄出という短篇で、海辺の街を舞台に昭和と思われる風景が独特の感触で描かれており、それだけでも良いんだけど、享保雛と陸に上がった船がぶつかるカタストロフがまたなかなか。「何度か生まれ変わって、いまここに来ているのかと思うことがある。よく造り込まれた箱庭のようにひどく特殊で、いかにも狭すぎるこの世界に」(76P)。闇を底に抱えた一つの街区を擁する、鬱あるいは虚無という名の黒く巨大な船に乗る旅が始まるらしいのが非常に期待を持たせる。

諏訪哲史「昏色の都」、本特集で一番「幻想文学」の力を感じる一篇で、硬質で堅牢な文章で組み立てられた世界は文章で読者を異世界に拉し去る力がある。一番長いのもこの作品だし、強度のある一篇だ。表題や巻頭引用など『死都ブリュージュ』オマージュらしく、日本とブリュージュを舞台にしている。盲目の主人公が目が見えるようになってからまた見えなくなりはじめているという状況を背景に幼少期からの来歴を語っていて、子供同士の性的な接触のエロティシズムやスカトロジーには仏文ぽさを感じる。東京とブリュージュ、日本語とフラマン語、視覚と触覚、そして虚構と現実。「記憶が時間のなかの形象を発酵させ、時がたつほど、現実は夢と等価になりゆく。夢は凝固して現実に、記憶は凝固して事物になる」(97P)。生まれた年が1969年ということでホテル・カリフォルニアが引用されたりする。視覚を獲得して文字が事物を表わすことや騙し絵と実物がどうして違うのか、という違和感の描写を経て、ブリュージュをひらがなの形に歩くという行動によって、都市を文字に虚構に取り込むかのような、言語と現実・虚構についての一篇。

沼田真佑「茶会」、謎の儀式めいた会社の茶会に行く途中に出会った不思議な道連れを経て、ラストシーンでは身体と精神の入れ替わりになっているようなちょっとSF小説っぽい感触もする。

石沢麻依「マルギット・Kの鏡像」、七人の同名の妹たちの一人の訃報が画家の兄のもとに届いたことで帰郷に同行した語り手が出会う奇妙な出来事。雰囲気があり同名の妹たちや鏡像という個人を揺るがすギミックも面白い。タイトルに勝手にカフカを感じたけどカフカの妹はマルギットではなかった。

谷崎由依「天の岩戸ごっこ」、子供に日本の神話を読み聞かせる身辺エッセイのように始まりながら天岩戸ごっこというのが出生や胎内回帰のようなイメージに繋がっていき、語りもひらがなまじりで絵本的な擬音も効果的なものになっていく終盤の幻想性へと雪崩れ込んでいく。

高原英理「ラサンドーハ手稿」、タイトルは『サラゴサ手稿』を踏まえたのか東欧圏を舞台にした翻訳された手稿という形式で始まり、飛行船での自殺計画や謎の塔などを題材に、「自分でありたくない、自分を逃れたい」病という著者通有の脱主体的な幻想のギミックが描かれる一篇。自殺、亡命、あるところから逃れようとする人々。記憶も含め身体はそのままで、確かに自分ではない自分に入れ替わったという体験が描かれており、SF的な自己の転移とはまた違う感触に幻想小説らしさがある。このテーマと翻訳を経る手稿という形式も必然的な繋がりとして選ばれたものだろうか。

川野芽生「奇病庭園(抄)」、長篇小説の冒頭部分の抄出。角が生えたり翼が生えたりする奇病の流行のなかで、血で写字する青年と角の生えた頭部の奇妙な二人連れや数奇な運命の人々が描かれる。女性を青年と呼んだり「娼夫」と表記したり通念に逆らいながらの記述も面白いのでいずれ本篇も読みたい。

マーサ・ナカムラ「串」、串に突き刺されたクシダヒメという人柱の人形が生まれる秘所の守り人を描くファンタジー。稲田、クシダなど日本神話モチーフで、「天の岩戸ごっこ」と繋げて読むのも良いかも。

坂崎かおる「母の散歩」、娘が死んだ母の遺品整理などをしているうちに、母は架空の犬の散歩という不可思議な行動をしていたことを知ってという短篇。架空の、虚構の、幻想の意味を語っている。「想像の犬だよ。誰も、なにも、傷ついていない。傷つけていない」、果たしてそうか?という。

大木芙沙子「うなぎ」、うなぎが腹から出てくる現象に見舞われた男の少年時代の回想が語られていて、近所のおじさんとふとしたはずみで仲良くなって楽しい時間をすごすんだけれども、新しい父、母と一緒にすれ違うときつい無視してしまう体験のばつの悪い心残りが印象的なノスタルジック少年小説。

大濱普美子「開花」、ある老女が団地で引っ越しをして新しい住居に来た時近所の格子に掛かった子供の赤い傘が気になる。女性は若い頃奔放な親に無理やり預けられた姪の世話をしていたことを思い出し、どうも老女にとって子供がいないことが強い執着としてあるようで、赤い傘が不気味にだんだんと近づいてくるような幻想的な描写はその老女のこだわりの反映のよう。間接的な描写で女性のオブセッションを強調してくる描き方がやはり印象的。

吉村萬壱「ニトロシンドローム」、爆破能力を得た人間たちという『新世界より』とかの超能力SFの始まりっぽいアイデアなんだけれど、なんとも生々しい欲望のありさまや鼻毛の出ていた高校生といった嫌な細部、猥雑で暴力的な雰囲気が充満してヒリヒリとしている。

『水都眩光』として書籍化されたけれども、山尾、諏訪、川野は未収録。川野作は既に刊行されているし元々序章部分の採録だからいいとしても、本特集で一番の読みどころだと思った諏訪作が未収録なのは非常にもったいない。山尾作も本が出るのはいつかわからないし雑誌で読む方が良さそう。

伊野隆之『ザイオン・イン・ジ・オクトモーフ』

SFRPGエクリプスフェイズのシェアードワールド小説。地球から救出されたなかに埋もれていた伝説的資産家の「エゴ」を見つけ出した人物が、資産を横取りしようとタコ型義体、オクトモーフに蘇らせるも取り逃がしたことで始まるコミカルな逃走行。

意識を小さい装置に格納し、様々な義体を乗り換えることができるポストヒューマンSFで、資産家ザイオン・バフェットが地球の災禍に巻きこまれて後その「魂ego」を見つけたマデラという金星の鉱区開発会社の人間がタコ型義体に蘇らせて拷問にかけようとしたところを逃げられる。

タコ義体ザイオンの他にも知性化(アップリフト)された動物も存在しており、ザイオンもしばしば人間ではなく知性化タコという身分として見られたりもする。ケースという表情のない金属の義体を使うものや、女性の姿をした戦闘用義体フューリーなど、個性の表われのようにさまざまな義体が登場する。

人間は人間でAIの秘書を使用し、精神に作用をする安定剤をインストールして仕事をしている。物語は上司の来訪に怯えるタージというアップリフトのタコの視点から始まるけれども、ヒントがあるようにこれはザイオンの偽装人格で、金星の地表からいかに脱出するかの騙し合いが始まる。

囚われの立場からの脱出行が軽快かつ痛快なエンターテイメントなんだけれども、楽しさの要因はほぼ常にコンビで話が進んでいくところにある。ザイオンはカザロフという元々マデラの元にいた用心棒と成り行きで同行することになって、このタコと無表情な金属義体のコンビが楽しいし、マデラもインドラルという騒がしい子分気質の知性化カラスと凸凹コンビという感じで、個性的なインドラルが後々まで出番があるのは良い。今作はこのコンビ感が重要だよなと思っていたら最後の方の展開でもなるほどと思わされるところがあって、最初から考えてたみたいな着地をした感がある。

作者いわくプロットは作らないとのことで、書いていくことで作品から掘り出された展開が最初からそうなるように見えるものでもあるんだなと思った。八本腕があって多少ちぎれても再生するタコ型義体の便利さが様々に描かれているのも楽しい。

SF Prologue Waveに掲載されたザイオンシリーズの連作のほか、別主人公の短篇が二つ入っている。それぞれ本篇と交差する場面を別の人物から語り直した別伝になっていて、鉱区の労働争議の激化と虐殺を防ぐ動きが描かれている。経産省出身という作者の体験が幾ばくか反映されているのかと思った。

日本と英語圏の作家のEPシェアードワールド短篇集の『再着装の記憶』には、ザイオンとコンビだったカザロフがマデラに命じられてタコ型義体を追跡していた頃のことが描かれている。その相方は本書の短篇の主人公ゲシュナだったりしているので、併読するとより面白い。

本書はアトリエサード様より恵贈いただきました。ありがとうございます。

小野寺拓也、田野大輔『検証ナチスは「良いこと」もしたのか?』

本やネットで流布されるナチスがしたとされる「良いこと」を列挙しそれがナチスの政策においてどのような意味やどういう効果を上げたのかを検証して、それらがナチスの戦争経済、民族共同体の差別主義と表裏一体のものだと示す小著。

短いながらも非常に良い啓蒙書になっていて、俗説に対する歴史学的検証の過程を通じて、個別の政策と全体の目的との連関を解説しつつ、俗説が歴史的事象の「事実」「解釈」「意見」という三段階のうち「解釈」をすっ飛ばして説かれることの指摘など、学問的プロセスの案内にもなっている。

ナチスが六百万人の失業者を完全雇用にしたのはすごいなと思ったら、それが戦争準備のための持続性のなさそうな経済体制だったというのは驚きで、他の政策もアーリア人の「民族共同体」形成のために排他的、差別的弾圧を伴っていたことや、ユダヤ人や他国からの略奪を前提にしていたりと、思った以上に暴力的性格があったり、あるいは鳴り物入りで宣伝されたフォルクスワーゲンが積立金を支払っても買えなかったなどの豊かな生活、希望の宣伝には熱心でもほとんどが空手形に終わった実態を検証して、「良いこと」とされる政策を軒並み論駁していくさまは圧巻。

読んでいくとナチス体制がいかに戦争という破綻に突き進んでいく暴走車のような代物だったかが感じられるし、多くの社会福祉が眼前につり下げられたニンジンのごときものだったか、そしてその過程での厄介者と見なされた存在への弾圧がいかに激しかったかが示唆される。

以下、興味深い箇所を引用しておく。

「共同体の敵」とされた人びとはそうした恩恵を受けられなかっただけでなく、政治的敵対者は強制収容所に送られ、ユダヤ人は暴力を振るわれたり財産を安値で買いたたかれたりし、障害者は断種手術を強制されるなどしたのである。15P
 
アウトバーン建設はじめとする雇用創出政策はさほど効果的なものだったとは言えない。景気回復をもたらした決定的要因はむしろ軍需経済にほかならなかったのである。48P。
 
このようにドイツは戦争準備が不十分なまま、無謀な戦争へと突き進んでいくのだが、戦争はあらゆる問題を解決する万能な処方箋だった。戦争に勝利して他国を征服すれば、十分な資源が得られるばかりでなく、膨大な負債も帳消しにできるというのがヒトラーら政府首脳部の考えだった。50P
 
ナチ・ドイツは占領国からの輸入についてこれを「ツケ」として口座に記入し、実際には支払いを行わないことで、事実上タダで商品を入手していた。一九四四年六月末の時点でドイツは約二九○億RM(約一七兆一〇〇〇億円)を「ツケ」として諸外国に押し付けていた。52P
 
こうして一九四四年九月の段階で、戦争捕虜を含めて約七六〇万人ないし八九〇万人の外国人労働者、さらに強制収容所の囚人約五〇万人がドイツ国内で働き、ドイツの労働人口のおよそ四分の一ないし五分の一に相当する数に達した。56P
 
ナチ政権下の労働者は様々な権利を奪われ、官製の労働組織に組み入れられたが、そうした監獄のような体制のなかでも彼らが文句を言わずに働くようにするため、一種のご褒美として導入されたのが一連の福利厚生措置だった。67P
 
フォルクスワーゲンに至っては、数十万もの人びとが積立金を支払い、巨大な生産工場が建設されたにもかかわらず、予約購入者に一台たりとも納車されないまま、開戦後に生産ラインが軍用車生産に切り替えられた。結果的にそれは巨額の積立金を軍事目的に流用するだけに終わったわけで、そこには国民からかき集めた資金を元手に無謀な戦争に突き進む「ならず者国家」としてのナチ体制の本質があらわれている。69P
 
ナチスの動物保護には、たしかに「先進的」と評価できる部分もあるかもしれない。しかしその背後には、人間だからといって何も特別扱いする必要はない、「排除」すると決めた人間を動物以下の扱いにして何が悪いのかという、開き直りにも似た姿勢があったことも忘れてはならないだろう。92P
 
アウシュヴィッツやマイダネクではパウダー状になった人骨が畑に散布されていた可能性が高いし、ブーヘンヴァルトでは人間の血が馬の糞尿と混ぜられた上で肥料とされた。「人間中心主義」の否定が行き着いた極北、それが強制収容所における有機農法であったとも言える。94P

ナチスの略奪経済に関する部分も相当だけれど、この自然保護と人間の資源化が表裏一体のものとして描写されるところは本書でも特に衝撃的な箇所だ。また、ナチスのさまざまな空手形、夢を振りまいて人を動かすところに戦後の大量消費社会の淵源を見るところも示唆的。

将来の消費を現在の宣伝で先取りするというこの「バーチャルな消費」こそ、戦後の大量生産・大量消費社会を支えるメンタリティを形成したものと言えよう。70P

禁煙、癌対策などさまざまな健康増進の政策は、アルコール中毒患者、精神病患者などの断種などと密接な繋がりを持つ「民族体」を保つための全体主義優生学的政策の一環でもあったわけだけれど、現在行なわれる類似の健康増進・少子化政策などもまた必ずしもそこから逃れられてはいない気もする。破綻必至の戦争・略奪経済のプログラムに含まれることでその凶悪な姿を露呈している印象だけれども、健康増進、少子化対策などの政策目的には個々人の権利だけではなく、国家の維持やコストの眼目もあるわけで、ナチスの研究にはそうした彼我の懸隔を測る意味合いもあるか。

ソマイア・ラミシュ編『NO JAIL CAN CONFINE YOUR POEM 詩の檻はない アフガニスタンにおける検閲と芸術の弾圧に対する詩的抗議』

表題通りのアフガニスタンの検閲に対して編者が呼びかけたアピールに応答して集められた日本の詩と世界の詩の一部を訳載した抵抗詩集。表紙にはラミシュの名前だけがあるのでこう表記したけれど、日本版は柴田望さんの編集。既刊詩集からの採録とはいえ文月悠光が参加しているのが目を引くけれど、八歳の子供からラッパー、新進の詩人らが日本各地から同列にこの「詩的抗議」に加わり、さまざまな形で詩を書き、弾圧がもたらす夜へと抵抗を示している。

高細玄一の詩の一節がこうして詩のあり方を語っているの印象的だった。

そのことをどうやって記録に留めよう
写真だけではない人の生きかたを
詩を書かずに どうやって留めよう 54P

さまざまな抵抗の詩があるけれども、岡和田晃の詩は闘争的な姿勢を持ちつつ諷刺的な笑い・ユーモアの要素があるのが他にないところ。

天狗も河童も新型コロナ・ウィルスに感染し、
ゲイシャやサムライにもPCR検査が必須だ。31P

セシル・ウムアニの本書表題の元になったらしい詩も印象的だけど、クリストファー・メリルのこの一節も。

正義の都市国家の守護者たちは
詩の一節を反乱に等しい
と見なす――厳密に言えば、
確かに、詩は政府を倒すことができる。112P

岡和田晃さまより詩誌「フラジャイル」18号を恵贈いただきました。

向井豊昭の詩「火花」や岡和田さんによるその解説のほか、本誌主宰柴田望さんの関わった『詩の檻はない』とも関連したソマイア・ラミシュさんの寄稿や、アフガニスタンの楽団を書いた詩なども掲載されています。アフガニスタンの楽団についての詩の高細玄一さん、ラミシュさんの詩の翻訳もしている木暮純さんの詩は『詩の檻はない』とも関連した作品で、『詩の檻はない』スピンオフの側面も多少あります。

『ナイトランド・クォータリー vol.20』

「バベルの図書館」をテーマに高山宏インタビューから始まり、創作ではジヴコヴィッチの佳品、ジーン・ウルフの難題、樺山三英ボルヘスパロディなどが印象的。創作は全体的に本そのものが人でもあるという発想が諸作に通じている。高山宏インタビュー、色々面白いけど澁澤龍彦は元ネタ探しの名人だけど種村季弘はそれに終わらないし自分は種村を買う、と言っててでもさらに誰にも評価されない由良君美を第一に推す、と言ってる。

安田均のアンソロジーコラムで紹介されている、ボルヘスとビオイ=カサーレス共編の幻想小説アンソロジー推理小説アンソロジーは面白そうだし確かに邦訳を期待したいけど、幻想小説アンソロジーは75編と量が多くて既訳の「バベルの図書館」とも重複がありそうってのがあるか。

ジヴコヴィッチ「夜の図書館」は存在しないはずの夜の図書館に紛れ込んで、そこには自分の人生を記した本――まだ本になってないバインダーに挾まれたもの、を借りることができるという幻想譚。図書館をめぐる幻想的連作の一作らしく、是非まとめて訳されて欲しいところだなと思ってたらリトルプレスで既に訳されておりしかも既に入手困難になっていた。しかしこれは同じくセルビアの作家ダニロ・キシュ「死者の百科事典」のオマージュではないかと思った。キシュ作は、自身の父を含めたホロコーストで大量虐殺された、数としての人間にも一人一人が尊い生を持つことを描こうとしたものだと思っていて、ただこっちは特にそういう感じはないけれども。

橋本純「おかえりなさい」、男性が森で出会ったある少女は迷子で自分が誰かも分からずという導入で、しかしジヴコヴィッチ同様、本とは人そのものでもある、というテーマがくっきりと描かれた寓話的ファンタジーなのは良い。作中の描写も少女の素性に絡んだものだったかは原典を未読なので不明。

ジーン・ウルフ「シュザンヌ・ドラジュ」は本誌一番の話題・問題作。さっと読むと街や学校で間近にいながら特に知り合いになることもなかったある娘そっくりの子供と一瞬遭遇し、表題の女性の名前が不意に浮かび上がるというちょっとした体験を語っているだけのように見える。仕掛けとは何か。「住んでいる」という表現からスペイン風邪で亡くなっているわけでもなさそうで、娘というのは本人だという吸血鬼説も見かけたけれど、誰かはわからなくても写真に映っているということはキャプションからも誰かには確認されていると思われるし、どうにも核心が掴めない。最後に出会う生まれてこの方ずっと知り合いの女性は双子だという指摘を見て、なるほどとも思ったけれどだからといって何かがわかりもしない。二回結婚した相手のどちらか、ということでもないのか。クイズが難問過ぎてよくわかんないなという。そういや『書架の探偵』積んでるな。

樺山三英「post script」、ボルヘスの「バベルの図書館」を踏まえ「図書館すなわち宇宙」で起こる詩人の亡骸をめぐる事件を起点に、頁が通貨になったり思想の抗争など、ワイドスクリーンバロックとコメントにあるように人類史を短篇に圧縮したような一作。人類史というかむしろもっと卑近な現代史というか思想界隈の話のようでもあり、日本の失われた30年云々といったダイレクトに現在の話をしてるんじゃないかという感触もある。無限についての思索、再解釈という感じもあって、不死鳥のような死と再生の運動が描かれる。

クトゥルー図書ものといえるモネット「バーナバス・ウィルコックスの遺産相続」とローリック「ギブソン・フリンの蒐集癖」だけど、古典的な雰囲気のあるモネットに対して、派手というかパルプ的でコント的なローリックという感じだ。ローリックの注文の多い感じは楽しくもある。

ジェイムズ・ブランチ・キャベルの『マニュエル伝』の第一巻から芸術論が抄訳されていて、大意はともかく、「どこの国のどんな作家でも、シンデレラの話を(あまり極端にではなく)改作することで、読者に愛されるようになる」166Pという1919年の指摘は今も全然有効だなって思った。

随所に挾まれたコラムや批評、楽譜の歴史、映画作成裏話も色々面白く読んだけど、深泰勉の図書館映画についての文章に、ボスニア内戦でサラエボ国立図書館オスマン帝国時代からの二百万冊の蔵書の九割が焼けてしまったという一文はなかなかショックだ。

本誌には自分自身について書かれた本に出会うという話や、本自体が人でもあるという話が複数ある。本はある人がその人の生から生んだもう一人の人間でもあるということだろう。

ついでに「紙魚の手帖」Vol.04掲載の若島正の「シュザンヌ・ドラジュ」論を読んだ。吸血鬼説やらなんやらの百花斉放な解釈の「信頼できない語り手」を前提にするのではなく、表題の人物が『失われた時を求めて』からそこに現われていることを知るという読者側に起きていることこそが重要だと言っているのは良かった。ウルフ作品の信頼できない語り手、深読みを誘う超絶技巧、みたいな言われ方や、これ見よがしに謎を置いて深読みしてくれ、みたいなのにはただ面倒と思っていたけど、「シュザンヌ・ドラジュ」もそういうのかと思ったらちょっと違ったのでまあこれはこれで知識を求めるものだけど、なるほどなと。

高原英理『詩歌探偵フラヌール』

「フラヌールしよう」とメリとジュンの二人が「中方線」沿線を歩き回りながら、様々な詩と出会う連作短篇集。ジュンのゆるいというかふわっとしてるというか、口語的で遊び心があり浮遊感のある語り口につられてふわふわと遊歩していくような読み心地が楽しい。

一篇目はベンヤミンの「フラヌール」概念にふわっと触れつつ、朔太郎の詩や彼とも交友のあった乱歩の怪奇趣味にも話を向けながら、ベンヤミンと乱歩の生年が二つ違いだったという同時代性を指摘しつつ、アパートの地下の地面に朔太郎(の詩を思わせる模様)を見つけて探偵団は今日はおしまいとなる。

面白そうな小物屋さんと古本屋さんの合間から空を見上げて、
ね、
ね、
ね、
とうなずきながら、僕たちは、道幅の狭い街をゆっくり、フラヌール、フラヌール。29P

と一篇目は締められる。猫を「おわあ」と呼ぶ朔太郎を引いてみたり、フラヌールという言葉の語感を生かした語り口はここを見てもよく分かる。永遠を見つけるランボーの詩の翻訳を複数参照しながら、癖になる言葉遣いの小林秀雄訳のランボー詩集を持って永遠を見つける回や、エミリ・ディキンスンの詩をすべて暗誦する謎の人間ジュークボックス、同著者の『日々のきのこ』以来のきのこテーマで山登りをしながらきのこ句を参照する回などなど、タモリクトゥルーやバルタン星人や、雑多な雑談を交えながら歩みを進めていく。

終盤は富豪の遊び心あるプロジェクトにかかわって、謎解きゲームをしながら古代から現代までの詩歌を選出する展開になって、万葉集などの古典や近代の訳詩集、そして現代女性詩人にフォーカスしつつ、最後にはモダニズム詩として左川ちかが扱われている。モダニズムの伝統否定、技法の実験などの要点を後からちゃんと説明するんだけども、作中の講師役の人が、「あたりで一番高いビルと支える機械とそこから見える空。これがモダニズムです」とざっくり言ってしまうところは笑う。

「逆光線」第19号


バルザック、ヴェルヌの翻訳や幻想小説などの著書がある私市保彦氏主宰の同人誌「逆光線」。岡和田晃さんから譲り受けて読んだ。一般に入手できるのかは不明。

樺山三英「僭主と牧人」は、太宰治走れメロス」の暴君を語り手にした短篇。メロスをローンウルフ型のテロリストではないかという視点から、情緒の物語によって動かされるポピュリズムとしてその物語を相対化する試みになっており、プラトンをも登場させて、古代ギリシャから現代に至る「政治」という広いパースペクティヴへ接続する読み直しにもなっている。暴君とされた王を、友情、信頼を知らぬ可哀相な人間不信ではなく、民を煽動する政治の分からぬ若者に仕方なしに付き合うしかない苦労人という人物像に変えている。その苦労性ぶりがコミカルで、メロスの向こう見ずな行動を邪魔するのではなくむしろサポートするために色々手を尽くしていて、あいつ妹の結婚のためとかいってまだ承諾されてなかったのかよと突っ込むところや川下に橋があるのに無理やり渡って時間ロスしてるのに文句を言ってたり。王が予想の付かないメロスの行動に一喜一憂する様はゲーム実況にも似た感触があり、この時代にそんな遠隔地の部下の行動をコントロールできるものかなという疑問はあえて無視しているような感じなのが笑いを誘う。メロスの物語に巻きこまれた悲哀を滲ませる王に政治と物語の寓話がある。

高木道郎「闇の突堤」、釣り人怪談とでも言えそうなある港町での出来事を描く短篇。自分が他人と同一化して引きずり込まれそうになる恐怖は引きずり込まれる、という海への恐れに繋がる。作中、二階建ての家を「平屋」と呼んでる箇所があり混乱した。救命胴衣は必要だ、と思った。

谷一哉「マドゥライ小品」、インドのマドゥライの猥雑さを感じさせる情景描写のなかに孔雀=不死鳥の再生を幻視する小品。市川宏「花に毒あり」、少女と庭園、地下の秘密の部屋での殺人、バーでの女性との出会いが、ある人物の日記を中心に絡まりあう雰囲気のある幻想小説

私市保彦「闇」、梶井「闇の絵巻」に言及しながら道端の闇に恩師が引き込まれる恐怖体験を語った怪奇譚。原子力を意識したと思しき破滅へ向かう人間への警告と、老人が若者をかばって消える物語に寓意はかなりダイレクトに示されている。

手元にある樺山作品をもう一つ読んだ。『NOVA6』収録、樺山三英「庭、庭師、徒弟」。「庭園すなわち世界」という無限の庭を舞台にウィトゲンシュタインの哲学を振り返る思弁的短篇。無限にまつわる思弁で最初はカントールとかルーディ・ラッカー方面の話かと。言語という思考の道具にして制約の外へは出ることができないという言語論小説。「庭園すなわち世界」は「post script」の「図書館すなわち宇宙」にも繋がる感じで、無限論の連作になっているのかも知れない。