「アミダクジ式ゴトウメイセイ文学談義」vol.2 いとうせいこう×市川真人

4月11日に行われたアーリーバードブックスでの後藤明生電子書籍刊行記念イベントの第二回に参加してきました。
トークショーのお知らせ「アミダクジ式ゴトウメイセイ文学談義vol.2」4月11日!: アーリーバード・ブックス(後藤明生・電子書籍コレクションのご案内情報も)
市川真人さんがホストとして今回迎えるゲストはいとうせいこうさん。『ノーライフキング』での小説家活動以前から芸人や編集者として活動しており、ヒップホップMCなどの経歴をもつマルチクリエイターで、近年も二作が芥川賞候補になるなど、十年以上中断していた作家活動を再開したのが話題になった。今回の縁となったのは、以前から後藤明生ファンを公言しつつ、二代目後藤明生を「襲名」して後藤明生トリビュート小説「鼻に挟み撃ち」を書いたからというのもあるだろう。じつは私はいとうせいこうさんの著書はほとんど読んだことがなく、事前に「鼻に挟み撃ち」を読んだのと、往復の車中で『ノーライフキング』を読んでいた以外は、サイトの「55ノート」(すごい面白い)をルーセル論中心に読んだことがあるくらいだったりする。

いとうさんは三月末のボフミル・フラバルイベントで登壇していたのが初めて実物を見たイベントだったので、二週間ぶりに拝見。

トークはいとうさんが二代名襲名を娘さんに許可されたという話や、後藤明生蔵書から永井荷風のものを譲り受けたのは、後藤明生の奥方さんが荷風を好きではなかったからだなどのエピソードを挾みつつ「鼻に挟み撃ち」をいかに書いたか、という話題へと繋がっていく。

いとうさんは以前、小説活動を雑誌連載ごと休止した事件があり、フィクションを書くことへの根本的な疑念に取り憑かれてしまって、書けなくなってしまった。「鼻に挟み撃ち」を書こうと思ったのはまだその作家活動再開もしていない頃で、どこに発表するあてもなく構想していたという。

「鼻に挟み撃ち」を書いた時のエピソードとしては、書いていてついつい乗ってくる時に『挾み撃ち』をひもといてみると、話題をもっと素早く断ち切って転換しているということのすごさに驚いたというものだ。後藤明生といえばアミダクジ式といって、話題がどんどん飛んでいく飛躍分裂を身上としているけれど、真似をしようとしてみると、この転換のスピードがとんでもないことに気づいたという。折に触れて参照して調子を盗まないと、どんどん気持よく話を続けていって、後藤明生式にはならないのだという。この陶酔しない、ということ。

いとうさんは歩いていく時に、目的地はあるんだけれど、途中の曲がり角をすべて曲がることを自分に課しているかのようにガンガン曲がっていくようなものだ、と話していた。これはまさにそうで、後期作品は特にじっさいに歩いていくことを身上とする土地を読む話が多くなる。そして驚くべきなのは、偶然に偶然を重ねているように見えて、時折きちんと元のルートに戻っていくことだ。『この人を見よ』でもそうだったけれど、別の道を歩いているつもりだったのが、ふと道を曲がると元の道、元の景色に戻って来た、というような散策の瞬間のように、話題がどんどん離れていって、もう元の話題を忘れたかのようなタイミングで、ある伏線を元にダイナミックに話題が帰還する時があり、感嘆させられる瞬間がいくつもあった。どこまでが計算でどこまでが偶然なのかわからないようなあの名人芸としか言えないような書きぶり。近大でも鞄の中に一杯本が入っているのに授業では一冊も出さずに終わったり、荷風の本にも、この日にコップ(だったかな?)を買ったとかいう変なところに付箋なり書き込みなりがされていて、達人のやることは分らないな、という話になっていた。荷風の本の話は非常に面白く、中野重治の年譜を延々読み込んでいくような妙なアプローチとあわせて後藤明生らしい。

いとうさんはこういう後藤明生式に書くことの異様な難しさを語り、「鼻に挟み撃ち」において、後藤明生式に書こうとしたことを、師匠に乱取りをお願いしたようなもの、と表現していた。「鼻に挟み撃ち」という作品は『想像ラジオ』の裏面というか、作家活動休止事件以来の小説のリハビリにおいて重要な意味があったのかな、ということが感じられた。

「鼻に挟み撃ち」でいとうさんのパニック障害の話が出てきて、これはとても印象深いもので、作品のコアでもあると思ったのだけれど、当初これは書くつもりでなかったという。『挾み撃ち』は脱線的なルートをたどりつつ自身の世界観の根源ともいうべき朝鮮の話題へと踏み込んでいくきわめて切実な点を持っている点が重要だったので、パニック障害の話は後藤明生にとっての朝鮮を意識した作品の核として事前に構想していたものだと思っていた。意想外の場所に踏み込んでしまうのもアミダクジ式なんだろう。

道場に通っていたこともあるといういとうさんが、見ているだけではわからない技の掛け方を、実際に乱取りをしてみて身体で覚える、ということに喩えて「鼻に挟み撃ち」での格闘を語っているところが非常に印象的で、阿部和重さんとは違った形で、いかに小説を書くか、という観点からの後藤明生論が語られていた。

後藤明生道場を作ればいい、という話が出ていたように、いとうさんは後藤明生的な書き方というのをもっと一般化し普遍化しよう、という意識がある。模倣という形で自らそれを実践してみたというのは、そういう意識から来ているのだろうか。

これは、いとうさんの重要だと思う後藤明生作品は『吉野大夫』だといっていて、作家でさえもがきちんと調べなければならないという圧力があるなかで、後藤明生は調べきれず、また書こうとしたことさえ忘れてしまうという『吉野大夫』の適当さに勇気づけられたとも語っていた。きちんと調べるなら学者になればいいわけで、適当さこそが小説の自由さというようなことを言っていて、それを体現しているのが後藤明生で、書けなくなるというプレッシャーのなかで『吉野大夫』の自由さの切実な意味が感じられた話だった。

面白かったのは、いとうさんが『ノーライフキング』でデビューした時、日野啓三からの手紙が送られてきたという話だ。『天窓のあるガレージ』や『夢を走る』といったSFの影響も色濃い都市幻想小説を書いていた日野啓三が、『ノーライフキング』をチェックして著者に批評を送っていたというのは非常に納得できる。さらに、確か『想像ラジオ』には、大江健三郎から原稿用紙五枚にわたる精緻な批評が送られてきたというのも凄い。いずれも私信として送られてきたもので、プライベートな形で先輩作家から後進、新人作家への正面から相対するという緊張感があるというのは良いことだ、と語られていた。大江健三郎からの手紙やファックスというのは時に絶交宣言だったりするらしく、恐れられているらしい。

また、やはり今回も柄谷行人がちょいちょい出てきていて、文芸家協会勧誘のはがきを後藤明生と連名で出してきたり、昔の自分の意見を人から聞かされて、それは面白いと言ったり、その意見はは間違っていると言って、いや柄谷さんがこう言ってたんですよと言われて今はもう違う、と返したりというまったく人柄が感じられるエピソードを語っていた。

といろいろ覚えてない話も多いのだけれど、ざっとしたレポートを。

ボタニカル・ライフ―植物生活 (新潮文庫)

ボタニカル・ライフ―植物生活 (新潮文庫)

フラバルイベントでチャペックの『園芸家十二ヶ月』に惹かれてベランダ園芸をはじめた、と語っていて、会場にまさにそのことを書いた『ボタニカルライフ』が売られていたので、それを購入し、サインをもらった。

鼻に挟み撃ち 他三編

鼻に挟み撃ち 他三編

で、話題の「鼻に挟み撃ち」について。これはすばるに発表された中篇小説。文字通り、後藤明生の『挾み撃ち』を下敷きにした作品で、発表から四十年を経て再読し、復習し、書き直す試みとなっている。実は、後藤明生の誕生日は四月四日、「鼻に挟み撃ち」は四月七日の日付があり、当日は四月十一日だったわけで、面白い日付の近似があった。イベント後、市川真人さんは、後藤明生の誕生日について話すのを忘れてた、と言って残念そうだった。

で、本作の舞台は後藤明生と同じく御茶ノ水駅の橋。その近くで第一の語り手が演説をしている。『挾み撃ち』の模倣を行いつつ、ここではゴーゴリの「鼻」を題材に選んで、鼻をなくした男と「鼻」を登場させて、別の『挾み撃ち』を書くという試みを行っており、またカフカも取り込みながら、自身のパニック障害の話などや近畿大学でのエピソードも用いて私小説的スタイルをも採用している。それでいて、後藤明生自身を語り手にしたりと、語りのさまざまなスタイルを飛び移りながら語っていくという「語り」に注力した作でもある。

個人的に印象的だったのは、「出会いを照れるな」とか、「不得手なものにこそ可能性がある」という言葉を自分に言い聞かせるところだ。出会いが苦手で、不得手なものを遠ざけてしまう自分への戒めなんだけれど、出会いを敬遠してしまう性格なのは私もそうなので、この下りはとても身に沁みるものだった。別にこれを読んだからではなかったのだけれど、最近はもうちょっとイベントやらに積極的に参加しようと思っているところだったので、とても同意できるものだった。

ただ、後藤明生ファンとしてずいぶん楽しく読んだわけだけれど、作品自体に対しては、どうも乗りきれないもの感じたのも事実。芥川賞選評でもわりと賛否があって技巧は評価しても、という微妙な評価が多く、私も評価に迷う。手法を真似ているばかりではなく、ダイレクトに後藤明生が出て来るわけで、となるとこの模倣の意味が問われるのだけれど、そこは一読した限りよく飲み込めなかった。イベントではいとうさんの後藤明生乱取りすることの切実さが感じられたので、印象が変わるところはあったのだけれど。

ノーライフキング (新潮文庫)

ノーライフキング (新潮文庫)

逆に帰りに読んでいた『ノーライフキング』で、噂が噂を呼び加速していく展開が、後藤明生ゴーゴリ論などでの噂にかんするモチーフを思い出させる。子供達の間のネットワークや都市伝説のモチーフなど、『ノーライフキング』は今でも現代的に読める点が多いのだけれど、これ、「デマ」の観点を持ち込むと、子供達の行動は結構現実的に恐ろしいものでもある気はする。つまりこの噂が陰謀論レイシズムを含むものだったら、という「憂国の志士」たちの「聖戦」を思い起こさせるからだ。その意味でもきわめて現代的に読むことができる作品だろう。

そういえば、次回のイベントのゲストが決まっていないらしいのだけれど、金井美恵子さんは候補だったりしないのだろうか。