書肆 海と夕焼けでの『挾み撃ち』読書会

bs-sea-sunset.stores.jp
六月十八日、書肆海と夕焼けにて開催された後藤明生『挾み撃ち』読書会に参加してきました。『代わりに読む人0』刊行記念として、社主友田とんさんと後藤明生著作権継承者の松崎元子さんを迎えての会でした。

コロナもあって対面イベントというのも数年ぶりでしたけれど、初めて読む、再読してハマった、ずっと読んでいた、そういう色々な読み方からの感想がうかがえて、たいへん面白い体験ができました。私も季刊「未来」の連載で何十枚も既に書いているわけですけれど、それでも再読してイベントにきてみて、自分が論じた箇所などごく一部でしかないしこの不可思議さを捕まえてはいないなと思いました。

こうした一見要約できない作品だからこそ色々な注目箇所が生まれて話が尽きない状況になっていて、友田さんたちも仰ってましたけれど、読書会向きの作品という感じがあります。演劇と引きつけた意見が面白くて、例えば今作の語りは後藤明生が「わたし」を演じているものでもあって、限りなく後藤明生自身に近いけれどもそこにはズレがあります。推敲、日和という言葉で文章を連ねている上手い箇所もありつつ、「紅陵大学の丘の上は、荒涼としていた」式の完全に滑ってるダジャレも意図されたものではないかという話にも繋がっていき、二等兵の格好の下りで出てくる「演技」と「仮装」の違いというのは何なのかと考えさせられます。「演技」と「仮装」の区分は「笑い地獄」にも出てくるもので、歴史への「不参加」とも重なる意味があって、ここでの拳突きの停止というのが戦後における軍人=暴力の消失と絡むものという文脈もあります。

一番面白かったのは松崎元子さんの父後藤明生の九州弁は非常にわざとらしかった、という証言でした。チクジェン訛りはともかくバッテンゲナバイはマスターしたという話が『挾み撃ち』にはありますけれども、それは装ったポーズだったわけです。演技か仮装か。文字からは読み取れない情報でたいへん貴重でした。

もう一つ、後藤が「とつぜん」とひらがな表記をするのは、それが子供の時間感覚だから、という松崎さんの指摘はまさしく、と思いました。何が起こるかわかっている大人の「当然」とわからない子供の「とつぜん」という構図は八章の核心なわけで、その「「とつぜん」論」からして確かにそうです。言われてみれば確かにその通りだけれど、そういえばそういう表記なのはそういうものとして通り過ぎてしまっていたな、と。

友田さん以外に『代わりに読む人』執筆者のうち三人が参加していて、名前が私のツイッターのフォロワーにいる人じゃんと思っていたら、現地にいた人が実はフォロワーだったのを帰ってから気づいた人もいたりとなんだか間接的な知り合いが多い会になりましたけど、私もツイッター後藤明生についてよく書いてますし、いま後藤明生で何かするというとそういう密度になるのはそりゃそうでしたね。

現地では作中に出てくる石田家の人の教師をしていた、という人が蕨の雑誌に書いた記事や、季刊「未来」で私が書いた後藤論が載っている号の残部を持っていきました。「未来」の残部は連載全部が載った六号分の揃いはだいたい全部配ってしまいました。あとはバラのものがまあまああるくらいですね。


書肆海と夕焼けのある谷保駅は初めて降りましたけれど、高層の建物が少なくて、色々な個人商店が点在していて、団地脇のアーケードの前には公園が広がっている立地が面白いです。ローカルな住宅街という感じ。こんな小さいアーケードのなかにあるお店に山尾悠子のピンクの本とかがあるんだ、という。よく行く街の大きな本屋にはないですからね。打ち上げで寄ったカレー屋はチーズナンが抜群に美味かったです。

公園から団地をつなぐ小さなアーケードを入ってすぐのところにお店があって、良い雰囲気のところでした。小鳥書房という看板があって、最初は違う店なのかと思いましたけど、一つの店舗に二つ書店が入っているニコイチのお店という変わったかたちのところでした。
www.google.com
写真の一つも撮ってないのかよと帰ってから気づきました。