ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』

年始のヴェルヌに続いて海洋冒険小説を読んだ。夏だしね。1719年刊、無人島漂流サバイバルの古典的作品。今は新訳も複数あるけど読んだのは河出文庫版。食人族の未開人とか、植民地主義の諸々とか、聖書を通じた信仰の様相とか、野放図な青年の放蕩の側面とか、展開自体は色んなところで模倣されてるものだけど色々面白い。

かなりゆっくりと島に漂着するまでを描いていて、無人島に行くまでに70ページくらいかかっている。なんとはなしの理由で家を出て船乗りになり、ブラジルで農場を手に入れ順調に経営しているさなか、その頃高騰していた黒人奴隷が欲しくなり、秘かに黒人を手に入れるための航海に出て主人公は遭難する。アフリカや南米での奴隷貿易が独占的になされるようになった時にあえて危険な賭けに出て見事に失敗しているのだけれど、そもそも無人島に漂着した理由が怪しい手段で奴隷を手に入れようとしたから、というところは知らなかった。「みずからを破滅に導くよう生まれついているぼく」。

無人島で狩猟を始めたり牧畜や農耕や工作などを一から自分で立ち上げて環境を整えていくわけだけれど、そこでは科学的精神、理性的判断が重要になると説く。

理性こそ科学の本質であり起源であるのだから、なにごとも理性に基づいて明晰かつ慎重に考えることで、さらにものごとを徹底して理性的に判断していくことで、だれでもいつかあらゆる物づくりの達人になるということだ。101-1P

このように、危険におびえることは、目の前にある危険そのものの一万倍も恐ろしい。229P

この科学とともに、重要なのは残されていた聖書を断片的にでも読んでいくことでキリスト教の信仰に目覚め始めるところだろう。主人公が初めて本当の意味で神に祈るくだりで、無人島という監獄にいることよりも悪いのは信仰を、祈りを知らなかったことだ、と言う。

みなさんも、ものごとの真相に到達すれば、苦境から救われるより罪から救われる方がずっと祝福されていると気づくだろう。143P

無人島という牢獄の囚人とも言うべき境遇が、信仰を得ることで逆転する。

このときぼくは痛感した。いま送っているこの生活は、ずいぶんと惨めな境遇ではあるけれど、それまでずっとぼくが送ってきた、間違った、呪われた、おぞましい生活と比べれば、どれだけ幸せだろう。165P

そしてさらに重要なのはフライデーという食人族から救って忠実なしもべとなった人間がいることだ。ロビンソンは未開人たる彼にさまざまな事柄を教育し、キリスト教の信仰とは何かを教えていく訳だけれど、こうした教育を通してロビンソン自身が自分を教育していくことにもなる。

この可哀そうな野蛮人に教えるために探究することで、知らなかったことや、今までよく考えなかったことについて、自然と理解が得られるのだった。こうなるとぼくは、今までなかったくらい、いろんなことへの探究心に燃えた。だから、この可哀そうな野蛮人がぼくによってまともになったかどうかはともかく、彼が来てくれたことに本当に感謝したい。312P

未開で遅れた信仰を知らない「彼ら」にものごとの真理を教えることができる西洋近代の「われわれ」という構図が生まれることで、自分たちが強い輪郭をもって成立するという近代の差別のメカニズムのミニチュアをここに見ることもできるだろう。

この時意外だったのは本書で語り手はアメリカ大陸でのスペインの蛮行を非難していること。ただし蛮行を非難する過程で「野蛮人」の未開ぶりを刷り込むことを忘れていないのでよく考えたら別に意外でもなかった。差別ありきの慈悲としての態度だ。

その人びとは偶像を崇拝する野蛮人で、その風習のなかには、偶像の生贄として人を殺すような血腥く野蛮な儀式もあったけれど、スペイン人に対しては、なにも悪いことはしていなかった。だから、彼らを地上から絶滅させたことは、今ではスペイン人自身からも、激しい怒りと憎しみをこめて語られている。ましてヨーロッパの他のキリスト教国からは、神にも人にも申し開きのできない、紛うことなき虐殺、血塗られた、自然に反する残虐行為と一斉に非難されている。245P

「近代的人間の典型」とも評される作品でなるほど科学と信仰、西洋近代の要素が典型的に現われていると思えてそこも面白いけど、解説ではそうした話の前の小説としての面白さについて着目しているのが面白かった。成長しない、どっちつかずの人間、隣人としてのロビンソン。

だから、本書で大事なのは、というより一番面白いのは、道徳的・宗教的な教えそのものではなく、型どおりの教えに収まりきらない人間が、失敗しては救われ、喜んでは落ちこむ様子を、死ぬまでずっと続く過程として描いたところだ。これを味わえるのは、絵本や簡略版ではなく、原作だけである。471P

解説ではさらに本書が書かれた時代背景の17世紀後半から18世紀前半に掛けての世界を、ものの価値が安定せず、奴隷を扱うものが奴隷に落とされたり、法も情けもない状態だとし「「無人島」は決して特殊な空間ではなく、むしろ常識が通用しない当時の世界を象徴する場所」483Pだと述べる。

クルーソーが「食人種」をこれほど恐れているのは、単に文明が野蛮を恐れているからではない。むしろこれは当時の文明が抱えた問題を、心理的に反映したものだ。要するに、自分が「肉」に還元されること、つまり世界における暴力的な交換関係のなかで、自分が商売を司る側から商品の側に落ちてしまうことへの潜在的な恐れが、自分を肉として食べる人種への恐怖と結びついているのだ。484P

ロビンソン・クルーソー」における無人島は決して現実離れした空間ではなく、性質を異にする民族や文明が貨幣経済によって強引に結び付けられてしまった時代の矛盾を反映した場所である。487P

訳者解説では『ロビンソン・クルーソー』をきっかけとして近代リアリズムが発展したという話を踏まえて、近代小説の価値を「共同体の外」の価値観に触れることだとしている。

近代小説の面白さは、物語や構成の美によるものではない。また、近代小説は必ずしも特定の共同体の分かち合う想像力を強化するわけではない。むしろそれは、共同体に属する人間の想像の外の世界、というより現代世界における人間の隠された本質を安全に顕在化させることで、束の間であれわたしたちを共同体の外に連れ出してくれる、神なき時代の啓示ともいえる存在だ。小説はこの世界を再現するのではなく、この世界を日常よりリアルに体験させるものであり、別世界を構成するのではなく、この世界とこのわたしの関わり方を再考させ、変容させるものだ。488-9P

わたしたちが各々の無人島と遭遇するのをやめないかぎり、本書のような文学作品が価値を失いはしないということだ。文学のない世界、それはすべての人間が固定した価値観に安住する世界である。490P