ボフミル・フラバル『十一月の嵐』

久々のフラバル・コレクションの新刊。アメリカのチェコ文学研究者への書簡体形式で、1989年の東欧革命の政治的動乱のさなか過去の弾圧の歴史を回想しつつ、権力との妥協を選んだ作家として屈折や痛みとともに現状を見つめながら、アメリカへの講演旅行の回想を差し挾む内的な記録のような小説集。

最初の二篇は別として、ほか八篇は若いチェコ文学研究者、エイプリル・ギフォード宛てとして書かれており、四月のチェコ語ドゥベンカと呼ばれる彼女を「卯月さん」と訳してある彼女に呼ばれてアメリカの大学をいくつもまわった講演旅行が本書の一つの軸になっている。各篇は89年の四月に行なった講演旅行でアメリカでの体験や亡命したチェコ人らとの出会いの記憶を回想しながら、「合衆国」をチェコ語の駄洒落で「満足国」と呼ぶ皮肉なユーモアを交えて書かれている。これは当然89年チェコスロヴァキアで進行していた民主化を求める政治的な動きや弾圧の渦中故だろう。ソクラテスを崇拝すると語るフラバルは、自作の出版のため妥協という毒杯を飲むことで友達を失ったり公開焚書をされたりと苦しい立場に立たされている。そもそも68年プラハの春への軍事的介入のチェコ事件のあとフラバルは自作が発禁となり、釈明によって部分的に出版を許されてきた歴史がある。

私はつまり、現状を認めているんです……私の国における政治状況は変えられないと、つまり、ここで起きたことはすべて、なしにはできないと、つまり、今また死者たちの中から起き上がっている不幸な一九六八年八月二十一日の後に言われたように、主権を制限された国に住んでいるのだと、認めているんです。73P

ただし、「けれども、私はそのことにただ戦き、驚き、怖れます」とフラバルは付け加える。この閉ざされた場所のなかで、アメリカの卯月さんへの呼びかけが随時挾まり、アメリカへの旅行が回想され、そこで出会った亡命者たちの存在が、国内の状況と対照的なアメリカの自由を思い出させる。

卯月さん、お分かりになるでしょう、自分の祖国にいて友達のことを密告することがどんな苦しみであるか、なんと恐ろしいことであるかが……。だからトシースカさんは、ロサンゼルスにいるんです。彼はチェコでは王様でした、どこへ行こうと人々が挨拶してきたもんです。ナンバーワンの俳優だったからです。それで、裏切るよりはむしろアメリカで俳優になっています。稼いではいるし、好かれていますが、彼が祖国で演じていた最高の役、それはアメリカではもう得られません……。それも、友達を、ヴァーツラフ・ハヴェル氏を、裏切らなかったためです……。253P

卯月さん、私はヴォスカ氏が大好きでしたし、トシースカ氏が大好きでした。私は彼らに詫びます――だって私は、少々曲がったことができて、それで、この国で生きていくことができたからです……。私は内務省に話をしに行くこと、いわゆる「泥」に行くことができて、その「泥」に耐えるだけの胃袋を持っていたんです――255P

両親はチェコスロヴァキア(現スロヴァキア)出身のルシン人のアンディー・ウォーホルのことが幾度も言及されたり、英国の詩人ディラン・トマスアメリカで死んだこと、そのニューヨークの酒場ホワイトホースのその席に座ったことが書かれるのも亡命のテーマだ。

そしてチェコスロヴァキア国内では、フラバルの妥協的立場ではなく、また自由を求めて亡命するのでもなく、国内で民主化運動を主導し幾度となく投獄されたヴァーツラフ・ハヴェルがフラバルとの対比をなしている。フラバルは以下のように憲章77のグループによる公開署名を拒否している。

そうだね、ヴァーツラフ、僕はその時「黄金の虎」にいたならそれに署名したかもしれない、けれども、今はもう決してしない。なぜか? だって僕は、この十一月に出ることになっている八万部の『あまりにも騒がしい孤独』を「幾つかのセンテンス」への署名と交換しようとは思わないからだ、八万部のミラン・ヤンコヴィチの「あとがき」をその「幾つかのセンテンス」と交換しようとは思わないからだ……。だって卯月さん、実のところ、私がこの世にいるのは、『あまりにも騒がしい孤独』を書くためだけだったんです。スーザン・ソンタグ氏が、これは二十世紀文学のイメージを作る二十冊のうちの一冊になるでしょう、とニューヨークで私に言った、あの「孤独」を……。116P

こうした立ち位置がフラバルに強いストレスを与え、引き裂かれた「痛み」に襲われる状況を作っている。最初の「魔笛」で「痛み」とともに語りはじめられ、カフカリルケチェコの詩人やセネカらの自殺やその衝動についてのエピソードに言及していくのもそのためだろう。

起きて意識を取り戻すと、私は時々部屋全体が、自分のむさ苦しい部屋全体が痛いんです、窓からの眺めが痛いんです。子供たちは学校に行き、人々は買い物に行き、誰もがどこへ行くべきか知っているのに、私だけが、どこへ行ったら良いのか分からない。7P

本書では鳥が複雑な意味を持っている。「卯月さん」への呼びかけが始まる第三篇「公開自殺」は、序盤から鳩について語られる。「数百世代の鳩の骨」が堆積しているドーム、人が鳩と戯れていたプラハで餌やりが禁止され、鳩の掃討作戦が行なわれている現在のこと。「卯月さん、私はやはり、結局のところ、良い人間が死ぬと、天で功績が称えられるように、その人の魂が鳩に変わるんだと思います」(55P)、とあるように、飛び降り自殺のイメージとともに鳥は死の要素を色濃く含んでいる。もちろん空や鳥に自由のイメージもあるけれども、その自由がこの世のものではないかのような陰鬱さが含まれている。それは自由を求める運動がつねに暴力による弾圧に繋がったフラバルの知る歴史のためでもあり、作中に記された抗議による自殺・焼身自殺の事例とも関連している。

だからこそ、鳥として死への誘惑に駆られたフラバルという凧の糸巻きを卯月さんが持っているということが本書の軸になっているわけだ。各篇だいたいに日付が記されていて、その時々の状況が題材になっているけれども、アメリカ旅行の果てに卯月さんと出会ったことは本書の最後に語られる。本書の各篇がどのように発表されたかは不明だけれども、「十一月の嵐」の後ハヴェルが大統領になった12月に四月・春の名を持つ彼女と出会ったアメリカ旅行の終点が描かれるのは、この国の政治的な春をそこに重ね、死に誘惑され鳥になりかねないフラバルを地に繋ぎ止める意味が込められている。

終盤では民主化運動が大きなうねりをあげ、革命を成功させた様子が以下のように触れられている。

卯月さん、それは歓喜であり、叫びであり、輝く目であり、それは、この国のすべてが半次元ではなくて丸一次元大きくなるための、男女の巡礼者たちの行進であり、自発的な行進でした。(中略)学生や若者たちは、私たちの生活と政治的生活にも若返りをもたらす、つまり一次元大きくする 権利を持っているからです。そして車が警笛を鳴らし、クラクションが叫び、幸福の輪に入っていなかった人々は泣き、啜り上げ、言うのでした―――こんなことはありえない、全くありえない、ならず者やのんき者として出会っていた若者たち、彼らが突然、奇跡的に別人になるなんて――245P

そしてヴァーツラフ・ハヴェル氏が学生たちにスピーチをして、その中でとりわけ、芸術だけでなく政治もまた、不可能なものの空間を創造することができるのだ、と言いました……。卯月さん、信じがたいことが現実になりました。303P

東欧革命に際会した、現状維持の作家の内面の自死への誘惑と自由への憧れの葛藤、自由を求める運動と弾圧の経験を振り返る随想、現在の状況への言及、その様々がうねり、脱線し、渾然一体となった時々刻々のドキュメント。政治的解放が訪れても、それとはズレた位置に立つしかなかった書き手の複雑な思いが込められた一作だ。

他に幾つか印象的な箇所を引用しておきたい。
語り手が繰り返し自分について「status quo(現状)」だと呼ぶことについての一節。

自分で言っているように、私はいつも「status quo(現状)」の人間でした。けれども同時に、自分なりの「modus vivendi(生き方・一時的妥協)」を望む人間でもあり、文学の本質であるもの、自分のグラスノスチを、自分の意見を、言えることを望んでいました。ただし、それに対して代償を、あらゆる代償を払ったりするのではなく、ハシェクが私に教えたように、私は「穏健な進歩の党」の人間なんです。それがこの中欧における、二十世紀のあの最初の四十年間の文学的実験室における、私の「modus vivendi(生き方・一時的妥協)」なんです。74P

私の祖国で価値のあるものはすべて、匿名なんです。すべて、平凡な人々が考え出したものです。それで私は酒場を飲み歩き、平凡な人々が言った本質的なことをすべて集めて、それを文学の中に入れるだけなんです。だから私は作家というよりも、むしろ記録者なんです……。134P

アメリカで東欧から文学や芸術の流れがあるという話になり、フラバルが自作の翻訳者からある批評家が
人から聴いた話として「一九六○年代から八〇年代までをポスト・モダン(Post-modem)と見なしていたけれども……しかしPを消して「東欧モダン(Ost-modern)」とするだけで現状を言ったことになる」と話していたという話をするところがある。

そして私たちは、本当にPを消すだけで、奇跡のようにポスト・モダン(Post-modern)が「東欧モダン(Ost-modern)」になることを喜んだんです……。それから私は、頭をつかんで叫びました――でも私たちは、更なる「東欧モダン(Ost-modern)」を忘れていました……アンディ・ウォーホルです……。卯月さん、銀髪のかつらをかぶった青白い男性のアンディ・ウォーホルは、メジラボルツェ出身の両親から生まれ、この町、この社会に鏡を差し出すためだけにやって来たんです。196P

訳者あとがきだと1989年作とあるけれど、原書クレジットには1990年刊行となっていて、作中に89年12月の日付があるので書かれたのが89年で刊行は90年だろうか。

closetothewall.hatenablog.com

立教大学のフラバルイベントで、こんなことがあったと昔ブログに書いた。

凄かったのはイベント終了の歳の一言コメントで、フラバル訳者でもある石川達夫さんが、阿部賢一さんが『断髪式』を『剃髪式』としたのは、非常に問題があるのではないか、という指摘をしていたところで、チェコ文学の先達による容赦ない指導に恐るべし、と思ったのだった。

石川氏が訳者の本書でも本篇中では『断髪式』で通していた(訳注では『剃髪式』の訳書を参照)。


フラバル・コレクションの既刊については以下から。
フラバル・コレクション の検索結果 - Close To The Wall

おまけに、参考に本書の書き出し部分と、既訳の同等の部分を並べてみる。既訳はおそらく原文と一文の長さを揃えていると思われ、引用部分ではまだ句点が現われない、一ページまるまる一文という息の長さになっている。さすがにそれでは読みづらいということで、石川訳では適宜句点を置いていると思われる。

起きて意識を取り戻すと、私は時々部屋全体が、自分のむさ苦しい部屋全体が痛いんです、窓からの眺めが痛いんです。子供たちは学校に行き、人々は買い物に行き、誰もがどこへ行くべきか知っているのに、私だけが、どこへ行ったら良いのか分からない。私はのっそりと服を着て、よろよろし、ズボンをはくときに片足で飛び跳ねます。歩いて行って、電気カミソリで髭を剃りますが、もう何年も、髭を剃るときには鏡の中の自分を見ないようにして、暗がりか隅っこで髭を剃っています。私は狭い廊下の椅子に座っていて、プラグは浴室の中にあります。もう自分を見るのがいやで、浴室の中の自分の目つきにも、ぎょっとしてしまうんです。自分の目つきも痛くて、目の中に昨日の酔いが見えます。もう朝ご飯もとらず、とるとしてもちょっとコーヒーだけ飲んで煙草を吹かし、テーブルのところに座っています。時々両手がだらんと垂れて、私は自分に何度か繰り返すんです——フラバルよ、フラバルよ、ボフミル・フラバルよ、それでお前は自分に打ち勝ったのだ、無為の極致に到達したのだ、と。(石川達夫訳、7P)

ときどき眠りから覚めたとき、気を失った状態から意識を取りもどしたとき、私は部屋のすべてに、むさ苦しい部屋のすべてに苦痛を感じるし、窓からみえる眺めにも苦痛を感じてしまう、子供たちは学校へ行き、人びとは買い物に行く、みんな自分がどこへ行くべきか知っているのに、私だけ自分がどこへ行くのかわからない、ぼうっとしたまま服を着て、よろめき、片脚で飛び跳ねながらズボンをはいて、電気かみそりで髭を剃りにいく、髭を剃るときはもう何年も鏡をみずに、暗がりか隅っこのほうで髭を剃っている、私は廊下の椅子に座り、プラグのほうは浴室のなか、自分の顔がみたくないし、浴室のなかでは自分の眼差しにさえぞっとする、私は自分の眼差しにまで苦痛を感じてしまうんだ、眼には夕べの酔いがみてとれ、朝食もとらず、とるとしてもコーヒー少しとタバコで済ませて、テーブルに座る、ときどき腕組みをして、フラバルよ、フラバル、ボフミル・フラバルよ、おまえは自分に打ち勝ったんだ、無為の極みにまで到達したんだ、と何度かくりかえしていう、(赤塚若樹「魔法のフルート」、『世界文学のフロンティア3 夢のかけら』所収、191P)