ミルチャ・エリアーデ『ムントゥリャサ通りで』
ルーマニア出身の宗教学者にして小説家による中篇小説、一読しただけだけどこれは相当の傑作でしょう。思い出すのはカダレ『誰がドルンチナを連れ戻したか?』で、東欧の伝説と政治劇を推理小説的な枠組みで語った幻想的な中篇という点でも似ている。ファルマという元小学校校長を名乗る老人が、ボルザという少佐を訪ねてくるところから話は始まる。老人の言うボルザの過去とボルザ自身の主張が噛み合わず、政治的に不穏な気配が出てきたことで老人は保安警察に連行される。そして老人は千夜一夜物語のように不思議な話を語り続け結論を引きのばす。そこでは、水の溜まった地下室に印を見つければ彼岸へ行くことができるという話を信じた子供達が印を探し回っているうちに、本当にラビの息子ヨジが水中へ消えてしまった事件が語られ、突飛なその話はしかし、当時の新聞で行方不明の事件がきちんと載っており裏付けが取れてしまう。そんな話のなかで出てきたダルヴァリという人物は二十年ほど後、飛行機に乗ったまま消えてしまい、リクサンドルという人物も消息が分からなくなっており、政治的亡命の疑いのあるその件の糸口を老人の話から掴もうとするもののその話をするにはもっと時代を遡る必要がありますと長広舌を始めてしまう。
核心に至る問いをつねにはぐらかすように、他にも子供が空に放った矢が落ちてこなかった話、身長二メートルを超える女性が無数の男たちや果ては動物と交わった話、街中の人間が小さい箱に収まった奇術師の話などなど、ファルマの話は真贋が疑わしい伝説、御伽話の様相を呈していく。際限なく引きずり出されてくるマジックリアリズム的な話の面白さだけではなく、とりわけ面白いのは終盤でルーマニア社会主義政権における政治的策謀が表面化してくるところで、ファルマの語りの整合性やなぜ取り調べを続けていたかが推理小説的に謎解きが展開されるところだ。
老人の人を煙に巻く話の不整合が指摘され、御伽話や幻想的な話が一挙に現実的な枠組みに収まるかと思わせる。ここは、ファルマの話が現在において前近代の伝説やフォークロアの古層を掘り起こそうとすることと、ミステリという近代の枠組みとの拮抗を描いているようでとても面白い。『聖と俗』は読んでいないけれども言ってみれば「政(治)と(民)俗」の絡み合いとでも言うような構図が決着せず、その両義性が生き延びるようなラストは印象的で、検察官(インスペクトル)と視学官(インスペクトル)という重なりとともに冒頭に繋がる螺旋的な構成も決まっている。インスペクトルの重なりとともに誰が誰なのかが不分明になる政治的状況は、ミステリか幻想かという問いそのものが宙吊りされているようでもある。語られる内容の繋がりや、話を理解するには百年前から始める必要があるという語りの哲学やら、もっと細かく読む必要もあると思うけれど、これは面白かった。
カダレのドルンチナとも同じく、前近代の伝説を現代の政治状況と接続する手法はなぜか東欧的に感じられる。社会主義政権の閉塞感に対する抵抗が共通するのだろうか。あるいは迷宮性も説話的な幻想性もどっちもカフカ的なものともいえるかも知れない。あるいはこれも変身譚と読むこともできるか。
いやまあともかくキレ味鋭い高濃度の中篇で非常に格好いい小説だった。こうした海外文学中篇としてはカダレのドルンチナやらマルケスの『予告された殺人に記録』やらを思い出した。良いよね、中篇。私の一気に読める分量の上限がここらなので、そのなかでぎゅっと詰まってると非常に気持ち良い。
そういや安部公房がロブ=グリエを引いて現代文学における推理小説について語ってたエッセイがあったと思うんだけどなんだか忘れてしまった。
新装版が出ると聞いてそういや持ってるなと思って読んだんだった。
ミロラド・パヴィッチ『十六の夢の物語』
『ハザール事典』など様々な仕掛けを施した作品で知られるセルビアの作家による幻想短篇集で、そうした実験的作風以前の単発の短篇を日本独自に編んだもの。一篇十頁ほどのなかに、東欧、セルビアの歴史を背景にした時空を越える夢の物語が展開される。どうしても凝った仕掛けが先に立つ『ハザール事典』や『帝都最後の恋』などは、読んでみるとそこには優れた怪奇幻想物語が展開されているのがパヴィッチ作品だったわけで、本書に収められた単独の短篇群はまさに作者の怪奇幻想作家としての魅力を十分に見せてくれるものになっている。浩瀚なセルビア文学史の著書を持つ文学史家でもある作者らしく、中世から現代に至るセルビア、クロアチア、スロヴェニアといったユーゴ圏やポーランド、ウィーン、コンスタンティノープルといった東欧周辺を舞台に、しばしば中世の修道士などの宗教や伝説を題材にしていて豊富な学識を感じさせる。
誰かに殺される夢を見る劈頭の「バッコスとヒョウ」が、1970年に見た夢のなかで1980年製の服を着ていたり、1724年の絵画に描かれた人物と自分が似ていたり、自分と似た人物を目撃するなど、時間や虚実を越える不可思議さなど、短いながらも本書所収の幻想譚のショーケースにもなっている。
戴冠できなかったセルビアの王の名を代々守るために、喋れず書けない秘密を守る人間と、名前が書かれてしまった時のための人質が用意されている、という導入から、白紙の本に載っている詩を訳すことを命じられた修道士と、未来の罪のために現在において処罰される因果の逆転を描いた「アクセアノシラス」は、ある種ボルヘス的な不可解なロジックが充満していて、セルビア王の戴冠のために修道院に扉が作られるという伝説や白紙を翻訳するという仕事やらで結果と原因を裏返しにする描写が重ねられ、それがさらなる仕掛けに繋がっている一作で、本書でも特に印象的な一篇だ。こう書いてみると何のことだかわからないけど、色々込み入ってるので現物をどうぞ。
一番長い、ある令嬢の人生を描いた「沼地」は特に良いものの一つ。急激に成長し急激に老化した息子という現象に絡む因果が様々に展開されたあとの着地はことに印象的。収録作には最初に色々な地名や歴史的背景が語られてて、あまり頭に入ってこないことも多いんだけれど、今作はそれも伏線になってくる。戦後に戦前の建物を人の記憶から再生したワルシャワの街並を題材にした「ワルシャワの街角」や、盲目の修道士の夢治療の結末を描いた「出来すぎの仕事」も面白い。「裏返した手袋」は啓蒙主義と民衆の迷信の物語が、中盤から結構驚かされる展開になってて、ただ何故こうなるのかよくわかってない。他にも演劇の戯画化か政治批判かの「カーテン」や、誰もいないはずの扉のガラスのなかで数人が賭博をしている「朝食」、スルタンからモスクのなかのモスクを建てよ、しかも聖ソフィア寺院より高くても低くてもダメだと命じられ、聖ソフィア寺院のコピーを作っていく技師の「ブルーモスク」など。
「ドゥブロヴニクの晩餐」などは特にオチの意味がよく分からなかったりするんだけれども、それでもどれも楽しく読める短篇群で、長くても20頁ちょっとという簡潔さと並製200頁ほどのコンパクトな手に持ちやすい本書の体裁もあいまって、非常に手頃な一冊になっている。
パヴィッチはユーゴスラヴィアというよりはセルビアに愛着があるという政治的スタンスの人だったと記憶しているけれども、本書でも短篇の背景にはしばしばセルビア王国の衰亡が窺える記述があって、そこもなかなか興味深い。作者には70以上こうした短篇があるらしいからさらなる翻訳も期待したい。ボルヘスもだけれど、中世の修道院や学者の書いた小説という点でエーコを思い出したりする。
ヘルタ・ミュラー『澱み』
ルーマニア出身のノーベル文学賞作家の第一作品集で、ルーマニアのドイツ系少数民族シュワーベン人の村の様子を子供視点でスケッチしたり、都会に出て職場で意見を述べて職を追われた経験など、自伝的な要素が含まれる、表題中篇と多数の掌篇から構成された一冊。冒頭の「弔辞」は、死んだ父の戦場での強姦や村で妻を寝取っていたことを口々に糾弾される不思議な掌篇で、ナチスに協力して東欧侵略の尖兵となったりソ連によってシベリアに抑留されたりと加害と被害双方を体験しドイツ語を話すルーマニアでの少数民族の経験が反映されていると解説されている。解説にあるように物語的ではなく細部を描写していく文章でかつルーマニアにおけるドイツ系少数民族の村というなかなか複雑な事情のある場所をそういう文体で描いているので読み始めはどういうことなのか分かりづらいところもあるのでこれは解説を先に読んだ方が良いかもしれない。
表題作の「澱み」は、村の様子を子供の視点から捉えた中篇で、耳にカナブンが入ったエピソードから蝶を殺した話に腐肉、腐敗の汚穢のモチーフが散りばめられつつ、母が結婚して生気を失ったようになる鬱屈が描かれ、これは主人公が母から繰り返し暴力を受ける伏線にもなっている。一貫したエピソードではなく、語りはしばしば連想に連想を重ねてさっきの話はどこに行ったんだろうという発散的なものになっていて、叙情性や感傷性が排された叙述はやや読みづらいけれども、女の顎から生えた髭が編み物に織り込まれていくという幻想的な描写が紛れ込んだりもする。
いつだって私は道のりを前にして最後尾に取り残されたまま、何一つとして追い越せないのだ。ただ顔に埃を浴びせられるばかり。そのうえ、たどり着くべきゴールはいつまでたっても現われる気配がなかった。25P。
澱み、どん底、の陰鬱な閉鎖性が虫や動物の死や生とともに描かれ、「何から何まで丸見えで、どこもかにも手が届き足が伸ばせる、みんなが一様に不安に脅えている、というのも、村が際限なくどこまでも続くからだ」68Pという感慨が語られもする。
職場で意見を言ったら迫害された作者の体験を寓話化したような「意見」は、主人公がカエルと呼ばれているんだけれど、「澱み」末尾を見返すと、カエルの鳴き声が死を象徴するような不穏な描写で出てきており、ここにも何らかの連繋があるのかも知れない。そういう細部の繋がりはたくさんありそう。
「詩的言語」と言われるようになかなか面白い文章も多くて、たとえば上に書いた表題作だと「編み物をしていると、女たちの顎から髭が生えだしてきて、やがてどんどん色あせていき、ついには白髪になる。ときにはその髭の一本が紛れ込んで靴下に一緒に編み込まれることもある」44Pとか、「長距離バス」の「荒れ野を男が一人横切っていった、一人きりだ。それは半分気狂い、半分アル中、あわせて一人前の人間だった」178Pは印象的。最後の「仕事日」の文法はおかしくないのにすべてがおかしい逆回しの世界のような掌篇も結構面白い。
表題作では「村のみんなも「孤独」という言葉を知らず、だから自分たちが何者であるか、分からずにいるのだ」118P、というくだりがあって、まさになにか澱んだ雰囲気が濃厚に漂っている作品集になっている。