室井光広『おどるでく 猫又伝奇集』

初期小説集二冊に未収録短篇やインタビューなどを増補した著者初の文庫本。著者の故郷南会津を「猫又」と呼ぶ一連の作品は「猫又拾遺」の土俗的奇譚・幻想譚から始まり、方言、外国語、外国人など言語の土俗性とその外とが交錯する「翻訳」の主題が貫かれているように読める。短い奇譚を集めたかたちの中篇「猫又拾遺」を見返してみたら最後の「魂柱」が、在日外国人が一度母国語で書いたものを日本語にしたという翻訳を介した手紙だとされていて、マラルメの翻訳の引用で終わるこの「猫又拾遺」の結句から「和らげ」まで、「翻訳」という問いが通底している。

どうも読んでいると著者は「言語」とは「翻訳」なのではないか、「翻訳」が言葉、言語の本質をなすものだと思っているのではないかという気がしてきた。方言と外国語、ローカルと世界、固有性と普遍性、読むことと書くこと、これら諸要素を通じて言語を捉えようとしているように見える。本書で著者は郷里南会津を一貫して舞台にして、その方言の語義を探ったり解釈したりするけれど、一度都会に出てその後故郷の方言を探求することは、母語を外国語に翻訳する過程と相似の構造を持っている。著者が故郷を描くことと翻訳が主題になることにはそういう必然性が感じられる。

一見小説らしくない小説を書いていて、カフカについて単著があることなど、私としてはやはり後藤明生が連想される。拙著『後藤明生の夢』で太宰治連作『スケープゴート』について、ものを書くことは言葉から声や表情を切り離し、つまり故郷から切り離されるという箇所に言及したことがある。室井光広は「翻訳」を通じてそれとは別の行き方をしている。書くことの原理が故郷喪失だとすれば、翻訳の原理は帰郷と言えるのではないか。本書収録作品にはそう考えさせるものがある。してみると、ジョイスに関するエッセイが収録されている本書と、あるいはジョイスユリシーズ』と『挾み撃ち』の関係についても何か言えるような、ないような……

それはともかく。「猫又拾遺」は猫又を舞台にして短い短篇を連ねた猫又奇譚集という塩梅の中篇。これは結構面白いなと思っていたけど個人的には次の作品「あんにゃ」が本書のなかでは一番好きだった。傑作という点では他作に譲るけれども個人的にはこれが良かった。

「あんにゃ」は喉頭ガンで声を失った兄と語り手の妹の関係を描く短篇で、語り手の戸籍上の兄はある時産着に包まれて父の病院に置かれており、兄は実の親を「犯人」と呼んでいる。その犯人をめぐるミステリー小説のスタイルでは語り手は書けない、というところから始まる。この兄と妹の「共作」が子供の頃の作文、そして声を失った兄の短い言葉から妹が長い物語を引き出すようになる末期の二人の共同作業の様子はとても感動的だった。

兄がホワイトボードに文字を綴った二年ほどの間、私は兄の声を供養していたことになる。兄が眼の前にいるのに、声だけが死んでいる。ちょうど祖母の口寄せと逆の状態だ。95P

二年の間、兄が筆記する言葉の断片から言いたい内容の全体をおしはかるトレーニングを、私はむしろ楽しんだ。このため、兄の短い文字ひとつに対し、私の言葉は洪水のようにあふれた。〈そうじゃない、俺がいいたいのはそんなことではない〉といった苛立ちを兄はほとんど示さなかった。兄が、まるでタイトルのように字を書くと、私はそういう標題の短い物語を一気にまくしたてる。兄も、きっと二人して合作する小説家のつもりだった頃を思い出していたと思う。私たちに共通の思い出にまつわるキーワードのようなものを兄は選び出し、ゲーム感覚で書きつける。たとえば「象の水」と。すると、私の脳裡に、なつかしい場面が浮かんでくる。そうそう、そんなことがあったわねえ、あのときは三人で大笑いだったわねえ、と私は語りはじめる。97-98P

声とイタコ、代弁、筆談など書くことと声のモチーフも興味深く、血のつながりのない二人が、ひとつながりの言語機能を持っているかのような時間を過ごしているさまは読んでいてとても沁みるものがあった。兄の言葉の代弁、代言、これも俗に言う翻訳だろう。しかし、もしかして実の親は作中の情報から類推できるミステリ的な仕掛けがあるんだろうか、とちょっと思った。

そして「おどるでく」は傑作。東北の寒村でローマ字日記ならぬロシア字日記を見つけた語り手が、その子供の頃からの友人の日記を日本語に翻字しながら書くこと、読むこと、言語の営みのなかに住まう幽霊的存在=おどるでくを見つけ出す怪談でもある。非常に面白いけれども説明もまた難しい。郷里の友人の書いたロシア字日記を翻字するというプロセスをベースにしつつ、カフカの「オドラデク」ならぬ「おどるでく」を「踊る木偶」?とも読み換えたりしつつ、それを「おんぞこない」(御損ない)「やくざれ」(役立たず)「おいなしっぽ」(生い無しっぽ? 成長し損ない)など方言(作中の方言は半分くらい創作したもの、と著者が後の併載インタビューで語っている)と絡め、部屋の隅に住まう「スマッコワラシ」という土地の幽霊的存在とも結びつける。著者は平成新難解派などと呼ばれた一人で思索、考察が多めの批評寄りのスタイルではあるけれど、特に文章が難しいわけではない。書かれていることの広がりを捉え切れているかが難しい。

おどるでくは要するに(と私はそのあいまいさにがまんできず一義的な定義をする)幽霊である。いや単なる幽霊ではないと氏に反論されるだろうから、霊的存在といいかえる。182P

小説が語られる内容で勝負するとしたら、おどるでくは語り方、その表層に姿を現す。191P

ここ一年間の私の翻字作業が翻訳の名に値するかどうかは別として、あらゆる翻訳は最終的に原作の行間にただようおどるでくを読者の心底にうつすことを目的とするといっていいだろう。そのうつし方は、病気をうつすようにしてなされる。198P

存在しない言葉、より正確にいえば、実在する言語の意味を捨てて読みと文字だけを採用した段階でわがイロハは産声をあげたのであるから、氏の指摘通り、日本語は幽霊=おどるでくそのものといっていい。228P

郷里の友人が異言語の文字で記した日記を翻訳しつつ、それと自分の記憶をすり合わせて他者がものを書くことの意味を考えながらそれを読み解釈していくことで、方言含めた寒村の固有性と翻訳という普遍化への回路を見出し、言語とは何かを問うていくことが「おどるでく」に込められたもの、だろうか。

感動的だったのは肥田岩男の二大事件についての箇所だ。伊勢神宮式年遷宮に遠い地にもかかわらず大工として呼ばれたことと、小屋を建てたり伐採したり炭焼きをしたり牛馬の病の簡単な手当が出来たりといった故郷で生きるための「最低限の技術」がシベリアの収容所で労働英雄として賞賛されたところだ。「「御損ない」(専門家でない)」の生きるための技術が遠い異国で賞賛される技となること、ここに翻訳という営為にも似たものがあって、これが幾つもの方言とともに語られるのも本作のコンセプトを示している箇所だとも思う。

ロシア字日記の元ネタと言える石川啄木のローマ字日記やキリスト教の懺悔録などを引き合いに出してもいて、ロシア字日記、ローマ字日記に懺悔、告解という私的行為とそれを印刷する「写し」という相反する行為にも「おどるでく」が関わる。キリスト教は本書で随所に出てくる。

ほかに「大字哀野」、オオアザアイノと読むべき地名を舞台に、ユダヤ人と中国人のあいだに生まれ「アイヤー」という中国語の感動詞を使うことで「アイヤさん」と呼ばれている医者を軸に、彼と語り手の妹の国際結婚にいたる往時を振り返るオウジアイヤという読み換え・言語の交錯をめぐる中篇や、「和らげ」という単行本未収録だった短篇はまさに翻訳や語注、辞典の別称としての「和らげ」という言葉を主題にした作品で、「キリシタン版『エソポ物語』」が出てくるキリスト教要素もあり、「木偶人形」の劇という「踊る木偶」との繋がりもあったりして、裁判、夜尿症、神がかりの祖母など幾つもの作品に共通して出てくるものがあるだけではなく、この猫又サーガを通じて翻訳、方言を通じて言語を考えるベースが一貫していることがわかる。


二作についてばかり書いてしまったけれど、というわけでこれは非常に面白かった。この人の文章は「群像」に載った「『ドン・キホーテ』私註」を読んだなという記憶しかないけれどその頃からいくらか興味はあって『おどるでく』の単行本などは持っていただけで積んでいたんだけれど、故郷と方言と言語と翻訳をめぐってこういう小説が書かれていたというのは知らなかった。
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