薄い本を読むパート3

薄い本を読むパート2 - Close To The Wall
一年おきにやってる気がするこれ、三回目。今回は厳密ではなく本文200ページ前後、とややゆるめに選んだ20冊。冊数も記事も分量が増えて行っている。

フリオ・ホセ・オルドバス『天使のいる廃墟』

スペインの作家による中篇小説。自殺者がやってくる廃墟の村パライソ・アルトへやってきた語り手が、ある心変わりによって自殺者を見送る「天使の務め」を果たすようになり、さまざまな人たちの最後の話を聞いていく。自殺者を描きながら晴れやかな雰囲気に満ちた奇妙な物語。天使の務めとは自殺を思いとどまらせることではなく、ただ話を聞き最後のちょっとした頼み事を頼まれるというようなものになっていて、訪問者の話も切迫した陰鬱さというのとはまたちょっと違う。

死なんて、ひとつ隣の家を間違えて訪ねようなものでしかないんじゃないですかね。110P

と言うように。「この胸の痛みほど人生で愛おしいものはない」という繰り返される歌のフレーズがあるけれども、だからといって自殺を否定するわけではなく、生の賞賛も死の否定もしないような描き方になっている。生から死への途上の場所、現実と幻想のその中間地点、そういう灰色の領域だ。見送っている語り手の元に最後にやってきた人物は元恋人のアンヘラつまりAngelということは最後に見送られるのはそもそも自殺しようとして村にやってきた語り手だったのだろうか。そこは明確にならずに終わっている。天使もまた天使に見送られて、という締めだとは思うけれども。

日本では優しいファンタジーとして受け取られてる印象だけども、キリスト教の自殺の禁忌があるとまた違った意味がありそう。スペインでどれだけそれが強いかはわからないけれども、その禁忌がもたらす抑圧や遺族のダメージを和らげようとして書かれた可能性を考えている。天使というキリスト教的なイメージを使っているのはそのためではないか。穏やかな作風には案外闘争的な側面があるんじゃないか、と思っているけれどもどうだろうか。登場人物では、逆立ちで現われて首から血を吸う吸血鬼みたいな少女が印象的で、逆立ち、コウモリの真似かよって思った。

ミルチャ・エリアーデ『令嬢クリスティナ』

ルーマニア宗教学者にして小説家エリアーデの最初の幻想小説と言われる長篇。ルーマニアのある村に滞在する画家と考古学者は、その貴族の館で不気味な怪奇現象に見舞われるようになり、それには十数年前の農民一揆で二十歳前に殺された令嬢の影響があるようで、という怪奇幻想小説

吸血鬼ものというかゾンビものというか、死んだはずの人間が若い男を欲するあまりに現世に侵食しつつある異様な雰囲気が立ちこめており、過去と現在、異界と現実が重ね合わされるような描写は「一万二千頭の牛」での異なる時間の重ね合わせを思い出させる、著者通有のものだろうか。結構ストレートな恐ろしくもエロティックな幽霊譚という雰囲気だけど、一等印象的なのはやはり九歳のシミナだろう。クリスティナの影響を受けて底が知れない雰囲気があり、ある時には画家にキスがヘタねと言い放ち、靴にキスさせて、ここには鞭がないのと嘆くこのサディスティックな振る舞い。幼いシミナのエロティックな場面を描いたことで非難を受けたというのもなるほどなと思わせるものがある。石川淳の「鷹」のラストを思い出した。貴族の一族が滅ぼされる結末は、過去の農民一揆の貫徹によるんだろうけれど、何故そこまでこの一族が疎まれているのかちょっとわからないところがある。

夜と月、すみれの匂いが雰囲気を盛り立てている幻想譚。サキュバス的なイメージがあって、締め方も含めてちょっとミソジニーな印象もある。ミハイ・エミネスクの詩の引用があり、金星ルチャーファルというのはなるほどルシフェルか、と。

フランツ・カフカ『変身』

チェコプラハのドイツ語作家の中篇、角川文庫の川島隆による新訳。カフカ詳しくないけどすっきりしてて良いと思う。長文の解説も丁寧で、本篇では冒頭の貴婦人の絵が中盤で固守するものだったところや、ラストシーンでグレーテの身体を強調する倒置法になってるところが再読して印象的だった。厄介な虫も消えてラストは妹の結婚を考える将来の明るさという風に覚えてたけど、妹の若々しい身体にそれを見出しているところは失念していて、倒置法でそれを強調することでグレゴールの虫と化して埃まみれで傷つき死んでいく身体との対比が鮮烈になっている。

古典新訳丘沢訳以来十年ぶりとはいえまあ話は概ね覚えていた感じだけど、仕事に忙殺されて鬱になったら家族から害虫扱いされて死んだらお荷物が下ろせたって感じで家族みんなが喜んでる、という自虐的にもほどがある話で、なんかちょっとゴーゴリ「外套」を思い出す悲哀とユーモアがある。解説では三人の紳士が人間とは思えないと書かれていて、これは学生時代読んだ時にコメディタッチな描写として印象に残っていた箇所だった。紳士は明らかにコメディリリーフって感じ。冒頭出てきて、中盤で人間性の証しとして守ろうとする毛皮を着た貴婦人の絵が、マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』を踏まえたものという説があるらしく、これは結構驚いた。で、持ち去られる毛皮の貴婦人の絵を守ろうとする虫の行動が、絵に股間を押しつけていて自慰だという説もあるらしい。そうすると人間性と性欲の関係が皮肉な形にも読めてくるか。「こっちへおいでクソ虫ちゃん!」の家政婦は印象に残る。グレゴールを看取った人。音楽と人間性、妹のヴァイオリンのくだりはやっぱり悲しいね。

解説が翻訳史や研究史の概説になっててここは最新の研究を踏まえたものだろう。そういえば自分はあまりカフカの伝記等は読んでこなかったので、プラハでの生活の様子や恋愛関係での面倒くささ、特に作品からは父の強権的な印象があるけれども実際はかなり違っていたというのは面白い。そうするとカフカ作品の父親像というのはかなりの部分、カフカ自身の不安や妄想に近いところがあり、じっさいカフカはかなり実務能力もあり有能だったらしいけれど、残された文章には相当自己否定的な側面があって、こうした気質が作品に繋がっている印象だ。恋人に一日に何通も手紙を書いて、返事を催促しまくる面倒臭さのうえに浮気性で色んな女性と親しくなっていくくだりは、かなりメンタルが不安定でさみしがり屋というか依存的というか、不安や被害妄想の強かった人物のようで、そうした根拠のない「不安」が作品化されることでカフカ世界ができている気がする。特に婚約者がいるのに他の女性に面倒な手紙を出し続けた件で婚約者らと話し合いの席を設けられて婚約破棄に至った「ホテルの法廷」事件というのがあり、これは『訴訟』(審判)でKは本当に何も悪いことをしてないのか、という説がありじっさい作中ではKは女性に対して節操がないという指摘がある。

しかし、背景として語られる二十世紀前半、カフカも罹患したスペイン風邪第一次世界大戦での情勢の不安定さや、カフカが亡くなってからのナチスドイツの台頭とドイツ系住民保護を口実にズデーテン地方を割譲させその後チェコ全土を併合、そしてユダヤ人迫害によって叔父や姉妹らが収容所で亡くなり、ブロートがパレスチナへ亡命といった歴史は、コロナ禍でのロシアのウクライナ侵攻という戦時下で、あまりにも「今」になってしまった。

翻訳について、池内紀訳を「大胆な意訳と省略によって劇的に「軽い」訳文を作り出し」154P、と評するあたり、あまり良くは思ってないのかなと思った。池内紀が明るいカフカを押し出したことはまあ功罪あるんだろうな、とは。集英社文庫のポケットマスターピースカフカの巻に川島訳の『訴訟』が収録されているほか、公文書や書簡の抄訳がある。まだ読んでない。

アントニオ・タブッキ『島とクジラと女をめぐる断片』

イタリアの作家によるアソーレス(アゾレス)諸島をめぐる掌篇、断片で構成された一冊。幻想的、隠喩的な紀行文だとはじめにことわりがあるとおり、見知らぬ島を虚実のゆらぎのなかで経巡るような不可思議な雰囲気が楽しい。

アルベルティーヌとマルセルという名前が出てきてどうやら『失われた時を求めて』を示唆しているらしい男女の会話や、古い様式を保持している捕鯨に同行した様子、島出身の詩人アンテールの生涯などがたどられ、メルヴィル『白鯨』、ミシュレ『海』などが参照され、そして島の男から聞いたというある陰惨な事件を描く短篇が、重みをもって巻末を締めることでふんわりした雰囲気のある本書全体をまとめる形になっているのが印象的だ。最初の一篇が「手紙の形式による夢」と題されていて、「ただ、そんな夢を見たに過ぎなかったのだ」と終わる。そして「世界も難破しかかっているのだが、だれもそれには気づかない」44Pなんていう一文や、「隠喩としてのクジラ」が本の主題で、リアリスティックな紀行文にはしないというまえがきのように一種夢幻的な雰囲気が漂う。

クジラや捕鯨やらの知識をぎゅうぎゅうに詰め込んだメルヴィル『白鯨』の逆を行くような断片性があり、切れ切れの男女の会話にプルーストが匂わされているように、あるものを総体的に描くのではなく小さな断片に大きなものを想像させるような方法が、「隠喩としてのクジラ」なのかも知れない。海の下に巨体が隠れているような一つ一つの断片。そういえば、「アソーレス諸島のあたりを徘徊する小さな青いクジラ」には、岩とクジラを見間違えた男と、その男と背格好が似てもいない男と見間違えた女が出てくる。ずっと男のことを考え想像していたからという彼女の言葉は本書においてとても示唆的。

イタロ・カルヴィーノ『ある投票立会人の一日』

イタリアの作家による、戦後イタリアでの投票立会人を描くリアリスティックな初訳の中篇小説。救護院の投票所を舞台に、司祭らが自由意志を疑われる障碍者に投票を誘導している不正に対して共産党員の主人公がささやかな抵抗を示しながら人間と愛について考える。

コットレンゴというその施設は「たくさんの不幸な人たち、身体障害者や知恵遅れの人や奇形のある人たちや、さらにさらに裏側の、知ることをまったく許さない隠された被保護者に至るまで保護するもの」ながら、選挙期間中では「ペテン、誤魔化し、背信行為と同義の場である」(10-11P)。ここで権利を尊重すべき左派政党に属する側が、特定の政治勢力によって搾取されているとはいえ障碍者らマイノリティの参政権を阻止するという皮肉な構図がある。事なかれ主義のように自由意志の確認プロセスを蔑ろにしていく状況に抵抗し、事態を把握してない知的障碍者の投票を阻止する一幕。

彼、アメリーゴは、政治の世界の変化は複雑で長い道のりを経てもたらされることを知っていた。幸運なめぐり合わせでいつの日にかはと期待すべきものではないと。だから彼にとっても他の多くの人たちと同様、経験をつむことがペシミストにならないですむことを意味していた。8P

こうした政治参加の意味を問いつつ、救護院に暮らす人々を目の当たりにし、また自身の恋人との繋がりを考えていくシリアスな政治的小説で、代表的なカルヴィーノ作品からは印象が異なる。その辺、本の半分ほどを占める訳者の三つの評論が文脈を補完している。

知恵遅れの若者がゆっくりとおやつを食べ終えたいま、父と息子はベッドの両サイドにずっと座って、二人とも骨ばって静脈の浮いた手を膝の上に置き、互いに頭を――父親は帽子を深くかぶった下から、息子は徴兵適合者のように丸刈りした頭を――ねじって曲げ、目の端で見つめ合ったままじっとしていた。
 そうなんだ、アメリーゴは思った。あの二人は、ああしてあのままで互いに必要なんだ。
 そして思った。そうなんだ、この在り方こそが愛なのだ。
 さらに思った。人間は愛が届くことで人間なんだ。そして我々自身がつくり出す境界以外に、愛に境界はないのだ。103P

「むずかしい愛」というと作者の別の短篇集を思い出す。括弧や「――」を多用していて入り組んだ文章構造はするっと読めないものになっていて、これは翻訳の問題なのかなと思ったら、元々がそういう「過剰な」文章で書かれているらしい。1953年から63年にかけて書かれ、これ以後通常のリアリズム作品を書かなかったというカルヴィーノ作品の結節点だとも評されている。15の掌篇を連ねたような中篇で、この形式はカルヴィーノらしい感じ。そしてこの作品は「いま、この瞬間、どの街にも「街」がある」と終わるけれども、この「街」は『見えない都市』の都市と同じcittaという単語だと。政治的な作品では「ポー川の若者たち」は未訳か。

カルヴィーノ、まだ五六冊積んでるし評論集をそういやまだ読んでない。『なぜ古典を読むのか』なんてみすず書房版を持ってるのに。訳者の柘植由紀美が評論を載せていた「葦牙」という雑誌、確か文学フリマで見たことあるような、と思ったら幻視社で出展してた時にも出展していて、それで見たことがあったようだ。

スティーヴン・ミルハウザー『魔法の夜』

アメリカの作家による中篇小説。アメリカ南部、半世紀ほど前のコネチカット州の海辺の街の夏の夜にさまよう子供や大人たちばかりか、月明かりの下でマネキンも人形も動き出す、魔法のような一夜を描いた作品。ミルハウザー作品でも特に雰囲気特化型の感がある。

訳者あとがきでは原文はhotとwarmが半々に使われているとあり、温度感が伝わる。今のようにだだ暑いわけではなく、暖かな夏の夜、外を出歩きたくなるような時間、一人出歩いて森のなかで裸になったり、三人で図書館に潜入したりというちょっとした非日常の解放的な雰囲気が良い。マネキンや人形が動きだすファンタジーでもあり、そうしたもろもろの醸し出す月明かりの夏の夜の空気は確かに良いんだけど、いささか物足りなさもある。というより、雰囲気を味わうために物語性をあえて除いてる気配があり、まあまあ好みが分かれそうだと思った。何も起こらないわけではないけど特に何かが起こったわけでもない、中間的な空気。グループもあるけど出てくる人はみなどこか「普通」から外れた、居場所を探す人たちで、そうした一人一人が夜の街で対面したりすれ違ったりしてあなたは一人ではない、という呼びかけのようでもあり、月の光でお読み下さいというのは読者もまたその一人として包みこもうとするような仕掛けか。

ミルハウザー入門にと訳者は言うけど、個人的には入門には向かないと思う。私は『イン・ザ・ペニー・アーケード』が初手でこれが良かったから他も読んでるけど、本書からだと他に進むかは疑わしい気がする。読んでいてこの話はアニメなり映像なりで見たい気がした。一つの街で遭遇したりすれ違ったり、同じ場所を別の視点から見たりといった交錯や、幻想的な雰囲気は絵にしたら映えそう。

パーヴェル・ペッペルシテイン『地獄の裏切り者』

honto.jp
ソローキンも属したロシアのモスクワ・コンセプチュアリズムのアーティストにして作家による短篇集で、トンデモ宇宙理論、天国における永遠の生を保証する「慈悲深い」兵器など、奇想SFを通して死を断絶としてではなくどこか楽天的、親和的に描く作風が特色。ソローキンほど壊乱的ではなく、また別の何かに似てるなと思ってたらケネディ暗殺ネタの作品があり、J・G・バラードっぽいところもあるんだと気づいた。死んだピカソを蘇生させる一篇にはロシア宇宙主義のニコライ・フョードロフへの言及があり、死生観の影響はそこか、とも。

最初の「太陽の冷たい中心」が「宇宙の新しい地球中心モデル」というトンデモSF理論から始まる掌篇なんだけど、出てくる固有名がホーキング、パールマンペレルマン)、ジョン・リリー、そしてロジャー・ゼラズニイという並びになってて哲学的SFコントという感じがある。その続きにあたる「黒い星」では、 「アメリカ人たちはこれらの英雄たちに関して 「アストロナウト」という語を用いたが、ロシア人たちは「コスモナウト」という語を好んでいた。どちらもギリシア語の単語だが、二つの単語の違いはそれぞれの志向の違いを正確に記述している」(30P)とあり、アメリカ人は星に魅了され国旗にも星がありスターへの崇拝があったのに対し、ロシアでは闇と神秘を崇めており、星ではなく星々の間の暗いスペースに魅了されたというのがその志向の違いらしいけれど、なかなか興味深い対比だ。これ以外にもアメリカとロシアの対比は本書に多く見受けられる。

自分をアガサ・クリスティー作のミス・マープルの孫だと思いこんでいる女性がスパイ活動を行なう「音」という短篇では、耳という無防備なところから入り込んでくる音の怖ろしさについて語りつつ、周囲の人間がどんどん死んでいく妙な話で、この主人公が殺しているのかとも考えてしまう。

表題作「地獄の裏切り者」は1994年クリミア半島で語り手が自分のまぶたの裏で見た映画について語るという奇怪な形式を持つ短篇で、その語り手の脳内にしか存在しない映画のなかで、米ソ東西冷戦がずっと続いている二〇二〇年代を舞台に、「慈悲深い」音響麻酔兵器の開発について語られる。科学者は無痛で無害の大量殺戮兵器では満足せず、ついには「死後の世界のコピーと言いうる、魂の人工的な不死を作り出したのである――人工の永遠、人工楽園という、ヨーロッパの錬金術師の夢を実現したのだ」(87P)。近年の仮想世界で生きるSFにも近い設定だ。帯にある「音響麻酔兵器」と言う言葉が本文にあったか忘れてしまったけど一つ前の「音」が今作のフリにもなっている。表題は神と天国を裏切った天使に対し、地獄あるいは地上で生まれたものが地獄を裏切って天国に寝返るのを意味し、この生死の反転と米ソ間での裏切りが交差する。

快楽と死については「オルギア」という短篇がまさしくそれで、どこからともなく乱交する大勢の男女が現れ、という怪奇譚。「左右の思想のジンテーゼ」には他の作品にも出てくる「エコ社会主義」という資本と環境の対立をめぐる資本主義の終焉のイメージなどが語られる。環境の武器庫には自然現象だけではなくウィルスもある、と語るアクチュアルなスピーチが展開され、作者のコンセプトが結構素で出ているようにも感じられる。

この世界で無料なのは、夢と広告だけです。夢は欲望の世界と呼ばれています。広告も同じように定義できるでしょう。137P

本物の革命は安らぎの革命、眠りの革命となるべきです。人類の眠りを制限するものは全て――スターリニズムであれ資本主義であれ、学校であれ、幼稚園であれ、工場であれ、強制収容所であれ、オフィスであれ、軍隊であれ、労働であれ――全て呪いを受けるに値します。141P

「サソリの影。ジャッキー・Oの秘密の絵」というケネディ大統領夫人を名乗る語り手によって描かれた絵を題材にして実際に絵を挿入しながら、ケネディを題材にしてロシアの作家によるアメリカへの幻想が描かれたような一篇。

「3111年のパブロ・ピカソの復活」、作者と同名で経歴も似ている語り手の元に、「ニコライ・フョードロフ記念研究所」で行なわれている死者の復活に関する実験に協力しないか、と始まる短篇で、性欲旺盛だけど水も飲めない蘇生したピカソが様々な影響で画風を変遷させていく一年が描かれる。ペッペルシテインのパーヴェルという名はピカソのパブロに由来しているという作中の記述は現実でもそうなんだろうか。芸術家を復活させて作品を作らせるのはソローキン『青い脂』を思い出すけれど、作風は相当違う。新ピカソの絵を挿入しつつ、PPという同じイニシャルを持つ二人が合作に至る交流を描く。なるほどソローキンと同じ流れにあるだけはあるなと思うけどこちらはより落ち着いていて、交流の描き方もなかなか良い雰囲気がある。ピカソは何故か3111年とか言うけど舞台は2016年ということになってる。表題作とこれが本書では特に印象的。

訳者は、「不真面目なユーモアと快楽によって死を克服しようとする真面目な本」と評している。ソローキン、ペレーヴィン、ペッペルシテインでロシアポストモダンの三傑らしく、そういう流れもあるし奇怪なSF小説としても読める興味深い一冊。終末を安らぎに見る作風は今どう読まれるか難しくはあり、さらに戦時下の今だとあまり気楽に読めなくなる気もする。80年代的空気を感じないでもない、と思ったら訳者の人が「80年代のスキゾの亡霊のような本」と言っていた。

作者の代表作『カーストの神話生成的愛』は全二巻の大著で、独ソ戦を幻覚的に描いた小説らしいけど、ソローキンの『ロマン』を思い出した。読んでないけど。結構作品同士で同じ言葉や似た要素が出てくるので、訳書で省かれた短い作品というのがどういうのかは気になる。

イマヌエル・カント『永遠の平和のために』

ロシアのウクライナ侵略を機に読んでみたその一。学術文庫の丘沢訳。読んだことがなかったけど薄めだしざっと読んでみた。冒頭の部分を「平和とは、あらゆる戦闘行為が終了していることであり」として「敵意」という内心に踏みこんでた既訳から変えたことがまずひとつの眼目らしい。そこに空想的な平和論から現実的な計画へという訳者の意図がある。本文に対してはへーという感じで、共和制と連邦主義によって常備軍の廃止に至る平和へのプロセスというか。本文と同じくらいの分量の解説が欲しいね。歴史的意義や現在からの評価その他。まあそれは政治学の本でも読めってことか。

第一章「国どうしが永遠の平和を保つための予備条項」の「その2 独立している国は(国の大小に関係なく)、相続・交換・売買・贈与によって別の国に取得されてはならない」なぜなら国というものは所有物や財産ではないからだ、というのが印象的。

第二章の「国と国のあいだで永遠の平和を保つための確定条項」は「その1 どの国でも市民の体制は共和的であるべきだ」と「その2 国際法は、自由な国と国の連邦主義を土台にするべきである」「その3 世界市民の権利は、誰に対してももてなしの心をもつという条件に限定されるべきだ」で構成。

臣民が国民ではない体制では、つまり共和制ではない体制では、戦争は、浮世で一番お気楽な案件なのだ。なぜなら元首が、国のメンバーのお仲間ではなく、国の持ち主だからである。戦争をしても元首は、自分の食卓や狩りや離宮や宮廷や祝宴などなどを、何一つ失うことがないからである。30P

平和な状態は、民族と民族が契約を結ばなければ、つくり出すことも保障することもできない。――というわけだから、特別なタイプの連盟がぜひとも必要になってくる。それを平和連盟 (foedus pacificum) と呼んでもいいだろう。それは講和条約 (pacturn pacis)とは違う。講和条約が終わらせようとするのは、*ひとつの*戦争に過ぎないが、平和連盟が目ざすのは、*すべての*戦争を永遠に終わらせることだからだ。40P(*内原文傍点)。

「民族」が主体になってるのは英語で言うnationにあたる単語の訳の問題だろうか。しかしNHKの番組で『永遠平和のために』の解説してるのが萱野稔人なのが苦笑してしまう。ヒトラー発言はヘイトスピーチで違法なんでしたっけ。

閻連科『年月日』

日照り続きの村から人々がみないなくなっても、一本のトウモロコシを育てるために残った七十歳の老人「先じい」と盲目の犬「メナシ」が、食糧も水もなくなりつつあるなかで懸命に生き抜き自然や野生動物と戦う、中国の作家による寓話的な中篇小説。犬文学その一。

閻連科は初めて読んだので、この作家にまつわる反体制、禁書の作家という攻撃的なイメージはそんなになくて、ぬくもり、詩情に拠った本作は各国でもほとんど論争的な評価はなかったというのはそうなんだ、という感じだった。限定された状況での老人と盲犬だけの孤独な自然との闘争を描いていて、この二人の関係の親密さや、陽差しの強さが実際に重みとして観測できるという不可思議な設定によるリアリティの描写など、なかなか面白い。ただ、この犬文学の一作、冒頭部分でトウモロコシが栄養のあげすぎで枯れかけているのを見つけた先じいが小便をかけているメナシを蹴り飛ばすシーンがどうにも飲み込みづらい。貴重な食糧を譲り合う無二の関係なのは良いんだけど、そこは気になる。

宮内悠介『黄色い夜』

エチオピアに隣接する架空の「E国」では砂漠のなかに立つカジノタワーがあり、最上階の国王との勝負に勝てば国が手に入るという。中篇の尺に旅、ゲーム、国と言語、精神医療など宮内作品テーマや後期バラード問題などが詰まっているけれど、やや物足りない。

「先進国の人類をトランキライザーの浅い眠りから覚ますのは、たぶん犯罪だ」128P、これ見た瞬間後期バラードだって思って、精神医療と開放病棟といえば火星がそんな感じだった『エクソダス症候群』じゃんと思ったらインタビューでまったく同じ話が出ていた。それはそう。
宮内悠介さん『黄色い夜』 | 小説丸

宮内作品のエッセンスが詰まっているといえるけれど同時にどれも展開しきれてないような印象がある。私が咀嚼できてないだけ、とも言う。色んなギャンブルの仕掛けはエンタメ的に楽しいし、危険地帯を旅する空気感は出てるし、一人しか話せない言語のくだりは良いんだけども。ルイの夢見る「個々の狂気が、ただそこに現存する世界だ」129P、というのはフーコーの言う狂気の「大いなる閉じ込め」の逆をやるという話かもだけどフーコーは読んでない。その意味ではタワー内部は博奕狂いの狂人だらけということでもあるだろうし、言語と塔はバベルだろうか。

『狂気の歴史』は持ってないから『フーコー・コレクション』の一巻開いたら、「狂気は社会のなかにおいてしか存在しない」と言うインタビューがあった。これ、狂気は社会が作る、という意味だと思うけど、これを社会のなかに狂人を共存させる、と読み換えると、という話なのかも知れない。

ヴァージニア・ウルフ『フラッシュ』

犬文学その二。コッカースパニエルのフラッシュという犬を語りの中心に置きながら、その飼い主となったエリザベス・バレット、後にロバート・ブラウニングと結婚する女性詩人の生涯を語る、イギリスの作家による奇妙な伝記。バレット嬢が犬とよく似てると書かれてて写真を見たら本当に似てて笑った。

エリザベス・バレットがどういう見た目なのかを説明するのに、コッカースパニエルみたいな髪型、と言って良いレベルなのでネットで検索して写真が出て来た時に吹いてしまった。

夫人の顔の大きな口、大きな眼と、豊かな巻き毛は、奇妙なことに今もフラッシュの顔に似ていた。別々に分かれてはいるが、もとは同じ鋳型で作られて、おそらくお互いがお互いの中に隠れているものを補い合って完全なものにするのだろう。181P

まあそれはともかく犬視点で血統の高貴さを誇りながら人間がそうではないことを批判する皮肉な語りから始まり、自然の豊かな田舎でミットフォード嬢のもとで育ち、主人とともに散歩しながら歓びのなかで飛び回る幸福な幼少期から、友人のバレット嬢に譲られる巣立ちのもの悲しさが第一章。その後、家から出ないバレット嬢の部屋で暮らし、彼女が心待ちにする手紙の主の男性が訪れた時には噛みついたり、治安の悪い場所でフラッシュを繋げずにいたら犬泥棒に攫われて、家族に反対されても身代金を出して取り戻したり、犬と飼い主とその恋人の関係が描かれる。

エリザベスとロバートの秘密裡の結婚は、何かが起こっているらしいけれどそれが何かは知らない犬の視点から描かれているので、描写をたどっていくとはじめて、あ、これは、となるところがあり、犬の視点での謎解きのようで面白かったりする。二人が結婚し、イタリアへ行って鎖に繋がれなくて良くなったという解放感や、二人の赤ちゃんと仲良くなる犬と子供のちょっとした描写がやっぱり良い。本書は犬の視点を取っているけれど、序盤でバレット嬢の考えが述べられているところは関連したものだろう。

結局、言葉で何でも言いあらわせるのだろうか、と彼女は思ったのかも知れない。言葉は、何かひとつでも言いあらわせるのだろうか。言葉は、言葉の力では言いあらわせない象徴を破壊してしまうのではないだろうか、と思ったのかも知れない。少くとも一度はバレット嬢はそう思ったらしい。48P

終盤の方での以下の叙述は前掲部との応接として書かれているのだろうか。

フラッシュが生活しているのは、たいがいは匂いの世界なのだ。恋は主に匂いである。形も色彩も匂いである。音楽、建築、法律、政治、科学、すべて匂いである。彼にとっては、宗教そのものも匂いなのだ。毎日の骨つき肉やビスケットを食べるというきわめて簡単な経験を述べることも、われわれ伝記作者にはできないのだ。148P。

赤ちゃんとフラッシュの経験の相似性と、それが言葉を得るにつれて乖離していくという叙述が続き、しかしフラッシュの「彼の肉体には人間の情念が流れている」。赤ん坊が言葉を知るうちに、「ものの裸のままの魂が裸のままの神経にふれてくる楽園」(151P)から去り、犬はそこに留まっているかと言えばそれも違うと語られる。ともに長い時間を過ごし、裸のままのものには触れられずとも、同じ感情を共有するものとしての人間と犬。

もちろん犬の視点から描くというのは別の側面を提示することでもあるけれど、よく似ているばかりか情念をも共有するフラッシュを語ることはエリザベス・バレット・ブラウニングを語ることと同じだ、という意味が込められているのかも知れない。

ティモシー・スナイダー『暴政』

戦争関連読書その二。ナチスホロコースト、中東欧をフィールドとする歴史家がトランプ大統領誕生にともなって発表した、暴政から民主主義と自由を守るための20箇条を記したパンフレット。文庫とライブラリー判の中間のような独特の判型の小さい本だ。20箇条は以下の通り。

1 忖度による服従はするな
2 組織や制度を守れ
3 一党独裁国家に気をつけよ
4 シンボルに責任を持て
5 職業倫理を忘れるな
6 準軍事組織には警戒せよ
7 武器を携行するに際しては思慮深くあれ
8 自分の意志を貫け
9 自分の言葉を大切にしよう
10 真実があるのを信ぜよ
11 自分で調べよ
12 アイコンタクトとちょっとした会話を怠るな
13 「リアル」な世界で政治を実践しよう
14 きちんとした私生活を持とう
15 大義名分には寄付せよ
16 他の国の仲間から学べ
17 危険な言葉には耳をそばだてよ
18 想定外のことが起きても平静さを保て
19 愛国者たれ
20 勇気をふりしぼれ

トランプ大統領をきっかけとしながら本文では「現大統領」などとしか呼ばず、固有名を出さない書き方をしていてやや不思議だけれど、トランプを独裁、暴政のある象徴としながら歴史的な教訓を抽出する20世紀の歴史の素描という側面もあるからだろうか。

今読むと、トランプ大統領プーチンにかなり密接な関係があったことや、クリミア併合にともなってウクライナが情報戦に力を入れていることなどが指摘されていて、クリミア以後トランプの現在というアメリカの東欧史家の危惧がまさに現実となったことになる。本書でのロシアの影は特に印象的だ。今後の暴政が現われるとすればどこか、というときに中露を強く意識している叙述があり、現在に際してもこのウクライナ侵攻を見過ごせば次は中国の台湾侵攻に繋がるという危機感がしばしば言われている通り。本書は予見的とも言えるけれどもむしろ普遍的なんだろうと思われる。

本書の20箇条はいくつもの点で日本においても重要な示唆を含んでいて、プーチン的なもの、プーチンと同じ未来を見ようとすることへの批判意識を持つ上でも参考になる。一党独裁による忖度、服従の強要と制度の破壊への警戒など、非常に重要。

ウクライナにおいてロシアの支持する体制を作ることには失敗したけれど、アメリカにおいては成功したと指摘しているのは経済支援を取り付けた日本もまたそうだ。ウクライナ戦争がトランプ大統領のときに起こったら果たしてどうなっていたか、かなり恐ろしい。日本でも安倍晋三の時だったら、果たして。

あなた方が、「耳にしたいことと実情のあいだの違いなどどうでもいい」と考えたら、あなた方は暴政を甘んじて受けいれることになるのです。この現実放棄は自然で悦ばしいことに感じられるかもしれません。けれどその結果はどうかと言えば、あなた方が個人としての存在を失うことであり、それゆえに、個人主義に立脚するいかなる政治制度も崩れることとなるのです。61P。

スナイダーの他の本を参照しながら、解説で国末憲人がホロコーストの条件を挙げているけれど、組織や制度の破綻したところに虐殺が起こるということも含めてこの箇所は生々しいものがある。

愛国者たれ」は、トランプのやったことがどれだけ愛国心に悖るものかと延々と羅列する章で、トランプ大統領ナショナリストでも愛国者ではないと言う。「ナショナリストは私たちに、私たちがなりうるいちばんひどい存在になれとけしかけ、そのうえで君らは最高だと私たちに告げるのです」と。アーレントを引いて全体主義とは公的なものと私的なものとの境目をなくすこととして情報戦とプライバシーの問題に注意したりしているのも重要かな。

「9 自分の言葉を大切にしよう」の「言い回しをほかのみんなと同じようにするのはやめましょう」、これは結構ツイッターでは気をつけてることだったりするけどどれだけできているかは疑わしい。使ってしまう言葉もあるけど使わない言葉もあり、ある程度意識して線を引いているつもりだけど、どうしたって言葉は感染してしまうよなとも思う。

フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』

犬文学その三。廃村に一人残った老人と犬の滅びの予兆のなかで、ポプラの枯葉が混じる黄色い雨という象徴表現とともに、終わりの雰囲気のなかで生死が曖昧になる世界が描き出された、寂寥感ある抒情が漂うスペインの作家による中篇小説。孤独な死の安息という印象もある。読み始めると文末が「だろう」で終わる独特の文体になっていて、これは何なのかと思うと語り手が既に死んでいるらしいことがわかる。面白いのは、本作では語り手が死んでいる時は文末が「だろう」になるようで、推測表現と同時に死者が未来を語っているようにも聞こえること。

閻連科『年月日』の後書きで挙げられてて積んでるこれ犬文学だったのかと思って読んだのだけれど、あっちが自然に抗する生の力を描き出すのに対して、こちらは死や滅びに親しくなりながら言葉を残そうとするような対比ができる。日照りに殺される村と雪と雨に沈んでいく村と。あらゆる点で対照的。

私の身にも間もなく同じことが起こるだろう。考えてみれば、私も犬と同じだ。長年の間この村でひとり暮らしをつづけてきた私は、この家とアイニェーリェ村にこの上もなく忠実に仕えてきた犬以外の何ものでもないのだ。177P。

生と死のみならず、人と犬もが同化する。

その母が今、昔のように火のそばの木の長椅子に座って黙りこくっていたが、その姿はまるで本当に死んだのは自分ではなくて、時間なのだと語りかけているように思われた。111P。

時間が死んだので死者と生者が同じ場所に現われるということなのかも知れない。

1961年という年号が出てくるように、半世紀以上は前のスペインの山村という舞台での孤独な終末への旅路という感じで、冒頭からその詩的な文体から色濃く漂う終わりの雰囲気が良い。妻も自殺し語り手も死に親しむような感じで、自殺者の訪れる村を描いたオルドバス『天使のいる廃墟』にも通じる。

読んだのは単行本だけど、リャマサーレスはこれが文庫化した以外の二冊は古書価が高くなってて手に入らないなと思ったらこれから短篇集が出るらしいのは良かった。既刊の文庫化が続いてないのは売れなかったということなのかな……

ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム

戦争関連読書その三。ナチズムやスターリニズムのような精髄や本質をもたないことで全体主義の代名詞として使われるファジー全体主義としてのファシズムについて、その特徴を「永遠のファシズム」、「原ファシズム」と名付け列挙する表題講演ほか政治的発言を集めた一冊。

「永遠のファシズム」で、1945年パルチザンの勝利によってエーコ少年は「ことばの自由とは、修辞の自由を意味する」ということを知ったという。解放されてはじめて「独裁体制」と「自由」という言葉を目にした少年期の回想をたどりつつ、確固とした哲学のないファシズムを捉えるべく、特徴の列挙を試みている。伝統崇拝やモダニズムの拒否、非合理主義や対立意見の排斥、よそ者の排斥、経済危機や政治的屈辱への訴え、何も持たないものにとって唯一の特権としてこの国に生まれたことというナショナリズムへの語りかけなどなど、項目は14に及ぶ。

第八項で、敵の脅威を過度に表現しつつも倒せる相手だと思わせなければならず、「敵は強すぎたりも弱すぎたりもする」ため、「さまざまなファシズムがきまって戦争に敗北する運命にあるのは、敵の力を客観的に把握する能力が体質的に欠如しているからなのです。」54Pという箇所は現今示唆的だ。

平和主義は悪、エリート主義、一人一人が死を栄誉とする「英雄」となるべく教育される、戦争ごっことマチズモ、質的ポピュリズム、そして新言語(ニュースピーク)。

ナチスファシズムの学校用教科書は例外なく、貧弱な語彙と平易な構文を基本に据えることで、総合的で批判的な思考の道具を制限しようと目論んだものでした。58P

第九項、

ファシズムにとって、生のための闘争は存在しないのです。 あるのは「闘争のための生」です。 すると「平和主義は敵とのなれ合いである」ということになりま す。「生が永久戦争である」のですから、平和主義は悪とされるわけです。こうした考え方がハルマゲドンの機構を生むのです。敵は根絶やしにすべきものであり、また それが可能であるとすれば、最終戦争は避けられません。54P。

などなど。ヨーロッパは今後、政治的に統制できる「移民」ではなく、自然現象としての統制できない「移住」は今後より進んでいくだろうとして、攻撃的な大人たちへ涵養の教育を施すのは無駄だとして、「野蛮な不寛容」を撲滅するための教育の重要性を訴えてもいる。

戦争、メディア、ファシズム、外国人排斥などについての時事的な発言集で、20世紀の本なので色々構図が変わっているところもあるだろうけれども、遍在する原ファシズムへの警戒としてはやはり今なお参考になるだろうし、日本の教科書についても「思考の道具を制限しよう」という気配がないか、と。

アレホ・カルペンティエール『時との戦い』

honto.jp
20世紀ラテンアメリカ文学の代表格の一人のキューバの作家による短篇集。ニグロの老人の杖の一振りによってある男の死の床から生まれるときまで時間が逆行していく「種への旅」や、メビウスの帯のような円環的時間など、表題通り時間操作を特徴とする作品集。

印象的な表題で前から知ってて集英社ラテンアメリカ文学全集版を積んだままだったけど、新訳短篇を加えた水声社版で読んだ。ディックの『逆まわりの世界』を思わせる「種への旅」も良いし、欧州から新大陸へ旅した音楽家の旅路が円環的に回帰する「聖ヤコブの道」は読み応えがある。ボルヘスを思わせると思ったら実際に敬愛する作家だったらしい。

「カテドラルの二本の塔が垂直に交わり」「庭のバラが飛び立ち、川から逸れた溝や小川に落ちる」と街を描くシュルレリスティックな表現が面白いなと思っていたら地震の描写だった「闇夜の祈祷」も印象的で、カルペンティエールはパリ在住時にブルトンらシュルレリストらとの親交もあり、時間をテーマとする作品性ともども、幻想文学やSFに近い作風と言える。ノアの方舟伝説を踏まえた「選ばれた人たち」では選民思想が相対化されるのとともに無為な徒労としての時間が描かれてもいる。

最後の「庇護権」はラテンアメリカの架空の国を舞台に、内閣秘書官が軍事政権によるクーデターから逃れて小国の大使館に政治的迫害からの庇護を求めて逃げ込むという話が、「聖ヤコブの道」のような円環を描いていく一篇で、作者がキューバ政府から冷遇された話とあわせて色々と面白い。大使館から見える外の金物屋の商品が、「先史時代から電球時代に至る人間産業の歴史」を表わす、時間の空間化として描かれているけれどそこにある人気商品のドナルド・ダックが買われる度に「同じだが別の」ものと入れ替わる示唆的な描写が結末と併せて印象的。

同じものが際限なく次々と入れ替わり、同じ台座の上でじっとしている姿を見ていると、永遠について考えさせられる。実は神も同じではないか。時代ごとに少しずつ強い姿に入れ替わり(神の母、神々の母、ゲーテがそんな話をしていたのではないか?)、おかげで不死の存在となれる。157P

曜日にまつわる章題が「月曜日の金曜日か次の火曜日の木曜日」といった狂った表現になっていくのはゴーゴリの「狂人日記」を意識してのものかどうか。トロイアの戦いを前にしたギリシャの兵士から、戦いの直前のさまざまな時代の兵士の内心を繋いでいく「夜の如くに」なども。

時間テーマがしばしば宗教的なテーマとともに現われてる気がするけど、ここら辺はどういった文脈があるんだろうか。まあなんにしろ、円環的な構成ってともかくも一篇を読んだ気にさせてくれるところがあるから良いね。最後で最初に戻ってでもちょっと違うっていうやつ、堅い締めでもあるね。

中井英夫『幻想博物館』

とらんぷ譚」という作者の短篇シリーズの一冊。薔薇園で知られたある精神病院は独特の幻覚や妄想を持った病人のみを収容し「反地上的な夢」を収集する幻想博物館だった。それを枠として13の怪奇・幻想短篇を連ねた短篇集。一篇がさらっと読める簡潔さが良い。古い文庫だと一篇ほぼ13ページでこれもトランプの数に合わせたのかと思ったけどさすがにそれはないか。

概ね七〇年代に書かれた幻想短篇で、「反地上的な夢」や、流刑にされた薔薇を意味する「流薔園」という設定など、この時代らしいと言うか、そういう叛逆のロマンティシズムが感じられる。全13篇で200ページもない本というで、さらっと読めてどれも良くて満足感があり、一篇の短さもちょうどよく、それでいて幻想博物館の枠を使って各篇の現実性を宙吊りにしてみせる構成にもなっており、そういう全体のテンポの良さというものが大きな美点でもあると思う。

なんともスタイリッシュ。集中では「聖父子」や陽気な変身譚「牧神の春」が良かったかな。「大望ある乗客」はどっかで読んだ気がするけど錯覚かも知れない。『虚無への供物』は、まだ読んでいない……。「牧神の春」にはこんな箇所もあった。

春はいつでも汚れていた。桜は全て白い造花の列だった。150P

ジョルジュ・ペレック『パリの片隅を実況中継する試み』

honto.jp
パリはサン=シュルピス広場が見える場所に陣取った語り手が金土日の三日間の観察を箇条書きのように100ページほど書き記したフランスの実験的作家による奇妙なテクスト。注目されない平凡なものを観察しようとしてしばしば書き手が疲れたと書いているのが面白い。

訳者解説が冒頭についており、「本書が再現しようとしているのは、某日某所の〈現実そのもの〉というよりも、その現実を把握しようとする〈体験〉なのかもしれない」19P、など本文を読むのに参考になる文脈を幾つか提示している。ほとんど箇条書きで書き手の簡潔な観察をとりとめなく書き留めたようなテクストで、本文自体は別に読みづらい文章ではない。時折このような観察も差し挾まれる。

見ることだけを目標にしていても、ほんの数メートル先で起きていることが見えていないのだ。たとえば、車が駐車するのに気づかない 74P

デッサンの訓練を文章でやってるようなものだろうか。

面白いのは日本人観光客の存在が頻繁に書き留められていることだ。1974年10月18日の日付があり、この頃はパリに行く人が多かったんだろうか。もっとも多く出てくる外国人が日本人という印象で、しばしばカメラを提げているとも書かれる。そして、「青リンゴ色のドーシーヴォー」など、青い車が頻繁に言及されており、日本人と青い車が書き手に固着した結果が「九十一台のオートバイに先導されて、青リンゴ色のロールスロイスに乗ったミカドが通る」121Pという本書唯一の非現実を記したと指摘されている妄想か冗談かの場面になる。

俳優なり知人なりにちょいちょい会って挨拶したりする場面があり、ポール・ヴィリリオと遭遇したりしているのもちょっと面白い。友田とん『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』で言及されてて興味を持った本なんだけれど、そういやなんて書かれてたのかなと開いたら名前が出るだけだった。

後のアートなどに影響を与えてるらしく、どのような可能性をくみ取れるかが試されるようなコンセプチュアルな作品という印象。当時の記録としても日本人の描写など面白いところがある。

ニコルソン・ベイカー『ひと箱のマッチ』

ある時朝四時頃に起きることを決めた語り手が、毎朝夜明け前の暗い家のなかでマッチを灯して暖炉に火を付け、コーヒーをいれて燃える火を眺めながらさまざまなことに思いをめぐらせる時間を33本分繰り返す、些細な日常を描いた、アメリカの作家による一冊。

妻子があり医学書の校正を仕事にしていて、朝には子供を送ったりしている男を語り手に、明かりをつけて意識を覚醒状態にしたくないがために夜明け前の暗い部屋で手探りでマッチを探して火を付けるという変なこだわりを丁寧に描く序盤はベイカーの初期作品を彷彿とさせる。

他にも便座に座って小便をするという発見について語ったり、自殺する妄想で寝入ることなど、小説や物語を語ろうとするときには抜け落ちてしまうだろう日々の小さな具体的な場面に着目する、『中二階』『室温』などのベイカーらしい一作で、こちらはより時間が広く取られて一月に及ぶ経過も刻まれている。妻子のある男性の一人になれる時間はまだ誰も起きてこない早朝のひととき、そういう隙間の時間を描いている。靴下の穴を気にしたり、へそのゴマを火に投げ込んだり、電気をつけないままなんとか小便が便器に収まるように苦闘したり、そうした下らないことや日々の思索が渾然となっている。

語り手は電車でこう考える。

そこではっと気づいたのだ。私は非常に重要な商業中心地を、道一本すら見ることなく通り過ぎているのだ、そして私の人生にも同じようなことが起こっているのだ、と。118P

暗闇のなかでメガネをかけると何がよいかって、明るいところでメガネをかけると周囲がくっきりするのとは違い、暗いので何も変わらないところだ。29P

私は一気に読んでしまったけど、この語り手に一月付き合った気分になったので、一日一篇ずつ読んでいくのがより良いかも知れない。

確か私の初めての商業原稿はbk1というネット書店で読者投稿書評を書いてる人を集めた本にベイカー『中二階』について書いたものだった。白水社からではなかったのでこの本がでているのに気づいたのは結構経ってからだったけど、知ってからも読むまでずいぶん経ってしまった。ベイカーの小説作品の翻訳が止まっていて、アップダイクについてのエッセイが出てるけどアップダイク未読なので未読だ。

ウクライナ難民の件で狂犬病の話が話題になったけど、本書にも家にコウモリが入り込んできて、狂犬病のおそれがあるので、閉じ込めたあと警官を呼んで殺して処分した話が出て来て、なるほど清浄国でないとそういうことになるのか、と。

シュテファン・ツヴァイク『過去への旅 チェス奇譚』

オーストリアの作家による二中篇。第一次大戦勃発で10年のあいだ離れ離れだった男女の再会を描く未完の「過去への旅」と、ナチス侵略を背景にチェスをめぐる想像力の二つのありようを描く「チェス奇譚」は評判に違わぬ傑作だった。これまで未読だったけどツヴァイクと言えば評伝で知られていて読ませる作家なんだろうなとは思っていたので、「過去への旅」良いなと思ってたら「チェス奇譚」が圧巻で流石と思わされた。

第一次大戦による断絶と戦後に軍人たちの愛国デモを見て「もう一度なのか、もう一度やろうというのか?」と唖然とする「過去への旅」も、監禁下において精神の平静を保つために棋譜からチェスを想像し自己相手に指し続け狂気に近づく話を亡命途上の船内で聞く話も、今読むと生々しい。ツヴァイクの「内心の自由」のロジックは自殺にも至るもので、戦争によるヨーロッパの黄昏のさなか、亡命先のブラジルで日本軍によるシンガポール陥落の報にさらなる絶望を感じて自殺したといい、解説にあるコロナ禍以上に20世紀前半や戦間期の文学がにわかに身近に感じられる一冊となった。

未完の中篇「過去への旅」は、貧しい青年が枢密顧問官に取り立てられ住み込みをし補佐役として頭角を現わしメキシコへの派遣を任された時、その妻への愛を自覚し妻もまた青年への愛を告白することになり、二年の約束だったものが戦争の勃発により帰国を断念し現地で家族を作り、10年の後再会する。二人の待ち合わせの場面から小説が始まってそこから二人の来歴がたどられ、乗り込んだ鉄道の旅は回想とともに二人が昔訪れたハイデルベルクへと向かっていく過去への旅となり、彼女は「まだ何時間でも乗っていたかったわ」と郷愁に浸るなか、駅舎を出て愛国デモに出くわす。「狂気の沙汰だ」と唖然としながら、本篇のもう一つの題として考えられていた「現実の抵抗」と言うとおり、デモとともに現地のホテルが満員で、空いたばかりのベッドが寝乱れたままの部屋に案内されるなど、二人の熱は現実の細々としたものによって冷まされていく。

彼女も、彼ももはやあの頃と同じではなく、それでもむなしく懸命に探し求め、おのれから逃れつつも無意味で無力な骨折りのうちにおのれを引きとめているのだ、この足元の黒い亡霊たちのように。69P

未完というけれども書くべきことは書かれているとも思える。

「チェス奇譚」は「チェスの話」として既訳がある中篇。ニューヨークからブエノスアイレス行きの船にはミルコ・チェントヴィッチというチェスの王者が乗っていて、南スラヴの貧しい水夫の息子として生まれた彼は学習が進まず本を読むのにも難儀する知的能力だけれどもある時チェスに才覚を示す。ミルコの特質はチェスを「目隠し(ブラインド)で」プレイすることができないことだった。

チェス盤を想像界の無限の空間に作り出すという能力が、彼には完全に欠けていたのである。79P

彼が同乗していることを知ったある男がミルコに金を払って対決を挑み、窮地に追い込まれた時助言者が現われる。B博士という男の的確な助言でチャンピオンとの対戦を引き分けに持ち込み、語り手はもうチェスはしないという彼に再戦を頼みに行って身の上話を聞くことになった。

B博士は弁護士業務において教会や修道院の資産がナチスに押収されないように立ち回っており、ナチスによって参考人としてホテルに監禁され聴取を受ける。ホテルは一見人道的だけども、情報から遮断されいつも同じものを見ている状況が次第に彼を追いつめ、ある時看守のポケットから本を盗むことに成功するもののそれはチェスのチャンピオンの棋譜集だった。熟読し暗記し再現するのみならずいつしか彼は自分自身を相手にチェスを指すようになる。ミルコとは逆に、博士はチェスのすべてを想像で指していた。亡命中のツヴァイクの経験が投影されていると言われるそのその極限状況の描写が本作の肝とも言えるけれども、ここにツヴァイクの「内心の自由」をめぐるテーマがチェスと第二次大戦を結びつける形で展開される。

かといってこの短篇が単純に想像力を称揚しているとも言いがたく、博士の想像上のチェスは狂気と分かちがたいものになっている。外界との繋がりをもたない想像力は狂気と見分けがつかない危ういものになっており、精神の平静を保つためのものが精神を狂わせていく皮肉がある。遺作となった本作は訳者解説において「人生というチェス盤から自らの意志で間もなく降りることを決意していた、ツヴァイク自身の告別の言葉でもあったのかもしれない。」(208P)、と評されてもいて、ツヴァイクの「内心の自由」のありようがうかがえる。「あの独房の中でしていたことがなおチェスであったのか、あるいはすでに狂気であったのか」(139P)。それぞれ人妻との恋愛、チェスが戦間期と第二次大戦を背景にして展開されていて、二十世紀をやり直しつつある戦時下の現在、その書かれた背景がやたら身近な小説になっている。

チェスというのは、天と地の間を漂うムハンマドの棺のように、学問でもあり芸術でもあり、これらのカテゴリーの間を漂う、あらゆる対立項のまたとない結びつきなのではないか。太古の昔から存在しながら永久に新しく、機械的にできていながら想像力によってのみ働き、幾何学的に固定された空間に限定されていながらその組み合わせにおいては無限であり、常に発展を続けながら何も生み出さない。何ものへも導くことのない思考、何も算出しない数学、作品のない芸術、実体のない建築、そしてそれゆえにこそ、疑う余地なくそのありようと現存性において、どんな書物や芸術作品よりも永続的である。すべての民族、すべての時代のものであるただ一つのゲームであり、いかなる神が退屈を紛らわし、感覚を研ぎ澄まし、精神を張りつめさせるためにこの世にもたらしたものか、誰も知らない。84P

ヴォルフガング・ヒルデスハイマー『詐欺師の楽園』

バルカン半島南部の架空の小国で民族の誇りとされた画家が架空の存在だったことを暴露する手記のかたちで、公的には死んだとされる語り手がおじの仕掛けた詐術の手の内を明かす、虚構と真実、偽物と本物がくるくると入れ替わる、ドイツの作家による軽妙な長篇小説。

小説という虚構のなかで架空の国家を作り上げ、そこで怪しげな人物が国家規模の画聖捏造を企図し、画家の来歴を創作し画家の贋作(?)を作り、画家の権威を選定し、さらに死んだと思われた甥を悲運の画家に祭り上げて贋作を作成し、甥本人がそれを見て自分の絵を画商に見せたら贋作と判定され……

まあたいへん楽しい小説で、虚構としての小説が偽史の真実を暴くという皮肉なつくりもそうだけど、贋作師が名画の贋作のみならず、架空の画家を捏造し作成するそれは贋物の本物ともいえ、そして贋作師が感知しない本当の贋物が出てくる事態はいったい何と呼べば良いかわからなくなってくる愉快さ。贋作師が破滅するきっかけになるプラットとの場面も贋物と本物が入れ替わって鮮やかで面白い。怪しい俗物たちと美術をテーマにした「コミックノヴェル」としても面白いし、解説で言うように当時の世相を背景にした諷刺小説でもあるだろうけれど、国民国家、民族の物語の恣意性の寓話にも読める。

舞台となるプロチェゴヴィーナ公国はギリシャルーマニアアルバニアなどと国境を接するバルカン南部の小国で、隣国と領土争いをしてもいる。そこに取り入ったおじが国王に「私は閣下に古典期のある偉大な画家、民族の誇りたるべき一人の巨匠を進呈いたします」(76P)、と進言する。ここにプロチェゴヴィーナのレンブラントといわれるアヤクス・マズュルカなる画家の捏造計画がスタートする。ここで国王が要求するのが13世紀の民族的英雄の絵で、「民族的画家には民族的英雄を描く責任がある」という。国家の威信を画聖の捏造によって高めようというわけだ。プロチェゴヴィーナはブラヴァチアという隣国との小競り合いを繰り返しており、ある日の越境攻撃によって国境近くのアトリエで絵を描いていた語り手アントンは向こうの領土に連れ去られてしまい、反撃に出たプロチェゴヴィーナによって逆に敵国住民と見なされブラヴァチアに逃げ込むハメになる。連行されるのを見ていて殺されたと思った現地の報告を受け、おじによりアントンは夭逝の画家として祭り上げられ、先述したように自分の絵に似せた贋作を見てそれを知ったアントンは自分のスケッチを持っていって資金にしようとしたら、それこそ贋物だと言われる事態になる。アントンが巻きこまれた真作贋作の真実性の反転とともに、国境付近での喜劇的な顛末は両方の国家から弾き出されたダブルアウトサイダーでもあり、国に拠り所のない、死んだものとして偽名の放浪者となる運命は、そういえば作者はユダヤ人家庭に生まれたことを思い出させる。

贋作によって民族的英雄を飾り立てる詐欺師たちの跋扈する楽園としての架空の公国、プロチェゴヴィーナのありようは、国民国家という制度・物語の基盤を露呈させているようだ。それがバルカン半島を舞台にしているのも示唆的。しかし民族が嘘という話なわけではない。捏造のはずのマズュルカ作品が増えていくように物語は広まり、生きられる。贋作だろうとそこで得た情動は「嘘」ではなく、民族の物語がいかに恣意的だろうとも現実にその物語を生きてしまえばそれは「真実」にほかならない。贋作を題材にした虚構を通して本作が描くのはそのことではないか。

本書は贋作を扱った喜劇的な諷刺小説としての面白さとともにそうした射程も持っているように思う。そういえば語り手の名前アントン・フェルハーゲンはイニシャルをA.V.と書き、180度ひっくり返せる形になっているのは、幾度も真実性がひっくり返る本作らしいところだろう。

20冊も一つの記事にまとめるべきではなかったかも知れないけどこれでひとまとまりなのでしょうがないね。