図書新聞10月8日号にて住谷春也『ルーマニア、ルーマニア』の書評が掲載

図書新聞10月8日号にて、住谷春也『ルーマニアルーマニア』(松籟社)の書評が載っています。エリアーデをはじめルーマニア文学翻訳の第一人者として知られる著者の訳者解説や評論、翻訳者となった来歴を語った文章などを集成した貴重な一冊です。書評本文にも援用した『「その他の外国文学」の翻訳者』という本がありますけれども、その拡大版という趣もあって、日本のルーマニア文学翻訳の重要な一断面だろうと思います。こういう本が出るというのもかなり貴重だと思いますし、〈東欧の想像力〉叢書のスピンオフとも言えます。

全体の半分を占める分量でエリアーデについての論考がまとめられているのも貴重ですけれど、東大仏文出身で辻邦生とのかかわりがあったり東欧革命のさなかに現地にいた著者自身のエッセイも面白いです。

以下書評に使ったり使わなかったりした本。

白水社編集部『「その他の外国文学」の翻訳者』

ヘブライ語チベット語ベンガル語、マヤ語、ノルウェー語、バスク語タイ語ポルトガル語チェコ語の翻訳文学としてはマイナーな言語九人の翻訳者それぞれにどうしてその語を選び翻訳者になったかその翻訳の仕方などを取材したもの。

学ぶ言語を選ぶ理由はそれぞれだけど、他の人が選ばないもの、まだ訳されてないものを読みたいといったマイナー指向の持ち主が多く、辞書や文法書など語学学習の重要な教材すら手ずから作ったりといったバイタリティもあって、そうした訳者の個性を導き手にしたブックガイドにもなっている。

私がこのなかで読んだことがあるのはチェコ語阿部賢一の訳書くらいで、訳者解説などで文章に触れていてもここに語られた訳者の背景は知らなかったし、チェコ語以外にフランス語で論文を書いていて、三言語での立体的な見方を試みていることは知らなかった。そしてチェコではチェコ語学習者に暖かく、現地ではどうしてチェコ語がそんなに上手なのかと人に驚かれることが毎週のようにあったらしいけれど、フランスにいた二年間では一度もなかったというから面白い。各言語の話者がマイナーメジャーをどう自認してるかが窺われる。

マイナーどころかスペインのバスク語などある時期禁止された言語もあり、翻訳されることでその言語の存在や価値が知られる機会になればとバスク語訳者金子奈美は言う。だから、バスク語作家が自らスペイン語版を出していても、直接バスク語から訳してきたという。この言葉は自分が初めてバスク語から日本語に訳しているのかも知れないと思うこともあるらしい。対して同じスペイン語と親和的なマヤ語の作家は自作のスペイン語を自ら出していることが多く、吉田栄人はスペイン語から訳して後から突き合わせるという方針の違いもある。翻訳は言語を置き換えるだけではなく、音・喋りを踏まえることで初めてわかることや、人の考え方、文化、歴史、その他の背景もあってのもので、文章からだけでは難しいということがしばしば語られている。

口に出すことで翻訳にも反映される経験を語るのは一人ではなく、現地に行ってみたりさまざまな体験を通して、翻訳される文章のそう書かれる必然性が見えてくる。読めない言語とそこから広がる世界を私たちに見せてくれる翻訳という営為の、普段は影に隠れた見えなかったものを見せてくれる。

翻訳者たちの異言語体験記でもあり、その飛び込んだ先から翻訳という形で私たちに成果を持ち帰ってきた。訳者たちが開いた異なるけれどしかし同じ人間の描いた文芸の世界への九つの窓がここにあり、その景色を見せてくれるように整えたその窓枠の形も込みで読める一冊になっている。

『「その他の外国文学」の翻訳者』、表紙を見ると『その他の外国文学』なんだけど、白水社のサイトや奥付では「その他の外国文学」になっててAmazonも同様だけど、hontoだと『その他の外国文学』とカギ括弧か二重カギ括弧かが統一されてない。

ミルチャ・エリアーデ『ホーニヒベルガー博士の秘密』

エリアーデの初期幻想小説二篇を収める中篇集。双方ヨガ、タントラを題材にしながら、こことは別の時間、別の世界の様相が垣間見える瞬間を描く幻想小説で、特に表題作での「時間からの脱出」は発想としてはほぼSFではないだろうか。

「ホーニヒベルガー博士の秘密」は実在したホーニヒベルガー博士という人物の事跡を追っていたゼルレンディ博士という人の妻とふと知り合い、ゼルレンディ博士の残した未完のホーニヒベルガー博士の伝記を完成させて欲しいと依頼され、家に通って博士の残した資料の調査を始める。タイトルのホーニヒベルガー博士より、基本的にはその後明らかになるゼルレンディ博士が突如消えた謎を追うのがメインだ。そして博士たちが渉猟した東洋文化、オカルティズム、神秘主義なんかの話が出て来て、さらに博士の手記が発見されその解読を続けるうちにその真実に突き当たる。序盤、「われわれの生活のなかにも神秘は生き生きと働いている」17Pという一節があり、これはエリアーデ自身の「聖と俗」にまつわるテーゼでもあるらしく、本作もそういう感じの展開になる。ゼルレンディ博士の顛末もSF的で、語り手の顛末もSFっぽい。

「セランポーレの夜」、ブカレストが舞台の表題作に対し、こちらはインドの地方が舞台。学者や資産家たちとの忘れられない付き合いを回想しながら、ある夜、迷うはずのない道から不可思議な場所に迷い込んだ経験は何だったのか、という謎を残す幻想小説。こちらはタイムスリップネタといえる。建物近辺には三人で迷い込んだような植生の場所はなく、そしてたいていの人は喋れる英語もそこで出会った人は理解できない様子で、そこで聞いた人名からはどうやら100年以上前のある事件に際会したのではないか、という論理的推理を行なっていくのだけれど、そうした近代的理性は最後に覆される。ヒマラヤの修道院で出会ったタントラの修行者にその旨を話すと、この世の全ては幻影で人は何一つ実在物を生み出すことはできず仮象のたわむれを作るのみだ、という理論によって理性的推測、言うなればSF的発想は退けられてしまう。そこで幻想小説としか言いようのないものになる感じ。

ローレンス・ヴェヌティ『翻訳のスキャンダル』

異なる言語から翻訳するという行為において、時にさまざまな編集、歪曲が行なわれる事例をたどりつつ、メジャー文化への同化圧力に対してマイナーな異物としての異化的翻訳の重要性を説く翻訳研究の古典と言われる一冊。

翻訳が時にマジョリティ文化のステレオタイプの維持に貢献してしまうなどのメジャー/マイナーの権力の問題など政治性についての議論がベースにあって、ドゥルーズ=ガタリの「マイナー文学」が援用されるなど、なるほど九〇年代の本だけあって現代思想的雰囲気が随所に感じられる。

著者がイタリア語から英語に訳した翻訳を題材にした章や、「ビリティスの歌」というギリシャ語からの翻訳という体裁で出された創作を扱った章、翻訳がその言語の配列において原文とは異なる著作権を持つことを論じる章、英米の出版社が翻訳をほとんどせず多くは訳される側に立つ非対称性の章などなど。

アメリカにおける日本文学の翻訳が川端谷崎三島といった日本へのオリエンタリズムに偏っていることを論じながら、英語にとっては異化的な翻訳となった吉本ばななの『キッチン』に触れた章も面白い。futonなどの語彙を交ぜ、「アメリカナイズされた日本」を翻訳において実現する興味深い事例だ。

1994年のアメリカでは書籍の総出版点数における翻訳は3パーセント弱という低さで、解説での補足によれば翻訳大国と呼ばれた日本も2004年の7.7パーセントが2019年には5.7パーセントへと急減している。

多国籍企業が組み込む翻訳は、根本的にヨーロッパの植民地主義と同じように機能するものである」333P。

といったポストコロニアリズム的な問題意識もあり、帯にある通り翻訳において「世界の文化、政治、経済を覆う不平等」が現れる場面を抉りだし、それを「スキャンダル」として露わにする。

直野敦、住谷春也共訳編『ルーマニアの民話』

住谷春也の最初の訳書なのかな。恒文社の東欧民話シリーズの一冊で、美童子ものの色々なヴァリエーションを読んでると道中で誰かを助けて後のボス戦でみんなが集まってくる展開、構造が露骨かどうかの違いくらいで今も物語ってそうだよなと思える。民話を読んでると物語の原型、構造を意識することになってそれがなかなか楽しい。童話の採取者というか記録者のなかにルーマニアの詩聖といわれるミハイ・エミネスクのものもあって、この人の翻訳って珍しい。

「馬鹿のグーラ・カスカの物語」という一篇が前近代の発達障碍者か何かの話に思えてなかなかつらい気持ちになる。悪意がないけど、要領が悪くてミスをしてキレられるし、寝過ごしてやることが一杯になった時一度に片付けようとしたら全部ダメになって固まってしまう。「哀れな馬鹿を、目から火花が飛ぶほど、みんなでひどくなぐりつけた」ってラスト。馬鹿を殴ってすかっとするようにもその悲哀を語っているようにもとれるけど、笑話として並んでる。