向井豊昭「怪道をゆく」

怪道をゆく

怪道をゆく

というわけで前記事を受けて、ちょうど同時期に読み終えた、向井豊昭「怪道をゆく」を紹介したい。id:Thornさん強力推薦の作家で、残念ながら半年ほど前に亡くなられたばかり。史上最高齢の67歳で早稲田文学新人賞を受賞した人で、存在は前から知っていたのだけれど、この本を読み終えてみて、なぜもっと早く読まなかったのかと後悔させられてしまった。

さてこの向井豊昭という人は、東京都生まれだけれど、下北半島育ちで、アイヌ・モシリの小学校で25年間教員を務めたという経歴を持っている。そのため、作中には北海道、アイヌ等のモチーフがよく出てくる、そして同時に、地方と中央というモチーフがある。

もう少し正確に言うと、国家神道アイヌ神話、ヤマト語とアイヌ語という二者の関係が非常に鋭く問われているのが、向井作品だととりあえず私は見た。神話と言語というこのふたつの要素は、ともに明治という近代国家成立期において、著しい国家による統一的再編成を被った分野だといえる。「日本語の歴史」と密接な関係を持つのはこの点だ。

なかでも「熊平軍太郎の舟」では、神武東征の神話のなかで倒される「熊」と熊平という名前の一致と、母親の売春行為を一緒くたに同級生らに嘲笑される場面がある。この作は、アイヌ由来の名字である熊平という名が、国家神道による神話の再編とともに貶められてしまった状況が描かれている。

森羅万象、全てが神々であったことは、どこも同じだ。だが征服者は、自分の論理で、被征服者の文化を斬ってしまう。熊野神社御神体であると教師が教えてくれた三神は、征服者の神であり、熊野本来の神は家都御子神熊野速玉神、熊野夫須神なのだ、征服者の鋳型の中で変えられた熊野の神々は、クマピラの崖の上に鎮座し、アイヌ語を放逐してしまったのである。

とはいっても、この作、ただ単に地方のアイヌの血を引く少年が、国家神道による神話の再編に抵抗する、というようなわかりやすい図式化で済むような話ではない。上記のエピソードは回想のひとつであって、回想する現在においては、軍太郎は肝臓癌に冒されているというのがメインの筋書きだ。しかも、診察するのは「出張クリニック アマテラス」で、皇紀で日付が記された診療結果が郵送され、あとからそこのクリニックから「SM科 天 てるてる」などというアマテラスを茶化しきったような名前のデリヘル嬢みたいなのがやってくるという無茶な展開になったうえ、その女性はいつしか軍太郎の母親になってしまう。

売春で生計を立てていた母親と皇祖神とが混濁していくわけだけれど、そこから近親相姦的なイメージを描きつつラストへ向かっていく展開は非常に印象的だ。低俗さと茶番じみた荒唐無稽さが聖性に叩きつけられ、カオスじみた複雑さを抱えながら、描写は鋭くなっていく。なかでも、特に印象的な一節を引用する。

見えないものこそ、見つめなければならないのだ。

さて、ここまで読んで、何故私がこの本にとても惹かれたかの理由の一端に気づいた人もいるかも知れない。笙野頼子にとても似ている、と私には思えたのがそれだ。似ている、というのもやや語弊がある。もうちょっと正確に言うと、戦っている相手と、その時に何を武器にして戦うか、という点において共通するものがある、と思った。何かを見えなくさせてしまうものに対する徹底した戦闘のスタンス、そこも似ている、と思える。

さて、表題作の「怪道を行く」。この作品、北海道を車で走るなかで、時間が混濁し、明治の人物たちが出現したりする幻想小説的な枠組み(「タイムスリップコンビナート」を思い出した)を持っているのだけれど、同時に、語り手は自分の母の父の父の父の姉の木本千代という人物の残した短歌のことを探ったり、アイヌ語の歌をヤマト語に翻訳しようと試みたり、神謡集をひもといたり、金田一京助知里真志保等を引きつつ後藤明生的なテクスト探索をも行っていく。

そのような試みのなかから、北海道という場所とアイヌという文化の「見えないもの」をたぐり寄せようとしているように思える。近代化のなかで被せられた濃いベールを引きはがそうとするようだ。見えるものは全て憎い、と語り手は吐き捨てる。見えない国に行かなければならないと繰り返す。それが「近代」もしくは権力によってなされた、言語的、神話的その他さまざまな塗り替えの向こう側、ということなのかははっきりとはいえないが、ヘッドライトのスイッチを切って闇の中へと突っ走っていくラストシーンの力強さと爽快さはすばらしい。

笙野もまた、「近代」あるいは権力による中央集権的再編を大胆に読み替えて、隠され、見えなくされたものを見つめようとし続けている。そのような近代、権力への抵抗の基本的なスタンスは両者が共有しているものだと私は思う。またさらに、神話、幻想、笑い、標準語から外れた言葉遣い、などなど、共通する要素は数多い。互いをどう思っているのかはわからないけれど、私には、笙野と向井は戦友のよう見える。

さて、どうにも中途半端な紹介になってしまったけれども、笙野頼子読者には一読以上の価値があると思うので、是非に。

また、「日本語の歴史」の<方言コンプレックス>での話に関連して、ひとつ「劇團櫻天幕」から引用したい。ここでは寺山修司のことが話題になっていて、彼のアクセント一つない発音のことを、青森訛りだという人があるが、それは違うと語り手は言う。寺山の平板なアクセントは、青森訛りでもなく、東京弁でもないのだという。

青森のアクセントを捨てようとして、東京のアクセントまで捨ててしまった寺山なのだ。

ここに、標準語と方言というヒエラルキーをそのまま受け入れてしまった「上京者」のコンプレックスを鋭く批判する視点を感じずにはいられない。


もっと真面目な批評としては、以下の記事をはじめ、Thornさんの一連の記事を参照。
向井豊昭『怪道をゆく』 - Flying to Wake Island 岡和田晃公式サイト
[向井豊昭] - Flying to Wake Island 岡和田晃公式サイト
また、ちょっと先日いろいろ書いた藤田直哉氏の小論も私よりずっと深く踏み込んだもの。
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080619/1213881324

書きながら聴いていたCD。

伊福部昭:管弦楽選集

伊福部昭:管弦楽選集

アイヌつながりで、伊福部昭。これは芥川也寸志指揮の盤。アイヌの踊りをイメージしたというシンフォニア・タプカーラ以外には、交響譚詩が特に良い。序盤から迫り来るアグレッシヴなアンサンブル。二楽章ではまたもや祭囃子のようなフレーズまでもが現れる。聴いてすぐにわかる伊福部曲。

音が小さいので注意。