トーマス・ベルンハルト - ある子供

ある子供

ある子供

ガイドブック『東欧の想像力』でも近刊予告がされていた「自伝」五部作の第五作が本書『ある子供』、82年作。ベルンハルトといえば『消去』を買ったはいいもののずうっと放置してしまっているまま、この自伝的作品を読むことになったけれど、オーストリアへの痛罵などで知られるその過激さはここではそうとうなりを潜めており、八歳程度と思われる子供時代を回想する自伝的小説としてかなり素直に読むことができる作品となっている。

ここに見られるのは、父親が母を捨ててしまったため、母の子への愛がその憎悪に阻まれ、「自然に発露するということがなかった」、という親子関係の微妙な懸隔だ。もめ事ばかり起こす息子に怒って、母が「お前みたいな子が生まれるなんて!」「死にたいくらいよ!」と叫んで鞭打つこともあった親子関係のむずかしさもあってか、語り手「私」ことトーマスは、自己肯定感に乏しい。

僕は、他のどんな子供より、嫌な子供だ。
中略
人間社会全体が、そこに属さない唯一の存在である私に対峙していた。私は社会の敵だ。犯罪者だ。私という存在はこの社会に値しない、社会は私を拒絶したのだ。11-12P

そんな感覚を持っている私に対して、祖父はきわめて親密な相手として存在している。

祖父と一緒なら、眼前のものが本当は何なのか、見えてくる。観客席だけでなく、舞台が、舞台の背後にあるものすべてが、見えるのだ。19P

祖父は私の偉大なる解説者、第一の人、一番大切な人、根本において、唯一無二の人だった。66P

表紙に使われているのは、まさにそのトーマスと祖父を写した写真で、本作はトーマスと祖父との交流が重要なものとなっている。奇しくも、同じ版元から間を置かずに刊行された前回のナーダシュ『ある一族の物語の終わり』も祖父と孫が重要だったことと被っている。

オーストリアへの痛罵があるわけではないと書いたけれども、本作ではむしろこの祖父のアクの強さが魅力となっている。祖父は小説を書いているものの、五十五歳までお金を稼いだことがないという人で、数千冊の書物を持ち、キリスト教と学校教師を悪罵してやまない。「混沌を愛する無政府主義者アナーキスト)だ」という祖父は、

祖父はカトリックに対して徹底的に否定的だった。祖父にとって、カトリックは極めて低俗な大衆運動にほかならなかった。人を痴呆化し、骨の髄までむさぼる団体、休みなく徴発して空前絶後の財を築いた団体にほかならなかった。祖父の目から見れば、ありもしないものを売り歩いてなんとも思わないのが教会だ。つまり神様を売る、同時にまた悪しき神をも売る。そうやって世界中で何百万もの極貧にあえぐ人々を容赦なく搾取する。それも、教会の資産を拡大し続けることだけが目的だ。41-42P

と主張し、また学校を否定してこうも言う。

「教師どもの多くは実に卑劣だ! 家でかみさんに首根っこを押さえられているから、学校で子供相手に憂さ晴らしするのだ。わしはいつも教師を嫌ってきたが、間違いではなかった。これまで出会った教師は一人の例外もなく、すぐ、低俗で卑劣な性格を露わにしたものだ。」43P

以下は語り手の地の文として。

教師とは、子供を歪め、妨げ、破壊する存在以外の何者でもない。学校に子供を連れて行くことで、我々は、自分の子供を、日々町で出食わす大人と同様の不快な人間に、つまり屑にしているのだ。43P

トーマスたちは何度か引っ越しをしており、特に、トーマスが「楽園」だというゼーキルヒェンを離れざるを得なかったのは、母の再婚相手(語り手は一貫して距離を取り「後見人」と呼ぶ)がオーストリアでは仕事を見つけられなかったためで、ドイツのトラウンシュタインに引っ越すことになった。

そこでトーマスは、ドイツ人によるオーストリアへの差別的な視線にさらされ、同級生の嘲笑の的になり、学校へ行くことは断頭台に上ることと同じだというような苦悩に満ちた状況へと追い込まれていった。近くの山の上に引っ越してきた祖父と祖母の家は、彼の救いとなった。

私は毎日学校という地獄の中へ下りていき、シャウムブルガー通りという中間世界に帰り、午後には祖父の住む聖なる山に登った。私が一番幸せに感じたのは、この聖なる山に泊まることだった。105P

このとき、ナチスドイツがオーストリアを併合しオストマルク州へと名が変わり、挨拶は「ハイルヒトラー」へと変わっていくという政治的変化が訪れていた。トーマスも、ヒトラーユーゲントの前段階組織、「ユングフォルク」に加入することになった。学校よりも酷いというそこでは、同じ歌を歌い、大声を上げて皆で行進し、さまざまな「拷問」が課される場所だった。

しかし、奇妙なことにユングフォルクでの競争種目で好成績を上げ、「勝利のピン」を多数胸につけることができるようになると、学校での待遇が好転し、成績がなぜか上がっていった。百メートル走、五百メートル走を圧倒的早さで走ることで、トーマスは「英雄」になった。そして、トーマスの鬱屈を象徴するような激しい夜尿症がすっかり治まってしまう。戦争、ナチスの接近が、むしろトーマスに英雄になるチャンスを与えることになったわけだ。

終盤は、オーストリアが併合され、撃墜された飛行機など迫りくる戦争の影が色濃く漂い始め、ナチスドイツのもとで育っていくトーマスが描かれている。そしてそのなかで「英雄」となる彼の姿には強烈な皮肉が感じられる。

生まれた頃から、十三歳までの出来事、特に八歳頃のことを中心に、その頃の子供の視点から家族との関係、祖父との親密な交流、戦争とナチスが忍び寄る戦前を背景に描く作品となっている。子供の視点から語られる、子供たちの楽園、地獄の息苦しさ、人生の指針ともなる祖父への親愛が描かれた、自伝小説の佳品、という感じだ。ベルンハルトのイメージからすると、祖父のキリスト、学校批判の徹底したところが受け継がれたのかな、とも思え、また幼少期トーマスの社会の敵だという鬱屈した感情は、世界との軋みを生んでいるように見え、それが後年の文体の源なのかな、と思わされるところはある。

語りの現在時は四十歳を越えた時点でのものなので、自分が行っていた施設が療養所ではなく、教育困難な子供のための施設だったことが再訪して判明したり、祖父と祖母が既になくなっていることが時折書き込まれており、生前の祖父の姿を書き留めることもまたこの作品の目的ではあろうか。

あのベルンハルトの幼少期とはどんなものか、というような、おそらくは既訳の代表作を読んでからのほうが楽しめる作品だと思うけれど、八歳の子供が初めて乗る自転車で二十キロ離れた叔母さんのところまで行こうとして失敗する、という冒険を敢行する喜びにあふれた自信がどんどん不安と絶望に塗り替えられていく子供の無謀さを描いた魅力的な書き出しから素直に読んでいける作品となっている。


背表紙の上半分が目に入ったとき、一瞬、あれ、いつ洋書なんて買ったんだ、と思ってしまった。ペーパーバックの洋書風デザイン、どこかで、と思ったらフラバルコレクションの安藤紫野。