デボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く モンタージュ』

アカシアは花咲く―モンタージュ (東欧の想像力)

アカシアは花咲く―モンタージュ (東欧の想像力)

ブルーノ・シュルツ作品の成立にもかかわりながら、ナチスドイツ占領下リヴィウユダヤ人ゲットーで殺されたポーランドの詩人・作家デボラ・フォーゲル。〈東欧の想像力〉第十五弾の本書はポーランド語からの翻訳と、イディッシュ語からの掌篇や書簡の訳も含む、本邦初訳の作品集。シュルツのものも含む本書への書評二篇と公開往復書簡も収録している。

デボラ・フォーゲルは1900(あるいは1902)年、オーストリアガリツィア(現在のウクライナ南西部)のユダヤ人の家庭に生まれ、ドイツ語、ポーランド語で育ったものの、後に自ら父の反対を押し切りイディッシュ語を学び、それを執筆言語として選択した。イディッシュ語ディアスポラユダヤ人がドイツ語方言をもとにヘブライ語の語彙を持ち込み、さらにユダヤ人に寛容な東方に移るなかでポーランド語などのスラヴ系言語を取り入れてできたものだという。彼女は家族の縁戚の地リヴィウ(現ウクライナ)に戻った後ウィーンに疎開し、さらにまたリヴィウに戻り、大学を出た後心理学・文学の教職に就く。リヴィウ周辺のフォーゲルが暮らした土地は、オーストリア領、独立ポーランドソ連支配下からナチスドイツ支配下とさまざまな政治的転変をこうむり、またポーランド人、ウクライナ人、ユダヤ人が混住する地域という、まさに境界的場所でもあった。

結婚を考えるほどだったというフォーゲルとシュルツのあいだの手紙のやりとりが、シュルツの第一短篇集『肉桂色の店』の原型となった。1942年、およそ四十歳にしてゲットーでのユダヤ人掃討作戦で家族ともども殺され、同年にはシュルツもSS将校に殺されている。

詩集も残しているものの本書はフォーゲル唯一の散文作品集で、小説は短篇「アザレアの花屋」冒頭で言われるように、通常の「長ったらしい小説」になる以前のような、主人公なり人物なりがいるわけではない、独特の比喩や表現が散文詩のように続く断章の連なりで、正直私には難しいいタイプだった。しかし生をめぐる思索ののちに「やはり生きる価値はあるのだ」(66P)と言明する力強さは印象に残る。

ある一節の書き出しはこういうものだ。

 この時期の明け方時刻、春が緑滴る大きな布となって波打った。近寄ってよく見れば、手のひら型のマロニエの葉やライラックの葉に裁断されている。葉は「人の心に似て」飾り気がない。
 緑の海はそんなとき、家々と路面電車のガラス窓に波打った。灰色の水を湛えた海のように、正午に向かって膨らみ、それを過ぎると引いて、夜には緑の塊に凝固する。
 粘着質の芽吹きと青い空気の第二の月がこうして過ぎた。15P

そしてこの短篇「アザレアの花屋」では、最後に「これはまだあの小説ではない」と繰り返され、以下のように続く。

 それでも、これから到来するロマンスは、どれもこのように人生を扱うことだろう。すべてがそこに属し、プロットや続きが決して生じることのない年代記のように。
 年代記は、ほかより大事かもしれない出来事を知らない。年代記にとって、すべては人生に属し、それゆえに等しく重要であり、必要なものだ。69P

小説以前のとされる形式を採る理由はここに示されている。「アザレアの花屋」「アカシアは花咲く」「鉄道駅の建設」の諸篇いずれも人々、時間、風景の変化それ自体が題材となっている。


「ポスト・シュルレアリスムモンタージュ」と著者が呼ぶ作品とともに、シュルツとのかかわり、リヴィウの文化的状況など、フォーゲルから見えてくる、ポーランドユダヤ人がイディッシュ語を通じてアメリカとも関係する、モダニズム文学地図の書き換えを示す訳者加藤有子による解説が面白い。

解説によればフォーゲルにとって「モンタージュ」は重要な方法となっており、「異種混淆的状況と経験の可能性と、それゆえにもたらされる物事のヒエラルキーの消去の可能性を意味する」(206P)ものだという。そしてこの技法はリヴィウポーランド語雑誌「シグナル」に重ねられる。

ポーランドの独立とともに、リヴィウを含む現在のウクライナベラルーシリトアニアに重なる一帯は、ポーラン ドの東部国境地帯に組み込まれた。ウクライナ人、ベラルーシ人、リトアニア人など非ポーランド系住民は、両大戦間期ポーランドにおけるマイノリティとなった。リヴィウ刊行の『シグナル』 は、リヴィウおよびポーランドを民族混淆の地と捉え、ナショナリティに基づかない異種混淆性を文化的アイデンティティとして打ち出した。211P

この雑誌「シグナル」では、「創造的ジンテーゼ」としての創作がうたわれ、共存、争い、複数の文化、宗教、民族のジンテーゼとして創作が、「リヴィウの絶えざる辺境性、つまり東からも西からも辺境にあった」(212P)ことからもたらされたと宣言する。この雑誌はシュルツも寄稿し、本書所収作品の初出が載った雑誌でもある。

他にもイディッシュ語雑誌や美術家集団など、異種混淆的な当時の前衛的文学運動との関係を追跡して、イディッシュ語というマイナー言語だけどもそれゆえにアメリカのイディッシュ語雑誌というモダニズム文学の最前線に立つこともできた、と訳者は辺境性と国際性の関係を論じる。この辺境性ゆえの普遍性への回路に、きわめて東欧文化的なものを感じる。「東欧の想像力」とは何かといえばそれはこのようなありかたではないか。