『明日 一九四五年八月八日・長崎』 『五分間SF』『怪談』『インスマスの影』『聖なる酔っぱらいの伝説 他四篇』「百の剣」

明日 一九四五年八月八日・長崎 (集英社文庫)

明日 一九四五年八月八日・長崎 (集英社文庫)

井上光晴『明日 一九四五年八月八日・長崎』
タイトル通り長崎での原爆投下の前日の戦時下の一日、この日に行なわれた結婚式を中心に、関係する人物たちそれぞれの一日を描く、原爆の出てこない原爆小説。それぞれの人がそれぞれに展望し、持っているはずだった明日のこと。セリフは方言で書かれていていくつか意味のとりづらいところもあるけれど、戦時下の平穏とは言えないながらも明日を待ち、新しい門出と命の誕生を迎えつつある人々を描くことで、失われた明日と今生きてある今日との狭間を浮かび上がらせる、というか。公判が延期しなければ爆心地から遠く離れた場所で生き延びられただろう収監者や、路面電車の時刻表通りには走らないルートをたどる運転手はどうなっただろうか、という作者のあとがきは、占いにこだわる女性ともども運命の分岐が示唆されているところか。
5分間SF (ハヤカワ文庫JA)

5分間SF (ハヤカワ文庫JA)

草上仁『五分間SF』
アンソロジーでいくつか短篇を読んでいる草上仁、一冊読むのは初めて。さすがに一作5分では読めないんじゃないかという10ページ台の短めの短篇が収められていて、ちょっとレトロな感触の熟練のアイデアストーリーがきっちり楽しめる一冊。この雰囲気にYOUCHANイラストがハマっている。

怪談 (光文社古典新訳文庫)

怪談 (光文社古典新訳文庫)

ラフカディオ・ハーン『怪談』光文社古典新訳文庫
これも一冊通しては初めて読んだかもしれない小泉八雲。編集されてることが多いハーンの「耳なし芳一」や「雪女」などを含んだ『怪談』一冊の虫エッセイ含めての完訳。いい怪奇小説だった、という感想。概略知ってる話が多いけど「雪女」はこういう切ない話だったのかと意外だった。いずれも何らかの典拠があるものの再話によるもので昔話らしい語り口なんだけど、一作急に近代小説の書き出しになってて驚いたやつがリラダンの短篇が元ネタではないかと言われてて面白い。だいたいの話が昔々あるところに、式の書き出しなのに、この「かけひき」だけ、「処刑は屋敷の庭で行なうとの命令だった」で始まるんだから明らかに異色。「雪女」も、これはじつは元ネタがなくて、そもそも舞台の調布はそんなに雪深くないし、日本各地のこの美女の雪女が出てくるタイプの話はハーンの焼き直しが多いらしく、これは彼の創作によるものらしい。日本にくるきっかけとなるピエール・ロティ『お菊さん』を読んだのが、当時滞在していたカリブ海マルティニーク島だというのがちょっと驚いた。エメ・セゼールフランツ・ファノンのあのマルティニーク島がハーンにも関係してくるとは……。

インスマスの影 :クトゥルー神話傑作選 (新潮文庫)

インスマスの影 :クトゥルー神話傑作選 (新潮文庫)

ラヴクラフトインスマスの影』新潮文庫
ハーンから南條竹則新訳繋がりでこれを。既読の創元推理文庫ラヴクラフト全集一巻と中篇二作が被ってるけど、もう内容覚えてないので改めて。宇宙的恐怖というようにSFぽさもあって、同時にミステリ的な謎の探究でもあり、SFミステリホラーといえばもちろんポーなわけで、そういったアメリ怪奇小説のジャンル的伝統を感じる。宇宙(異次元?)と海中から怪物がやってきていて、未知の場所として極限環境としての相似性がある。怪物は蛸や魚や蛙やら、水棲生物のモチーフで形作られていて、海という生命の起源の場が同時に異形のものの居る場所になってて、そして自分自身もまた異形のものの係累なのではないかという底からの恐怖がやってくる。この人間が異形のものに浸食されていく恐怖は、「クトゥルーの呼び声」の人種差別的記述を見ると、混血の恐怖という人種差別と近似のものにも見えかねないところがあるけれども、自分が既にして人間ではないかもしれないという恐怖はP・K・ディックのオブセッションにも似ている気がした。

ヨーゼフ・ロート聖なる酔っぱらいの伝説 他四篇』岩波文庫
池内紀逝去と聞いて、積んであった編訳書のこれを読むことにした。表題の白水Uブックス版に、デビュー作として単独で刊行されていた『蜘蛛の巣』を併載した一冊で、この短い長篇はナチスが台頭する前に反ユダヤ政治結社で頭角を現わす男を描いていて、当時としても今現在読むとしても非常なリアリティがある。危機の時代はいつも似通うのか。これが書かれたのは1923年、ナチスミュンヘン一揆の数日前に連載が終了していて、作中で書かれる事件の日付がナチスにとって何か重要な歴史なのかと思ったらそうではなかったのに驚いた。ヒトラーの名前も確か作中に出てくるんだけれど、この頃はまださほど有名でなかったらしい。主人公の男は軍隊上がりだけれども生きて帰ったがゆえに家庭内に居場所がなく、成績優秀なユダヤ人への劣等感などを抱えながら、反ユダヤ主義に傾倒していく。ユダヤ人を劣等人種とみなす言説の受け売りをしつつ、国の中枢を巣くっていると考えるという差別主義の自己矛盾も描かれている。友人を殺し、社会主義ストライキを弾圧し、主人公テオドール・ローゼは成り上がっていく。

憎むべきヨーロッパ人の一人、テオドール・ローゼ。卑劣で、残酷で、不器用で、腹黒くて、野心満々、役立たずで、金の亡者で、軽率で、階級好きで、無信心者で、高慢で、卑屈で、しがない出世に目がないテオドール・ローゼ という男。ヨーロッパの若者といわれるやつだ。愛国者と称するエゴイスト、信仰なく、恩義なく、血に飢えていて、目先が見えない。これが新生ヨーロッパの担い手だ。118-119P

工場の門前でストライキを打った労働者たちに、市民組織が襲いかかった。刺し、ぶちのめし、射殺した。新聞には、労働者が通行人を脅嚇とある。もはや武器を使うしかなかったとある。アジテーターが巡回して、国民の蜂起を訴えた。市民たちは、職場でも、デパートでも、工場でも、役所でも、一斉蜂起のことを口にした。社会主義の新聞は、連日のように襲われた。警官が駆けつけてもいつも遅すぎる。やっと惨状を確認していくだけ。秩序の勝利だった。144P

彼は救うべき祖国を語った。そして若者層に人気を得た。これまでの経験は、きれいさっぱり消え失せた。テオドールは国内にはびこる「内なる敵」を憎んでいた。ユダヤ人や平和主義者、進歩派気どりのインテリを憎悪していた。皇太子やトレビッチュやクリッチェ探偵やザイファルト大佐を知った以前から憎んでいた。その点、いまもまるで変わらない。172P

あまりにも現代日本の似姿といってよく、百年前の小説にもかかわらず強烈なリアリティがある。後半にはこのテオドールにとってなくてはならない存在になるベンヤミン・レンツというユダヤ人がいるけれども、テオドールに力を貸すようでいながら裏切っても居る二重スパイでもあって、反ユダヤ主義者と付き合いつつ裏切る二重スパイのユダヤ人という描き方に、作者が現ウクライナガリチア出身のドイツ系ユダヤ人というダブルアウトサイダーだったことが重なってみえる。解説でもあるように、序盤の文体はすぐに即物的かつドライな文体へと変わっていき緊迫感を醸し出していくようになる。解説には同じくユダヤ人だった作家シュテファン・ツヴァイクへ、ロートがいちやはく亡命を勧めた言葉を引きつつ、ロートの言葉を要約してか、こうも書かれている。「ナチズムの野蛮に歓呼して、支配をそっくりゆだねるような社会なのだ」、と。「いずれ地獄が支配するのです」とも(388P)。

「蜘蛛の巣」以外の白水Uブックス収録分を。「四月、ある愛の物語」は旅の途中に訪れた街での、「ファルメライヤー駅長」は駅長が一目会った女性に思い焦がれて街と母子を捨ててしまう、いずれも放浪と愛の短篇。どちらも不倫的な過程が描かれていて、これは「蜘蛛の巣」の二重スパイと重なる気がするし、いずこにも安息の地のない放浪者ゆえとも思える。「皇帝の胸像」は『ラデツキー行進曲』短篇版ともいえるオーストリア=ハンガリー帝国亡き後、その多民族国家を哀惜する一篇で、「家」の喪失が描かれる。主人公のモルスティン伯爵はオーストリア=ハンガリー帝国のいち貴族で、帝国崩壊後も、新しい世界の風習に慣れることがない。彼は「超国家的な人間であって、これぞまことの貴族」で、自分が「何国人」かどうかなどを考えたことがない。

彼はほとんどすべてのヨーロッパの言葉を、いずれ劣らず流暢に話した。ほとんどすべてのヨーロッパの国々がわが家も同然だった。いたるところに友人がいた。親戚がいた。この点、オーストリア君主国自体がヨーロッパのミニアチュールであって、だからこそ伯爵の唯一の故里だった。282-3P

かつては祖国があった。まことの祖国、つまり、「祖国喪失者」にも祖国であるような、唯一ありうる祖国、多民族帝国のオーストリア君主国は、まさしくそのような祖国だった。その国が消滅して、いまや自分は故郷喪失者である。永遠の放浪者にそなわっていた唯一の故里を失った。296-7P

この箇所はほとんどロート自身の考えではないかと思わされる。ドイツ人というオーストリアの支配階層ゆえに現地の多数派に疎まれ、東欧一円で起こるユダヤ人迫害にも晒されるガリチアユダヤ系ドイツ人、そのような人間にとっての家、祖国、それがオーストリアだったわけだ。しかし貴族が主人公の本作が示すような身分制が前提にあって、同じく東欧の多民族国家ユーゴスラヴィアもまた一人のカリスマによって連邦を維持していたわけで、民族自決理念、ナショナリズムの勃興が多民族共存の場を崩壊させたといっても、やはりそれは郷愁にしかならない気もするし、だからこそ、この短篇はこのように書かれたのだろうとも思える。表題作は橋の下に住んでいた男にもたらされた二百フランをめぐる小さなファンタジー。ほとんど作者自身の最後を予見するような、放浪と酒の人生を肯定するような哀切さ。「神よ、われらすべてのものどもに、飲んだくれのわれら衆生に、願わくは、かくも軽やかな、かくも美しい死をめぐみたまえ!」

デビュー作と最後の作で諸短篇を挾むかたちで、ロートの全体像をコンパクトに示すことを企図して編まれており、大作『ラデツキー行進曲』のエッセンスともいえる短篇や放浪の人生を描くもの、そしてナチス台頭を描く長篇を収め、作家への優れたガイドになりうる一冊だろう。

「群像」10月号掲載、倉数茂「百の剣」
女性画家アルテミジア・ジェンティレスキの、聖書外典のユディトという女性が男の首を切る場面の絵をモチーフに、女性専用車両に乗り込むおぞましいセクシスト集団に抵抗する女性の手記を読みつつ、語りの混線による痛みの移行を遂行するかのような中篇。『名もなき王国』での語る対象と語られる対象の問題を、暴力の感受性を軸に据えたようにも思える。美術史における女性画家の圧倒的不在に、公共ジロジロ団という視姦集団を置くことで見ることの権力の問題を浮き彫りにしつつ、書くことが読むことを通じて語りの水準を超えて交錯する。レイシストなりセクシストなりのいまも横行する差別主義集団への抵抗を志向しつつ、憎悪をではなく痛みの共有を描くのが鍵だろうか。「憎しみに逃げ込むんじゃなく、自分自身の痛みを抱きしめるの。自分が苦しんでいることを恥じる必要はないから」145P。文章による共感共苦、その百の剣というか。一読では校閲と人形、そして同性愛のモチーフをまだきっちり理解できてないところがある。あと勝手にこれ語り手を男性的に読んでしまっていたけど、語り手の性別が明示されたところがあったかどうかが覚えてない。