樺山三英 - ドン・キホーテの消息

ドン・キホーテの消息

ドン・キホーテの消息

ドン・キホーテが還ってきたのさ 誰もが彼を探していたんだ」

樺山三英 - 『ドン・キホーテ』再入門に行ってきました。 - Close to the Wall
七月に樺山さんによるイベント参加レポートを書いたけれど、ようやく本体を読めた。
近代小説の起源としての『ドン・キホーテ』、そこから現代に至る四百年のメディア史とその行く末を駆け抜ける黙示録的な長篇で、『ドン・キホーテ』がもつメタフィクション性を狂気とメディアの問題として展開しながら、探偵小説とSF小説の技法によって、近代史と小説史を踏まえながら描く、現代的な問題意識に貫かれた傑作だ。

こう書くと訳わからないかもしれない。けれども、まあそういう小説で、まだ私は全然この小説の射程を捉え切れていないと思うけれども、今年読んだ小説でもトップクラスの一作だ。

本書は「探偵」の章と「騎士」の章とで交互に進んでいく構成を採っていて、探偵はある女性から叔父を探してほしいと依頼を受ける。その叔父とは不動産と土地開発を事業としながら、途方もない事業拡大を続け、与党にまで食い込んだ戦後社会の裏のボスのような老人で、女性はその姪だった。老人は病が進行し、日常生活も困難になったため、山奥の施設に収容されたのだけれど、そこから数ヵ月前、忽然と姿を消したという。探偵は、老人の部屋から「ドン・キホーテ第四の遍歴」と記された演劇のチケットを見つける。

騎士の章では、寝間着姿で山道を降りてきた老人が、ドン・キホーテアロンソ・キハーノとして死んだことを覚えている自分とは何者かと悩んでいるとき、サンチョを名乗る人物と出会い、自分がドン・キホーテその人だと言われ、「ドン・キホーテ第四の遍歴」に出発する。

この相互に重なるように見える展開において、面白いのは、一見現実的に見える探偵の章では、『ドン・キホーテ』は無名の作品で風車のエピソードで途絶した作品になっていることだ。そして、ある人物が二十世紀に当時の資料を捜索し、散逸した資料を集めたうえで、決定版として第三の遍歴(つまり『ドン・キホーテ』続篇or後篇の内容)を含んだ『ドン・キホーテ』を刊行したという。その人物は、ピエール・メナール。つまり、ボルヘスの短篇をもじった歴史改変ネタが探偵の章の設定となっている。

対照的に、自身がドン・キホーテだと称する人物がメインとなる騎士の章では、ドン・キホーテが自分をドン・キホーテだといっても、他の騎士(!)はそれを信じない。なぜなら、「ドン・キホーテにまつわる事実は、ひろく世に知られている」からだ。つまり、こちらの章の方が私たちの現実世界に近い設定になっている。

この歴史改変された次元とされない次元との相互干渉が、ドン・キホーテという虚構の人物、虚構の物語によってなされるわけで、この作品のひとつの軸は、そうした虚構と現実との境界というところにある。探偵の章ではある演劇集団がドン・キホーテ第四の遍歴を演じるところに訪れた探偵が、演者たちに舞台の上に引き立てられることになる。演者は言う。

「劇場はいまや、演劇を閉じ込める牢獄と化した。われわれはこの牢を破って、劇を解き放ってやりたい。劇場の外に広がる市街へと。それこそが、わたしたちの望みです。そこには当然、観客席はない。つまり誰もが舞台の上にいる」102P

これはその後現実に行動に移され、洗脳された劇団員らによる市街における演劇行為が頻発し、それがネットの動画サイトで共有されることで暴動にまで加速していく。メディアを利用した虚構の現実化が進行していくわけだ。

そもそもが、『ドン・キホーテ』の物語自体がこうした虚構と現実の問題をメディア環境を通じて問う小説だった。ある老人は騎士道物語の虚構を現実に適用し、風車を巨人と「見なし」て戦うわけで、『ドン・キホーテ』前篇はこの「現実の虚構化」ということを喜劇の方法としていた。後篇は『ドン・キホーテ』前篇が人気となり、贋作すらもが出回るという出版メディア状況を前提に、ドン・キホーテが実際に騎士として遇されたりサンチョがほんとうに島の領主になったりと「虚構の現実化」が喜劇の方法となる。

探偵の章である学者が、十七世紀のメディア状況を、

「当時、書物というのは最新のメディア機器だったんだ。これのおかげで、それまで一部の特権階級に限られていた情報が、広く大衆に流布するようになった。読み書きさえできれば、誰もが情報の受け手となり、さらに発信者となることだってできる。今日のグローバルネットワークの原型と言っていい。そういう情報網が、ヨーロッパ全土に構築されつつあった。ドン・キホーテが旅しているのは、つまりそうした空間なんだ。彼は自己の評判によって生き、その大衆性によって実在を養われている」135-136

そして、「ひとつの虚構が、別の虚構に置き換えられる。そしてそれが現実をも書き換えていく」「人が書物を書き換えるんじゃない。書物が人を書き換えるんだ」と学者が言っているのは、このメカニズムを指している。

虚構と現実という境界は、そのまま正気と狂気とも置き換え可能で、私はここで統合失調症を思い出さずにはいられない。統合失調症は現実のすべてが妄想=虚構の根拠となってしまう、「虚構の現実化」を生きてしまう現象でもあるわけだけれど、最近、統合失調症を患っていると思しき集団ストーカーを訴えネットに動画を上げている人の家に、実際にネットの人々が嫌がらせを行なうことで、その「集団ストーカー」という妄想が現実化してしまう事件が起こっている。メディア環境が虚構と現実=正気と狂気の境を侵してしまうメカニズムの本作と酷似した状況がすでにある。

そしてメディアと炎上という問題意識は、『ドン・キホーテ』のもう一つの側面、人々との議論と出版文化によるメディア環境の成立が、近代民主主義の誕生を描いてもいる、ということに繋がっていく。騎士の章では不穏なサンチョ・パンサがこう言う。

「旦那さまがみんなになれば、みんなだって旦那さまになる。そうしたら、みんなの意思がひとつになりますが」218P

そして、今の世では誰が敵で誰が味方かが区別できない、結局のところ、味方が正義で敵が悪だとするしかない、とサンチョは言い、

「旦那さまのような方に区別をつけてもらいたいんですが。世に正義を知らしめるために」
「このわしに、味方と敵の区別をつけよと?」
「そう、いまがその役割を果たすときです。味方については、いまさら申すまでもないでしょう。この場所にいるみんながそうです。だから旦那さまには、みんなの敵を示してほしいんですが」219P

ここにあるのは、敵、悪というのが事後的なものでしかなく、それは私たちではないもの、というロジックによって作り出されていくという事態だ。「みんな」という等質性が重要となり、この等質性を阻害する者が敵となる排除の論理が循環していく。民主主義と「みんな」の問題意識は去年のアニメ「ガッチャマン クラウズ インサイト」とほぼ一緒だったりするので、どちらかに興味があればもう一方をご参照。

で、この「みんな」に対する「わたし」(最終章の章題)というのが問題としてせり上がってくるけれど、ここらへんで踏まえられているのがカルヴィーノ『不在の騎士』だと思う。『ドン・キホーテ』パロディの一つの『不在の騎士』は、もう読んだのが十数年前だけれど、身体が不在の騎士と自己の不在な男というコンビが出てくるわけで、この自己の不在というのが「首領」含めた今作のもう一つの軸になっている。「ガッチャマン クラウズ インサイト」を例示したように、これはそのまま民主主義のテーマでもあって、これはフエンテスの『ドン・キホーテ』読解にヒントを得たものだということは前述のイベントを聞いているとわかる。

つまり、『ドン・キホーテ』を題材にすることで、虚構と現実の問題がメディア環境の問題へと繋がり、それが民主主義の問題へと繋がる、この連繋によってフィクションの問題と現実の問題を繋げているわけだ。

ハードボイルドの枠組みを用いて、演劇の街路への広がりやメタフィクション、歴史改変と別次元の相互作用といった、現代文学、SF、探偵小説といったさまざまな技法によって『ドン・キホーテ』を現代において読む意味を綯い合わせていく本作は、『ドン・キホーテ』以来の近代四百年の時間を意識しながら、その先の不吉な未来=「ドン・キホーテの消息」を予言する。

前述のイベントに参加していたから、出てくる諸要素は概ね知っていたりしたんだけれど、その題材がこう使われていたのか、と意外な展開の連続で非常に面白かった。『ドン・キホーテ』をめぐる議論の歴史の復習が、こういう形で小説になりうるのか、というのも凄く面白い。以上の文章はちょっと外形的すぎるんだけれど、まあこんな感じで。

『ドン・キホーテの消息』の樺山三英さんインタビュー : 幻戯書房NEWS
こちらの版元ブログでのインタビューも参考。ここから行けるFacebookのページをいま初めて見たら、私のブログがトップ固定記事になっていて驚いた。私、「批評家」だったのか……


この写真、私がちょっとだけ写っている。右側、机に岩波文庫の『ドン・キホーテ』を積み上げているところに座っているのが私。髪と手だけが見える。
イベントのレジュメもあった。

あと、上で書いたことの一部はすでに著者自身が詳細にまとめておられた。
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