ボフミル・フラバル - 剃髪式

剃髪式 (フラバル・コレクション)

剃髪式 (フラバル・コレクション)

松籟社〈東欧の想像力〉スピンオフ企画〈フラバル・コレクション〉の第二弾は、1970年に書かれた『剃髪式』。チェコ事件後の「正常化」の波の中、出版を禁じられていた時期のもので、国内地下出版においても76年まで刊行されなかった。

前回の記事でも書いたように、フラバルイベントでイジー・メンツル監督による映画版を見てから読んだ。映画版ではかなりコメディ色を強めており、シーンごとに会場に笑いが起こるような楽しい作品で、大音量で喋り倒すペピンおじさんという最強のキャラクターがすべてを粉砕する勢いがあったけれども、小説はやはりもっとずっと落ちついている。

妻マリシュカによる語りによって描かれる1920年代のボヘミア地方ヌィンブルクのビール醸造所での、夫フランツィンとの愛情ゆたかな生活のなかに闖入する奔放なペピンによるごたごたがフランツィンをいらだたせる、というスラップスティックの構図とともに、新時代の幕開けを予示するラジオの登場は、街中の人間が行列をつくって聞きに来るほどの事件で、これに影響されてすべてを「短縮」するという流行のなかで、マリシュカが自らの髪を切り落とすという事件が作品のタイトルにもなっている「剃髪式」だ。

作品冒頭はいとうせいこう氏も指摘していた、ランプの延々たる描写で、ここはプルーストを想起させるところがあるし、キシュの『砂時計』の冒頭のようでもある。ここは読み返してみると電気の到来とともに火を灯すランプの終焉が予感されていて、作品全体の展開を示唆している。そして描写される夫との生活のさまざま。楽しげな豚料理製造の描写。

マリシュカは映画でも朝から肉とビールを頬張る健啖家として描かれており、それは小説にもこう書かれている。

だって、私にとって食事というのは、単に口に入れるんじゃなくて、がつがつむさぼるように食べることだから……食べ終えてパンでお皿をきれいにしていると、開いたドアの向こうの暗闇で、フランツィンの瞳が私を見つめているのが見えた。品のある女性にふさわしくない食べ方だと非難めいた視線を投げている。30P

このフランツィンの規律を愛し、奔放を拒否する姿勢は絶え間なく小咄を話し続ける兄ペピンへのいらだちとなり、またペピンと一緒になって煙突に昇ったりするマリシュカへの不満ともなる。そんな時、マリシュカがダンス*1の途中で足を挫いて安静を言い渡されたフランツィンの反応が面白い。

ながいあいだ夢見ていた妻を、家でおとなしくしている品のある妻を、フランツィンはついに手に入れた。今日いる場所も、明日いる場所もわかり、いてほしいところにいる、病気じゃないけれども、釜や椅子やテーブルに向かう時はいつもふらふらと歩いていく、そんな女性。負担に思う、そんな女性。というのも、フランツィンにとって、私に感謝されることが結婚生活でこの上ない喜びだったから。128P

甲斐甲斐しく世話をやくことがフランツィンの無上の喜びで、彼女がおとなしくしていることで仕事の能率も上がり、快活になるフランツィンの様子がとてもユーモラスだ。

トラブルメーカーペピンことヨゼフおじさんは、映画では騒々しく喋り続ける強烈さだったけれど、小説ではやはりややおとなしく感じられるし、マリシュカとのやりとりでもきちんとレスポンスを返していて、また劇場で歌うことが出来たらきっと人が来てその才能はどこからと聞かれることになるよ、と人に言われて涙を流す場面など、小説の方はより人間味のある描写が読める。

そして、映画では小咄の内容まで聞いている余裕はなかったのだけれど、ペピンの小咄がいちいち面白い。広告で見たアライグマを飼いませんか、というのを見て応募したら、家に来たアライグマがすべてを洗ってしまって迷惑なので、アライグマを飼いませんか、という広告を出す話や、飛行機に服がひっかかって空を舞った少年がイエス様と勘違いされた話等々。マリシュカが体を洗いながら、浴室は私の映画館、と幼い頃を回想している美しい場面では、過去のマリシュカのいたずらで父が憤ると、買いすぎた箪笥を斧で粉砕する場面が面白い。映画の『剃髪式』には血や汗はあっても、いつものフラバルらしい排泄物ネタがなかったな、と思ってたら小説には肥溜めに落ちる小咄があって、やっぱりな、と。

しかし、ペピンは現われた時は関西弁で訳されていたのだけれど、途中からは標準語の喋りになる。これは原文からそうなのだろうか。

映画と原作、両方見てみると、映画ではスラップスティックコメディとしての調子が強められ、エピソードのセレクトがされているのがわかる。また、ペピン登場時から彼によって何度も怪我をする貧乏くじな職人が、映画では非常に目立っていたのだけれど、彼は原作には存在していない。非常に映像的な演出だと思ったらまるごと映画オリジナルだったとは。カットの途中で退出させられる床屋の子供とかもそうだ。

映画で追加されたものといえば、ラストの子供が出来た、という部分もそうで、ここでの作家になる子供よ、というようなマリシュカのフレーズはなかなか良い台詞だと思ったけれど、場面ごとオリジナルだった。

映画版はこれまでのフラバル作品とは違ってとっても爽やかで、いつ陰鬱な展開になるのかと恐々としていた私にとって意外だった。小説も基本的には日々の営みの楽しさと新時代への幕開けを描くものだけれど、やはりというか、小説の方はもう少し陰影が深い。

マリシュカが髪を切る時に、フランツィンがこの髪を愛していたことを思いだしてすすり泣いたり、髪がほんとうに町の宝として扱われていたために、髪を切ったことを非難されて追い回されるとか、否定的な反応なども書き込まれている。

そして、もっとも驚くのは、新時代の幕開けだ、短縮だ、といってテーブルの足を切ったり、馬のたてがみをトリミングし、尻尾を短くするなかで、なんとマリシュカは飼っている子犬の尾を斧でぶった切るという行動に及ぶ場面だ。そしてその後、子犬は発狂してしまい、フランツィンが銃でとどめを刺すというえぐい結末が待っている。映画ではまったくカットされた話だけれど、小説では強烈に印象的な挿話で、「新時代の幕開け」を一気に括弧入れしてしまうようなインパクトがある。戦間期という時代からして、新時代への期待とともに、後に来る第二次大戦を埋め込もうとしたのだと取るにしろ、人の愚かな点をも描写するフラバルらしい筆致だと取るにしろ、非常にえぐい描写だ。フラバルの喜劇にはやはりどこかグロテスクな部分がある。

喜劇的ながらも人の愚かさや弱さを込める、そういうニュアンスはやはり小説の方でこそ味わえる。基本的に明るい話なので、他の作品にくらべて爽やかな印象がある。いちばんストーリー性がある『わたしは英国王に給仕した』は戦争を舞台にしてハードな展開もあり、本作とは対照的な感じ。未読の人がどれから読むのが良いか、と聞かれたら、お勧めしやすいのは本書だろうか。映画ほどではないにしろ、コメディ調でいちいち面白く、快活な女性の一人称で語られる日々の生活の様子が愛情豊かに語られていく好作だ。

初期作品や後期の妻の視点を導入したという作品群にもやはり読んでみたい。フラバルは〈東欧の想像力〉のなかでは結構人気だそうなので、多少は期待しても良いのだろうか。

*1:映画ではカットされていたけれど、フランツィンはプラハへ出かける時ダンスのレッスンをしていた