高原英理『祝福』

文學界」「群像」や編著に発表された諸作を怪奇幻想誌「ナイトランドクォータリー」での連作「精霊語彙集」として引き継いで書かれた作品集。オルタナティヴなこの世の外への志向を、「呪なのか祝なのかもわからない言葉」の魔力をめぐる言語を通して描いた幻想小説

幻想小説といっても超常的な現象にフォーカスするというよりは、言葉が持つ力がこの世の平常を超えること、この身体を超えること、この世界そのものを超えること、そのようなものとしての言語を描いている点に幻想性がある。

「言葉が意味を通り越したところに呪(しゅ)はある」114P

九つの短篇が収められていて、私はこのうち二篇を独立して読んでいたのだけれど、なるほど全体としてはこういう関係だったのかというのも面白い。七年前に書かれた「リスカ」というリストカット癖のある少女からすべてが始まり、その言葉が信者を生み、宗教を生み、組織が立ち上がる。この宗教組織を主軸にしたり、各篇を連繋させる装置として用いたりしつつ、架空の小説についての評論という形で本を書いた人間、ある人の残した呪(しゅ)としての語彙を別の人に刻みつける者、宗教組織の教祖になる女性に取り憑いた魂、詩の記録を禁じた詩人、十七歳の美少女を自認する中年男性、街の隙間を探す遊歩者、そして呼びかけに応じて別世界に物語を語る女性など、それぞれ別様のアプローチで前記の「幻想」を描いている。

長篇小説の『観念結晶大系』とも根底では同じモチーフとも言えるけれども、この多彩なアプローチが同じ根っこから別の花が開くような多様さを生んでいる。『きのこの日々』が題材にしているきのこのように同じ菌から別々の子実体が生まれるようにというか。「正四面体の華」の80年代モチーフが『歌人紫宮透の短くはるかな生涯』に、「隙間の心」が『詩歌探偵フラヌール』に、それぞれの短篇の文脈は他作品とも繋がりを感じる。全作読んでいるわけではないのでもっと他にもリンクは見てとれるだろうと思う。

女性の神がかりの言葉が宗教を生むのは明治の新宗教でもあったけれども、この連作の語り手が女性から始まり女性で終わるのは社会的抑圧とそれへの抵抗の側面が大いにある。「リスカ」のミレイは学校の教師からのセクハラを要因として不登校になっており、こう語る。

石女と書いてうまずめと読む。これはあのクズ教師が厭な口調で教えた言葉で、あの厭な言葉つきの記憶から今よくわかる、ああいった男たちにとって、石と女がひっつくととても忌まわしい負の意味になるのだ。ああいった、というのは奴みたいなののセクハラが生まれてくる根のところに、女が硬い石や結晶であってはならない、いつも肉質でぷるんぷるんしてて必要な時にはぬるぬるの液体を分泌して待っていて、突っ込まれる棒から出た汁で自分の中にもう一体の肉の組織を育て上げる、それだけが女の価値だから、っていう女たちへの蔑みがあるから出てくる言葉。25P

そんな彼女は「左手の小さな傷は夜への通路」(8P)と言い、「わたし、実は人間のふにゃふにゃしたとこが嫌いだから硬くて重い石が好きだった、手の肉を切るのは自分が軟らかいことへの懲罰だ」(23P)、とふと気づく。鉱物幻想がフェミニズム的な意味を持ってここで描かれている。

この一篇にも出てくる、「わたしは満ち足りているけど、不要なものがひとつある。それは自分の心」(34P)、という言葉が連作を通じて時折姿を現わしており、「正四面体の華」でも自己消滅的な言葉を組み合わせたところに超次元の観念を空想するところに繋がりもする。

リスカ」が女性性の押しつけに対する抵抗なら「かけらの心」では中年男性が自らを美少女と仮構する現実身体の否定という対比的な一篇にも繋がっており、著者が「お兄ちゃんはおしまい!」が好きなのもなるほどなと思うところがある。近作「ラサンドーハ手稿」も系列作といえるか。

最終篇「帝名定まらず」はどこかから響いてきた古語のような声に応えて、自ら解釈して作り上げたその物語の続きを異界に語り続ける女性の物語となっている。どこかから言葉を受け取り、それをまた別のところへ送るという行為は「リスカ」以来本作のもっとも重要な行動だろう。神の言葉を受け取る宗教が描かれてきたのも、言語にとってこの感染性、魔性、呪術性ともいうべき機能を本質的なものと捉えているからではないか。ミーム概念を思い出す。オルタナティヴなものを求める心に言葉は住み着き、呪いとも祝福とも言い難い役割を果たしていく。

不完全であっても、もしわたしの言葉が神の言葉として、かの地へ届いているのなら、それでも二人に何かの幸いを与えているだろう。
 これだけのためにわたしはいた。役割と言おう。わたしは最も望ましく聡明な女性二人を知の源たる処へ送り返した。わたしには行けない処である。251P

「わたしは満ち足りているけど、不要なものがひとつある。それは自分の心」という「リスカ」以来の誰のものかも不明な言葉がリフレインされて閉じられていく本篇だけど、この自己否定・この世の外のモチーフは読者にとって救いにも毒にもなりそうな魔性がある。薬は毒にもなり、ある言葉に人が衝撃を受けたりすることは呪われたのか救われたのかは判然としない。「帝名定まらず」の語り手は「物語を紡いでいるとき、わたしは許されている心地である」(235P)と言う。しかしその帰結を他人から見ればまた別の見解になるだろう。

本書は最終篇の描くように物語ることについての小説でもあり、「精霊の語彙」が描くように人は意味の分からない言葉でもそれを受け取り誰かに刻み込む媒介者になってしまうことがあり、それが救いなのか呪いなのかはともかく、言葉に動かされる者としての人を描いていると言える。

余談だけど、「目醒める少し前の足音」の最初の一文に古井由吉っぽさがあると思った。古井っぽさを感じた文章はもう一箇所あったんだけど忘れてしまった。

目醒める少し前の自と他との、人と人との区別の薄い時間に交わした約束を、守るため守るためと、そればかり気にしていて何の約束だったか忘れているような、乏しいことだ、雨の降る中、よく来てくれたと言いたいのに、来る人のいない朝の、覚醒という断崖が見え始めた。136P


言及した本とそれについてのブログ記事にリンク。

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雑誌「文學界」の幻想小説特集に掲載された「ラサンドーハ手稿」は以下の本に収録。

雑誌掲載の独立した短篇として読んだ時の感想はこのなかにある。
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