秋から年末にかけて読んだ本

ツイッターで書きっぱなしにしていて記事にまとめていなかった本をまとめて。

大森望日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 プロジェクト:シャーロック』

2017年のSF傑作集。ちょっと物足りなくて傑作というよりはバラエティの面白さ。上田早夕里のOC短篇や山尾悠子が読めたのは良いし彩瀬まる、我孫子武丸加藤元浩の漫画もいいけど、新人賞があまり惹かれなかった。酉島伴名は既読なので飛ばして、彩瀬「山の同窓会」は子を生むごとに死へ近づく奇妙な生活環に変貌した人間社会とともに、出産への善意の同調圧力の気持ち悪さも出てて面白い。表題作と円城作はネット社会に生まれる何ものかを描いてるところが通じている。で、宮内作はやっぱこれは物足りない。松崎作は最初コミカルな調子は悪くないと思ったけど、途中から荒唐無稽にすぎたのと、昏睡から目覚めた人間に着替えを見られてビンタしたりするラブコメ漫画みたいな手続きが入るところとか「つっこみどころ満載」って言葉が出てくるのとかがダメだった。小田「髪禍」は読み応えはあるけど、怪奇小説の範疇でここに入るのは違うんじゃと思った。彩瀬はアリだけどこれは、という区切り感が自分にはある。横田順彌眉村卓はそんなに悪くないと思ったけど、筒井のは面白さが分からない。凝ってはいるんだけど。新人賞の八島「天駆せよ法勝寺」は「佛理」とかの仏教を取り入れた語りによる宇宙SFで、スタイルは良いと思うんだけど、何故か話にまるで興味が持てなくてだらだら読んでしまった。選評では古橋秀之に言及するのに、『ブライトライツ・ホーリーランド』が出ないのは何故なんだろ。『ブライトライツ・ホーリーランド』の冒頭こそ、今まで読んだなかでいちばんカッコイイ仏教SF(?)描写だったと思うけど、手元にない。部屋には『ブラックロッド』と『ソリッドファイター』しかない。実家にあるかなあ。

大森望日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形』

シリーズ最終12巻、2018年の傑作選。最終巻ということなのかおよそ700ページと厚めになっている。傑作選というには軽い作品も多いけどそれも含めてその年のカタログという役目は果たしていたので、終わるのはやはり寂しい。編者が述べていたように、純粋な傑作選とするにはさまざまな制約があり、そのかわりにマイナーな掲載誌から拾ってくるものがなかなか貴重で、今作でいえば水見稜の「アルモニカ」がそうだろう。タイトルにもなった楽器をめぐる読み応えのある歴史音楽小説で、ワセダミステリクラブの機関誌からの再録。新人賞のアマサワトキオ「サンギータ」は2037年のネパールを舞台に生き神クマリとバイオ技術を絡めた一作で、クマリのキャラ性含めてかなり読ませるけど、「ますん」とかのどっかでみたようなネタがちょっと微妙。いろいろパロディがあるっぽい。しかしこれ100ページあるけど応募規定超えてないか。読み始めてみて100Pあるのに気がついたんだけど、新人賞の応募規定は原稿用紙100枚くらいのはず。「サンギータ」は倍くらいある。選評にもこの長さについて誰も触れてなくて、改稿の結果長くなったのかとか、どうしてこんなに長いのかわからなくて困惑した。今年で一気に四巻分読んだ。編者が被っていて傑作選にほとんど入れなかったというNOVAシリーズ、一巻しか読んでないからこっちも読まないとなあとは思っている。

逆井卓馬『豚のレバーは加熱しろ』

豚のレバーは加熱しろ (電撃文庫)

豚のレバーは加熱しろ (電撃文庫)

電撃小説大賞金賞。非加熱レバーを食べて死んだ理系オタクが異世界で豚に転生して心が読める被差別種族の少女とともにこの世界の謎に迫るファンタジー。真相に釈然としないものがあるけどアイデアは良いし締めも良い。それゆえ288P以後の評価に困る。心が読める種族イェスマは、金持ちの小間使いとして仕え、16の誕生日を迎えると王都に旅しなければならず、しかし骨や首輪に価値があるため、その間に多くが狩りにあって殺されてしまうという不可解なしきたりがある。豚はこの旅の供をしながら少女を全力で守ろうとする。まさに萌え「豚」と化した主人公が心優しい美少女ジェスに世話されながら、自分の戯言やエロ妄想なんかも筒抜けで「地の文」にジェスが反応を返してしまうことがあるメタ感はコミカルだし、その理想を具現化したような相手には豚として関係するしかない距離があるのも悪くない。エロ豚としての自分を天使のように受けとめてくれる美少女、という気持ち悪い妄想が、実際に豚として転生することで種族差という距離と世界の違いを置きながら叶う、というところは結構面白くはある。豚は理系大学生ゆえの知識で名探偵のような推理を働かせながら知略の面でジェスを助け、この世界の謎にも迫るんだけど、表の社会構造にもその真相にもあまり納得感がなくて、豚と読心種族のコンビを成立させるために逆算で作られた印象を受ける。登場人物もそれだけのために出したのかというのも。単巻ならこれらの気になるところを大目に見られても、この世界の話を続けるとしたらなかなか難しそうだとは思った。いや、明らかに問題があるままになっている世界だからこそ、またそれをなんとかしないといけない、という責任にもなるか。ネタバレになるけど、誰かを救った冒険物語が眠っていた時の夢だったんじゃないかという部分は非常に良くて、確かに旅した実感があるのにそれは夢や本のなかだけのものなのかも知れない、という切ない感覚って物語やファンタジーの根っこだとも思うんだけど、それだけに引きに疑問なしとしない。自分の全てを受け入れる都合の良い少女やナイトになりたいとか知識や頭の良さで切り抜けるその他の夢物語に対しては、設定その他である程度距離をとっていて、形としては物語という旅を通じて立ち上がる強さを得る、というタイプだから、あの世界との距離感はあまり近くなるとよろしくない様に思う。あの状況で残したままにできるかというのはあるにしても、それこそあの世界で自ら立たねばならないのではとも。続巻前提で加筆したのかも知れない。続くとしたら性格は変わっているはず。どうなるんだろう。豚視点なのでやたら足フェチ描写が出てくる。二巻は未読だけど、288Pまでの単巻としての話と、それ以後の続き物としての話は別物として考えたほうが良いのかも知れない。二巻もそのうち読んでおきたい。

ぴえろ『転生王女と天才令嬢の魔法革命』

魔法の使えない転生王女が、パーティで次期国王の王子に婚約破棄された魔法の天才の令嬢を攫い、一緒に魔法の使えない人間でも利用できる魔道具の開発を志す百合ファンタジーラノベ。漫画版を見て原作を読んでみた。悪くない。展開にちょこちょこ強引な、と思うところはあるけど、結婚とかしたくなくて継承権を放棄して好き放題やってる王女と、次期王妃としての生き方しか知らなかった令嬢が出会って、信頼を深めていく様子は良い。憧れと自由と、お互いがお互いの足りないところを補い合う関係。転生王女の一人称なんだけど、地の文でも元気いっぱいで楽しげ。姫様に嫁いだようなものです、という専属メイドも出てくるよ!

石川宗生『ホテル・アルカディア

ホテル・アルカディア

ホテル・アルカディア

コテージに閉じ籠もった女性プルデンシアを外に出すために、ホテルに泊っていた七人の芸術家が数多の物語を語っていく枠を持つ連作掌篇集で、『千夜一夜物語』と天岩戸を思わせる設定通り、奇想小説のなかにさまざまな世界文学を思わせる言及が織り込まれてもいる。最後以外概ね10ページの短篇小説が連ねられており、それぞれがラテンアメリカ文学なり、カルヴィーノ『見えない都市』を思わせたり、または岸本佐知子編のアンソロジーに入ってそうだったりする奇想・幻想小説になっていて、個々の短篇はこれらのジャンルが好きならまず面白く読めるはず。「本の挿絵」なんかはパス「波と暮らして」オマージュかと思った。そうした個々の幻想小説ボルヘス的な抽象性でまとめあげたような印象がある。「バベルの図書館」というか、世界をコレクションに加える一篇のような世界を包含する書物、あるいは「世界劇場」のモチーフ。
七つの部に分けられ、一部七篇から順に少なくなっていく章分けは、連載時タイトルの「28」という数字が完全数だということから設定されたものらしく、浩瀚さではなく、掌篇を数学的に配置することで世界をそのうちに取り込むという構えはカルヴィーノというかウリポ的な試みなんだろうか。そうした構えの各篇には『千夜一夜物語』、『古事記』のほか、ギリシャ悲劇、喜劇、シェイクスピア、あるいは『狂乱のオルランド』(ウルフ『オーランドー』も)なんかの古典、ラテンアメリカ文学、日本文学、イタリア文学、その他さまざまな直接間接の言及があり、私の分からないものもたくさんあるはず。作者がラテンアメリカ文学好きなのは『半分世界』を読んでもわかるけど、スペイン語圏文学やイタリア文学、あとロシア文学の言及が多い気がする。「代理戦争」あたりは現代アメリカ文学の短篇にありそうとは思った。他にもプルデンシアがビートルズのDear Prudence由来なのでレノンとポールがいるとか、パセリ、セージ、ローズマリー、タイムとスカボロー・フェアの一節があったり、ミック・ジャガーは直接出てくるけど他にも音楽ネタもたくさんありそう。というか、「ホテル・アルカディア」って、ホセ・アルカディオ・ブエンディーアのもじり? ホテル・カリフォルニアもあるのかな。「ベネンヘーリ」といえば『ドンキ・ホーテ』の原作者とされる人物だし、ヒルベルトのホテルってラッカーの『ホワイト・ライト』かなと思うし、ベケットピランデッロ、ストッパードが「出来事が来る!」とか言う戯曲とか、数多の文学を下敷きにした世界巡行を一冊に閉じ込めたような小説。前著にも似た趣向があったけど、「A♯」と「機械仕掛けのエウリピデス」の全員が創作に携わる系奇想は世界劇場的なテーマなのかな。世界劇場ならぬ、世界文学? 枠と各篇の関連性なんかは再読が要る感じだけど、なんにしろ、面白短篇が連ねられた楽しい一冊なのは間違いない。

友田とん『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』

『パリのガイドブックで東京を闊歩する』という、比喩として使ったこの文を実践してみるとどうなるか、から始まる奇妙なエッセイで、土地と書物のなかで偶然と迷子を方法的に生み出すような、読むことの「フィクション」と呼びたい一作。ガイドブックを模した判型でフルカラーで写真が掲載された、薄いながらも凝った作りの本で、自費出版の前著『『百年の孤独』を代わりに読む』をいろいろな本屋に置いてもらう行脚とともに、この文言を実践するとはどういうことなのか、ルールを設定するところから始まる。本書は著者からお送り頂いたものだけれど、それは私が後藤明生研究をやっているというのを知ってのことで、偶然の出会い、土地と書物の関係はまさに後藤的なテーマだし、フレンチトーストの挿話は『しんとく問答』の「マーラーの夜」の「海老フライ」の一件を思い出すし、二巻の20ページ前後の文章は非常に後藤明生に肉薄した箇所だと思った。iPhoneの通信の不具合が迷子を生んだように、もはや迷うことのできない現在において、東京でいかにして迷うか、その端緒としてパリのガイドブックという参照先を選ぶという暴挙があって、この東京とパリの懸隔のなかに自由あるいは読むことと書くことの過程を見出す試みだろうと思う。デイリーポータルZ的な街歩き記事とも通じるものがあるけれども、本作は書くこと、読むことをその重要な枠組みとしているところが大きな違いで、あり得ないような比喩をじっさいに生きてみる、という方法的フィクション(これは書いてあることが虚構だという意味ではない)という感触がある。パリという降って湧いたものがノートルダム大聖堂や黄色ベスト運動が視界に入り込み、パリというものへの導線となったり、穴や欠落、不在、そして読めない、ということがむしろ、前に進むことでもあるような、逆説の核心を提示する二巻終盤は、緩いように見えて確固としたものを感じさせる箇所だった。単純に変なエッセイとして面白いし、後藤明生的な筆法をいかに現代に実現するか、という試みとしても読めるし、なによりこの、どこにたどり着くのかどこにもたどり着けないのか、このタイトルから果たしてどうなるのか、不安定なようで確信があるような不思議な不安定感が印象的。読んだことはないけど、星野博美に『迷子の自由』という本があるのを思い出した。

石川義正『政治的動物』

政治的動物

政治的動物

  • 作者:石川義正
  • 発売日: 2020/01/23
  • メディア: 単行本
1979年から2017年までに日本語で発表された小説のなかの「たがいに他者同士である形象」としての動物たちを、「社会の周縁に排除されてきた女性やマイノリティ、障碍者、そしてさまざまな被差別をめぐる形象」に近づいたものとして捉える批評で、特に第一部はほぼ女性作家論集にもなっているのはテーマからも必然的な構成だろう。最初に置かれた「二〇一七年の放浪者(トランプス)」では、2017年に刊行された柄谷行人村上春樹松浦寿輝後藤明生多和田葉子金井美恵子の諸作を崇高という観点から論じ、半分以上を占める第一部「動物」は全篇書き下ろしで、津島佑子笙野頼子川上弘美多和田葉子大江健三郎松浦理英子の動物の形象を、「賃借、市場、隠喩、国家、天皇制、民主主義、主権、所有、模倣、マゾヒズム」といった点から論じる。加筆修正された既発の論文を元に構成された第二部は谷崎潤一郎金井美恵子中上健次赤瀬川源平蓮實重彦が対象。

最近言われる動物の権利という論点ではなく、小説に現われた動物の形象をデリダの動物論などを引きつつ政治性の面から論じるという本で、哲学、思想、経済、国際政治等を横断するまさに「批評」的文章は要約しづらいし理解したとも言えないけど、小説が置かれた経済的状況を指摘するところは印象的。住宅・部屋にまつわる言及も多く、津島の部屋や松浦の家と負債の論点や、日本近代文学が民営借家の低廉な家賃という「補助金」によって成り立っていたという議論から、笙野『居場所もなかった』が木造共同建てからマンション建築へという住宅事情の歴史の渦中だった点の指摘などもある。

経済要素ということでは、中上健次『地の果て 至上の時』の作中時間を厳密に1980年5月でなければならない、と推定する箇所は面白かった。経済白書や「木材需給報告書」を援用して、材木価格は1980年4月をピークにその後急激に下落する歴史が、材木屋をやってる龍造に無関係なはずがないと。語呂合わせはあんまりやるとこじつけめいてくるけれど、至上と市場の音に少しだけ注意を促す箇所はさらっとしていた。また、赤瀬川原平の千円札裁判の件は通貨の偽造ではなく、模造自体を犯罪とする、通貨及証券模造取締法違反が問われており、この法律は山間僻地や朝鮮半島での模造紙幣の取り締まりという「大日本帝国植民地主義と関連する」「人民の自治が認められていない従属地域における治安維持を目的とした法律」(354P)だというのも非常に面白かった。ここから国家と芸術の自律と反逆の話にもなっていく。「現実に生存する動物たちではなく、幾人かの小説家によって創造された動物あるいは人間ならざるものたちの形象」という本来の論旨について全然書いてないけど、そこは実際に読んでもらえれば。

他にも、宮澤賢治フランドン農学校の豚」という短篇が、人間の言語が通じる豚が、それゆえに「家畜撲殺同意調印法」に調印させられ、その同意に従って殺され解体される話だという。非対称的な関係による契約の強要というかなり生々しい話で興味を惹かれた。また、ある章の結句、「いずれすべての者どもが犬に変わるだろう」という一文から、エピローグで「犬のような批評家」を自称するのに繋がるのはなかなか挑発的。放浪者(トランプ)で始まり切り札(トランプ)で終わる構成はニヤッとしてしまいましたね。トランプの時代の終わりに出た本でもある。まあとにかく「批評」を読んだなあという感慨があって、また書くのに元手がかかってそうな密度の濃い文章なのもあって、800ページの本を読んだくらい読むのに時間が掛かった。時間は掛かっても通り一遍の感想も書けないのはアレだけど。文献一覧も参考になる。
『政治的動物』で引用・参照したおもな文献|石川義正|note

ジャスパー・フォード『最後の竜殺し』

最後の竜殺し (竹書房文庫)

最後の竜殺し (竹書房文庫)

魔法が斜陽産業となりつつあるパラレル英国を舞台に、孤児院出身で魔法会社の社長代理を務める15歳の少女が、ある日突然最後のドラゴンスレイヤーだと判明する。正義感が強く毅然とした主人公が社会のさまざまな困難に立ち向かう軽妙な現代ファンタジー。主人公のジェニファーが孤児院出身で、年季奉公のためこの魔法管理会社に勤めに出されているという設定は児童文学を思わせるところがある。テキパキとした展開にユーモアや皮肉を交えつつ、心根の優しい主人公が現代社会の荒波にもまれる筋書きは実際そういうアプローチだろう。世界的な魔法力の減退で魔法管理会社も数を減らしつつあり、主人公のいる会社にも何もしてない社員や偏屈な魔法使いがいて、そんな魔法使いも家の配線修理に駆り出されているなか、最後の一頭のドラゴンが近く死ぬらしい、という情報が連合王国ならぬ不連合王国、UKを揺るがせる。侵入者が即死するバリアによって守られたドラゴンランドは広大な自然が手つかずで残っており、ドラゴンが死んだ時に杭を打って土地を確保すればその人の土地になるという規則のゆえにドラゴンが死ぬというのは多数の個人や不動産会社のみならず国が乗り出す一大事件になる。竜の土地を資本主義が強奪するという現代的モチーフとともに、本作の舞台となるヘレフォード王国は不連合王国を構成する一国で、ドラゴンランドをはさんだ隣の小国との軍事的緊張を抱えており、国王はドラゴンランドを通り越して小国を攻撃したいという戦争の危機までが浮上する。資本と権力がジェニファーと竜をめぐって一大事件を巻き起こし、彼女は周囲の人物たちの誰を信用し、信頼すれば良いのかという困難に巻きこまれ、それでも毅然と己の意思と正しいと思うことに従って突き進む。資本と自然、正しい心が取り戻す失われたもの、のファンタジー。帯とかで資本主義が大きく出てくるし、それがユーモラスで皮肉な調子をもたらしているんだけれど、国家権力そして戦争の危機も大きくて、必ずしも資本主義ばかりが中心ではない。むしろ軸足は、「友達」という言葉が重要なように、ジュヴナイル小説的なところにあると見る。つまるところ、現代社会においていかに正義感と純粋な心を失わずにいられるか、という戦いの話でもあって、魔法というものが社会に組み込まれるように、ドラゴンスレイヤー現代社会でそれを活用しつつ肝心なところは曲げずに生きる、という伝統と現代の話でもある。資本主義と魔法をテーマにしたファンタジーの傑作、というとちょっと違う感があって、たとえば15歳という主人公の年齢と近い子供に向けて書かれた小説、ではないか。英語で言うところのヤングアダルトジャンル? 全体に感じが良くてキャラも良いし続刊が出たら読みたいけど、出るのかな?

エリック・マコーマック『雲』

雲 (海外文学セレクション)

雲 (海外文学セレクション)

メキシコで見つけた『黒曜石雲』という奇怪な天候現象を記した本の舞台がスコットランドにある主人公の若き日の失恋の思い出の土地だったという偶然をきっかけに、孤児から生まれた孤児がこれまでの人生をたどり返す、不穏な感触を湛えた長篇小説。マコーマック九年ぶりの翻訳で、著者最長の小説というのでどんなものかと思えば、稀覯書の謎をフックにしつつも、ある男の生涯を丹念にたどった小説となっており、これまでの作品に比べると一番普通の小説に近い感じだ。空を鏡のように覆い、目玉が飛び出て死んだ者もいる黒曜石雲という怪奇現象を導入にしているけれど、この現象自体の謎が解かれるわけではないし、そもそも事実ではない可能性も示唆されている。作中のいくつものグロテスクな挿話のように、謎は謎のまま人生について回る、解決不能なものとの同居こそがここで描かれている。これまでの小説でも語られていた炭鉱の事故で片足になってしまった男たち、という著者偏愛の挿話や過去の小説を思わせる話も出て来たりする意味で確かに集大成を思わせる。

主人公はスコットランドで生まれ別の土地で人生最大の愛に破れ、アフリカ、南米、そしてカナダで揚水機会社の社長となる。ある親子と出会ったことが孤児出身の主人公が社長の椅子に座ることのきっかけだけれども、ダンケアンという土地での失恋もまた、主人公がイギリスを離れ、漂流の人生のきっかけになっている。メインはこの流浪とそこここで出会う人々や事件にある。古書をめぐる謎、冒険小説的な未開の土地への訪問、怪奇小説的な挿話、ウェルズを下敷きにしたSF的なネタ、いろいろなジャンルの要素を散りばめながら、おそらくは本書の核にあるのは、人間とある書物との決定的な出会い、ということだと思われる。『黒曜石雲』という本と語り手ハリー・スティーンとの人生との決定的な交錯。「『黒曜石雲』を発見した体験、それだけは永久に私一人のものだ」、「謎を明るみに出す役を演じる者として、己一人のささやかな謎をダンケアンに持っている人間たる私をこの本は選んでくれたのだ、と」(442P)。この、自分一人のための書物という本へのロマンが根底にある。そして『黒曜石雲』という本と男とを繋ぐものが、ボルヘスの「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウスに引かれている、「鏡と交合は人間の数を増殖するがゆえにいまわしい」という言葉ではないか。黒曜石雲は「空の鏡」と呼ばれており、本もまたコピー(~部)と数えられ、著作はしばしば書き手の子供だと喩えられる。男が別の女性と子供を作る、ということが本作において非常に重要な意味を持つけれど、これは『黒曜石雲』の著者も同様。ただし子供を作ること自体が忌まわしいという話でもない。

本書でまず良いなと思ったのは冒頭のハリー幼少期の両親との関係を描いたところだ。孤児の両親から生まれ、スラムで貧しいながらも多弁な父と寡黙な母と息子の関係、ここでまずこの小説が良いなと思えたところだった。しかしこの幸福な時間は不幸な事故で突然終わる。主人公が学校で聞いた話として「知的意図理論」(インテリジェントデザイン)のことを父に話す場面がある。自然界の精緻な仕組みには知的な造物主の意図が働いているという宗教的創造論なんだけど、父は自分の町を指して、「大いなるヘマ理論」のほうがぴったりだと言う。このセリフが再度出てくる場面が悲喜劇的な感触でとても良いんだけど、この理論は同時に子供を作った親についてもいえるようなところがある。親は必ずしも精緻に子供を作るわけでもなく、大いなるヘマをしでかして、子供や家族との関係にしくじったりもするし、いろいろあって良好な関係になりもする。そういう人生の数奇さがハリーのたどった流浪の人生と、めぐりめぐってメキシコで古書店に売られていた『黒曜石雲』との出会いから語られるわけだ。人と本のそうした相似の関係が軸だからこそ、多彩なジャンルやさまざまな挿話が取り込まれる形になっているのかな、と。まあ男がいろんなところに子を作る話だし「未開の土地」に植民地主義を感じないではないところはある。

玩具堂『探偵君と鋭い山田さん』

親が探偵の戸村が女子に無理くり彼氏の浮気調査を頼まれ困っていると、両隣の席にいる双子姉妹が口を挾んできて、次第に三者一体の探偵ユニットのようになっていく学園ミステリーラブコメラノベ。この著者の本は『子ひつじは迷わない』以来だけど、なかなか良い。日常の謎もののライトミステリといった感じだけど、本体がなくて表紙カバーの内容紹介と人物一覧しかない推理小説の犯人を当ててみる、という二話はなかなか面白くて、じっさい人物紹介の部分に重大なネタが隠されてる作品とかありそうだし、犯人当てるだけならできるかもと思わせる。双子絡んだ三角関係ラブコメを基軸にしているけど、主人公の「悪意への悪意」という性質はまあ肝だろうし、双子は社交的で処世に長けたほうが依存心やらで屈折した感情を抱いてるあたりの関係は三話の事件の核心とも重なってたし、ここら辺主軸になるのかな。