中央公論新社編『対談 日本の文学』全三巻

『対談 日本の文学 素顔の文豪たち』

1960年代後半に刊行された中央公論社の80巻にわたる文学全集の月報に載っていた対談・座談を全三巻に再編集したもの。この巻では作家の親族が参加したものをメインに収録している。一篇が手頃な短さで家族から見た作家のエピソードがたくさん読めてなかなか面白い。

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森鴎外のことを森茉莉三島由紀夫が聞くとか、親族ではない対談者の方も既に文学史上の人物ばかりが並んでいてなかなかの壮観。鴎外は茉莉を生涯いっぺんも叱らなかったとか、荷風の歿後の机上には鴎外の『渋江抽斎』が伏せられていたとか、漱石は年の暮れに手紙を全部焼いてしまう、とか。田山花袋の外国文学の知識は驚くべきもので中村光夫が自分など及びもつかないと言っていたとか。

津田青楓が興味深いことを言っている。

漱石という人は写生ということがきらいなんだ。物を前において写生していても、先生はすぐに自分で勝手なことを描きだして、それで写生はやめになってしまった。102P

「写生文」の漱石が「写生」が嫌いというのは面白い。

内田百閒が漱石作品の校正をするにあたって、新聞初出は「ルビ付き活字」という読み仮名と漢字が一体になった活字を使っていて、それは漱石の送り仮名の付け方ではないので単行本の典拠にはならない、という当時の事情を語っているのも興味深い。

伊藤整が大正期の文士は雑誌に幾つか書けば責任は済んだとあとは遊んでいたのが昭和の初め頃から実直な月給取り文士になっていくと語り、大岡昇平が芥川の死に触れながら円本全集が出た昭和の初め頃「友好団体としての文壇のグループ」は分解する時期だと言ってて、文学史的には関連した事象だろうか。

芥川はすらっとして見えるけど実は低身長で、一人で写真に写ることでそれを見えづらくする演出なんだとか、暑い日でも裏に毛皮のついてる足袋を履いてるのが子供心に気味悪かったとか息子が語ってたり、室生犀星の女性の足フェチぶりを娘が語ってたり。

堀辰雄が晩年切支丹ものを書こうとして宗教関連の文献や聖書を非常によく読んでいたという話があり、遠藤周作が信仰に入ろうとした可能性を話に出したところ、妻がカトリックの信仰に入りたい気持ちがあったのかも知れないと認めているところがある。しかし、仏教の本も読んでいたしそれは結局仕事のためで信仰とは関係ない、と答えている。ここで妻は夫の私生活での苦しみや信心の側面に言葉を向けながら、最後には彼は作家だったというところに話を戻しているのがなんとも印象的だった。

山本有三が国会議員として文化財保護法や「国民の祝日」を決めた、とあるところはそうだったのかと驚いた。大岡昇平中村真一郎の『死の影の下に』を、「死の影はおれのほうが本場だぞ」と思って題が気に入らなかったと言ってるのは笑える。田宮虎彦が、小説を読むというのは書くことと同じじゃないか、書く時も自分で世界を作るけれども読む時も本を題材に自分の世界を作るわけで、良い作品を読むことは良い作品を書くことと同じになりうる、「読者の文学」はあり得る、と言っていたりする。

小田切秀雄新感覚派についての評言、一息に整理しててへえと思った。

新感覚派は、ずっと今日まで続いている二十世紀文学のモダニズムのいとぐちを開いたもので、近代の人間の分裂した内面性とか、反射する神経とか、のちに一層はげしく露呈してくるようになる人間の内面性と状況との様々な屈折した矛盾というものを、意識的にとらえるところから出発したのですが、昭和文学のいわば源流の一つとして現代に通じるような深い側面と、まったく表面的な、それこそ興味本位というにすぎないところと、この両方がまじりあっていたと思うんです。326P

『対談 日本の文学 わが文学の道程』

第二弾。この巻は主に作家本人が参加しているものを収録していて、作家になるまでの来歴を語ったりざっくばらんな雑談をしたりしている。谷崎や高見順など数年内に亡くなる作家や三島由紀夫が四回登場してたりする。大江健三郎の没年が記載されており、本書参加者でまだ物故者でないのは曽野綾子のみとなる。

参加者と話題は以下を参照。
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谷崎が本全集ではじめて新かな遣いにしたことについて、もう旧かなで口述筆記してくれる人がいなくなったことが原因だけれど、若い人に読んで貰えないのは淋しいので、とも言っている。新かなにするということでそのかな遣いに相応しいように源氏物語を訳し直したりとか、書き手の拙さを表現するため『猫と庄造と二人のおんな』で旧かなを間違えているところを新かなにする時、新しく間違いの箇所を作ってもらったのが面白い。

川端康成が同人時代の文学青年の共通の教養を聞かれて、白樺派の影響などもありやはりロシア文学トルストイドストエフスキーチェーホフツルゲーネフだと答えているところはなるほどな、と。

大岡昇平小林秀雄の対談を読み始めたら、大岡が小林を「あんた」呼ばわりしはじめてびっくりしたし、お互い「俺」とも言っててここだけ雰囲気が違う。作家の研究について小林秀雄が人生を知らない人が人生を知った人のことを研究する、これは無理だと言ってて、そうかもねって思った。

宇野千代萩原朔太郎は会うとずっと星のことを喋ってて、良い人なんだけど浮世のことに無関心で、と語っている。丸谷才一が女性は神経が行き届いてて観察眼があるというけど宇野は反対で、細部ばかり取り上げて芯を掴むのが下手だと言ってて、だけどそれは同じことを言ってないかと思った。

佐多稲子プロレタリア文学があってはじめて学のない自分が書いても良いと思えたということを語ってたり、同時にハウスキーパー問題についても触れてて、夫婦を装わなければ家を借りられない時代とはいえ、肉体関係を求められるのは女性を一段下に見ているんだと批判したりもする。

井伏鱒二が「多甚古村」を書いたのはお巡りが材料をくれたからで、お巡りの好みと逆になるように書いた、そうすれば間違いないと思って、というのが面白い。大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』には感心したけど広島の人は悪く言う、どうしてかと思ったら理屈が多い、原爆に理屈はいらないからだ、と。

石川達三が従軍経験を元に書いた『生きている兵隊』について、検察や司法が発禁・処分をしたけれど、軍は必ずしも腹を立てておらず、現地軍では発禁漏れの雑誌を手に入れて「近ごろの日本の新聞は嘘ばかり書いてるけれども、これははじめてほんとうのことを書いた」(189P)と部下に読ませてたらしい。

伊藤整は川端に誘われて小林秀雄に会いに行く機会があったけれども固辞したという。行けば頭を下げて彼らの側につかなければならなくなるからだ、と。「鎌倉幕府」とも呼ばれる小林らの「文學界」系統が主流とすると、伊藤整が「新潮」から出た傍流に属すという文壇地図を述べているところは興味深い。

本多秋五が「椎名的観念が出なくていい小説だと思う」と椎名麟三に言ってるのは笑う。椎名曰く、

経験というのはつまらないものですよ。ほんとうになんの役にも立たない。けっきょく経験を小説にするときには、意味を発見しなければならない。自己の正当化になるでしょうが。307P

戦後のドイツで一幕物の劇が成功したのは三島の『近代能楽集』とイヨネスコが初めてだそうですね、という発言がある。三島由紀夫は、いくら体験をしてもそれだけでは書けない、しかし体験を得て技術を知った上で見ると良いとして、「根本的には見るということが大事」と言う。安部公房は別の対談で、南極探検に行った人が体験を書く分には良いだろう、だけど南極探検論を書くと言う時には体験は危険なんだと言ってるところがあり、微妙な共鳴をしているのが面白い。安部はまた戦後文学を語る時に「近代文学」が軸になるのははっきりいって不快だとも言っている。

安岡章太郎曽野綾子吉行淳之介との鼎談で何か書いて稼ぐことはおかしなことだとしてこう言ってる。

ただ、曽野さんの場合は女でしょう。だから無用の閑文字を弄することは、ある程度許されているのだ。俺たちの場合は男だろう、だから、これは許されないんだよ。商売にならない限りね。387P

石原、大江、開高という面白い組み合わせのものもある。大江がここで、石原や江藤に会うと使命感を持ってやっていると言われてうんざりする、自分は生きていく上でできるだけ不快でないようにそういう仕事をしているのであって、「例えば立候補したりはしません」と石原に当てこすってて笑える。

石川淳安部公房のわりに緊張感のあるやりとりとか、中山義秀横光利一評とか、武田泰淳の生まれ変わり好きとか、大岡昇平が「ぼくは描写したことはないですよ」333Pと言ってるのはそうだったっけ?と驚いた。

『対談 日本の文学 作家の肖像』

三巻目。編集委員伊藤整大岡昇平ドナルド・キーン三島由紀夫が複数参加しており、作家本人や親族ではない対談者がメインなので逸話、雑談的ではなく、評論的空気が一番強い巻ではないだろうか。全集で荷風や藤村は複数巻なので対談も別の組み合わせで二つあったり、逆に三人セットで一巻というのも多く、啄木、子規、虚子で一巻、白秋、光太郎、朔太郎で一巻などの組み合わせを対談者がそれぞれの個性を対比的に語っていたりするのも面白い。三島澁澤コンビで鏡花と足穂をやってたりする。

参加者とタイトルは以下。
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最初の対談で三島が「いわゆる鏡花ファン」にいやらしさを感じるからいやらしくない鏡花を理解してくれる澁澤を引っ張ってきた、と言い出すところから始まる。内輪なり粋がりなり「通人」ぶっている支持者は好きではないと挑発的だ。三島はこう言う。

ニヒリストの文学は、地獄へ連れていくものか、天国へ連れていくものかわからんが、鏡花はどこかへ連れていきます。日本の近代文学で、われわれを他界へ連れていってくれる文学というのはほかにない。文学ってそれにしか意味はないんじゃないですか。15P

シモンズですか、文学で一番やさしいことは、猥褻感を起させることと涙を流させることだと言うんですよ。センチメンタリズムとエロですね。一方、佐藤春夫は、文学の真骨頂は怪談で、人を本当に恐がらせられたら、技術的にも文学として最高だと言うんだ。それはいろんな意味があると思いますがね。僕の説で言えば、むしろエロティシズムと怪談というのが文学の真骨頂で、涙を流させるのは、これは誰でもできますよ。16P

シモンズを引きながらそれに異を唱えてエロティシズムもまた文学の真骨頂だと言っているのは面白い。澁澤は鏡花の変身モチーフについて「ジャン・ジュネなんかもそうだな。変身する文学と変身しない文学というのがあるかも知れないな。三島さんはしないですよ」といい、三島は「僕は絶対に形じゃないと嫌なんだ。筋肉だって形だろう」(18P)と応えている。「田舎者が官僚になれば明治官僚になり、文学者になると自然主義文学者になり、その続きが今度はフランス文学なんかやっているんですよ。あなたじゃありませんよ(笑)」と三島が言い澁澤が「僕じゃない。もっと偉い人ですよ(笑)」(23P)と返すところもある。

藤村については亀井勝一郞がこう言っている。

「日本の〝家〟を典型的に描いた作品が、ぼく流に考えて三つあると思うんだ。一つは藤村の「家」。もう一つは谷崎潤一郎の「細雪」、これは関西の家。それから岡本かの子の「生々流転」、これは関東の家。そうしてみると藤村のは、いかにも信州の家だ。北海道には家の観念があまりないんだ。42P

瀬沼茂樹が「地方へ講演に行ってみてわかるんだけれど、藤村の文学がいちばん人気があるんですよ。というのは普通の日本人のありきたりの生活感情がよく書けているわけですね」と続けている。

花袋が死ぬ時藤村が死ぬ気持ちはどうかと聞いたのが有名な話らしいけれど、それについてはこう言ってる。

藤村が「死んでいく気持はどうか」と言ったときに、花袋は喜んでしゃべったわけですよ。「真実を追及するものとしてお互いにやってきた。死にぎわの気持なんていうものはだれも書いていないから、ひとつ聞いておきたい」「それじゃ言っておこう」といったわけで、デマでも何でもないし、ひどいことでも何でもないんだ。46P

藤村『夜明け前』をめぐって野間宏臼井吉見の対談で臼井は漢学の合理性と国際性を強調している。

明治を一貫しているものは、僕は漢学と侍だと思う。国学をやった連中はだめですよ。ものを論理的に考えるという訓練は、漢学が養ったものですね。だから明治の文化の先駆者になったものは、キリスト教にしても社会主義にしても、下地はみんな漢学ですよ。漢学で訓練された頭脳が、はじめてキリスト教社会主義もちゃんと受け入れ、つかんでいる。57P

ルソーとの関係や藤村は自然主義、近代をはみ出るという指摘も面白い。

江藤淳広津和郎の対談で、昭和十年代、文学統制のために私設文芸院を作ろうとした時に徳田秋声が「日本の文学は庶民から生まれ、庶民の手で育った。いままで為政者に保護されたことはないし、いまさら保護されるなんていわれたって、そんなもの信用できないし、気持が悪い」75Pとはねのけた話がある。その後文芸懇話会という名前になって金があるから雑誌を作ろうとした時、藤村が警保局長にはお金だけ出してもらって、編集は自分たちがやる、と御用雑誌にされないために釘を刺した話が面白い。

正宗白鳥の特徴について中島河太郎がこう言っている。

ほかの作家のように、ある一つの代表作があったり、一つの感動させるものがあって、これはうまい作品だとか、立派なエッセイだといえるものはない。白鳥全体を通して読んでみると、この一篇の小説とか、一篇のエッセイの位置がわかってくる。92P

キーンはわずか十年の隔たりしかないけれど啄木は明らかに現代人だけれども子規は違う、と述べている。「啄木が読んでいたヨーロッパ文学は、だいたい同じころのヨーロッパ人が読んでいた文学だったでしょう。子規の場合は、百年ほど前の文学を読んでいたんです」(103P)、山本健吉は「子規と同時代でも、たとえば夏目漱石なんか子規に比べると、ずいぶん新しいものといっても十九世紀のものですね、十九世紀のものを読んでいましたけれども。」と返している。この対談では子規の随筆や伝記なくして短歌が評価されることはなかっただろうという話をしていて、山本がキーンならそういう伝記的知識を使った批評を批判するんじゃないかと思ったと言ったら、「申しわけないんですけれども、私は人間です……(笑)。」106Pと答えたのが笑った。

鈴木三重吉が人の文章をよく直していたという話で、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」も直したという話をしてるのも面白かったけれど、やはり傑作なのは福田清人がする以下の話だった。

最近テレビでも活躍の森村桂さんのお父さんの豊田三郎君は、大学を出て「赤い鳥」にいたんですよ。そこで三重吉がいろいろ偉い人の原稿を手直しするのを見て、人の原稿は直すものだと思い込み、三重吉の文章を直しちゃった。怒っちゃって、さっそくクビになったそうですよ(笑)。118P

高村光太郎萩原朔太郎の貧乏について伊藤信吉が、高村光太郎の貧乏は今日は鰯しか食べられないけど翌日は銀座で一流の料理を食べている、というものだと言ってこう続ける。

高村さんは、自分のところに出入りする若い詩人たちが金のないことを訴えると、手もとに金がなければ本を渡し古本屋に売れと言って小づかいをやる。そういった思いやりが高村さんにはありましたね。一方、萩原さんは親子四人で東京に出てきたとき、毎月家から六十円送ってもらっていました。そして、この世の中で自分がいちばん貧乏だという詩を作るのです(笑)。134P

「よく思想史の本が出ますけれど、萩原さんは当然論じられていい人だと思います。観念論者として、あれだけ強烈な思想を持った人は、日本の文化人の中にも少ないのじゃないかと思いますね。」136Pと思想家としての朔太郎を評価している。

大岡昇平の伯父が住んでいた家によく遊びに行っていて、その隣の家が永井荷風の偏奇館だったというのは驚く。荷風は「人間の悪いところばかりを見て、人間を信用されておらない。女というものも信用しない。女のなかでいちばん自然な生き方をしているものが売笑婦と見えたようです」(149P)と言う。荷風については中公の社長島中鵬二と武田泰淳の対談で、谷崎潤一郎の「女性の好みは ネコ系統が好きで、一貫してイヌ系統はお嫌いのようですね。荷風先生はどちらかと言うと、イヌ系統なんじゃないですか。」160Pという比較論を言ってるところがある。

三島とキーンの谷崎についての対談では三島は「僕、おもしろかったのは、谷崎文学の中の女性が男性に示す無関心な態度を、キーンさんが猫と同じだとおっしゃったところ(笑)。」

男が美男子である必要は全くなくて、女は男に対して無関心で、それでいていつも男を誘惑する。あの猫というのは、いかに谷崎さんにとって大事な象徴かということが分りますね。180P。

荷風と谷崎の比較論で、三島はこう言う。

荷風さんは、人間を描くよりは雰囲気を非常に大切にしていますが、谷崎さんは、直接抽象的なものにバーッとはいっていくのですよ。僕の考えでは、抽象主義というのは非常に男性的なものだと思うのです。谷崎さんの小説は、一般に世間から指摘されているように、男というものが描かれていないのだけれども、あの抽象性に男があると思うのですね。183P

文章的には荷風が男性的で谷崎が女性的という人もいて、確かにと思っていたのでこういう観点からそれと逆の意見なのが面白い。

三島は百閒足穂の巻で対談者に存命の足穂自身を呼ぶべき所、いくつかの理由を付けて本人には会わずに澁澤龍彦を呼んでいる。理想像に会わずにいたいというところと、もう一つひどく不穏なことを言っている。次の発言は1970年5月の対談。

もう一つは、非常に個人的な理由ですけれども、僕はこれからの人生でなにか愚行を演ずるかもしれない。そして日本じゅうの人がばかにして、もの笑いの種にするかもしれない。(中略)日本じゅうが笑った場合に、たった一人わかってくれる人が稲垣さんだという確信が、僕はあるんだ。251P

河上徹太郎横光利一についての発言。

「寝園」のようなああいうインテリ・ブルジョア階級の社会性というものはそれまで小説にならなかったんだよ。漱石なんかもインテリ・ブルジョアジーを書いているけれども、個人を書いているだけで、その社会というものがないだろう。社会性を着せて書いたという意味で「寝園」は画期的なものだと思うよ。白鳥さんもそれを非常に認めているね。 紫式部がサロンを小説にしたけれども、昭和のサロンは横光さんが書いた、というほめ方をしていますね。日本にサロンというものが存在するかどうかは別として。282P

林芙美子についての対談で、平林たい子林芙美子を「文芸戦線」の同人と見合いをさせようとしたことがあってその相手は里村欣三だという。壷井栄と平林のこの対談では、壷井家の向いに平林、隣に林が住んでいたというご近所トークがなかなか面白い。

尾崎士郎の逸話として高橋義孝が言うには「ある出版社が十万円近いものを原稿料のかわりに持って行ったんですって。そうしたら、おれは売文業者だから、これが何十万しようとも五円でいいから現金持ってこいって」「原稿料をもらっておいて、ついでに何万円のものももらったんですって(笑)」(355P)。尾崎士郎が苦労人で色んなものを人にあげる人で、高橋が酔っ払って人に腕時計をあげた話をしたら、その場で自分のを外してこれをもってらっしゃいとくれたというんだけど、高橋がその夜酔っ払ってそれをまた人にあげてしまったというバカみたいな話も面白い。

解説では関川夏央中央公論社社長嶋中鵬二は松本清張をどうしても入れたかったけれども三島が頑として受け入れず、清張を入れるくらいなら自分は編集委員を降りるし作品も取り下げる、という強硬な反対を崩せなかった顛末が書かれている。これは社会派ではない、という信念らしいけど、わりと謎だ。全集は単巻20万部出ていたらしい。中央公論社は文学歴史哲学の教養書シリーズを矢継ぎ早に刊行して成功を収めたけれども同時に過重な負担と「反体制的気分」によって社内の空気が悪化し、教養主義と出版の幸福な時代は終わりを迎えたとある。

1960年代中頃刊行開始のシリーズで、個人名が冠された最後の巻に石原、開高、大江でワンセットで、安部公房も単独巻はなく、第三の新人が辛うじて複数人まとめた巻になっていて小島信夫表題巻はないという塩梅。内向の世代以前の近現代日本文学をカバーしているかたちか。

三巻に渡るこのシリーズ、対談による文学案内という感じで色々面白かった。積んでるものも色々崩したくなってきたけど、いつになることやら。