『薔薇の名前』『祇園「よし屋」の女医者』『推し、燃ゆ』『レイシズムとは何か』

一月に読んでた本。

ウンベルト・エーコ薔薇の名前

今年年始に読んだ大作はこれ。途中これ選んだのは失敗だったか、と思った瞬間もあったけど、さすがに面白かった。中世、山上の修道院をバスカヴィルのウィリアムと見習修道士のアドソが訪れ、皇帝と教皇の対立にからむキリストの清貧論争という異端問題を背景に、次々起こる殺人事件に翻弄されながら書物の迷宮のなかで言語、書物、記号、徴の読解を問う、メタミステリ長篇。

記号論学者の最初の小説で世界的なベストセラーになったけど、よくこれがそんなに売れたなと思えるほど宗教的議論が豊富に盛られた重厚な作品で、「バスカヴィル」のウィリアムとアドソというのは明らかにホームズとワトスンのもじりのように、ミステリ的な謎解きの面白さは確かにあるけれどそれはあくまで一部で、その枠組みを使った記号の解読や真理の探求が、書名と逸した本文のように、名と実の関係をめぐって問われてる印象がある。これは最終的に神とその実在の問題にも繋がるわけだけれど、枠の語りも本篇の内容も、書名や断片のみ残る失われた書物を求める学者のロマンもうかがえる。記号から真実を導き出す推理を問い直すアンチミステリ的趣向もある。虚構や別の物を通じて真理を捉えようとする笑い、あるいはフィクションのテーマとも関連があって、笑いは宗教的原理主義を相対化するものとして置かれているようにも見える。解説にあるイタリアの極左テロ、モーロ事件が執筆の背景にあるというのは、小説の内容とも関連して興味深い。

おそらく、人びとを愛する者の務めは、真理を笑わせることによって、真理が笑うようにさせることであろう。なぜなら、真理に対する不健全な情熱からわたしたちを自由にさせる方法を学ぶこと、それこそが唯一の真理であるから (下巻370P、強調は原文傍点)

ここで、アリストテレースは笑いを誘う傾向を、認識の価値さえ高める一つの善良な力と見なそうとしているのだ。なぜなら、辛辣な謎や、予期せぬ隠喩を介して、あたかも嘘をつくかのように、現実にあるものとは異なった事象を物語ることによって、実際には、それらの事象を現実よりも正確にわたしたちに見つめさせ、そうか、本当はそうだったのか、それは知らなかった、とわたしたちに言わしめるからだ。この世界や人間たちを、現実の姿や、わたしたちがそうだと思いこんでいる姿よりも、悪しざまに描き出すことによって、要するに、英雄叙事詩や悲劇や聖者伝などがわたしたちに示してきた方法とは異なり、悪しざまに描きすことによって、明るみに出された真実。

記号と内実とが一対一で対応するべきだという思考を原理主義的なものとして批判するような印象。名前のみ残ったものとの対比で名のないものが最後に浮かび上がってくるのは解説読んでその意味を知って、なるほどなあ!となった。清貧論争での所有か使用権かという対立も名と実のモチーフの変奏かも知れない。読解の努力と読解の失敗が両輪のようにあって、そういえば「初めに言葉があった。言葉は神とともにあり、言葉は神であった」と書き出されるプロローグに本書のテーマがすでに書かれていた。「真理は、面と向かって現われてくるまえに、切れ切れにこの世の過誤のうちに現われてきてしまう」「片々たる忠実な表象を、たとえそれらが胡散臭い外見を取ってひたすら悪をめざす意思にまみれているように見えても、丹念に読み抜かねばならない」ともプロローグにはある。

言語、記号、表象、真理そして学問。ウィリアムは繰り返し閉鎖的な学問を批判しており、書物は読まれ、学問は開かれていなければならない、という姿勢がこの山上の閉鎖的で迷宮的な修道院と対決する。読まれ開かれ書物同士のネットワークを繋いでいくものとしての学問。

「書物にとっての喜びは、読まれることにある。書物は他の記号について語る多数の記号から成り立つのだが、語られた記号のほうもまたそれぞれに事物について語るのだ。読んでくれる目がなければ、書物の抱えている記号は概念を生み出せずに、ただ沈黙してしまう。(下巻226P)

訳者は翻訳にかんしてなかなかこだわりがあってエーコからのメモを読まずに訳したことが語られているけれど、それより元々は共訳の予定だったけれど遅延して結局二つの訳ができてしまったという経緯のほうが気になる。この全訳したのに不採用になった林和宏という人はギャラとかもらったんだろうか……。

「100分de名著」のテキストに和田忠彦が書いたものがあって、それも読んだ。話の筋をなぞりつつかみ砕いた解説がなされており、ホルヘという人物のモデルになっているボルヘスとの関係や、モーロ事件の話や、テロともかかわる差別、陰謀論に触れている。特に、ユダヤ人差別について触れた箇所では、作中の、力を持つ者が貧しい者たちの暴力が自分たちに向かわないように、誰が敵なのかを指し示しているという描写を引いており、陰謀と差別の機能について指摘する箇所は重要な部分だろう。

『『バラの名前』覚書』も読んだけど、訳者谷口勇の註釈によると、上で私が「名と実」と呼んでいたのは、「普遍〔概念〕」VS「個体〔=個物〕」という普遍論争のキーワードで、翻訳では後者が全部「個人」と訳されてしまっているという批判がなされている。

一場の夢は一巻の書物なのだ。そして書物の多くは夢にほかならない (下巻289P)

藤元登四郎祇園「よし屋」の女医者』

ディック論や荒巻義雄論で知られる評論家・精神科医の小説デビュー作で、近世京都祇園を舞台に座敷牢に閉ざされた「狐憑き」の女性の病の原因を探りながら、迷信を排した精神医療の過程を、京都の風物を巧みに散りばめながら描いた歴史医療小説。著者とは共著『北の想像力』などでご一緒したこともあり、評論家としての仕事は知ってはいたけれど、このような小説を書いていたとは知らず、意外に思って読んで見たらこれが堂々としたエンターテインメントになっていて驚いた。同時に、精神医療とはいかなるものかを描くテーマ性も込められている。

一年を通した京都の土地や文化の書き込みも丁寧で、狂女の治療過程や主人公となる茶屋の娘月江の描写においても狂言や舞その他の文物がきっちり重要な役目を果たしているし、登場人物のセリフも京言葉で書かれていて、私には正確さはわからないけれど、とても雰囲気が出ている。藤元さんは九州在住だと思っていたらこのために京都に移住したというから凄い。それだけでなく、本書の軸は迷信と医術が渾然とした時代を舞台に、「狐憑き」とされた女性を医学の対象として把握し、それを治療していく過程を描写していくのが主眼となる。

月江の師源斎は杉田玄白前野良沢の孫弟子にあたると設定されていて、そうした「新しい医学」を学ぼうと江戸に行った経歴がある。患者小雪の治療においても源斎はまず薬物治療から始めるところはなるほど近代医学っぽく、「医学は迷信ではない」「医学はちゃんとした根拠を求める」と述べる。しかし、源斎の薬物治療と同時に「狐憑きというのは、人間同士の関係がもつれてどうしようもなくなった時、いい口実になるのは確かだ」(212P-)、と迷信の理知的な解釈とともに、月江の献身や家族問題の解決も不可欠な、理と情双方からのアプローチが必須になる。患者に対して抑制的な源斎の原理原則的なやり方だけでは解決できないと、茶屋の娘ならではの人情の機微を読みとる月江の資質も活かしながら、精神の不調を治療するとはどういうことなのか、というのを近世を舞台に基礎的なところから描き起こしているような小説になっている。

溺れる者を助けようとして溺れてはならないという戒め、「治して上げる」という思い上がりへの反省など、医療の原則なども折々に描かれ、迷信から医学へ、という過程とともに、学問を学び女性が医者となるのも、近世から近代へという意味が込められているかと思われる。九州から京都へ移住しての京都文化の摂取のみならず、専門外だろう中国日本の古典的文献の引用も散りばめられていて、このデビュー作の前に六本の長篇の習作を経ている、という本気度には圧倒されてしまう。

解説で触れられている雑誌「メタポゾン」第11号の藤元論文を読むと、精神医療の専門家としての本書の輪郭がより明確になるところがあって、月江のようなアプローチは、患者の言動を症状としてのみ捉えようとする精神科医の態度を越えた、本来そうあるべきものとして捉えている印象だ。

宇佐見りん『推し、燃ゆ』

直近の芥川賞受賞作。あるアイドルの男性にのめり込んだ女子高生が、ある日その「推し」がファンを殴ったと炎上しているのを目にする。部屋も汚れバイトもミスばかりで普通でいることができず、推しを追い解釈し続けることでようやく人のかたちを保てている主人公の、信仰とその終わりを描く。

宇佐見はデビュー作も読んでいるけれど、これもパワーのある小説で、学生などにたいへん受けているらしいのも読んでみてよくわかる。薄々この主人公は発達障碍とかかなと思っていたら作中でも診断が出たことが言及されており、「普通」でいることのできない少女のただひとつの拠り所が「推し」だった。読んで思い出していたのはつづ井さんの、社会人として働きながら「推し」への愛やその活動を軽妙に描くエッセイ漫画で、そういう普通の人間として生きて行けるクレバーさがない人間の、生そのものがかかったファン活動の切実さは、つづ井さんを読んでも思ったように信仰に似る。

「推しは人になった」という一文は、その信仰が終わった印だった。解釈の形で「推しを取り込むことは自分を呼び覚ますことだ」といい、対象の存在を感じることが自らの存在を感じることに通じるわけで、それが終わることは矮小な骨のような綿棒の散乱として描かれる。崩壊のカタルシスとともに、この主人公はこれからどう生きていくのか。そして、このように生きるしかない人もまた多数いるんじゃないかということも思ってしまうし、文章が書けても日常生活や仕事が全然できない人、というのも結構いるような気がする。そういうリアリティがある。

興味深いのは「携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う」というところで、距離があるからこそ関係が壊れることもないし、感じる安らぎもある、と書かれているところだ。アイドル論としての意味のほかにも、この距離感と「解釈」し続けることが重要なところは、読むことそして書くこと、として文学の営為そのものだと思っていたら、作者が主人公にとっては「推す」ことが背骨だけど、自分にとっては小説が背骨だ、と言っていて、まさにそういうことだろう。

当のアイドルグループが男女混成なのも珍しいんだけど、「推し」の誕生日が八月十五日なのと、メンバーに「明仁」がいるのはとても示唆的。「推し」が人になったという記述と、敗戦日や天皇の名前は明らかに現人神の人間宣言を参照してて、どういうことかなと思ったけど、アイドルを「推す」というパッションが政治権力を持つ存在へ向かうことへの警戒、切り分けの意図なんだろうか。日本の偶像崇拝といえばやはり天皇を無視できない。

梁英聖『レイシズムとは何か』

レイシズムを人種化して殺す権力と定義し、近代の植民地と資本主義によるレイシズムの成り立ちをたどりつつ、米欧と比した日本社会の特徴を反差別ブレーキの欠落、つまり「差別はいけない」とみんなが「差別者」に言わず、被害者に寄り添うことに偏る問題を指摘する。レイシズムとは何か、どのような歴史をたどったか、偏見がジェノサイドにいたるメカニズムとは何か、どのような反レイシズムが必要なのか、戦後日本の朝鮮人差別体制の歴史、日本でレイシズムの暴力がいかに行なわれたか、そしてナショナリズムレイシズム・資本主義との関わりを論じる一冊。

本書が扱うこれらの問題はいずれも重要かつ興味深いもので、政治のみならず社会やインターネットで頻発する差別事件を見るにおいても、政権与党と結託し差別煽動者を支持し反差別者を凍結することを続けている差別煽動SNSと化したツイッタージャパンを利用する上でも大事な議論が含まれている。

科学的に人種は存在しないけれども人種差別は存在する、つまり、人種とは差別によって作られるカテゴリだという議論を経ながら、人種差別の始まりを近代資本主義の拡大に見る。米国における黒人差別が奴隷制とかかわることや日本における朝鮮人差別が植民地支配の名残りなのがその例だ。ウォーラーステインの「労働者の階層化ときわめて不公正な分配とを正当化するためのイデオロギー装置」という人種差別の定義を引きながら、レイシズムの内実と成り立ちを追う前半部分も面白いけれども、やはり重要なのは日本型反差別を論じたところだろう。

著者は「加害者の差別する自由を守る限りでしか、差別される被害者の人権を守ろうとしない日本の反差別こそ、日本で反レイシズム規範形成を妨げ、日本人=日系日本人という国民=人種の癒着を切り離せない元凶である」(13P)とし、これを「日本型反差別」と名づける。差別行為の禁止がないまま被害者に寄り添おうとする態度が日本の反差別だというのにははなるほどと思わせるものがある。必要なのは被害者の語りに拠らない、各人が当事者としての社会的不正義へ批判をしていくこととともに、日本が統計を取らない差別事件の記録、可視化もまた重要だと指摘する。アメリカではトランプ大統領によって差別事件が激増したことが数字として現われるけれども、公的統計がない日本では、国家やメディアによる差別煽動があっても数字が出ない。日本は米欧ほど差別がひどくない、と言われるけれども、不可視化されている現状はそれ以前の問題だろう。

人種差別撤廃条約に批准しながら「差別禁止法がない唯一の先進国」というのも重い話で、なにより、日本は戦後、在日朝鮮人の国籍を一斉に剥奪するという暴挙に出て、植民地支配の責任を文字通り投げ出したことが今に続く人種差別の基盤にもなっている。その上、70年代には憲兵特高、旧軍関係者などが関わった国士舘大学の学生による、組織的な朝鮮人への暴行殺人事件が発生しており、この朝鮮高校生への襲撃事件は数百件の規模で起こっているといわれる。戦後でも偏見を基盤にした極右による組織的なヘイトクライムを既に経験しているわけだ。

国士舘が男子を狙ったものとすれば、90年代、一般人はチマチョゴリを着た女子学生を狙った。セクシズムと癒着した卑劣なヘイトクライムで、幾度も繰り返された制服切り裂き事件の末、「第二制服」の導入によって民族服は不可視化される結末をたどった。社会党土井たか子人気のなかでも、自民党小沢一郎幹事長のもとで社会党朝鮮人からパチンコ献金を受けているとネガティブキャンペーンを張ったけれど、パチンコ業界から献金を受けていたのは平沢勝栄はじめ自民党議員の方が多かったという。しかし差別煽動は効果を上げた(212P)。この件、中国をめぐって今もまるで同じことが起きているのがよくわかる。朝鮮進駐軍というデマがあるけれど、あれはまさに朝高生襲撃事件のような組織的なヘイトクライムを行なった加害者が、その行為を被害者のほうに押しつけているわけで、これが差別主義者の習い性なのがよくわかる。

また、「反日」というロジックはレイシズムのロジックをマジョリティに適用して差別煽動を行なうことでもあり、著者はナショナリズムレイシズムによって補強されていると論じ、反レイシズムナショナリズムを実践的に抑制しうると指摘するのも重要な部分だ。冷戦以後の日本型差別煽動では、長年政治による差別煽動の結果、国士舘のような組織的なものではなく、出版、メディアを介したかたちで自然発生的な在特会型の組織が生まれ、これが選挙など政治に乗り込むことでより大きなレイシズムが発揮されていることを指摘する。弁護士などの懲戒請求事件のように、一般人を巻きこんだ社会運動としての差別煽動が恒常化しているのは、反差別ブレーキの欠落によって、極右が右翼と切り離されず一般化しており、軽い気分で差別煽動に参加することができる点にあると言う。ビジネス、ネットを介したこれは喫緊の問題でもある。

レイシズムナショナリズムの複合とともに、序盤に概説されたように資本主義との関わりもつねに問題となっており、ブラックライヴズマター運動の画期を、旧世代の運動が手を付けていなかった、罰金、手数料、監獄経営など国家暴力が資本主義によって強化されていることを批判した点にあるとしている。

二一世紀のヘイトスピーチ頻発状況下では「見えない」被害者の差別被害を語るまでなく、誰の目にも「見える」加害者と加害行為が日本全国にあふれている。差別被害を語る必要が一切ないほど差別加害があふれているのに、それでもなおマイノリティに被害を語らせ、マイノリティの歴史を学ぼうとしか主張しないのはなぜだろうか? それは差別を止めるという市民(シティズン)としての義務を果たす代わりに、被害者と歴史という「反差別の真理」を確認しているだけではないか? 安易に被害者と歴史という真理の規準に依存せず、その手前にある、差別加害を止める正当性と戦術的効果という別の規準を打ち立ててみて、はじめてマイノリティとその歴史を尊重することができるのではないか?
 もうこれ以上、マイノリティの被害と歴史を消費してほしくない。
 差別被害の深刻さや、マイノリティの疎外や、植民地支配や戦後の日本社会での在日コリアンの歴史について、本書は語らなかった。それは被害やマイノリティを軽視しているからだろうか? 差別の入門書なのに被害者の存在を無視・軽視しているのだろうか?
 逆である。マイノリティの疎外や歴史を尊重するからこそ、被害・被害者・マイノリティ・歴史を語る手前の段階で、それらに依存せずとも、マジョリティを含む誰もが取り組める課題がある。差別行為の発展メカニズムを分析するというこの課題に本書は集中した。(304P)

一ページ丸ごと引いたけれど、ここはきわめて重要な一節だろう。差別の問題は被害者に固有の問題なのではなく、まさに市民全体の正義に対する態度が問われているということ。とはいえ、面と向かって差別を辞めろ、という事態は家族が相手だったりしてそれはそれで厄介で……。

人種、民族にかぎらず、差別的現象全般を考えるのにも有用な議論になっていて、とても重要な一冊で、最近読んだなかではもっとも人に読まれて欲しい本だ。