テッサ・モーリス=鈴木 - 辺境から眺める アイヌが経験する近代

辺境から眺める―アイヌが経験する近代

辺境から眺める―アイヌが経験する近代

前回の本はアイヌを含めた近代の世界における先住民族を描いたものだけれど、こちらはよりアイヌにクローズアップした内容で、本書の狙いを序章から拾ってみれば、環オホーツク海域の千島・樺太も含むアイヌ、ウイルタ、ニヴフ(ギリヤーク)といった諸民族が「二つの異なる、しかし同種の領土拡張志向をもった」「日本とロシアという競合する国民国家」に吸収された時に、彼らのたどった「近代の経験」の諸相を描き出す試みということになる。

彼(女)らの経験はシティズンシップや国民体という考えのどのような側面を浮き彫りにするのか。そして、その経験は「進歩」や「近代性」というさらに大きな概念――人類の過去を了解するさいに中心的な役割をはたしてきた概念――をどのように照射するのか。

というわけで先住民族の経験から「近代」の諸概念を問い返すというのがざっくりいった本書の内容となる。『先住民族の「近代史」』ともテーマが似ているけれども、こちらはアイヌにターゲットを絞ってより専門的な議論をしているので、両方併せて読まれると良いと思う。以下興味深かった部分を点描しておく。

まず、これらの地域ではロシアの脅威に対抗するためのさまざまな政策がとられた。領土問題においては、アイヌは日本人だからその居住地もまた日本のものだとする論理を主張したわけだけれど、この結果、アイヌアイデンティティに「両義性が深く穿たれた」状況をもたらすことになった。

対外的な政治目標としては、アイヌは日本人ではなくてはならなかった。だが同時に、国民体(ネーションフッド)についての公式の理解からすれば、あからさまな差異(優劣とは別の差異)にはなんら余地が認められない社会において、彼(女)らははっきりと異なる日本人でもあった。アイヌの持つ差異を認めたとしたら、アイヌが掲げうる自治要求を認めなくてはならなかったであろう。逆に、差異を否定したとしたら、明治政府によるエネルギッシュな従属化・同化政策に対する知的正当化が不可能になってしまったであろう。
51P 太字は原文傍点 

この相矛盾する状況を解決するのが、梅原猛の「アイヌは狩猟採集社会の生き残りのモデルケース」だとするような類の、アイヌは進歩に取り残された日本人だという解釈だ。しかし、事実としてアイヌは農業を行っていた考古学的証拠もあり、この解釈は成り立たない。むしろ、考えられるべきは日本との関係において、アイヌの農業等が衰退していったことだとして、以下のように結論する。

すると、アイヌ社会を「狩猟採集」社会の原型として再構築したのは、まさに初期近代の発展過程にほかならない。交易の増加が日本とアイヌとのあいだによりはっきりと仕切られた分業を促進した。すなわち、アイヌの生活圏は漁業と狩猟に特化し、日本は農業と金属加工に特化した、そのような分業である。この意味で、アイヌ農業の衰退は、徳川期日本における農業技術の発展と同じひとつの過程をなしていた。
61P 太字は原文傍点

このことは、考古学的アプローチでアイヌ文化成立期を追った瀬川拓郎『アイヌの歴史』でも、縄文とそれ以降とで、交易品としてのサケの需要に対応して集落の分布がサケ漁に特化していく様子が示されていたように、交易・交流のなかで、アイヌ社会の変化があるということ自体は、近代に限らない。アイヌを自給自足の狩猟採集民として、自然と共存する理想社会のごときイメージでもって語る言説はままあるものの、ある程度学問的な議論においては、アイヌを交易の民として捉えることは既に常識と化している。

アイヌの歴史 海と宝のノマド (講談社選書メチエ)

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さらに、世界規模の経済システム、商業植民地主義の広がりにともなって先住民族共同体が経験する「二重の収奪」を著者は以下のように指摘する。

一方で、先住民族共同体の物質的資源が、植民化を行う国家や商人の金庫を豊かにするために冷酷無比に収奪された。他方では、先住民族とは滅びゆく運命(さだめ)にあるものと定義されるようなひとつの大きな物語(ア・グランド・ナラティヴ)を生産する研究者によって、共同体の存在そのものが採掘・破壊されていった。世界の他地域と同様、東シベリアやオホーツク海域でも、ほかならぬこの二重の収奪が先住民族共同体による「近代の経験」の全体図の基盤を用意したのである。85-86P

前半部分はこうした形で国家による先住民族共同体への政策を論じていくわけだけれど、後半では、そうした収奪のなかの先住民族自身によるアイデンティティポリティクスが論じられる。そこで著者は、近代以前と以後のアイヌに対する政策をこのように対比する。

アイヌ社会と日本社会との経済的差別化には、文化的差別がともなった。たとえば、松前藩は、アイヌに対する日本語の学習の禁止や日本風の衣服の着用の禁止を徹底化しようとしたのである。
 他方で、近代国家の成立は差別化とは逆の論理、すなわち同化の論理を基層としていた。国民形成には、明確な国境線の設定や小さな辺境社会の編入ばかりではなく、境界の内側になるすべての人びとをある特定の鋳型に入れて、単一の想像の共同体にはめ込もうとする営みがかならずやともなった。167P

このような状況下にあるアイヌの言説を、違星北斗や戦前にアイヌ協会が発行していた『蝦夷の光』という雑誌を例に分析していく。『蝦夷の光』執筆者は多くが同化政策に同調して、教育を受け、酒を止め、近代化して良い「日本国民」になることを目指していたかのように見える。ただ、それが必ずしも「日本人」になることを目指したのではないらしい様子があるという。

つまり、政府の視座からみると、良き「日本国民」になるのは、「近代化」されると同時に「内地人/和人」と同一になることがふくまれた。したがってそのさい、想像による同一化を介して自己改造をするとなれば、アイヌとしての独特のアイデンティティが消滅せざるをえなくなるだろうという想定が確実にあった。他方、小信のような書き手の視座からみると、「日本国民」としての自己創造には、「近代化」されるのと、「内地人/和人」と同等になることの双方の意味が含まれた。これは、アイヌとしてのアイデンティティ感覚を完全に消去するのではなく、むしろその感覚を豊かにするであろう過程である。179P 太字は原文傍点

この政府の視座の前提には、上述したような、アイヌは遅れた日本人なので、近代化するとともに「アイヌ」は消滅する、という想定があったのだろうと著者は指摘している。これに対しアイヌ自身は、アイヌアイデンティティをそのようなものとは思っていなかった。教育や技能の獲得はアイヌが「アイヌであるのをやめることを意味しなかった」、それは「普通教育や近代科学技術の採用で、明治期の日本人が日本人であるのをやめることを意味しなかったのとおなじ」だとも著者は指摘している。

したがって、同化主義、近代化の諸政策には、日本だけではなく多くの国民国家が有していた「基本的なパラドクス」が内包されていたと著者は述べる。為政者にとって国民国家は民族共同体だという想定がなされるのだけど、その実「近代化の過程そのものが、実は、国民的そしてエスニックなアイデンティティを産出している」。同時に、アイヌを同化し近代化する政策そのものが、アイヌを近代の言葉で「鋳直す」手段を提供することを意味した。つまり、

「同化」政策がとられればとられるほど、抑圧的、差別的法令によって規制されたアイヌのようなマイノリティにとって、自らのアイデンティティが明確化されたのは当然であった。「日本国民」としての同化を強制されれば、シャモ・和人・内地人から、自らを区別し、その境界を明確に意識する力学もまた生まれたのである。184P

ということになる。差異として同化する、とでも言い換えられるような自己矛盾的な過程の結果として、アイヌアイデンティティが形成されていく。このパラドクスによるアイヌアイデンティティのあり方は、知里幸恵違星北斗、森竹竹市、鳩沢佐美夫といった近現代のアイヌ文学にさまざまなかたちで現れている。

現代アイヌ文学作品選 (講談社文芸文庫)

現代アイヌ文学作品選 (講談社文芸文庫)

また、アイヌが「滅びゆく民族」だという認識を支えるものとして、社会ダーウィニズムにもとづく、アイヌは劣った民族なので優勝劣敗の必然として滅亡する、というような「科学的」言説が指摘されているように、アイヌ学、人種科学、人類学といった学問の暴力というのも、本書の範囲外ではあるもののしきりに論じられるテーマだ。

というわけで、後半のシティズンシップ論など重要な論点が抜けているけれど、以上いくつか紹介してみたように、こんな風に近代アイヌの経験を分析した本になっている。歴史学政治学、あるいはカルチュラル・スタディーズという人もいるし、まあそういう類のものだと思ってもらえば。

で、ここまでは歴史的な分析なんだけど、最終章では著者本人がサハリンに訪れた時のことを書いていて、ここがまた非常に面白い。いろいろな分析、観察があるのだけど、現実に出会った人々の多様なあり方に驚きを抱く部分が、とても印象的。同乗したフェリーの乗客をだいたいロシア人と日本人だろうと思っていた時に著者が出会った人の一例を挙げる。

わたしにロシア語で話しかけてきた身なりの整った夫婦は、在サハリンの朝鮮系の人であり、日本での休暇からの帰途であった。この二人は、日本植民地主義によって忘れ物のようにサハリンにとり残された朝鮮系コミュニティの一部を成す人たちであった。日本の法律によって、日本国籍は拒絶され、かといって朝鮮籍あるいは韓国籍も取得できなかった。これらの在サハリン朝鮮系コミュニティは、現在サハリン人口の八パーセントを占めているのであるが、島を離れるロシア系の増加にともなって、その割合は増えつづけている。そしてこのコミュニティの中から、ポスト・ソヴィエトのサハリンで成功した起業家を多く輩出した。247-248P

今現在の日本とも通じる状況がサハリンにもあるというのがわかる。サハリンへのフェリーで「日本植民地主義の忘れ物」に出会う以外にも、ウイルタ、ニヴフの人にも出会うなど、ここでは多彩な民族と言語環境が交錯していて、複雑な様相を見せている。学問的な分析は往々にして普遍性と一般性に現実を還元してしまう印象を与えることがあるけれども、こうしてもう一度複雑な姿を見せる現実の場面に戻ってみることで、抽象と具象双方とを密接な関係において理解することができる、と思われる。

実は名前からわかるように、著者自身イギリス生まれで日本国籍を持つ男性と結婚し、今はオーストラリア国立大学教授でオーストラリア国籍を持っているというなかなか込み入った経歴の持ち主で、名前の表記も鈴木がスズキだったり、モーリスがモリスだったりと揺れがある。元々ロシア研究をしていたらしく、本書でのロシアと日本と分断された人々を扱うというのはまさにうってつけなのかも知れない。

Amazonで品切れ高値状態だけれど、版元では在庫はあるもよう。
辺境から眺める:みすず書房

著者はその後在日朝鮮人の「帰国事業」を扱った本を書いている。著者が国内における「日本植民地主義」の「忘れ物」のその後を書くというのは上記引用にも既に萌芽が見えている。こちらもチェックしておきたい。

北朝鮮へのエクソダス 「帰国事業」の影をたどる (朝日文庫)

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