佐伯昭志『ストライク・ウィッチーズ Memorial Episode いっしょだよ』とプレアデス四話小説版

2008年のTVアニメ「ストライクウィッチーズ」の一期六話を脚本コンテ演出担当者が自らノベライズ。アニメ一話を140頁ほどの小説にしつつ、誕生日の書き下ろし短篇でエイラとサーニャ描写を足したり、解説付脚本決定稿までついていてすごい情報量がある。

一話でこの分量なので、やりとりや背景情報などがかなり補足されているけど、脚本家本人ということもあり違和感はない。巻末の脚本と読み比べるとここは小説でこれだけ書き足されたのかってところが確認できる。この頃はエイラとサーニャがまだそれほど親密ではないとか、この二人の関係にしてもそういえばそうなのか、と意外でもあり。アニメの絵と音という圧倒的アドバンテージがないとしても、より静かでモノローグ的な印象の強まる雰囲気がある。テレビシリーズの途中の一話なので、さすがに何も知らない人に勧められるかどうかはわからないけれども、まあキャラ紹介があるのと基本三人の話なので大丈夫かな。

放課後のプレアデス四話「ソの夢」とモチーフを共有する話で、脚本解説でも著者がプレアデスに言及して、孤独な少女、月、ピアノは物語のモチーフとして強力で、まだまだ作れる、と書いてもある。プレアデスファンはストライク、ソの夢、音楽ウィッチーズと続く佐伯監督作品史として読んでおこう。

本開いて気づいたけど、表紙イラストやキャラ紹介以外のカラー口絵や本文イラストは百合漫画や猫と皇女と野良猫ハートの外伝漫画なんかを描いてる竹嶋えく。漫画読んだことあるから見つけた時驚いたけどなるほどの人選。わりと変な四コマ漫画も付いている。

そしてここでも出てくるサン=テグジュペリ。『夜間飛行』のモチーフ。プレアデスは『星の王子様』だったわけだし、佐伯監督作品鑑賞のためにはサン=テグジュペリが欠かせないぽいな。読まないと。しかし私まさにプレアデス放映中に『星の王子様』読んでたけどモチーフに気づかなかったからなあ。

およそ百枚の長さだったので、時間が出来たら、と思ってた佐伯昭志監督による放課後のプレアデス四話ソの夢小説版も読んだ。ひかるの共感覚、両親の舞台裏補足や、改めて読むと大気圏を突破して月にいくことと父のピアノを聴けないことという、未知のことへの怖れのラインが浮き上がる。「すばるん」って呼ぶのはひかるの内心でのそれで、夢を経てこの話数で始めて口に出されているっていうのが書かれているのもポイントだな。ウィッチーズのエピソードもソの夢も、ひかるとサーニャの初めて見る表情、がフォーカスされている。父の曲を聴きながら見た夢のなかで月はお菓子でできた世界なのは、これは、「曲を楽譜で表現するように、いつかこの色や形を描き現すことが出来たら面白いだろう」というひかるの夢、と繋がっているんだろうか。


いっしょだよ、は佐伯監督からの持ち込み企画というけれども、数年前に予告していたものの四話だけが突如pixivで公開された放課後のプレアデスのノベライズ企画と関係してるんだろうか。プレアデス四話は百枚あるから、全13話のノベライズとなると千枚を超える規模になるはず。分厚い単行本か、上下巻にはなる。四話だけが公開されたのは、ノベライズ企画が頓挫したというのでなければいいんだけれど。

北原みのり編『日本のフェミニズム』、日比嘉高編『図書館情調』

 北原みのり編『日本のフェミニズム

日本のフェミニズム

日本のフェミニズム

百ページちょっとで、表題通り近代以降のフェミニズムの歴史を概説し、廃娼運動、売春防止法、リプロ運動、レズビアン運動史、80年代性の自己決定、性暴力AVの各七章をコンパクトにまとめた手頃なハンドブック。人物図鑑やコラム、年表、ブックガイドや、笙野頼子インタビュー、松田青子、柚木麻子のエッセイなど現代女性作家の試みも収録されており、各章には丁寧な脚注も付された一冊になっている。女性たちの戦いと連帯が縷々綴られた歴史。一読印象に残るのは、フェミニズムが戦ってきた歴史では女性が問題とされているけれど、それは実際には男性の問題にほかならないことが常に無視されている、ということだ。性売買の問題では女性ばかりが管理の対象になり、売ることが罰されても買うことは等閑視される。興味深かったのは沢部ひとみレズビアン運動史の章での、レズビアンの定義を「女と生きる女」とするところ。これはなかなか面白い。性的志向を定義から外して、ライフスタイルに焦点化しているのはどういう意図があるのか、理由をもうちょっと聞きたい部分だ。

笙野頼子はインタビューで、上野千鶴子との軋轢やフェミニズム観を語っている。『レストレス・ドリーム』を清水良典が「フェミニズムを超えた」と評したことで上野千鶴子に煽られ、松浦理英子ともども「娘のフェミニズム」と呼ばれ、そのシンパたちにアンチフェミニストでセックスを差別するミソジニストだと中傷されたという話はなかなかすごい。特に惹かれたのはこの一節、「考えてみたら、私は要するに、普通に女性がして幸福になるぞと世間で言われていることを一切やってこなかった。だから、私はいま幸福なんです」(110P)。(ちょっと違うけど最近、自分は恋愛・結婚をしたいと思う人間でなくて良かった、とか思ってたので分かる気がした。逆に、いまそういうことをやってさらに子供を育てたりするのが非常に大変だということをいろいろ聞いて、それはそれですごいと思う。経済的にも一人育てるのに精一杯みたいな環境だったりなんだったり)一人前の料理を食べられなかったり、選挙に行くことすら冷笑されることのない一人前の人間としてあることを阻害するものについて、あるいは女性をつねに少女か娼婦か妻か母かにカテゴリ化する暴力、についてをつねに自分の当事者の視線から見る、というスタンスを徹底し、当事者の視界に即くことで、逆に自分より大きなものを予測したり描いたりすることのできる、ということを自身の文学の方法として考えていることなどが語られている。本書は笙野頼子さまより恵贈頂きました。

日比嘉高編『図書館情調』

図書館情調 (シリーズ紙礫9)

図書館情調 (シリーズ紙礫9)

 皓星社のアンソロジーシリーズの一つ、図書館文学をセレクトしたもので、菊池寛宮本百合子中島敦中野重治笙野頼子の小説や、高橋睦郎宮澤賢治の詩や短歌を収める。とはいえ竹内正一、新田潤、小林宏という聞いたことのない作家の作品がなかなか面白かった。菊池寛の「出世」は、図書館利用者の語り手と靴を預かる下足番の関係が、後に出世した語り手と受付係という陽の当たる仕事に出世した男との時間を経た関係が描かれていて面白いんだけど、勝手に下足番側から読んでいたのでその同情に苛立つところがあった。哀れまれる仕事だったのか。宮本百合子「図書館」は、図書館に婦人閲覧室があった時代と戦後の図書館が対比されるんだけど、暗いところに隔離された女性だけの喧噪たる空間が、婦人室を無くす運動の生まれる場所でもあったということが語られていて、非常に面白い。

宮本百合子 図書館

新田潤「少年達」は、図書館で働いていた少年達とその後を描いたものだけど、菊池宮本と並べると、図書館という場は若者達のその後の足がかりになる、青春小説の格好の舞台になるんだということがわかる。解説では時間を超える図書との関係から語られているけど、学校とも似た教育機関としての性質があるわけで、将来に向けての勉強や学問の場所だからこそ、成長したあとにその場所が回想されるんだろうと。笙野頼子「S倉極楽図書館」は私小説から一転さらりと幻想小説になる佳篇で、本屋で買える本だけを扱う評論を批判するくだりなどが挾まれる。出典を見ると加筆されてるらしいので見比べると、内容的には変わってないけど、数文字をくわえたり削ったり、会話を細かく直したりしてある。

巻末の四十ページある図書館文学史概説ともなる日比嘉高の解説が非常に充実している。そこで引用されてる入沢康夫散文詩が面白かった。分類に収まらない本が増えてきたので、背表紙の色で分類する配列法を採用した、というやつ。Twitterで最近よく見る。

本書も笙野頼子さまに恵贈頂きました。

トーマス・ベルンハルト『原因』

原因―一つの示唆

原因―一つの示唆

ベルンハルトの自伝五部作の第一作*1で、少年時代のギムナジウムや寮での生活を戦争・空襲の状況とともに描き出し、戦前のナチズムと戦後のカトリシズムを同質の「調教手段」として批判し、住んでいたザルツブルクをまさにその二つによって覆われた場所として痛罵する、愛憎の自伝小説だ。

「根本において、寄宿舎にあったナチズムのシステムとカトリックのシステムには、まったく何の違いもなかった。すべてはただ、違った色合い、違った名前を 持っているだけであり、与える印象と及ぼす効果は同じものなのであった。戦後間もないこのころ、 私たちは、ナチス時代と同様に洗面所で慌ただしく顔を洗ったあと、すぐ「礼拝堂」に入った。ナチ ス時代なら「談話室」に入ってニュースを聴き、グリューンクランツの説教を聴いたのとまったく同様に、今は「礼拝堂」でミサを聴いて、聖体を拝領した。以前ならナチの歌を歌ったところで、今は聖歌を歌った。一日の経過は、カトリックでもナチズムのときと同じく、根本において反人間的な調教メカニズムとして構成されていた。ナチス時代には食事の前に食卓の横に直立し、グリューンクラ ンツが食事の開始にあたって「ハイル・ヒトラー」と言ったあと、みんな腰を下ろして食べ始めることができたのだが、今ではまったく同じ姿勢で食卓のそばに立ち、フランツ小父が「祝福された食事を」と唱えたあと、腰を下ろして食べることが許された。以前、ナチズムの時代にはほとんどの寮生が国家社会主義の教育を受けていたのと同様、今、ほとんどの寮生は両親から、カトリシズムの教育を受けていた。私は、どちらの教育も受けなかった。祖父母のもとで育った私は、たちの悪い病気としてのナチズムとカトリシズムのどちらにも、一度も、罹ったことがなかった。」90P

この痛烈なザルツブルク批判に留まらず、さらに親による教育や学校制度にも批判は及び、「子供を作るという罪」や「私たちの本性を意図して不幸にするという罪」を列挙し、「両親などというものはない。新しい人間の生産者としての犯罪者がいるだけだ」とまで述べる。反出生主義とも近いけど、むしろ親の教育が子供を破壊している、という批判だろうか。それでいながら、祖父への愛や祖父から受けた教育を懐かしみ、また学校や社会の生け贄とされた醜い教授や不具の子をつねに思いだし描写する。「道徳とは偽りだ。いわゆる健常者は、心の底ではいつも病人や不具者を見て楽しんでいる」という共同体への怒りが突き立てられる。

 

自分を作り上げたものがなんだったのかを問い返すなかで現れるザルツブルク、教育制度、生徒・教師、家族たちをどう思っていたかをたどりなおすことで描かれる自分にとっての真理としての回想。この罵倒と批判と愛するものへの思いが入り交じる語りに笙野頼子を思い出す、とりわけ祖母の「屈託のない生の喜び」に言及するところとか。日本のベルンハルトは笙野頼子、か。どっちか読んでる人はもう片方も読んで欲しい。小説としてドラマチックなことが起るわけでもないのになにか感動的なものがるところも似ている。

 

なお、ナチ時代の寮長とカトリック時代の寮長の二つの章に分けられている以外は、一切改行がない。 

 

*1:この前に訳された『ある子供』は第五作でこの作品より以前の時代を扱っている 

薄い本を読む

十月はおおむね薄い本を集めて読んでいたのでそれらについてツイッターに書いていた感想をまとめた。だいたい本文200ページ以内かその前後なので、さっと読めるだろう。

f:id:CloseToTheWall:20181112093612j:plain*1

爪と目

爪と目

 藤野可織『爪と目』、不気味な二人称の語り手が子供の視点から母親の見ていないものについて語るホラー色の強い表題作と、やはり不気味な「しょうこさんが忘れていること」、子供の呪われたという不安に立ち向かう「ちびっこ広場」、いずれもホラー的語り、内容になってて面白い。

夜間飛行 (光文社古典新訳文庫)

夜間飛行 (光文社古典新訳文庫)

 テグジュペリ『夜間飛行』はなるほど密度の高い中篇で面白い。ファビアンらパイロットと飛行を命じる社長リヴィエールが対置されていて、たとえ機が墜落したとてリヴィエールも便を欠航させるという「夜間飛行」事業の「墜落」をするわけにはいかない、という話。どちらも不時着が死を意味するような綱渡りのような飛行を続けている、という構図で、リヴィエールの規則厳守の高圧的態度も、自然を相手にする厳格さでもあるけれど、航空機技術が未発達な時代ゆえの残酷さがあって、それはそれとして美しいとはいえ、という感じもある。雲上に出る時の開放感とその状況の悲愴さが印象的。

奪われた家/天国の扉 (光文社古典新訳文庫)

奪われた家/天国の扉 (光文社古典新訳文庫)

コルタサル『奪われた家・天国の扉』。名前だけは知られていたデビュー短篇集『動物寓話集』の初の完訳。まさに悪夢的な短篇「奪われた家」の鮮やかな怖ろしさや「バス」の不条理劇から、うさぎを吐く女、不可解な動物、親戚の家の異様な不気味さ、そして死者への幻想まで。幻想と言いつつもそれがはっきり分かるようなものとは違い、リアリズムがどこかで壊れたような異様な何かが起りつつあるという感触が強い。不気味だ。しかしそれが死んだ女の幻想を垣間見るというかたちで描かれると「天国の扉」にもなる。確かに表題二作は特に印象的。

飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫)

飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫)

 ケストナー飛ぶ教室』。「マルティン!」のところはちょっと感動しちゃうね。これ1933年の作品なのか。子供たちの友情と大人たちの友情を織り合わせるクリスマスストーリー、面白いけど、二人の先生を出会わせる場面、そこは素直に会わせていいのか、と意外だった。二人の微妙な関係に踏みこむ安易な善意がしっぺ返しを食らう展開になるかと思ったので。理想的人物たちの教育的物語感に何か言いたいこともないではないけど、孤児の話で始まったのが親子の感動ストーリーで締められるのが一番んん?って感じはした。ジョニー、なんだったん?(光文社古典新訳文庫ではニューヨークから来たジョニーが英語読みになっている)

野性の呼び声 (光文社古典新訳文庫)

野性の呼び声 (光文社古典新訳文庫)

ジャック・ロンドン『野性の呼び声』。犬文学! 本能と文明が対置された自然回帰のロマンは古い気もするけど、アラスカの氷雪の自然を描き出しつつ聡明強靱な犬・バックが走り抜ける非常に格好良い小説なのは確か。文明と本能の対立に愛が差し込まれるところもいい。忠犬では終わらない。古典新訳文庫の解説がかなり丁寧に当時の状況を書いてるのもいい。とはいえやはり極限の自然を相手にした「男性原理」的な格好良さではあるので、ダメ三人組のなかでもとりわけ女性が無能に描かれてる感は気になった。「インディアン」の扱いも。犬を主人公としつつも嗅覚の描写が薄い気がしたな。 

ご遺体 (光文社古典新訳文庫)

ご遺体 (光文社古典新訳文庫)

 イーヴリン・ウォー『ご遺体』。アメリカ在住イギリス人で動物葬儀社勤務の主人公と、人間に綺麗な死に化粧をする葬儀社の女性と、その上司の遺体処理技師との三角関係の話で、中盤くらいまでは、はあはあなるほどって読んでたら最後の方の展開がひどすぎてさすがイギリス人だと笑った。「かわいいペットを亡くされたお客様だ」じゃあないよ。詩の教養とか英米比較文化論的なものが背景にあるみたいで、死者やペット葬までが商業化されるアメリカを皮肉に描いた、といっても今から見ればそう変でもなく見える。しかしまあ、日本人みたいに簡単に自殺するなって思った。 

冬の巨人 (富士見L文庫)

冬の巨人 (富士見L文庫)

 古橋秀之冬の巨人』。曇り空の雪原を千年にわたり歩く巨人の背中には街を作って人々が住んでおり、主人公は教授とともにこの巨人や外の世界を研究している。しかし巨人の動きは近年鈍ってきており、街には終末を予言する人々が現れてというシンプルなファンタジー中篇。古橋秀之十数年ぶりに読んだ気がするけど、雪原の暗闇と天球の明るさ、雲上の晴れ間といった明暗の舞台設定からの終盤が鮮烈だった。児童文学的な感触の強いファンタジーで、滅び行く街の曇った景色からの再生への祈りが描かれる。そういや、爆弾をまだ読んでないな。 

瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集

瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集

 ジギスムンド・クルジジャノフスキイ『瞳孔の中』。20世紀前半のソ連の作家の作品集。ファンタジックな設定を理論的に固める作風で、幻想小説とSFの中間のような感触がある。冒頭の「クヴァドラトリン」は部屋が二乗に広くなっていく薬の奇妙な話。「支線」は夜と夢の別世界。「しおり」はやや分かりづらく、テーマ捕りという語り手がさまざまな物語を語り出しては中断する。表題作は恋人の瞳の中に自分そっくりの小人がいて、瞳孔の中にはほかに11人の小人・つまり元彼、という奇想譚。「噛めない肘」はカフカというよりはドストエフスキーの「鰐」を思い出した。妙な乗りづらさを感じるけど、表題作の下世話さは面白い。 

未来の回想

未来の回想

 クルジジャノフスキイ『未来の回想』。タイムマシン開発が、徴兵や革命後の私有財産制の否定によって資産が没収されるなどの困難で阻害され、革命前後の時代状況の厳しさが描かれており、作者自身の作品が引き出しにしまわれていたことと二重写しにもなっている。失踪した主人公をめぐって書かれた伝記について語る語りなど、構成、語り、レトリカルな文章など、かなり凝った作品なんだけど、時間理論や話のオチは私にはいまいちわかってない。あれ、どういうことだったんだ?ってなった。

地獄から来た青年

地獄から来た青年

ストルガツキイ兄弟『地獄から来た青年』。戦争のただ中瀕死の状態から連れてこられた異星人が、未来の地球でわけもわからず退屈な日々を送るなかで徐々に状況が見えてくる。軍人が平和に適応できない話でもあり、異星の戦争に秘密裡に介入して平和を押しつけることへの批判でもある。衰退しつつあると思しい不気味な地球で、ドランバというロボットに軍事教育をしていく主人公とのやりとりが一抹の清涼剤って感じで楽しい。主人公の故郷ギガンダ星が猫とネズミで戦争してて、主人公が誇りあるファイティングキャット、というのが寓話的でもある。ドラえもんアニマルプラネット感。

巻末の矢野徹深見弾追悼文が面白い。深見がソ連批判激しい左派で、矢野が自民批判の天皇主義者だったとは。政治スタンスがそういう感じなの知らなかった。翻訳は深見の下訳を大野典宏、大山博が引き継いで完成させたもののよう。共訳クレジットにしてもよさそう。ストルガツキイ兄弟、ほかの作品でもこういう優越者の傲慢というか、現実の国際関係を匂わせた批判みたいな作品あった気がしたけど思い出せない。『収容所惑星』、どういう話だったか…… ストルガツキイ兄弟読むの十年ぶりくらいだけど、確認したら群像社から出てるやつはなにげに全部持ってるな。十数年前の俺は良いヤツだ。あと読んでないのは白鳥、モスクワ、滅びの都、か。まあ以前読んだのもたいがい中身覚えてないけど。 

宇宙飛行士オモン・ラー (群像社ライブラリー)

宇宙飛行士オモン・ラー (群像社ライブラリー)

ヴィクトル・ペレーヴィン『宇宙飛行士オモン・ラー』。月の裏側に探査者を送ることでアメリカに対する宇宙開発競争に勝利するために、子供の頃から宇宙飛行士に憧れていたオモンが命じられたのは、帰還手段のない「特攻」飛行だった。バラード短篇をも思わせるブラックな状況が痛烈。体面、数字のために命が軽々と費やされる様子はブラック企業的なものも思わせ、作中でまさに日本人の「特攻」体験が参照されているとおり、ソ連体制、帝国日本の邪悪さを生々しく想起させる。作者が言った「ソヴィエト人の内面の宇宙」をテーマにしたというのもバラードっぽくて、主人公の置かれた悪夢的な状況がより広いスケールでの悪夢の可能性を匂わせるとともに、悪夢からけして覚めたわけではないラストから、悪夢的なものがつねに全体に瀰漫している印象を強めている。作中「われわれは嘘によって真実を救っている」という言葉があるとおり。死に際にフロイドの話をする人物の話題の展開のしかたがもうまったくプログレオタクって感じで面白い。原題が月の裏側、になる『狂気』の扱いも面白い。

ペレーヴィン寝台特急 黄色い矢』も持ってたなと思って確認したら、これ原書短篇集『青い火影』の後半部分ってことになってるのか。『眠れ』で訳し残した十一篇のうち、三篇しか訳されてないけど、ほか八篇ってどこかに訳されてるのかな。ペレーヴィンを知ったのは確か望月哲男がロシアの現代文学について書いてる論文がネットに公開されてたからで、そこには『レストレス・ドリーム』とロシアのターボ・リアリズムについてからめて書いてあったのがきっかけなので、ペレーヴィン笙野頼子が脳内で関連している。 

リーヴィット (グレート・ディスカバリーズ)

リーヴィット (グレート・ディスカバリーズ)

ジョージョ・ジョンソン『リーヴィット 宇宙を測る方法』。サイモン・シン『宇宙創成』を読んでとりわけ印象的だったのは、セファイド変光星の変光周期と明るさの関係を割り出し、宇宙の距離測定方法に画期をなした女性、ヘンリエッタ・スワン・リーヴィットのことだった。本書は彼女に関する現状唯一の和書だと思われるけれども、天文台で写真乾板を精査して地味な作業に従事していた病弱の女性は、いくつかの論文のほかには記録もほとんどなく、本書も彼女自身よりは、宇宙測定方法にかんする天文学史概説の趣がある。しかし、その核心には彼女の発見がある。ピカリング、シャプレー、カーティス、ハッブルといった天文学史の人物を描きつつ、リーヴィットの発見が宇宙の測定に投げかけた波紋をたどる。グレートディスカバリーズと題されたこのシリーズにはマリー・キュリーアインシュタインチューリング(予定のみ)とあり、この名前と並べる叢書の編集方針にはなかなか面白いものがある。当時の女性の置かれた地位についても素描しつつ、シャプレーの「天文学の歴史で、もっとも重要な女性のひとり」という言葉について、天文学における女性の少なさを考えると、どれだけの賛辞なのかわからない、と皮肉って見せるのも面白い。数学者ミッタク=レフラーがリーヴィットの死を知らず、ノーベル賞に推薦したいと手紙を送ったエピソードは悲しくも有名だけど、これについてその時天文台の館長かなにかだったシャプレーが自分のほうをアピールする返信をしていたのは笑った。遠くの距離を測ること、がいくつもの仮定を積み上げた難しいものだということと、その仮定のどこかがおかしければ測定値はいつでも大きく変化してしまうということを如実に描き出して、宇宙の遠さという茫漠とした感情になるほかないロマンが感じられる本でもある。また天文学の本を漁りたくなった。

千曲川のスケッチ (新潮文庫)

千曲川のスケッチ (新潮文庫)

島崎藤村千曲川のスケッチ』。信州小諸やその周辺の土地の自然や人々を文字通りスケッチしたような短い文章を連ねて一回とし、全十二回で四月から四月へ戻ってくる。とりたてて感想があるわけではないけど、揚羽屋が出て来て、後藤明生の『吉野大夫』で出て来たとこだ、って何で買ったのか思いだした。スケッチと言いながら「自然は、私に取っては、どうしても長く熟視めていられないようなものだ……どうかすると逃げて帰りたく成るようなものだ」とあるのはなにかアンビバレントで面白い。 

島崎藤村 千曲川のスケッチ 青空文庫

近代日本人の発想の諸形式 他四篇 (岩波文庫 緑 96-1)

近代日本人の発想の諸形式 他四篇 (岩波文庫 緑 96-1)

 伊藤整『近代日本人の発想の諸形式 他四篇』。文学者のあり方や発想を歴史的文脈のなかにおいてその限界を探るタイプの立論による論集。著名な表題作の他、「近代日本の作家の生活」の、稿料や新聞の読者層、日露戦争前の社会状況から、作家の生活と創作との関係を捉える部分が面白かった。表現と社会との関係をきっちりと跡づける感じ。昭和二十八年段階で伊藤整の稿料が原稿用紙一枚千円、とあるけど、あれ現代でもそんな稿料の雑誌あるよな、と。明治十年頃なんかは書画会という書や即席画の頒布会があって、文士やらの顔を見たい人が集まるらしくこれが結構な収入だったらしい。即売会だ……。新聞記者としての作家、文壇人としての作家、それぞれの状況が何を書くかについての制約をもたらしていたことについての、身も蓋もないような書きぶりが非常に面白い。自由の程度と経済状況の関係。多くは岩波の講座ものなどに書かれた論文で密度が濃い。しかし奥野健男って伊藤整の弟子筋だったのか。この解説でも構造主義に言及したり、『文学における原風景』なんかはバシュラールを援用したものだったはずだけど、そういや結構な理論派か。化学専攻から転じた人だったっけ。太宰の人って言う印象ばかりだった。 

高野聖・眉かくしの霊 (岩波文庫)

高野聖・眉かくしの霊 (岩波文庫)

泉鏡花高野聖・眉かくしの霊』岩波文庫、なんか鏡花が読みづらいという印象がずっとあって、「春昼」二篇は面白く読めた覚えがあるし「高野聖」はわかるんだけど、「眉かくしの霊」あたりはうん、よくわからないなって感じになる。

*1:『原因』は別記事を立てる

石川博品『夜露死苦! 異世界音速騎士団"羅愚奈落"』と『海辺の病院で彼女と話した幾つかのこと』

 同人誌として発表された長篇。いってみれば異世界チート主人公の帰還後からはじまる物語。受験前にトラックに轢かれて異世界行ってた主人公が半年後に目覚めて、渋々入った不良高校で暴走族に絡まれるんだけどその連中もじつは異世界に行けるっていう、異世界チートと現実世界の往還を軸にしている。

異世界ではチートだけどリアルでは「ダサ坊」な主人公が、不良暴走族の世界に巻きこまれ、あれよという間にチームに加入させられて、というギャグが前半を占める。現実側の登場人物のほとんどが「……!?」をつけなきゃ喋れないような独特の語彙を使いこなす不良連中で、やりすごすための主人公の行動が逆に「ビッ」としたやつだと賞賛されるという勘違いコメディの日常を送りつつ、その主人公に惚れたヒロインによる語りがあまりに乙女チックに美化されている、という二段階のギャグが面白い。破天荒な文体とヴァンサマ、メロリリでも使われてたエモーショナルな男女相互視点がここでは徹底してギャグに使われてるのもなかなか卑怯に面白いんだけど、このなかに、現実では無力の自分と周囲の期待のギャップっていう悩みや、厄介ごとに巻きこまれていく怖ろしさがあったりする。

地縁血縁のヤンキー人間関係に絡め取られていく空恐ろしさとともに、じつは不良連中の倫理的ポイントを主人公が感じ取っていくところもあり、異世界で暴走族が正義の味方として敵と戦う中盤戦あたりからは様相がやや変わっていく。主人公の苦悩を展開していく五章はやはりさすがで、不良の倫理を侮らないし、莉子の語りも裏切らない、その姿を通して、じつは主人公の語りこそ信頼できないのでは、という場所にまで持って行くのが良かった。やっていることは非常に格好いいんだけど、語りでそれを誤魔化すっていう、ポイント、耳刈りネルリを思い出すところがある。

異世界のみならず暴走族の世界と莉子の語りというそれぞれの別世界という三層構造を駆け抜ける主人公の姿よ。

同人紙版を買ったけど、小説家になろうで公開されてるしkindleでも買える。

https://ncode.syosetu.com/n9682ev/

 

海辺の病院で彼女と話した幾つかのこと

海辺の病院で彼女と話した幾つかのこと

 

表題の大枠のなかで、その一年前、主人公の住む町に奇病が蔓延し家族や住人が死に至るなか、そのなかで生き残った少年少女は特殊能力に目覚め、宇宙から来たらしき異形の生物との戦いに身を投じることになる、という青春SFアクション小説。

夢が持てないこと、夢に憧れること、夢を叶えること、そして叶えられずに終わること、そういうこもごもが少年少女の殺し殺される敵との戦いで描かれ、夢に浮かされることを病と重ねながら、その夢=病に死んでいく者たちがあまりにも切ない。病にかかることでさまざまな能力を得て、異星人との殺伐バトルへと繰り出す子供達の姿は、『菊と力』系の殺伐殺し合いもので、ちょっと『明日の狩りの詞の』ぽいSF風味も感じた。青春の暗い情念のたぎる焦燥感は石川博品作品の重要な水脈のひとつになっていることがよくわかる作品。これはカクヨムで公開されている。イラストレーターはキズナイーバーのキャラクターデザインの人。

笙野頼子 - ウラミズモ奴隷選挙

ウラミズモ奴隷選挙

ウラミズモ奴隷選挙

 

『だいにっほん』三部作の前日譚としての前作『ひょうすべの国』のずっと未来を描く最新作。笙野頼子の未来史シリーズのひとつ、とはいっても、作者自身が前書きで言うように、いくつもの長篇との関連があるとは言え、いまこの作品あるいは笙野頼子に興味が向いたならばまずまっさきにこれを読むのがいいだろう。

なぜかといえば、今現在日本で進行しつつあるさまざまな政治的社会的事象を観察し取り入れた描写の数々には現実のカリカチュアライズのはずがむしろまったき現実そのものとしか思えず、また書いた時点よりも未来を先取りするかのような描写はその観察の正しさを証し、いったいどちらが虚構なのか、という読むことそのものが生々しい今現在のおぞましさを味わうことになるような体験はたぶん今にしかないからだ。

 

この作品の舞台は2070年代のウラミズモに併合された千葉S倉、あるいは歴史民俗博物館の周辺。奴隷選挙とは、「にっほん」から独立した女人国ウラミズモに併合されるかにっほんのままでいるかの選挙でウラミズモ併合を選んだ選挙を指す。本作はにっほんからの亡命者や留学者といった女性あるいは女神が、にっほんでの経験を語り、ウラミズモでの生活を語り、この二つの社会の鮮やかな対比を浮き彫りにする。

 

「にっほん」社会の特徴は徹底した女性差別社会で、また同時に支離滅裂な自滅的社会でもあることだ。おんたこと呼ばれる人物類型は、差別批判の理路を逆用し、男性こそが被害者で弱者だから、女子供への加害が許されるべきだ、という超論理を展開し、与党が「知感野労(ちかんやろう)」と略称されているように、痴漢常習者のロジック――加害者が自分を被害者として暴力を正当化する論理で成立する国家を描いている。前作『ひょうすべの国』のひょうすべ、とは「表現の自由が全て」の略で、これも公正さ、平等の奪用によって弱者を攻撃する手法だ。

 

ここに描かれた暴虐的差別主義国家だいにっほんは果たして過剰な誇張だろうか。七月の雑誌掲載後しばらくして起こった「新潮45」をめぐる騒動で、小川榮太郎が「LGBTの権利を保障するのであれば、痴漢が女性を触る権利も社会は保障するべきではないか」と書いたらしいけれども、本作にはウラミズモに観光に来る「だいにっほんのお上りさん」が「痴漢をする自由は性の多様性なので、性的弱者を保護する牧場なら、男女平等の見地から、痴漢に少女を襲わせなくてはならない」と言っていたくだりがあり*1杉田水脈セクシャルマイノリティ差別とあわせて、これらが政権与党トップに近しい人間から発されている現実はフィクション以上に醜悪な現実で、どちらがカリカチュアなのかわからなくなってくる。

 

消費を上向かせたいのか消費を抑制したいのかわからない、少子化をなんとかしたいのか女性に出産をさせたくないのかわからない、そういう政策や現実を見るにつけ、作中の支離滅裂な自滅的社会とはまさにこの現実の日本そのものだ。

水道民営化法案が話題になったまさにその時に、作中では水道が国際企業に占有されて貧乏人が水を買えなくなったりした未来社会が描かれているのを読んだことを覚えている。また語り手の一人、市川房代の誕生は2020年、オリンピックの夏、ボランティアが奴隷労働で死んでいくなか生まれた、とある。作中では働き方法案が後に奴隷法案となった世界だ。

 

対して女人国ウラミズモは女性がきちんと人間として生きられる社会として成立している。女だけの世界で始めて人間となる女性たちの国。小さな生活を大切にし、ベビー用品が世界的に輸出されているなど、資源はなくともなんとかやっていけてる「三流国」だけれども、必ずしもここが理想国として描かれているわけでもなく、カメラだらけの監視社会で健康への厚かましいお節介がある、「クリーンだがホラーな政治」かも知れないとも書かれており、柔らかな全体主義のようなものも匂わせている。そして、作中に出てくる高校生の「婆差別」が懸案事項となっているなど、様々なカウンターを仕込んでおり、なかでもウラミズモの一種の暗部として「男性保護牧場」がある。痴漢や犯罪者といった憎むべき男性を収容し、萌え抱き枕などを与えて飼育し精液を採取したり、あるいは女人国の母親から捨てられた子や債務奴隷になって買い取られた子など、犯罪性のないものもいるけれども、これが性愛のない国での唯一の「性的機関」だという。そしてここの最悪の犯罪者は、白梅高等学院のあるクラスでの「オストラシズム」の結果によって処刑されることになる。

 

警視総監と法務大臣が出るというエリート養成高校の特別編成クラスの総仕上げがこのオストラで、その最悪の存在をいかに処刑するかを決めるのが重要な授業として設定されている。ここにも選挙のモチーフがある。結末近く、白梅高等学院の双尾銀鈴の一文には、「全ての選挙の中に暴力は既に内蔵されている」とある。奴隷選挙によってウラミズモに併合されたこのS倉で、高校生の学女(ウラミズモの言葉では学生ではなく、学女)達はオストラによって児童虐待殺人犯を処刑するという暴力が露わになる。双尾銀鈴はこう書く。「オストラだけが唯一、純粋暴力に近い選挙だった」。「人類はまた、もし暴力革命をやっても、選挙の名簿作りに失敗すれば、さらに嘘を重ね、前よりもひどい国を、暴力を作るでしょう。だからこそ絶対、まず選挙の中からこそ暴力をなくさないと、みんな、ダメになります」(242P)。ここには女を排除しようとする選挙に対し、純粋暴力としての処刑を対置しながら、構造を露呈させ、以て暴力を批判しようとする試みがあるようにも思う。

 

作品ラストの、女装男性の国境警備員や女装専業主夫がじわじわと生まれている状況は、ウラミズモとにっほんとの分離のあいだから新しいものが生まれてきているわけで、状況が徐々に変化していく未来をうかがわせる。序盤の語り手だった陰石の女神は、別れ別れになった陽石の夫を探しにS倉に来た存在で、分離と再統合のテーマも序盤から埋め込まれている。

 

先の一文で、双尾銀鈴は暴力を三つ指摘している。「性暴力、差別暴力、経済暴力」の三つだ。性暴力、差別暴力批判としてのウラミズモの特質はいくらかは既に述べたけれども、その根っこにあるのは性愛を中心に置かない国だということだ。ウラミズモでは家庭を持つルートに二つあり、一つは人形夫を持つ分離派と、女性二人で結婚する一致派というものだ。しかし、一致派もまた友情婚だとされており、必ずしも同性愛ではない。白梅の双尾、猫沼という二人について作者は紹介文で「少女カップルの「恋話」」だと書いているけれども、幼いときから相手なしでいることはなかったというこの二人の微妙な関係も今作のポイントの一つだろう。

 

そして経済暴力批判の側面が、今作が怒りに満ちた反TPP小説だということで、水道民営化、種子法廃止、国際企業だけが利益を持って行くカジノなど、国際企業に生存の手段が占有され、すべてが金に換えられてしまう奴隷状態への批判が主題でもある。「にっほんはいつしか自分で自分を奴隷化し奴隷的でいることを美徳とする国」(67P)で、弱者に不要な苦しみを押しつけるのが好きな性質を指摘する。権力への媚びと弱者への暴力、これをこそ奴隷根性として指弾し、批判する。奴隷化された自己とそこに吹き荒れる暴力のなかから、抜け出し離脱する手段の一つとして「選挙」が出てくるわけだ。奴隷選挙とはその謂いだろうか。

 

論争的、闘争的な政治と文学をその身に生きる笙野頼子の現在最新作、盛り込まれた要素をまとめきれてはいないけれども、とりあえずこんなところで。

 

本書は笙野頼子さまに恵贈頂きました。ありがとうございます。

 

雑誌掲載版についての当時のツイート。七つくらい連結した投稿になっているのでクリックすると続きが読める。

 

*1:25P。なお雑誌版にも同文がある

笙野頼子 - 猫道

 

猫道 単身転々小説集 (講談社文芸文庫)

猫道 単身転々小説集 (講談社文芸文庫)

 

 作者の住居あるいは猫にまつわる小説を集めた文庫オリジナル作品集。部屋探しを通じてこの社会に居場所「も」ないことに直面するさまと、捨て猫を拾い共に生活していくことで「猫はそんな私を人間にした」(11P)という側面から、その存在のありようをたどる本になっている。

この系列では千葉への転居を描いた『愛別外猫雑記』『S倉迷妄通信』が重要だけど本書には入ってないので各自で読んで頂くとして、本書では部屋探し長篇『居場所もなかった』を中心に、初期作から十年前の未収録短篇までと幅広く選んでいる。初期短篇「冬眠」は京都時代のことが描かれており、ここには一人の空間という居場所のモチーフの原型がある。しかし『居場所もなかった』を経て『増殖商店街』収録諸篇になると、拾い猫キャトが失踪したあと、その捜索中に出会った捨て猫ドーラを拾うなど、部屋には他者が住まうようになり、その後の拾い猫モイラの死を綴った箇所では「焼き場で待っている時に生まれて初めて、ひとりでいる事が苦痛だと思った」(317P)とまで書かれるようになる。

そしてモイラの死後、ある夢をきっかけにして死んだモイラが近くに居ることを確信するあまりに悲しくも感動的な短篇「この街に、妻がいる」が続く。「猫がいた時は猫を通じて、人間が人間だと感ずる事が出来た」(263P)とあるように、居場所のない「悪く、汚く」「罪深い存在」(92P)が猫によって「人間」になる。

初期短篇「冬眠」も中後期作品も、大切なものがある自分の空間、というモチーフでは通じるものがあるけれども、その関係が閉じたものではなくなっている。作者自身が書くように、初期作品の感覚は「人間という自覚や感覚」が欠けたゆえの硬質で冷たい雰囲気があり、そこに魅力もあった。しかし猫によって生きる実体と根拠、闘争の拠点を得て、笙野作品は「生命の喜び」や「幸福」が重要なテーマとなっていくわけでもあって、そのそれぞれの時期から選び出すことで、作品の変化がたどれるようになっている。

出会いがちゃんと描かれてる猫はドーラだけだったりするけれども、多面性にあふれる笙野頼子を住居と猫の要素で切り取った、興味深いイントロダクションにもなっている作品集。現在の政治的闘争精神に満ちたスタイルの根っこにあるものをうかがうこともできるだろう。

 

 以下ちょっと長くなったので収録されてる長篇について分けておく。

第二長篇『居場所もなかった』(なお第一長篇は『なにもしてない』という題)はたぶんはじめて読み返したけど、やっぱり面白い。ほとんど笙野頼子自身ともいえる語り手による部屋探しを書いた長篇なんだけど、自営業独身女性が如何にこの社会に居場所がないかに直面し、会社員の編集者との話の合わなさに、見ている景色の違いが如実に出ている。前述「罪深い存在」というのは、長く住んだ部屋を追い出されることになり、しかし新しい部屋もぜんぜん見つからないなかで出てくる言葉だ。バブルで地価があがるなか、家賃の値上げなど効率よく回転させるという経済的理由があるんだけれど、大家の態度から自分が嫌われたのか、なにか何か気に入らぬことをしたのかと思い悩み、どんどん自分が汚く、悪く、罪深い存在に思えてくるという状況だ。

また、オートロックの部屋が見つからず印鑑証明についても問題が起き、という状況を描くと、会社員の男性編集者にとってはありえない光景に見えている、という社会的地位によって現実がそもそも異なっているとでもいうようなありさまが、幻想的な描写として出力されていることが分かる。書かれている通りなら、当初事実通り延々とした反復として書かれていたらしいものが、見せた編集者の意見を容れて、デフォルメの効いた幻想的光景として圧縮されている。長いものを一挙に縮める技術的手法としての幻想。編集とのやりとりで書き換えたことが書かれるメタ手法でもある。逆に言えば、突拍子もないようにみえる幻想には事実の裏付けがあるということでもあって、これは笙野作品が持つ生々しさの由来ではないか。突拍子もない、荒唐無稽、非現実的、と言われかねない描写は、幻想的なようでいてきわめて現実的でもあるわけだ。

笙野作品はしばしば被害妄想的といわれるわけだけれど、幻想的ではあっても、ではそれは本当に妄想か、となるとそこにこそこの視界の違いが滲んでくるようにも思う。会社員の男性編集者のような「普通の読者」に通じるものにするため、リアリズムではなく荒唐無稽な幻想として書くというある種の便宜性がうかがえもする。それほどここには見えているものの断絶があることになる。

現実の極端なデフォルメ、のはずの描写がじつはそのまま現実そのものでもあるというような戦慄は、近作の笙野作品にもそのまま通ずる感触だったりもする。

 

本書は笙野頼子さまにご恵贈いただきました。ありがとうございます。