ナイーブじゃないかな、それは。

「実感」の政治性

http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html
あずまんの記事そのものについてはあんまり突っ込んでなかったけど、いくつか。

まず、いろんな人が言うように、公的真実がどうこう、というあたりのことは、表現の自由との違いがわからないし、ここでなぜポストモダン系リベラルなどとあえて名付けなければならないのかがサッパリ分からない。そして、なぜあずまんは「事実」や例えばこちらのように「正義」と言わず、繰り返し「真実」というのか。「真実」といってしまうと、「事実」と「正義」とが混同されてしまうように思うのだけれど。「真実」になんの含意があるのかがいまいちつかめない。

それに、ときに「自己矛盾を抱える」とか言ってるけど、私的に許しがたくても公的には存在を許容するしかない、なんて、どこが自己矛盾な訳? 表現の自由にまつわるごく基本的な話でしょう? 何がハードなんだか。


あと、ビルケナウ南京大虐殺紀念館での「実感」を比較するところはすごくまずいよね。もちろんこれが私的な感想であるとはいえ、この文脈で「転向するかも知れない」とまで言うのはまずいでしょう。

それに、Apemanさんの記事wikipediaを見れば分かると思うけど、紀念館って、日本での否定論の盛り上がりを見て80年代に建てられたものなわけで、実際の現場であるところのビルケナウとはまったく比較にならないもののはず。紀念館のちゃちさをあずまんは中国政府の怠慢かも知れないなどと中国の不作為が原因かのようにいっているけれど、むしろ日本の問題がそこにあると言わなければならないはずでしょう。事件後何年にも渡って実効支配し、現場の風化を招いたのが日本なわけで。

それに、日本人にとって南京否定論が受け入れられるのって、現場が国外だからじゃないのかな。被害者だとか現場だとかがまったく馴染みないでしょう。あずまんとか藤田氏はApemanさんの記事にある「下関」をなんて読むか知ってるの? シモノセキじゃないよ。

日本でたとえば原爆なんて落とされなかった、なんて否定論が広まるというのは考えられないけど、それって日本人の共有された認識として、原爆ドームや「はだしのゲン」、それに修学旅行で聴く被爆者の方の体験談なんかの蓄積があるからこそでしょう。

「実感」を大事にするのは別にいいけど、その実感だとか素朴な反応だとかいうものがきわめて操作されやすいものだと言うことくらいは現代思想的には常識なのではないんですか。前提知識や事前情報の有無によって、同じ光景を見たとしても、「実感」はさまざまに変わってくるだろうし、メディアなどで流される情報は、つねに取捨選択されており、ある種の反応を狙ってトリミングされたりすることはよくあること。メディアリテラシー

あずまんは、

そんなふうに文字情報ばかりで構成された世界観など、文字情報によってすぐひっくりかえるのだから、少しはみな自重したほうがいいのではないか、ということです。

というけど、この種の態度は、UFOに誘拐されたと思いこんだり、超能力の実在を信じたり、宗教的奇蹟を信じる態度と区別できなくなるのではないかと思う。これって、ただ単に叩いているおまえらより、オレの方が現場のリアルを知ってるんだぜ、として優位を得ようとしているようにしか見えないんだけど。

むしろ、ここは。

私が確かに体験した、という「真実」など、文字情報によってすぐひっくりかえるのだから

とも言えるということを指摘しなきゃいけないんじゃないの。

南京が「チャチ」な理由は政治、言い換えれば広義の言説の総体の差異によるものだ。また、アウシュビッツも南京の資料館も政治の帰結であれば、それら歴史的モニュメントもラディカルには言説の一つであると思える。
http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama-hazama/20081209/1228810627

あずまんは何故自分の「実感」がそのように両者の間で違ってしまっているかについての言説分析をしなければならないんじゃないの? 自分を聖域化していない?

敢えて傍観者でいようとする人が実感を根拠にしだしたら先ず間違いなく単なる自己瞞着です。
みんな、あずまんが大好き! - 無産大衆

なぜテンプレを踏み続けるのか

そういえば前回の記事はなぜかはてブ八分に遭っていて、いくつかブクマがついたあと、とつぜん注目エントリにも出てこないばかりか、このブログのブクマエントリリストにも出てこなくなってしまった。まえにも一度同じことがあったが、まあ、通りすがりの人とか口調だけを問題にして中身をスルーする人とかが出てこないメリットはあったので良かったかも。口調を問題にしたのは当の藤田氏だけだったのが面白かったが。

普通に、知らんやつに、「お前」とか命令形で言われるのは儀礼的におかしいと思うのだが、それでも「無限の応答責任」が生じるのが「知識人」というやつか。それこそもう一度問うが「そもそも、なんでネットの馬鹿どもとコミュニケーションなんかしなきゃいけないんだ。 」
http://twitter.com/naoya_fujita/status/1042662107

まあ、気持ちは分かるけどもね。そういう反応があるのは分かった上であの口調を採ったわけだし。でも、私にとっては藤田氏はしらん人ではない。私は文学フリマの幻視社ブースで藤田氏寄稿の魔界科学を委託販売していたし、藤田氏かざもすき氏かは知らないが、どちらかはわれわれの同人誌、幻視社第三号を持っていると思うのだけど。まあ、どうでもいいけどね、それは。私の個人的な感慨につきあう必要はない。

さて、藤田氏がこの件に関して記事を上げるのを待っていたが、結局twitterでのコメント履歴を上げるだけで終わっていた。いろいろ突っ込みたいところがあったが、この人をこれ以上批判する理由もそういえばない。

というか、その記事で上げられていたこのチャットログを読んで、すっかりもういいかなって気分にさせられた。そこにはhokusyuさんとかありむー(刹那なんちゃらがありむーだということに私はまったく気づかず読んでいた)とかと藤田氏やrnaさんまでが参加していてびっくりだ。昨日存在に気がついて読んでみたら、途中までは藤田氏の言動のあまりのひどさにまたもや腹が立っていたのだけれど、最後まで読んで、もう批判するのはやめよう、と思った。絶対話が通じない。無理だなーって。
ゼロカウンタ道場別館 (at Lingr) > Archives > December 02, 2008

口調について。

罵倒用語の多用はなんとかならないものか。はてサも修正主義者(仮)も。それって僕の中では、言った瞬間に負けが確定する言葉なんだけど。
「馬鹿」という言い方は無敵なんだよ。僕はこの件で、はてサという人々とネトウヨ(修正主義)の両方のサイトを結構見てきた。結論として、また突き上げ食らうのを覚悟で言うが、「どっちもおかしい」としか思わなかった。

twitterで藤田氏は言っていて、これが私への言及とは判断つかないけれども、私の「この発言が本気なら、藤田は左派でも右派でもないただの底無しのバカだ」というのは、そもそもの藤田氏の「俺は多分左派だが、左派的なものを疑わないやつも馬鹿。右もそう」を踏まえてのものだと言うことは言っておきたい。

私はとりあえず、かなり限定的(条件法的に)に罵倒語を用いているつもりだ。以下の記事のように。罵倒なり批判なりする際にはちゃんと根拠を提示して、きちんと反論の余地があるようにやっているつもりではある。
うんざりするほど卑怯者 - Close to the Wall

あとこれ。

論理構成や行動が似ているというか。コメントスクラムをするとか、互いを馬鹿で無知呼ばわりしているところとか。「そこ論理的ちゃうんちゃうか」とか。「自分たちの差異には敏感だが相手の差異には無頓着でレッテル張りをする」とか。
http://twitter.com/naoya_fujita/status/1042668731

歴史修正自体が駄目だと言うのなら聖書も批判しようねw という皮肉だから。だから、「歴史を修正すること」が問題じゃないんでしょ。受け入れがたい主張のものにだけ便利に貼るレッテルでしょ。http://twitter.com/naoya_fujita/status/1034550538

どう見ても自己紹介です。ほんとうにありがとうございました。


総じて、氏は自分が批判されることについてだけはきわめてナイーブだな、という印象を持った。エンターテイメントだからネタだ、という発言など、本気のエンターテイメントを馬鹿にするばかりか、それってどんな批判が来てもそれはネタだといってトカゲのしっぽきりができる自分を傷つけないための言い訳にしか見えない。

もちろん、藤田氏はネット右翼ではないだろうし、歴史修正主義者でもないし、自称中立とも言い切れないが、そうした心的傾向が自称中立的(自称していない場合も多いので、もうちょっとろくな名前を考えるべきだが。おんたこ、といえば簡単だが)な立ち振る舞いを呼び寄せてしまうのだなとは感じた。藤田氏は、自分の言動がその種のテンプレを丁寧になぞってしまっていることの意味を考えてみるべきではないかと思うのだが、無礼な馬鹿とのコミュニケーションなんて取る必要はないというのであれば、それはそれで一つの見識だろう。


あと、「学問的には数万から数十万の殺害があったことはすでに事実としてはっきりしている」という文言に複数ツッコミが入っていて、おいおい、ここはオレの記事のなかで一番突っ込みどころでない部分だろ(いくつかの通説をまとめただけだから)とは思ったが、数十万に三十万以上の含意があると思われているのかとも思ったので、もっと慎重な書き方に訂正しておいた。