「でも、30万はウソなんでしょ?」とか「30万人説を否定しただけ」という発言 - Close to the Wall
日本側の行動は批判の外に (6/5追記) - Close to the Wall
この二つの記事で私は南京事件でなぜ「30万人説」がことさらクローズアップされ、「多すぎる」といった反応が起こるのか、ということについて書きました。そこでは中国を象徴的に攻撃する手段として選ばれているのではないか、という考えを元にして、そういう発言を批判したわけですが、それだけで終わりにしていいということではないようです。
正直、この増田さん(AnonymousDiary=増田)に対しては私の二つの記事をもう一度じっくり読んで頂ければ理解して貰えるはずだとも思うのですが、真面目、というかかなり正直に書かれていると思えたのもあって、私も真面目に答えてみたいと思います。
で、増田さんの発言になりますが。
30万人説の否定というのは、個人的には結構よく使っている。なぜかと言えば、「日本人は南京で30万人を虐殺しただろう」って言われるからだよ。中国人に。ちなみに、中国人でなくても、中華系の東南アジア人からも30万人って話が出てきたことがあるので、30万人説は結構幅広く流布している説のような気がする。そう言われたら、とりあえず「1週間で30万人はねぇんじゃねぇの」、って話になるさ。彼の地で日本軍が大勢の中国人を殺したのは事実だし、それを否定するつもりも必要もない。でも、あんまり現実的じゃない数字を勝手に持ち込まれて、「近代戦で特筆すべき残虐行為」みたいなことを言われたら、そこは反論したくもなるだろう。
ここの部分ですが、南京事件の期間が「一週間」というのは無茶な誤解(数ヶ月間です)だということをさておいても、失礼ですがこの下りは私の記事での指摘が妥当であることを示しているように見えます。
このくだりで目に見えるおかしなところは、「30万人の虐殺」に対して、増田さんは「30万人」にのみフォーカスして反論しているところです。30万が20万になっても「近代戦で特筆すべき残虐行為」という評価は揺るがないでしょうし、たとえ30万が20万(20万は有力な学説のひとつです)になったとして、相手側の非難が無効になるのでしょうか。その意味で、これは反論としては成立していません。
つまり、増田さんは反論しているのではなく、反撃しています。そしてその攻撃の手段として「30万人説」を持ち出している。もっといえば、否定論の文脈においてそれを持ち出しているということになります。歴史認識を問われたとき、その問いを無効化する手段として否定論は機能する、と以前書いたことがありました。
真の問題は、自分の身に覚えのないことで中国人から戦争責任問題を持ち出されるという、倫理的問いが向けられていることにあるのではないでしょうか。
増田さんは、過去の日本の罪で自分が非難されること自体に反発しているのではないですか? 「30万」だから反発するのではないでしょう。20万でも10万でも、非難の文脈で南京を持ち出されれば、同じように反発するのではないでしょうか。「30万人」かどうかは疑似問題ではないですか?
南京事件などの過去の戦争犯罪について、われわれは特に知らずに日常をおくることは可能です。しかし、いったんそれを何らかのきっかけで知ってしまった場合、その「呼びかけに応えるかどうか」の選択が発生する。すなわち、応答責任が発生するのです。ここで重要なのは、その「呼びかけ」が「謝罪と賠償」などの具体的「言語」を伴わなくても存在しているということです。応答責任は、「言語」と結び付けられているのではなく「存在」と結び付けられている。
たとえば、自分に対して痴漢被害をうったえられるだけでたちまち自分が痴漢の仲間と同じだと糾弾されている気分になって「どうしてほしいんだ!」と不快感を覚える人が以前問題になりましたが、確かにこのような人は「存在」レベルで応答責任が発生しているということには気づいている。しかし、それははっきりと「言語」と結びついたものではないかもしれない(具体的にその人自身が何らかの責任を取れと責められているわけではない)のです。それは、ある面では直接的に責められるよりも重い。であるから、その重荷に対して不快感を表明することで逃れようとしているのだと思います。南京事件の場合も、中国は現実に南京事件の具体的な補償を要求していないのにもかかわらず、南京事件が何らかの責任を日本人に取ることを要求しているというイメージがかなり広まっているということは(それはある意味ではそのとおりなのですが)、南京事件という「存在」に伴う呼びかけは正しく伝わっているということになります。
ポストモダニズム系リベラルの世界も大変だ - 過ぎ去ろうとしない過去
上記の引用は抽象的なレベルで論じられていますが、具体的に中国人から問われる、という場合にも同様です。
この、応答責任のプレッシャーにどう応じるのか。増田さんも「では、私のように忘れた頃に30万人説を突きつけられる人間はどうしたらよい?」と書いているとおり、これが最大の関心事でしょう。本当は「30万人説を突きつけられる」ことではなく、「日本軍による虐殺の事実を突きつけられること」なんではないでしょうか。
問題を「30万人説」にのみフォーカスするのは、そのような応答責任の否認の身振りなのではないでしょうか。
じゃあ、どうすればいいんだよ、というのが大方の反応でしょう。「謝罪と賠償」という形ではなくとも、中国人からの問いというのは増田さんの事例のように実際に存在しています。もちろん、前にも述べたように「30万人説」の否定からはいるのは被害事実の調査を阻害すらした加害者側の開き直りとしか言えない代物なので禁じ手だと思います。あえて敵対するつもりがないのであれば使用は控えた方がよろしいかと。
そして、「30万人説」というのは南京大虐殺紀念館にもある中国の公式見解ですので、もっともメジャーな説、というか基本的にこの数字が南京事件の犠牲者数として通用する数字といっていいでしょう。「終戦直後の泥ナワとは言え、生きのこり被害者の証言を積みあげた三十万に対抗できる数字をわが方から出すのは不可能と思う」と秦郁彦がいうように、(日本の)歴史学的に有力な説とは言えないにしろ、そうそう手軽に否定できる説でもありません。これに「30万人なのか、違うのか」と二者択一を迫るのはニセ科学的論法なので要注意です。
また、南京事件には興味がない、といいつつ、「30万人説」が覆ると知的快感が得られる、というのも、相手からの非難が軽減できるからではないでしょうか。これが、実は新しい史料の発見によって「40万」に上方修正された、という通説の修正が行われても、増田さんは「知的快感」目当てに飛びつくのでしょうか。どうもそういう場面は私には想像しづらいのですが。
私には中国人と日常的に付き合いがあるわけではないので、増田さんのような南京事件を中国人に持ち出されるとき、というのがどういう文脈なのかはわかりかねます。一日本人に謝罪を要求している、というネットのステレオタイプなものなのか、とりあえず日本人がどう思っているのか、ということを観察したかったのか。あるいは戦争責任についての認識を問うたのか。
どちらにしろ、そのような問いに対してはまず事実は事実として認めるところから始めなければならないと思います。出鼻を挫くために「30万人説は多すぎるよね」というのは悪意のないものとはいえ、やはり否定論の身振りです。日本の否定論が中国を逆撫でするように、増田さんと中国人とのやりとりが泥沼化する、というのはそりゃそうだろうとしか言えません。
その事実を認めたとして、そこからいわゆる謝罪要求みたいなことをいわれやしないか、という不安があるのかも知れません。そこは国と私は違うというしかないでしょう。ただし、日本の過去の戦争犯罪について、われわれ個人に直接の責任はないとしても、その事実を否定するような人物が議員に多数居たりというような、有権者としての責任とか問われたらどうしようもない。
思ったのは、南京事件否定論を論駁していく活動が、どうしても反発を受けがちなのは、いくつか理由があるにしろ、ひとつには中国人からの倫理的問いに対して好都合な逃げ道をふさいでいってしまっているように見えてしまうからなのかも、と。
まあ、私の文章などよりも、右派の歴史家として知られる秦郁彦が、南京事件について結局どう書いているのかを読んでもらいたいと思います。
日本が満州事変いらい十数年にわたって中国を侵略し、南京事件をふくめ中国国民に多大の苦痛と損害を与えたのは、厳然たる歴史的事実である。それにもかかわらず、中国は第二次大戦終結後、百万を越える敗戦の日本兵と在留邦人にあえて報復せず、故国への引きあげを許した。昭和四十七年の日中国交回復に際し、日本側が予期していた賠償も要求しなかった。当時を知る日本人なら、この二つの負い目を決して忘れていないはずである。
それを失念してか、第一次史料を改竄してまで、「南京“大虐殺”はなかった」といい張り、中国政府が堅持する「三十万人」や「四十万人」という象徴的数字をあげつらう心ない人々がいる。もしアメリカの反日団体が日本の教科書に出ている原爆の死者数(実数はいまでも不明確だが)が「多すぎる」とか「まぼろし」だとキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか。
数字の幅に諸論があるとはいえ、南京で日本軍による大量の「虐殺」と各種の非行事件が起きたことは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人の一人として、中国国民に心からお詫びしたい。そして、この認識なしに、今後の日中友好はありえない、と確信する。
「増補版 南京事件」244P
氏は殺害数4万から6万と見る中間派に属します。それでも「30万人説」をあげつらうことは心ないことだと言っていることに注意して欲しいと思います。そしてこの態度は右派の歴史家としての矜持がなせるわざでしょうから、普通の人がここまで腹をくくるのは難しいかも知れません。としても、「日本人」として南京事件をどう位置付けるか、ということについてのひとつのロールモデルではあります。
まあ、しかしこの増補版にかんしてはこの次の章からこの覚悟をみずから切り崩すような論述が始まってしまってがっかりするのですが。
実際、冒頭の二つの記事を書いたときには、「30万人説」を持ち出す人たちを良く思っていなかったので、あのようなキツイ書き方になっていたのですが、増田さんのような事例を見ると、確かにそうしたくはなるような心情的動きは理解できます。ただし、やっていることは記事にあるとおりの問題を持っていることは変わりません。まあ、これからそこら辺を勘案して見ていこうと思いますので、増田さんの記事はその意味で大変参考になりましたので言及ありがとうございました。