「でも、30万はウソなんでしょ?」とか「30万人説を否定しただけ」という発言

今年は論争ネタに参加するのを控えようと思っていたけれど、ちょっと釣られてみる。
とはいっても南京事件については大抵うんざりする程同じことの繰り返しでしかなくて、一年半前に書いた記事に付け加えることはあまりない。*1
けれども、今回の件を見ていて、確信的な否定論、修正主義者や、どっちもどっちと言いたがる自称中立とは別の、もう一つのボリュームゾーンを形成しているとおぼしき、「でも、30万はウソなんでしょ?」とか「30万人説を否定しただけ」と言いたがる人々が目についた。

たとえばD_Amonさんの記事には、こういう感じに案外と反感を買っている。

関連記事は他にもいろいろあっていちいち具体例は挙げないけれど、様々な記事やブクマなどを見ていて、その手の人の多さはApemanさんも
求む「為にする議論が目的の人につける薬」 - Apes! Not Monkeys! はてな別館
で、「疑いたがる人の多さ」が問題だと言っている通りだ。

空気のような反中ムード

でも、「疑いたがる」というのもやや表現としては強いと思う。彼らは疑っている、というよりは中国の言うことだからウソ、誇張が混じっているのは当然だろうという、彼らのうちでは至極「常識的」な判断をほとんど脊髄反射のように行っているに過ぎないのではないかと思うからだ。

日本のネットにおいて反中ムードというのはもはや空気のごとく自然なものとしてあり、いちいち空気の存在を意識する人がいないようにそれを吸い込み、「でも、30万はウソなんでしょ?」という言葉を吐き出す。これはもはや歴史修正主義でもないし、自称中立でもない(それ風のひとも結構いたけど)。ニコニコ動画で笑うポイントで「wwww」とコメントするくらい自然な「ネタ」に対する「リアクション」になっているのだと思う。そして、その空気に便乗するかのように、全体像を理解しない人にはそのまま受け入れられてしまいそうなピンポイントな否定論コピペが広まり、否定論の断片がなかば「常識」として個々人の記憶に残ることになる。

「ウソ」とか「多すぎる」とか発言する人はおそらく、南京事件の範囲とされる南京氏と近郊六県に推定何万人が元々いたのか、日本軍は何万人がいたのか、国民党軍は何万だったのか、というような数の概算をする上で必要な数字を把握してはいないだろう。*2

それでも、なぜあれだけ多数の「30万はウソ」発言が出るのかと言えば、「30万」という数字が多すぎるのではなく、「中国の言うこと」だから当然大きすぎるだろうという前提が彼らにはあるからだろう。この数字がもし「40万」なら、「40万は多すぎる、せいぜい30万だろ」とかになるんじゃないか。数字の固有性が問題ではなく、それが中国の主張であることが問題になっている。

そこで改めて「多すぎる」とか「ウソ」の根拠を問われても、だいたいが答えられない。根拠はともかく、なぜそう思ったのかということについても明瞭に理由を述べない。自分では否定論や修正主義者と一線を画しているつもりで、「常識的」な判断として「30万人は多すぎるけど」と言ったつもりなのかも知れないが、どっちにしろ、「中国」を理由に決めつけている点ではたいして違いはないし、それこそ中国がやっているはずの「プロパガンダ」や「デマ」と同じことを自分がしているということだ。

しかしたぶん本人たちには悪意もない。多くの場所ではそうした中国(韓国でも朝鮮でもいいが)揶揄というのはごく自然なことでしかないからだ。女性に対して「スイーツ(笑)」と言うのも似たようなものだ。私の知り合いにもこれに類することを言いそうな人が何人かいる(おれの家でわざわざ「痛いニュース」を読んでた君だ)が、別に反中でもないし、差別はダメ、くらいの良識は持っているけれど、南京事件の話になったら「でも、30万ってのはウソらしいよね」という感じのことは口にしそうだ。これ、別に悪気があるわけではないから難しい。

彼らは「中国」という「キャラクター」を笑いのネタにして嘲笑することでコミュニケーションを図っている。そこに悪気はないとはいってもこれはほぼ差別に近い。「中国政府」が対象である分にはまだましだとしても、レイシズムにスライドしかねない。

ポストモダニズム系リベラルの世界も大変だ - 過ぎ去ろうとしない過去
hokusyuさんが言っているように、南京事件は中国を笑いものにするためのネタの一つに過ぎず、いくらでも取り替え可能な代物に過ぎない。南京事件に興味はないのもおそらく事実で、彼らが関心を持つのは中国をいかに笑うか、という点だ。彼らが関心を持つのは「中国」であって、だからこそ、南京事件を問題にすると必ずチベット問題が引き合いに出される。南京事件チベット問題はともに、中国を笑えるネタという共通点でもって彼らに把握されているのだろう。ときに南京事件を史実に即して語ると、中国を攻撃しないけしからん奴だ、ということになってチベットのことも語れ、と言い出す人間が現れる。

彼らはあったことを否定するつもり(それは逆に笑われる立場に立つことを意味するから)はないし、歴史修正主義に加担するつもりもない。というか何らかの意志的選択をこの件についてはするつもりがないだろう。否定論にも、肯定論にも興味を持つつもりはないし、議論に参加するつもりもない。ただ、本当に単純に、水が高いところから低いところに流れるように、空気を吸うように、中国の言うことは信用できないよねぇ、という「当たり前」のことをそれを共有する人たちと楽しく確認し合おうとしただけなのだろうと思うから。

で、なぜか突然本気の人からマジなお怒りを頂いてあわてだす。自分の発言がそれほどの批判を受けるもののはずはないと思っているので、そうした批判が極めて不条理なものに感じられ、反感は批判者に向けられる。その事例は最初に挙げたブクマコメント欄で拾うことができる。ネタにマジになってるおかしい奴がいる、ということにされるわけだ。いい気分で中国を嘲笑していたのに、正面から批判をもらうと上から目線だ等と言い出す人がいるのは、自分が上から目線で嗤っていたからこそだろう。

「30万人説」にしか興味がない人たち

厄介なのは、「30万人説」がさほど有力な説ではないということ自体は間違ってはいないこと、しかしあり得ない説ではないという微妙な位置にある点だろうか。30万の否定それ自体が即座に歴史修正主義とは見なせない。そして中国政府がひどい人権侵害の当事者であることと、政府発表が信用できないことは間違っているわけではないということがますます事態を厄介にしている。

しかし非常に興味深いのは、「南京事件」についての話になると、まず「30万人説」否定から入る人や、「30万人説」の否定しかしない人が多数現れるということだ。

伝統的な「30万人説」否定論には、以下のように
「中国の定義は30万人虐殺」は議論の拒絶のため - 南京事件FAQ
「30万人説」を中国のいう「南京大虐殺」の定義とし、それを否定することで中国のいう「南京大虐殺」をなかった、というやや手の込んだ、それでいてとにかく「南京大虐殺はなかった」という文面を広告したいだけのような代物が存在する。

「30万人」という数字は「南京大虐殺」の象徴として流通し、否定派はここを攻撃することで象徴的に南京事件を「否定」しようとしてきた。「南京大虐殺は怪しい」という印象を広めようとする手法の一つになっているわけだ。論争史を知る人なら、こうした手法の存在は常識に類することなので、まず「数」、それも「30万人説」を焦点化することの問題性にはかなり敏感だ。「南京事件」で結局犠牲者は何人だったんだ、と聞きたがったりして、とにかく「犠牲者数」を問題の中心にしたがる人は大抵が修正主義者と言っていいような人たちだ。

「30万が多すぎる」といっただけで否定派や修正主義者扱いされた、と反発する人たちは多い。私もこの手合いを否定論者や修正主義者扱いするつもりはあまりない。が、「30万人説を否定しただけ」という発言ははっきり言って語るに落ちていると思う。「南京事件」という日本の加害問題を、中国批判の道具としてしか興味がないと主張するに等しい行いだからだ。彼らにかかれば南京事件でさえもがチベット問題のような中国批判のネタにしてしまえるわけだ。否定論者とは一線を画したつもりなのかも知れないが、どうにも同じ穴に住んでいるよなあ、としか思えないわけで。まあ、全員がそうだ、とは言わないが。

*1:特に三つ目の自称中立問題と四つ目の記事あたりで終わりにしてもいいくらいだ。「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見 - Close to the Wall
続・「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見 - Close to the Wall
論争傍観者を自称する人間についての二つの問題 - Close to the Wall
南京事件否定論は基本的にトンデモ - Close to the Wall

*2:さらに言えば、日中戦争のなかでの補給を無視した無理な行軍が祟って、兵士たちは相当のストレスに晒されていた、ということもあまり分かっていないのではないか。