双子のライオン堂での『骨踊り 向井豊昭小説選』刊行記念イベント

2019/3/8(金)19:30〜『骨踊り 向井豊昭小説選』(幻戯書房)発売記念!座談会その後/ゲスト:岡和田晃・東條慎生・山城むつみ | Peatix

骨踊り

骨踊り

岡和田晃さん、山城むつみさんと一緒に登壇した先週のイベント、ご参加いただいた皆さまありがとうございました。

ちょっとうまく喋れませんでしたけど、本書を通して読むことでモチーフの執拗な反復と、そのコアにある「僕の人間」が「日本」と不可分のものとしてあることがわかる、ということを伝えたかったのでした。そして岡和田さんが丹念な調査で掘り起こした教育学などさまざまな文脈が多層的に織り込まれた作品の厚みがあり、技法や表面的な作風は変わっても、強靱な芯があることが見えてくる。

「鳩笛」は啄木に「時代の滓」と言われた祖父向井永太郎を描く作品ですけれど、「脱殻(カイセイエ)」はその「鳩笛」を載せた「日高文芸」をめぐって鳩沢佐美夫とやりとりがあり、このなかで鳩沢はアイヌについて書いても自分が傷つくだけだといい、「僕はアイヌ……人なのでしょうか。否、アイヌの為に何かを語り何かを書かなければならないのでしょうか。僕の人間はどこに行ってしまったのでしょう」(94P)と向井に書き送っています。「対談アイヌ」で舌鋒鋭くあらゆるもの、和人に留まらずアイヌまでをも批判する鳩沢と、和人としてアイヌ教育にかかわった向井がここで対面しています。向井はそしてアイヌのいない場所へ「逃亡」するわけですけれども、二人とも直接「アイヌ」とかかわることを辞めるわけです。

ここで出てくる「僕の人間」と言う言葉が、本書に収められた作品群に重く響いているように、再読して改めて感じました。「僕の人間」を考えた時に、父、母、祖父、といった血を遡り、自己の起源を問い直すわけです。父のいない豊昭にとって、永太郎は父代わりでもあり、文学の原点でもありました。

そして、近代日本がアイヌを侵略し土地を奪い、そして向井自身がアイヌを滅ぼす同化教育の総仕上げを担った、という罪の意識は向井自身の日本人という属性と不可分のもので、つまり近代日本を批判することは同時に自分自身を切り苛むこととしてあり、『骨踊り』のように、さまざまな日本の裏や隠されたものを暴き出すことは、同時に自己自身の醜さの剔抉にもなり、ここに向井の「笑い」がどこかペシミスティックな感触を伴う理由でもあると言うことを考えていたのでした。そして本書が「あゝうつくしや」における日の丸と唱歌「日の丸の旗」で終わるのはまさにこのためだということを強烈に印象づけます。

岡和田さんの調査力というものは山城さんも驚嘆していたのですけど、岡和田さん自身は、議論を細かく精緻化していくことはいくらでもできるけど、別の人の視点やたとえば書評などを書いてもらうことで、自分の気づけなかったポイント、外部の視点を知ることができるので、それが重要だというストイックな話があり、今回の解説で書かれていたような事情を調べたきっかけが山城さんの「あゝうつくしや」についての疑問だった、と。

また、山城さんのベンヤミンの「暴力批判論」と「翻訳者の使命」はパラレルに読まれるべきで、なぜ自分が向井の「脱殻」論を書いたかというと、その言語という暴力への関心にぴたりとはまる作品だったからだというのが面白かったです。アイヌアイヌ語とその翻訳への関心は、つまり日本語でものを考えている限り日本語というものの暴力性に気づくことができないという、言語のフレーム、視界のフレームを相対化する契機で、ここに暴力と言語の問題が交錯する地点があるというような。カイセイエ論で「ここ」と「そこ」として議論されていたものです。カイセイエ論の前に「ベンヤミン再読――運命的暴力と脱措定」があって、この「暴力批判論」論と予告された「翻訳者の使命」論のあいだをつなぐものとして、カイセイエ論があった、と語っていたところが印象的でした。

叙情との戦い、五七五との戦い、アイヌ語、下北方言、コールガールの語り、骨のモノローグその他その他、向井豊昭はその小説につねに別のリズムを放り込んできたわけで、この「国語との不逞極る血戦」、日本語による日本語への闘争の戦略が後期の実験的作品群のひとつの特徴にもなっていると思います。


ここからは自分の関心について書くんですけれど、同年代で小説作法にもどこか似たところがある後藤明生との大きな違いにその政治的スタンスがあり、笑いの質にもかなりの違いがあります。後藤の軽さに対し向井は重い。『BARABARA』と対になるようなスカトロジー小説『DOVADOVA』のラストはまさにある種の自己否定性が滲んでいると思います。会場で三輪太郎さんが「敵」という言葉を使って発言されてましたけれども、まさにこの「敵」が外にもありまた自らの内にもあるという分裂の様相が、殻、分身、骨、というモチーフに現われており、また「あゝうつくしや」のラストの子供を狙って垂れる日の丸とは、自己自身でもある不穏さがあります。

後藤明生の笑いが軽いといっても無論それは下に見るわけではなく、その軽さそのものが後藤自身の日本にいながら地に足がつかないような感覚から発するものでもあって、「政治」に対する距離感もこれと同様の「足場」のなさだということは「未来」の連載でも書いた通りです。向井豊昭は在京下北人を自称していた、という話がありましたけど、拙稿で後藤明生を在日日本人、と呼んだのはこの日本へのどこか不思議さの感覚からで、植民地生まれの引揚者という経歴はこれとは切り離せないわけです。『近代日本の批評』で、六〇年代の文壇状況においては、今や疑わしいけど「内向の世代」こそラディカルだったと柄谷は言っていて、「内向の世代」と呼ばれるほどにはやはりカウンターではあったので、スターリニズムに対する脱政治性というかたちでの抵抗ではありました。

向井豊昭における看板」論が書かれるべきだと山城さんは言っていましたけど、たとえば看板や碑文といえば後藤明生もそういう街中の言葉をさかんに作中に引用する作家で、つまりよく歩く小説を書いていて、また歌をよく取り込む点も似ているし、調べ物の過程が小説になる点でもやはり似ています。政治的に極めて立場が異なるけれども、その手法的な面ではときにかなり似た部分を示してもいます。そういえば叙情との戦いと向井が言い、後藤もじつは散文性という言い方で似たことを言っていたりします。

山城さんは、やはり元々近代文学的な書き手だった向井がなぜ晩年のような書方になったのか、それが重要ではないか、ということを言っていましたけれども、それにはやはり未収録の早稲田文学掲載作とかをまとめておくことが必要だなあ、と思ったのでした。

そういえば、ほぼ同年代で「文學界」に転載されたのが一月違いという関係にある後藤明生向井豊昭に直接の関係があるかどうかというと、これがよくわかりません。向井を評価した人は後藤とも近い人脈だし、向井が私淑する平岡篤頼はむろん後藤と極めて近いので、読んでてもおかしくはないんですけど、文章としては確認できてません。向井が早稲田文学新人賞をとった1995年は既に後藤は関西に住んでいたというのもあって、直接の交流はなさそうですけれど。

イベントのまとめというか、イベントではなくその後の雑談で聞いた話なんかも混ざってしまっていると思いますけど、当日参加して言いたかったこと、その後考えたことやツイッターで書いたりしたことをひとまずまとめておきました。