「日本語の歴史6 新しい国語への歩み」

このシリーズについて書くのは
News Handler[WEBLOG SYSTEM]
この記事以来。六巻まで読み終えて、あとは最終巻と別巻を残すのみとなった。とりあえずこの巻では副題のとおり、近代化のなかで日本語がたどった運命を扱うわけだけれど、これがまた内容豊富というか、豊富すぎて密度が高いので要約とかはまずできそうにない。明治から戦前あたりまでの激動の時代をこの一冊で叙述するというのだから、どうしてもそうなる。まあ、それ以前に1965年執筆という時代を感じさせる、重厚かつやや迂遠な学者言葉が、こう、もう、アレですよ、重々しいと言おうかなんと言おうか。それはそれでクセになってくるんだけど、今の読者には取っつきにくい文章だね、これは。

本書では近代化を扱うわけで、そうなると「日本語の歴史」と名付けられた本シリーズにおいて、ここにきて「国語」とは何か、という問いが立てられることになる。国語と日本語は似て非なる言葉だ。「国語」は中国の古い書籍に典拠があるとはいえ、内実はその時代に新しく誕生した国家の言葉としての「日本語」を意味する。これまで本シリーズが論じてきたのはいわば民族の言葉であったのだけれど、「国語」は国家の言葉だ。近代国家形成の過程において公用語としての「国語」の誕生、それが本書の大きな枠組みとなっている。

全五章構成で、各章は「第1章 江戸から東京へ」「第2章 西欧文明の波をかぶった日本語」「第3章 新しい国語の意識とその教育」「第4章 語彙の世界に明治を探る」「第5章 方言の消長」となっていて、近代になり、日本語に翻訳語が多数生まれてきたことから、言文一致の経緯、そして教育へとすすみ、最後に方言を論じる。

ここでは全体の要約はせず、いくつか興味深い部分を紹介してみるにとどめる。

西洋の影響と「借り着」

明治といえばヨーロッパから入ってきたさまざまな言語を翻訳する過程で、たくさんの言葉が生み出された。恋愛という言葉が明治の翻訳で云々、という話を聞いた人も多いだろう。特に、学問にかんするものは基本的な言葉がかなり翻訳によって生まれたものらしく、本書でも指摘されている「範疇」「哲学」「概念」などもすべてそうしたものだ。

さて、ここで「翻訳」と言ったけれど、本書ではそもそもそういう言い方自体に疑問を挟む。あえて使われているのは、「新鋳」だ。どういうことか。

「範疇」という、むつかしい漢語は、もと、哲学用語として、西周が新鋳したものである。西は、経書に典拠をもとめて、この、むつかしい漢字を選んだのであるから、なるほどその点では、これはたとえシナならぬ日本において、経書の時代から二千年余りののちにうまれたにしても、漢語であるにはちがいない。しかし、原語を知っている知識人なり学者なりには、かつては、これに<カテゴリー>と、振り仮名をつけて使った人もあった。そうなると、<ハンチュウ>が音で、<カテゴリー>が訓となる。ただこれは和訓ではなく、いわば<洋訓>である。洋訓では、洋学の知識なしには理解できないことが明白である。しかし、この点、洋訓のほうが正直である。範疇と書いてハンチュウと読むと、洋訓ではチンプンカンプンの哲学用語のその意味がそのままわかってくるわけのものではない。だから、その意味で、「範疇」はなにも翻訳ではなく、たんなる新鋳にすぎないのである。どのみち、「範疇」ということばのただしい意味内容は、西周の苦心はさることながら、経書における典拠には別に関係はないのである。
P34〜35

哲学、概念もまたこのような、<漢語ならぬ漢語>による新鋳として生まれたという。また、「思想」という言葉もそうだ。これは以前には「懸想」とか「ほれる」という意味合いであり、そこに今使われるような「思想」という概念を流し込み、いわば、「西洋の文化や思想の借り着」として用いた。

思えば、漢字自体がこうした借り着の最たるものではなかったか。漢文訓読の歴史などについても以前の巻で触れられていたが、日本語は漢字や漢語を駆使して、外国の思想、文化を大量に摂取してきた。これはある意味で借り着に借り着を重ね着しているようなものだとも言えるかも知れない。本書ではそのことの是非については踏み込んではいない。ただ、是非については問わないまでも、このことは漢字伝来以来の日本語の歴史そのものにかかわることで、これまで本シリーズがずっと述べてきたことではある。

そして最近ではこの借り着の道具として、カタカナが駆使され、外国語を音写することで、多量の概念を翻訳せずにそのまま用いている。そしてまさに、「哲学」という語もこの新鋳のひとつとして数えられる。

「哲学」ということばは、テツガクという音からも、「哲学」という文字からも、このことばのあらわす内容は推しはかれない。このことばの正しい内容は、ことのことばであてた、もとのことば<Philosophie>のあらわす内容にひとしいのである。
P416

思想や哲学の本が、原書ではとても平易なのに、翻訳がしばしば異常に難解だとして批判の的となるのは、翻訳ではなく新鋳による素早い文化移入の結果としてあるのだろう。

「翻訳」と「新鋳」という区別の一つの事例として、これはどこで読んだのか忘れたが、たとえば中国語で言う、電信、電話、電視、電脳、電網というのが挙げられるだろう。意味はあえて書くまなく、直感的に分かる。

また、日本語に影響を与えたものとして、「〜するところの」式の翻訳文体というのが取り上げられ、またさらに深い影響を与えたものとして、元来被害感覚を伴うものだった受動表現(父に死なれ…)が、無情物を主語とした新しい受動表現(この本はよく読まれ…)が可能になったことが指摘されている。これは、被害表現であったものが、能動的表現の「論理的裏」として、文法的に把握されたという意味で、より深いものだ。さらに、主語の明示等の、「論理的な発想こそ、欧文構造が日本語に与えた最大の影響」とも言っている。

そしてもうひとつ、西洋文明の影響をもっとも深く受けたものとして、本書では言文一致が挙げられている。言文一致の文体の淵源として、二葉亭四迷によるツルゲーネフの抄訳、「あひびき」があることは周知だけれど、その後の四迷自身の創作での言文一致体の後退をみるに、ヨーロッパ文学の「原作の高さがあってこそ四迷の成功が可能だった」のではないか、と問うている。

そもそも、言文一致といっても、ただ単に話す言葉と書く言葉が同じであればいいというものではない、というのが本書での認識だ。書記言語は、ただの伝達の言葉ではなく、「深く自己の内面にこもることによって認識の文章に達した」ものでなければならないという。「口頭言語のなかから認識の言語を建設」することが、言文一致には必要であり、そのためには、実利から離れた文学的創作活動を待たねばならなかった、という。
本書ではこうまとめている。

言文一致はまず日本の言と文とのはなはだしい隔絶への反省として出発した。その反省をうながしたのはヨーロッパの言文両者のへだたりの近さであった。そして文学の側からでた日本語の文章を変える可能性の自覚によって、言文一致は支持されて育った。しかもその自覚の契機はヨーロッパ文学の翻訳であった。そして言文一致は四迷において成功し、自然主義の作家たちによって完成した。こう考えてくると、その成功はヨーロッパの原作の高さによって可能であり、その完成はヨーロッパ的文学精神によって可能であった。そう言う意味で、おもしろいことに、最初に火をつけた実利的必要の方面では、たとえば新聞の論説や教科書の一部が明治を過ぎてもなお言文一致の文章で書かれなかったことが示すように、かえって、ふるい文章を保守する傾向があったのだが、こんにち広くかつ標準的な書き方としてだれもがつねになじんでいる文章は、二重三重にヨーロッパの影響をうけることによって、日本の口頭言語から高くうまれでてきた文章なのである。ヨーロッパ文明から日本語がこうむった最大の恩恵が言文一致である、と前言したのはこのような意味においてであった。
P212〜213

標準と共通

さて、明治に国家統一がその目標として挙げられるにいたって、大きな問題となったのが言語の壁だ。藩制のもとではそのコミュニケーションが人為的に制限されていたため、藩の境界が方言の境界でもあるという外と内での溝ができていった。「はっきりしたことはいえないけれど、おそらく日本語の方言分化がもっともはげしくすすんだのは、封建体制下の江戸時代ではなかったであろうか」。そして江戸中期以降には、出身が異なる者同士の間では、口頭では話が通じないほどになっていたという。

そのような状況のもとで、ではいかにして言語を統一していくかの方法が問題となった。詳細は省くが、三宅米吉、岡倉由三郎、上田万年三者の統一方法が紹介されている。彼らの方法の問題点について指摘した以下の部分はとても興味深いものがある。

この三先覚者が唱えた統一の方法には、それぞれ特色があるが、統一を目ざすということでは意見が一致している。いな、その目的の実現が、すべての議論の前提なのである。そして彼らの統一は、文字どおり、他のすべてを排して、一つにするということである。他の存在も認めて、共通の媒介物で統一をはかるというのではなかった。あとで述べるように、戦後は、各地の方言の存在も認めたうえで、もう一つ別の全国共通語で各地を結ぼうという傾向だが、当時はこういう<共通化>の考えはまったくみられなかった。
 明治の言語統一の考えは戦前までつづいた。それは、他のすべてを排して、一つにするということであるから、言語統一にとって地方言語の方言が無用なもの、じゃまなものと認められることになるのは当然であった。それは、社会的に<悪>であった。この<社会悪>をつみとるのが標準語政策であり、国語教育であった。<方言矯正>とか<方言撲滅>とかいうスローガンがうちだされたのも当然である。
P390

「国語」は「日本語」とは違う概念だ。そもそも「国語」はnational languageと訳されるが、Japanese languageとどう違うのか外国人には理解されにくいという。そして、国語学言語学とが、まるで違う学問のように対立する状況が日本にはある。これは、国語という言葉がある種の政治性のなかで生まれたものだからというのがあるのだろう。本書ではこう規定している。

<国語>は、だから、言語統一の基準になる言語のことである。その理念において、この言語統一は、国家統一に奉仕すべきものであったから、「国語」とは、いってみれば<国家統一語>、すなわち<国家語>のことである。
P391

この、<国家語>の元での言語の統一的再編成において、求められたのは<共通語>ではなく、<標準語>だった。この標準と共通というのを、たとえばstandardとcommonと言い換えて良いのかどうかは英語に堪能でない私は断言できかねるが、日本においてはどうもこの標準と共通の漫然とした混同があるように思われる。
本書でも以下のように指摘されている。

日本人にとっては、相手の言語が自分のとちがうということは苦痛であり、なにかのきっかけか反省の機会を与えない限り、人も自分も同じものの考え方をするものだとさえ思いこんでいる。
 言語の違いをよく認識したうえで、たがいに理解しあおうというのが国際理解の精神であるが、国内の方言差までなくしてしまうおうという日本人には、この精神はなかなか身につかないものである。日本人はいわば、<日本村>という大きな村をつくって、そのなかに安住しようというのである。国際社会で孤立する日本人の文化的性格の素地がここにもある。

ここでは、標準語と共通語ということに胚胎する、違っていてはいけないこと、と違っていていいことの差がそのまま、考え方においても現れていることが指摘されている。日本においてはcommon senseが成立せず、つねにstandard senseが押し付けられてしまうのではないか、と言うふうに言い換えることもできるだろう。しかし、非常に既視感のある主張ではある。

そして、標準という基準を持ってきてしまうと、そこから外れるものがただちに悪として位置付けられることになる。標準語教育においては、まさにそのようなことが行われた。

さて、方言撲滅の効果をあげるために、<方言札>というものを考えだした学校も少なくなかった。方言を口にすると、方言札という罰札を渡したり、また、札を背中にかけさせるという罰則である。ここでいう方言は、ときに、<悪いことば>としてあつかわれた、すべてのことばをふくんでいた。
<中略>
 こういう教育も、すでに述べたように、たいした効果はあげなかった。標準語をうまく話せる子供たちをつくることにはならなかったのである。むしろ、つくりあげたのは、自分たちのことばに対する卑屈な敗北感である。自分がうまれて、まず母親から習ったことば、これでものを考えて育ち、これで日々の生活をすごしてきた、そのことばが学校では禁止されたのである。それを口にすることは、<悪事>として禁止されたのである。

方言差別がとくに激しい地域として、東北があるのだけれど、そこには、なまりのひどさの他に、出稼ぎとして東京に流入してくる人口が多いことと、東北が開発の遅れた地域で、文化の低いところだという偏見があるという。そして、この<方言コンプレックス>とともに、方言撲滅運動がもたらしたものとして、新しい社会的分裂が生み出されたという指摘がなされている。富裕層の標準語が話せる子供たちは学校を出ると村を去り、方言しか話せない低所得層の子供たちはそのまま村に残り生産に従事するという構図があるという。そして、方言しか話せないということは、悪事である方言を禁じられた以上、自信を持って自由にものをいうことを封じられることだった。


四十年前の記述だけれど、いまなお話題になる問題についても論じていて、非常に面白い。おそらく細部ではさまざまな研究の進展があったのだろうけれど、大まかにはたぶんそんなに過去のものにはなっていないんじゃないか。というか、この1965年のシリーズ以降、このような密度の濃い日本語の歴史を総覧する著作があるのかどうか。

というわけでこの本の話題は終わって、次の記事で本巻での主題だった、近代化の影響について、文学での例を見てみたいと思います。