再帰的東浩近代?

東浩紀氏の以下の発言。
まとめよう、あつまろう - Togetter
東浩紀と南京大虐殺 - Togetter
以前の話題が再来。
テンプレを踏んでいることに気づかないテンプレ通りの人たち - Close to the Wall
ナイーブじゃないかな、それは。 - Close to the Wall

何だか一年ごとに東浩紀批判をしている感すらある自称はてなサヨクkingです。自分でもやや粘着っぽくてきもいんですけど、Apemanさんのこちら
つい最近の歴史を“修正”する言論人 - Apes! Not Monkeys! はてな別館
の記事にコメントしてからもうちょっと書いておきたいことが増えてきたので、ここに記事を上げることにします。

投稿したコメント再掲

こんな風にも言ってますね。

「当時から言ってますが、ぼくは南京事件は(あるていど小規模だと思いますが)あったと思います」「ぼく個人は南京虐殺は小規模なかたちであったと考えています。これはとても明確な立場だと思うのだけど、なぜ誤解が生じているのだろうか」

「小規模」というのがまずよくわからない。何を指して「小規模」なのか。秦説か? それに南京についてかならず「小規模」と言わなくてはならないというのは修正主義的な言論に引っ張られているように見えますけども。中立的なスタンスを取ったつもりなのか。しかし、こういう風にいちいち少なく見積もろうとするのがそもそも修正主義的な欲望だと思うんですけどね。根拠もなく「30万は多すぎだろ」とか言いたがる種類の人なんでしょうか。まえに「東浩紀は南京大虐殺は(規模の議論はともあれ)あったと考える」と書いたのに比べると明らかに悪化してしまってるんですけど、何があったんでしょう。

「ぼくがなにを言ったのか、ちゃんと確認しようよ」といいつつ、はてなサヨクの批判(ちゃんと本から引用したものをネタにしていた点ではるかに東よりまとも)を読まず(常野さんのは読んだんでしたか)に批判や煽ったのは自分だろ、とかまとめの発言がすべて見事に自分に突き刺さっている有様は見事と言うほかありません。再帰性っていうんでしたっけ?

自分を批判するヤツは自動的に「はてなサヨク」か「ヘンな人」カテゴリに放り込まれておしまい。あるいは読んでいないのに的外れであることは理屈抜きに判断できる。曲解されて一部の変な人にストーキングされている自分、という自己像を保持するために、おそらくこの議論は絶対にこの構図でしか把握されないでしょうね。「南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける」必要はあっても、はてなサヨクの声に耳を傾ける必要はないということでしょう。「小規模」の使い方を見ると、残念ながら否定論にはしっかりと「耳を傾け」ているのではという疑いが拭えません。

付け加えると、従軍慰安婦問題についての集会が在特会あたりに妨害されている事実等を考えれば、現に言論の自由を脅かされているのは、文字通り場所を奪われているのは左派、あるいは肯定派の方でしょう。本宮ひろ志「国が燃える」事件等もありましたね。

否定論の表現規制があるわけでもなく、否定論を違法化しようという動きすらほとんどない状況で、ことさら否定論の言論の自由を言い募るというのは非常に不思議ですけど、ホロコースト否定論を代入するならまだわかります。「違法化されている」ホロコースト否定論で語ればまだいいところをなんの配慮か「違法化の動きもない」南京否定論で論じるから言っていることがパフォーマティブな意味で不可思議極まりないものになる。

修正主義に加担している、というよりは単に論争史を全然知らないのではないか。知らないし、知ろうともしないで、南京事件表現の自由の議論についての「絶好の事例」だと思い込んだままその思い込みをまったく修正しようと思っていないという印象です。

繰り返しますけど、「小規模」というのも、非常に不明瞭。何の根拠があって言っているのか。小規模、といっても、何かに対して小規模(30万はないよ派)とも、絶対的に小規模(数十人の虐殺しかなかった)とも解釈することができるので、悪い方に解釈すれば「YOU否定論者なんだね」、ということも可能な言明です。まったく明確な立場ではない。これで明確な立場を鮮明にしたと思えるのが不思議です。それに、常に小規模だったと言わずにはおれないというのはまさしく修正主義的欲望そのものなわけです。

無責任な放言

あと、これは私が常に東浩紀について言っていることなんですけど、どこまでも無責任さが目立つんです。南京事件について全くの他人事だと思っているらしい様子がうかがえるのですね。

表現の自由を尊重すべきだから、違法化には反対する。だから、そうしたトンデモ言論については対抗言論、モアスピーチで対抗するというのが共通了解だと言って良いと思います。だからこの南京事件論争にコミットする肯定派、史実派の人は否定論を俎上にあげ、その間違いを指摘批判し続けてきた。そこまでセットで言論の自由、ではないかということですね。

そこへきて、東浩紀は南京否定論について何らかの批判をまったく差し挟まずに、否定論に場所を与えなければならないと繰り返す。自分はまったく否定論批判にコミットするつもりもないのに、南京虐殺は小規模だったと言いたがり、否定論に場所を与え(どこに?)、耳を傾けるべき(誰が?)と言い募るのは、はっきりいって否定論擁護の論陣を張っていると理解されてもおかしくない発言なわけです。すでに広汎に広がっているのに、まださらに場所を与えるべきなのか?と。耳を傾けた上で、批判されるべきだ、というならその通りで、それは既にApemanさんほかがずうっとやってきていることなわけです。東浩紀はそうは言わないんですね。自分は不可知論を盾に何も言えないのだ、と言う。

それに、東浩紀は自分の「ポストモダニズムリベラリズムの立場」を、「このようにハードで、ときに自己矛盾を抱えかねないものなのだ」などと言っているけれど、南京事件についてあずまんはまったく「ハード」な立場にはないですよね。否定論がどれだけ跋扈しても知人が吹聴したりして面倒くさいだろうくらいのものじゃないでしょうか。南京事件について「小規模のものがあったと思う」以上の具体的議論には立ち入らない態度をはっきり示しているわけで、そんな人間が「ハードで、ときに自己矛盾を抱えかねないものなのだ」などと言ったところでまるで説得力がない。この点で、「ポストモダニズムリベラリズムの立場」の「ハード」さを体現しているのは他ならぬApemanさんその他否定論に対抗してきた人たちです。釈迦に説法。

最初に再掲したコメントについて、Apemanさんはこういっています。

なぜ引き合いに出すのがホロコーストでもラーゲリでもなく南京事件なのか? という問題と密接に関連してますよね。要するに、ホロコースト旧ソ連の「収容所列島」に疑念の余地があるかのように発言するとヤバいけど、南京事件なら懐疑論や否定論を許容してもオッケー、という極めて政治的な判断があるわけです。むしろ、「(あるていど小規模だと思いますが)」というエクスキューズをつけないとまずいかな? という政治的判断までしてるわけです。そりゃお前、南京事件否定論のケツを舐めてるじゃねーかよ、と。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100624/p1#c1277391324

けれども、そういう主体的政治判断というよりむしろ、この有様は主体的な関わりを回避してきた結果という印象があります。つまり、デリダというか現代思想関係でホロコーストや、ソルジェニーツィン関係でラーゲリについては通り一遍以上のことは知っているので、それらが「なかったと考えるなどとんでもないと鼻から」思っているのだ、と。自分が主体的にかかわった事柄については疑い得ないので、紀念館での失望の思い出とかはあっても、主体的に積極的に意見を持っていない(言っていることに具体性が全然ないので、そう判断します)事柄の南京事件を引き合いに出してしまえるのではないでしょうか。「あったけど、小規模」という要領を得ない言明は、自分がそれにかかわらないための出来の悪いエクスキューズでしょう。調べずに、こう言っておけば無難な立場かな、という。

かかわるつもりも、真面目に考えるつもりもないから、双方ともに言論の自由がある、終わり。というまるであえて言う意味のない発言が出てきてしまう。彼自身が肯定派にも、否定派にも耳を傾けている様子はないわけです。

これってつまり、俺にはかんけーないけど、おまえらちゃんと相手しろよ、というそういう言明に聞こえるわけですね。まるで他人事にみえます。

むしろ、「たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても」否定論に耳を傾けるべきと言う「ポストモダニズムリベラリズムの立場」からすれば、「きわめて私的な印象として、ガス室の有無はぼくとしては疑いえない」というホロコーストについての否定論を例示するのが、話の筋から至当と言うべきです。けれども、そのあとでは自分にとって確たる信念がないからこそ、この場合の例示として南京を引き合いに出した、と言っている。よく、意味が分からない。

自分が自己矛盾を抱えかねないホロコーストについては、否定論に場所を与えるべき、とは言わないんですね。

東浩紀はたぶん、南京否定論がどのようにトンデモなのか知らない。自分のなかで否定論を否定しさることができていないから、こういう要領を得ない言明しかできないのではないか、と思います。しかし、話のネタには使いたいという欲望を抑えられない。
そう言う人、前にもいましたね。
論争傍観者を自称する人間についての二つの問題 - Close to the Wall

はてなサヨクの「原文読んだ?」

上掲のtogetterには載っていないのですけど、この話が始まるきっかけは以下のやりとりです。

ぼくそんな話してないよ。原文読んだ? RT @kanshizyo @hazuma  そういえば東浩紀氏が「経団連か国会に突っ込め!」的なことを秋葉原の乱のときに発してたけども、今回どう言い訳するんだろう
http://twitter.com/hazuma/status/16889066057

ここでは秋葉原無差別殺人事件についての自分の発言を不正確に言及した人を非難しているんですね。この一連の発言には、不正確な引用に基づいて相手を批判することの是非、という流れがある。東浩紀

「ぼくがなにを言ったのか、ちゃんと確認しようよ」

と言っていて、これは正しい。しかし、この発言とはてなサヨクに対する中傷や南京事件否定論という「虚偽、デマを公言する自由」を認めるべき、というのとは整合しないのではないか。そして南京事件についてどういう論争が行われているのか「確認しよう」としない態度とも整合しない。単に自分に対する批判的な発言に対してのみ、「なにを言ったのか、ちゃんと確認しようよ」という規範が発動している。

「これでは東浩紀と同じレベルじゃないかと暗澹たる気持ちになった。はてなサヨクがなにを言ったのか、ちゃんと確認しようよ」と言いたいです。しかし、東浩紀は自分に対する批判は読んでいない、と公言しているのにもかかわらず、「はてなサヨクレベル」とか言ってしまう。頭の中身がどういうことになっているのか。韓国人の罪状を捏造してまで、韓国人はウソつきだ、と叩きたがるタイプみたいに、自分がその「はてなサヨクレベル」そのものを体現しているんですね。

このあまりにも自己論駁的な振る舞いは以前にも似たような論旨で批判したことがあります。
東浩紀氏の印象操作的「批判」について - Close to the Wall

なんというか、人の党派性を疑ってみせるけど政治的でないフリをして一番政治的なのは本人だし、可能性の中心に一番降りてないのも本人だし、揚げ足をとっている(というか、根拠明示しないんじゃとれてもいないけど)のも本人だし、まるごと自分自身を論駁しているコントぶりはいったいどうしたことなんだろうか。まるで笑えませんが。

しかし、去年末の南京事件についての対応(挑発したことにほっかむり、とか、直接テクストを読まずに伝聞で批判してみたりとか)と考え合わせると、東浩紀って自分が批判されたときに、とても特徴的なリアクションをする人なんだなということはよく分かった。

おお、このコントは永遠に繰り返される! 彼が自分の素朴な感情に愚直に素直なことはわかったのだけれど、それってつまり、議論の相手としては文字通り話にならない、ということでしかない。対話可能な人物としてではなく、ある種の災害、自動的な泡、あるいはそういう現象を体現してしまっている存在として見るほかないな、というのが最終的な感想です。


ところで、「再帰的近代」ってなんですか?