後藤明生再読 - 小説 いかに読みいかに書くか

小説―いかに読み、いかに書くか (講談社現代新書 (684))

小説―いかに読み、いかに書くか (講談社現代新書 (684))

小説??いかに読み、いかに書くか 後藤明生・電子書籍コレクション

小説??いかに読み、いかに書くか 後藤明生・電子書籍コレクション

電子書籍便乗企画のはずが、数ヵ月遅れでなんとか。
これは後藤明生の小説論として非常に重要な一冊。元々NHK文化センターでの文章教室の講師として喋った録音テープの書き起こしを元にしたとある。また、同時期に早稲田大学の文芸学科での非常勤講師としても創作の講師として勤務していた。こちらの方は『雨月物語』を使ったりしたようだけれども、それは本書に収められていない。

それら創作を教える、という体裁で受けた仕事において、後藤はまず読むことの重要性を教えることにした。それは、何故小説を書きたいか、というとそれは小説を読んだからだ、として、読むことと書くことを結びつけようとしたからだという。

作家の体験やそのセンスなどなど、文学にはどうしようもなく個別的、私的なものが存在する。それこそが文学だと思われてもいる。しかし、後藤はそんな文学において、「方法」という一般化、普遍化可能なものを読みとろうとする。ドストエフスキーが言ったとされる「われわれは皆ゴーゴリの『外套』から出てきた」という発言を、「天才」ドストエフスキーも読むこと=パロディから出発した、として捉えるのは後藤明生の文学論の要諦ともいえる重要なポイントだ。そしてこれが方法の作家後藤明生の一貫した試みだ。いかに読みいかに自分流に変形するか、その方法は抽出し、学びとることができると後藤は言う。そして、ゴーゴリの『外套』は「哀話」の素材を「喜劇」に「異化」したもので、ドストエフスキーの作品も構造としては「喜劇」として書かれている、つまりドストエフスキーゴーゴリから「喜劇化の方法」を学んだ、というわけだ。

だから本書のテーマのひとつは、ある作品・作家は何を読み、どう改変して新たな作品を書いたのか、という点にある。その視点から近代以降戦後までの作品を読んでいくということで、一種のパロディとしての文学史の試みでもある。横光利一の評価と志賀直哉への批判にみられる、見ることと見られることの関係への言及なども含め、非常に後藤明生らしい思考、認識が如実に出ているので、後藤の文学観をうかがうのにも好適だ。

なお、後藤明生のキーフレーズでもある、小説を書くのは小説を読んだからだ、というテーゼは、本書で初めて言及したと後藤は書いている。もっと前から言っていたような気がしていたけれど、とすると、その点でも重要な一冊。

「蒲団」の喜劇性

後藤の見方の特色が良く出ているのが、冒頭に置かれた田山花袋「蒲団」論と、志賀直哉論だろう。中村光夫『風俗小説論』によって日本における誤った自然主義としての私小説、その定型となったとされる「蒲団」は、作者と作中人物とを区別できないモノローグ的作品として糾弾された。常々元ネタとして参照されるハウプトマン「寂しき人々」を読んだ感動から、花袋はハウプトマンの作中人物に同化し、自ら作中の人物となることでそこに作品の真実性を保証せんとする私小説の思想がある、と中村は書いている。

後藤もまた学生時代この中村理論に説得され、影響を受け、本書の当時も中村の近代小説論については賛成しても、いざ「蒲団」を再読してみると作品論としては間違っている、と指摘している。

いくつものポイントがあるけれども、一つとして「蒲団」が三角関係を扱った恋愛小説だという点がこれまで無視されてきた、ということ、そして「告白」されたのは「事実」ではなく、「内面」だったのではないか、ということだ。内面あるいは、欲望と言い換えてもいいけれども、「師としての立場」と「男の欲望」という霊肉二元論の相克が「蒲団」の肝ではないかというわけだ。後藤は、花袋のいう「露骨なる描写」とはつまるところ、文章は綺麗に書かれねばならない、理想化されねばならない、というメッキ文学論への抵抗として、肉=ホンネをありのままに描く、散文主義だとして「蒲団」を読んでいく。

そして、中村が「蒲団」にまったく欠けているとした第三者の目は、じつはいくつもの場面に現われている、と指摘していき、最後には「要するに作者は、時雄を完全な道化として描いている」と結論する。喜劇として「蒲団」を読んでいくわけだ。

また、下敷きにした「寂しき人々」との関係についても、後藤は以下のように書いている。

すなわち、『蒲団』における時雄のホンネは、花袋が想像したヨハンネスのホンネではないだろうか、ということである。実際、ヨハンネスがアンナに性欲の衝動をおぼえなかったのだろうか、という疑問は、小説家として当然、抱いて悪くはないと思う。61

想像された「ホンネ」、そしてその「ホンネ」を書く手段としての「露骨なる描写」、そしてそれによって描かれる道化としての主人公、という読みは非常に面白い。そしてこれはそのまま近代文学成立当時の歴史としても読めるわけだ。文学研究的に、これが「蒲団」論としてどのような位置づけになるのかはわからないけれども。

志賀直哉の絶対性

そして志賀直哉論において、「網走まで」や「城の崎にて」を読むのだけれど、後藤が指摘するのは、志賀の叙述が他者の目を拒絶し、作者の全人格そのものとなっているということだ。「網走まで」において、語り手が人から見られる場面では、「厭な眼つき」「厭な眼」「妙な眼つき」で「自分」を見ている。その全てが否定的なニュアンスで書かれている。また「城の崎にて」で描写されるイモリが「濡れていて、それはいい色をしていた」という部分に注意を促す。「いい色」とは何か。後藤は「自分はそれをいい色だと思った」と書くべきではないか、という。志賀の色の好みなど知らないからだと。これはまさしくその通りで、「いい色」という表現があり得るところがつまり志賀文学だという指摘を後藤はしているわけだ。他にも、「城の崎にて」の描写で、自分はこういう事を何回か体験しているので、大概分かるだろうと思ったので理由は書かなかった、というものや、ある文章を小説とするか雑文とするか、という時に「書く気持がもう少しむきだった」から小説とした、という志賀の文章を提示しながら、彼の文章が「普遍化を拒絶」し、自身の眼を絶対化するものだということを論じていく。

つまり志賀の文学には、「作者=主人公と異る「目」を持った「他者」は、存在できない」ということだと後藤は言う。ここから、「文は人なり」という神話が生まれ、志賀の文学を学ぶことは志賀の全人格を学ぶことに他ならず、しかもそれは不可能だから、必然、志賀直哉の文学が、神話化、神格化されることになる、というわけだ。

そして後藤が指摘するのは、志賀文学の絶対化によって、中村光夫のいう「私小説」からは、「他者」「フィクション」「笑い」が失われたのではないか、ということだ。これはつまり、後藤にとっての志賀文学批判は後藤文学そのものでもある。なるほど志賀直哉(とその絶対化)こそ、後藤明生にとっての闘争相手だったわけで、この章は後藤文学論のひとつのネガとして読むことができる。そして、中村光夫私小説否定論は、むしろ志賀直哉にこそまったく当てはまるのに、なぜそれが「蒲団」論として書かれたのか、と疑問をひとつ提示して章を終えている。

私は「網走まで」が未読だったので、志賀直哉を高校生以来読んだ。その時、「城の崎にて」の入った短篇集のあと『和解』を読んだのだけれど、主人公とその父親の和解の話がいきなりはじまっていて、こちらの知らない話の結末だけを読んでいる感じしかなく、これまでの来歴がぜんぜんわからず、なんだこれは、という印象が強烈だった。まあつまり、「大概分るだろうと思って書いた」んだろうし、当時の読者は大概わかっていたんだろう。当時はなんだこの内輪ネタは、と腹が立ったのだけれど、後藤はこの章でその独善性を作品の描写に即して論証している。まあせっかくなので、後藤の説がどこまで妥当かを自分でも確認するつもりで「網走まで」が入った短篇集の他の作品もあとあと読んでみるつもり。

そして志賀の章とまた対照的なのが横光利一の「機械」の章だ。関係の変転を繰り返し、絶対的基準を失い、「輪郭を失った人間」として作中の「私」を捉える後藤の読解は、「機械」は芥川の「ぼんやりした不安」のパロディとも言えるのではないか、と進んでいく。近代人の自意識の過剰や分裂を、町工場という日常にほうり込み、普遍的なものとして表現した。そしてその過激な格闘の中で言語、文章を歪ませ崩していき、日本語散文の可能性を追求し、そしてこの横光の「過激な自己解体」によって、日本の現代小説は始まった、と評価する。志賀の絶対的自己と横光の自己解体とが、後藤の中でひとつの両端として意識されていることが分かる。そしてもちろん、後藤は横光利一の方を選ぶ。


後藤の文学史的なスタンスはおおよそ以上のものだ。他者とフィクションと笑い。そう考えると太宰を後藤が重視するのも理解できる。太宰はあまり読んでこなかったのだけれど、本書で分析されている「道化の華」というメタ私小説はなかなか面白く、もともとは素朴な体験記だったのを、あとからずたずたに切り刻んでできたものだという。罪の意識を告白して救われようとしている自分が恥ずかしくなって、自ら作中に割り込んで作者自身を批評し、ついには自己否定の「道化」となる、と後藤は指摘している。

ここで思ったのは、後藤の『挾み撃ち』はまさにそういう小説ではなかったか、ということだ。私は以前から、『挾み撃ち』は青春小説の迂回、パロディではないか、と思っているし卒論にもそう書いたのだけれど、本書の太宰の章を読んでいると、『挾み撃ち』の大元は太宰なのかも、と思えてくる。手法としてはかなり異なるけれども、告白を喜劇化する、というアイデア


本書を読むために扱われている作品で読んでいなかったものを潰してから読んだ。志賀の「網走まで」と太宰の二作、椎名麟三「深夜の酒宴」。どれもなかなか面白かった。椎名麟三のごつごつした文体、後藤が敗戦によって生まれた「異常なる日常」、これによって戦後文学が始まった、という作品世界はいかにも昭和の戦後文学、という感触があって、なんだか懐かしい感じがする。

後藤の小説論としては他に、『小説は何処から来たか』がある。後藤が自身の世界観に与えたインパクトとしてよく言及する武田泰淳についてや二葉亭四迷、あるいは牧野信一その他現代の作家などについての一つ一つは短い文章を、単行本未収録のものを中心に、既存の単行本収録のものもあわせて一冊に編集したものだ。短文が多いため後藤の主張の中心を掴みやすく、また扱っている作家も多いので、総体的な後藤の観点を眺めることが出来るので、本書とあわせて勧めたい。一時期はこちらばかりを読み返していた。

小説は何処から来たか (叢書レスプリ・ヌウボオ)

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