「リベラシオン」190号に鶴田知也についての記事を寄稿


リベラシオン 人権研究ふくおか」190号(2023年夏)に「鶴田知也再考――『リベラシオン』第一八九号を読む」を寄稿しました。表題通り前号での鶴田知也特集に寄せられた論考にコメントをしつつ、私の鶴田知也論と後藤明生論についての概要を紹介した記事です。

後藤明生の夢』のあとがきに書いた通り、後藤を論じるのに朝鮮引揚げという観点を軸に据えることにしたのは、その前に鶴田知也論を北海道・植民地・アイヌというアプローチで論じたことの延長だったわけです。奇しくも鶴田も後藤も福岡に縁のある作家で、この両者を植民地問題を通じて繋げつつ、鶴田知也アイヌ差別に抗したという側面だけではなく体制翼賛に加担した時代のものも含めてその可能性と限界を視野に入れることが必要なのではないか、と主張しています。

鶴田知也研究において私の評論を参照したものが少ないという問題意識から今回の依頼になったとのことで、たいへんありがたい話だと思います。事実、鶴田の戦前の作品のほとんどをカバーした評論というのはあまりないように思うのでアピールする甲斐もあるんじゃないかと。雑誌は今はまだ一般流通前のようでどこの書店でもリストに出てきませんけれど、以下のサイトやhontoなどネット書店でも買えるようです。
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以下、書く時に参考にというかついでに読んでいた本。

道籏泰三編『葉山嘉樹短篇集』

戦前プロレタリア作家の代表格ともいえる作家の選集で、「セメント樽の中の手紙」「労働者のいない船」「淫売婦」という三大短篇は入っているけれどもそれ以外は角川文庫や岩波の旧版ともかぶらない短篇が入っていて、結構独自の編集と思われる。既述の短篇は定番なだけに出来が良くて、葉山には短篇が上手い作家という印象があったけれども本書ではそういうのとは別の側面、解説では「グロと暴力」が階級闘争の理念よりも前面化してしまう「肉体から発する言葉」に着目していることが述べられていて、なるほどそういう作品が多い。

作品に現われた「グロと暴力」とはつまり「裸の人間」への視線、「最底辺の人間に対する思いやりと慈しみ」ゆえに現われるものだと編者は指摘している。そしてそういう陰惨さへの関心が怪奇小説的あるいは「痛快な「残酷趣味」」という側面に繋がっていくとも述べられている。困窮、悲惨は今でも見せ物的興味を喚起するわけで、労働者――人間の置かれた悲惨の果てを見せ物にして生きている姿を描いた「淫売婦」がまさに生身の人間ひいてはプロレタリア文学の似姿として自覚的に選ばれているようにも見える。見せ物性を逆用して突きつける方法。

このことに作家はかなり自覚的だったようで、「猫の踊り」という作品にはこうある。

猫に、踊りを教え込む時は、焼けた鉄板の上に載せるのだそうだ。猫奴、足が熱いものだから、飛び上ったり、逆毛を立てたり、後足で立ってみたり、前足で逆立ちをやったりして足の熱さを冷まそうとするのだ。これが習慣になったのが、猫の踊りと称される奴だ。
 ところがどうだ。
 私たちの足の下も、焼けた鉄板なのだ。138-139P

「人間肥料」という作品にはこうある。

プロレタリアートの前衛は、も少し朗に、快活に、闘争的に私を歓待してもいいではないか。これでは全でプロレタリアートの解放なんかという考えはケシ飛んでしまって、グロテスクな作風を好む、作家の気味悪い仕事部屋へ連れて来られたようなものだ。110P

「グロテスクな作風」の「猫の踊り」を踊ってみせることへの自覚的態度の先に、「裸の命」の主人公として出てくる「中西には、売るための労働力さえなかったのだ」というところからの思弁性が出てくる構成にもなっている。最後に置かれた「安ホテルの一日」での生命保険に入ってからのくだりも示唆的だ。

私は私の命を味気ないものに思い始めた。早く死なねば損であるし、生きていればいるだけ、私は自分の命に支払いをしなければならないのだった。今までは漫然と生きていられたのに、今では生きているのに、何か一つ立派な云い訳の立つような理由を、発見しなければならなかった。306P

身体がコンクリートとなり建築物の一部となるところから始まり、生身の体さらには命そのものが投機の対象となり、自己自身と生命すらが剥離していく感覚に行き着く構成なのかも知れない。

紅野謙介編『黒島伝治作品集』

岩波文庫の旧版四篇に新たに作品やエッセイを加えて再編された作品集。シベリア出兵に従軍した黒島を移動・越境の文学として捉え、村内と村外の境界や、シベリアでの異民族との遭遇、そして肺を患い帰郷した郷里小豆島でのスケッチに至る流れがある。

最初の「電報」は村内でのヒエラルキーに抗して成績優秀な息子を村外の学校に行かせようとした父親がさまざまな圧力に負けて試験を通過した息子にすぐ帰れと電報を打ってしまうまでを描いていて、近代的な学業による階層移動とそれへの共同体側からの抵抗の一断面になっている。

「老夫婦」は逆に、都会に出た息子のもとに身を寄せた老夫婦が畑のない都会の暮らしに慣れず、田舎に帰ろうとする話で、いざ外に出ようと思っても地元に引き寄せられてしまう力学は作者自身のその後を思わせるようでもある。

労働争議をめぐって、差し押さえに対抗するためすべての豚を野に放って誰のものかわからなくする作戦のさなか、地主側につく裏切り者が出るかどうかの攻防を描いた「豚群」はプロレタリア文学でも特に爽やかな読み味があってやはり良い。

近代日本が領土拡大を目指し、シベリア出兵に至る時期、従軍した経験を生かした「橇」と「渦巻ける烏の群」はいずれも国の支配者がのうのうと後方で指示を出して戦争をけしかけ、それによって前線でいかに無駄に人命が失われるのかをシベリアの雪の荒野を舞台に描いたもの。

でも戦争をやっとる人は俺等だ。俺等がやめりゃ、やまるんだ。98P

と「橇」で気づいた兵士たちが軍紀に抵抗し処刑される。ここでは兵士たちは何の恨みもないロシア人となぜ殺し合うのか、と疑問を呈し士気が上がらない。だからこそ、敵対、被害者意識を煽って恨みを醸成しようとするわけだ。

「穴」は葉山嘉樹の「労働者の居ない船」と似た感触がある短篇で、偽札が出回った時にその主犯を老いた朝鮮人に決めつけて処刑しても、偽札はウィルスのように出回り続けることで差別という穴に自らはまってしまう愚かしさが描かれる。

兵士が中国兵と苦難をともにして仲良くなり、それを上官に見咎められる「前哨」も反戦文学の一作だ。

後半は黒島の郷里小豆島を描いたと思しい作品が印象的で、作品にしばしば出てくる醤油屋を題材にして小村で労働運動の立ち上げに尽くした老人の生涯を描く「岬」、そして未発表の遺稿で未完の連作の一篇らしい「小豆島のスケッチ」は台風一過の島で災害で死んだ事件も利用する人々のたくましさを島の自然、風景とともに描いていて続きが書かれなかったのが惜しい。ほかに軍隊経験、プロレタリア作家としての自画像、小豆島についてなどのエッセイや同村出身の壷井繁治のエッセイも併録。

石純姫『朝鮮人アイヌ民族の歴史的つながり』

北海道において差別されていたアイヌが、時に労務動員から逃げてきた朝鮮人を保護し匿ったり、婚姻して子供を作ったりといった様々な交流があったことを史料や聞き取り調査などから明らかにし、郷土史からも疎外される歴史をたどる一冊。

編集委員会は「このようなことが明らかになると国際問題となり、遺骨発掘などをされると迷惑だ」と明言した。多くの自治体では現在に至るまで、朝鮮人に関する歴史的事実を公的記録に記述することは執拗かつ周到に排除されてきた。59P

振内の郷土史編纂過程において朝鮮人犠牲者に関する史実が排除されかけ、著者の取り組みによって、共同墓地内に埋葬されていることを盛り込むことができたことなど、厄介な問題と扱われがちなマイノリティの歴史を記録に留めようとする闘いの様子が窺える。

茅辺かのうの『アイヌの世界に生きる』でも日本人の子供が捨てられ、アイヌとして育てられた話があったけれども、同様に朝鮮人の子供をアイヌが育てた事例が取り上げられている。

筆者の聞き取り調査によれば、当時のアイヌコタンでは、子どもを養育できなくなった和人や朝鮮人などがアイヌの人々にその養育を託したり、その養育を託したり、子どもがいない、または少ないアイヌの家庭に、自分の子どもを養子として渡すという例が数多くあった。また、アイヌの親戚同士のなかでも、子どもに恵まれない兄弟姉妹の家庭に自分の子どもを養子に出すというようなことも多かったという。67P

アイヌであることは、北海道穂別の地元では差別される要因ではなかった。本州からの移住者もいて、土地を持つアイヌの人と世帯を持つことも多かったからである。しかし、アイヌのなかでも、朝鮮のルーツを持つことに対する差別は歴然としてあったとTさんは認識している。Tさんの姉妹も、嫁ぎ先で半分が朝鮮ルーツであることを侮辱されてきたという。70P

このような複合的な要因が触れられており、またどの要素で差別されるかについては環境や個別の事例ごとに色々なパターンがあったらしい。門別ではアイヌの人から朝鮮ルーツを蔑まれたけれど、静内ではそのどちらでもいじめられたりはなかった、という人も出てくる。

アイヌ民族朝鮮人、中国人など、帝国主義下の北海道では、さまざまな人の多様な繋がりが各地で展開した。共に助け合い、共存する話がある一方で、相手を貶める差別意識が相方にあった。90P

統計に記録されない時期に北海道で馬喰として移住した朝鮮人がいることを明らかにし、少数民族同士の助け合いや差別などの関係にも踏みこんでいる。またサハリンでのアイヌ朝鮮人についても章を割いており、日本人の官憲による朝鮮人虐殺事件についても難を逃れた当事者に聞き取りをしている。

ほかに印象的な一節をいくつか。

学校行っていろいろありましたけど、家ではしあわせでしたね、私は両親は仲はよかった。でも、一応父さんは頭にくると朝鮮語になり、母さんはアイヌ語になる。私自身はどちらもさっぱりわからない。85P

私、非常に不思議なことには、シャモの人には馬鹿にされてない。みなさん、協会で差別云々っていって、良ちゃんもそうでしょ、って言われて、面倒くさいから、そうだよっていうけど、実際は違うんです。87P

和人の子どもにアイヌと馬鹿にされることが多く、その侮辱と屈辱に対する対抗は、子どもには単純な暴力しかなかった。それを教師がアイヌの子どもが暴力的であるとか反抗的であるといってアイヌの子を罰した。213P

黒川創『世界を文学でどう描けるか』

タイトルからは大上段の理論的な本にも思えるけれども、主な内容は著者が2000年にサハリンを訪れた旅の様子だ。複雑な歴史と民族構成を持つこの島での旅を回想しながら、しかし後半で「世界文学」としての『フランケンシュタイン』についての試論が差し挾まれる意外な構成を採っている。「回想(メモワール)」と「試論(エッセ)」と著者は後書きで記しており、この二つの文学ジャンルを混淆したスタイルを採りながら、多民族、多言語、幾度も統治者の変わった複雑な歴史の「辺境」をたどり、そこにこそ「方法」を編み上げる手がかりを求める、試論による試作とも言える本になっている。

ナポレオン戦争後に、「ヨーロッパ文学総体」を「普遍的な世界文学」として捉え直すことを企図したゲーテの「世界文学」概念について、著者は「多言語間でのコミュニケーションの際限なき進展を想定する、かなりに楽観的な言語観に基づいて構想されている」(84P)と批判的に要約する。西欧社会で用いられる独英仏伊語やギリシャラテン語などのゲーテ自身も身につけている言語を想定した、相互に調整できる関係をベースに構想されており、そこにディスコミュニケーションが想定されていない、と。

言語の意味からディスコミュニケーションを排除することに、ある種の「理想」を見出す点で、「ニュースピーク」は、案外、ゲーテが思い描いた「世界文学」のユートピアに重なるところがあるのではないだろうか? 私は、そうした疑いも、ひそかに打ち消しきれずにいる。86P

メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』がゲーテの世界文学構想に先立つこと10年前に書かれ、これこそが「世界文学」の嚆矢だと著者が言うのは、こうしたことを背景にしている。

フランケンシュタイン』での、言語の習得、多言語環境、亡命(エミグレ)、流浪、本書では強調されているわけではないけれど継ぎ接ぎで生まれた怪物の素性などなど、ズレ、すれ違いの諸要素と著者が旅するサハリンのありようが相互に関係し合う、それが本書の方法になっている。

朝鮮人と結婚した日本人女性は法的な本名は李姓で、子供たちはそれぞれロシア名、朝鮮名、日本名を持っているという家族、「だから、うちはインテルナショナルだ、と言っているの」(44P)、そういうサハリンで出会う様々な意味でインターナショナルな人々をどう描くか。一見突飛な組み合わせに見えるサハリンと『フランケンシュタイン』が徐々に重なり合い、あるいは日本軍のトナカイ部隊にトナカイを提供した「トナカイ王」ヤクート人のヴィノクロフが日ソ両国に翻弄されながら、ヤクートの独立国を目指していたことを詳述し、国籍の狭間の人間の姿も伝える。

サハリンは第二次大戦後ソ連領になって労働者が募集され、多数のウクライナ人がやってきた。2002年の人口調査ではロシア人84%、朝鮮人5%、ウクライナ人4%と続く。本書が書かれるきっかけはロシアのウクライナ侵攻で、旅で多くのウクライナ人と出会った経験が思い出されたからだろう。

200ページに満たない小著である島を訪れたことが主に書かれているけれども、そこから世界を望もうとする広がりのある本。

フランケンシュタイン』の物語は、いくつもの国にわたる舞台設定、登場人物たちによる多言語での会話、という複雑な状況をあえて次つぎに現出させながら、進んでいく。しかも、これらを順序立てて明晰に描き分ける、という首尾一貫性(コンシステンシー)に挑んでいる。小説という表現を採るさいの叙述上のルールを、あえて酷使している、と言うべきか。ここに、本書をもって「世界文学」の嚆矢と呼ぶべき特徴があると、私は考える。
 高齢のゲーテによる「世界文学」観は調整的で、若きメアリー・シェリーによる「世界文学」の実践は挑戦的である。そして、いつの場合も、独創性は、より挑戦的なほうに属している。87-88P