ラシュディとヴィリコニウムと山野浩一その他

サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』

1947年8月15日インド独立の真夜中零時に生まれた特殊な力を持つ子供達の一人、サリーム・シナイが自らの生涯を語ることが、同じ日に生まれたインドの歴史を語ることにもなるというギミックを用いて主人公とインドの歴史を描く千ページを超える大作。

冒頭、ドイツで医学を学んだ祖父と敬虔なムスリムの祖母との関係から話を説き起こす三代にわたる歴史が始まり、近代と信仰の軋轢を提示しながらインドにおけるさまざまな混淆――イスラムヒンドゥー、植民者イギリスといった諸要素を身にまとう主人公サリームの数奇な運命がたどられ、インドがパキスタンバングラデシュに分離していくなかで巻き起こる惨事の歴史をまのあたりにしていく。サリームの奇妙な生まれがイギリスの血を引くボンベイ生まれのムスリムという混淆的なものになると同時にある時目覚めるテレパシーの能力は、人の心を読むだけではなく、当初一〇〇一人いたインド独立の真夜中に生まれた「真夜中の子供たち」との交信を可能にし、真夜中の子供会議という離れ離れの者たちをつなぐ場を成立させることにもなる。しかしサリームは同じ時間に生まれた双生児ともいえるスラムで暮らす下層階級の暴力的なシヴァを会議から除こうとしてしまう。

会議におけるサリームの未熟さは同時にインド政治の未熟さでもあり、サリームとインドとが比喩的に結合しているという誇大妄想的な枠組みは、独裁政権を樹立したインディラ・ガンディーの合わせ鏡のようで、この二者はじっさいに正面からぶつかりサリームが排除される結果になる。比喩や超常的なSF設定によるものと、独裁政権という現実の政治的な要素の双方で個人と国との結びつきとその解体が描かれるのは文学による総合も独裁による強権にも批判的な態度にも感じられる。子供達にしても独裁にしても若きインドの政治的蹉跌の歴史から未来への希望を語るものだろう。

サリームまわりのメロドラマ要素は血縁の相対化になっていて、それでもなお家族たりうるところは良い。真夜中の子供会議という即時的な大規模遠隔通信のアイデア、ネット時代に読むと普通だけどこれ1981年の小説で、そこでの主導権争いと排除がリアルでの暴力に帰結したりするのはなんか今っぽい。「誰しもたえず目を開けたままでは世界に立ち向かうことはできない」(岩波文庫上巻281P)というのは、眠ること、夢見ること、想像することを含んだものだろう。「精神を蝕んで幻想と現実に分裂させてしまうこの暑さのなかでは、どんなことでも起こりうるように思える」「暑い国で最も良く育つのは何か。幻想と非理性と欲情である」(同380P)とあり、ここで語られているのはボンベイ州を言語によって二つに分割せよというデモだったりする。言語圏独立の幻想がもたらす分離と敵対。こうしたさまざまなものの分裂は本作の核心的な部分でもある。

インド、新しい神話――それはどんなことでも可能にする集合的虚構、他の二つの強力な幻想である金銭と神のほかには、比肩するもののない寓話なのだ。(上巻251P)

ラシュディもまたインド出身のムスリムだけれど14歳でイギリスに留学して英国籍を取得しており、本作も英語で書かれている。英領植民地独立の歴史をSF設定を用いて語る手法など面白いし、移民作家による文学として重要な作品というのもなるほどと思うけど、正直読んでてそこまで楽しくはなかった。興味深いし重要なのはわかるし良い作品だなとも思うけどなんだろうな、一枚ベールの向こうより近づけなかった感じ。波瀾万丈、メロドラマ的でもある話は面白いんだけど、どうしてか。というかこれマジックリアリズムなのか。SF設定やファンタジックなところはあるけどあんまりそうは感じなかった。まあでもかなり読みごたえのある、掘り下げ甲斐のありそうな濃密な作品だとは思うし、インドのことを調べてから再度読むとまた違ってくるんだろうな。グラス『ブリキの太鼓』が踏まえられてるみたいだけど、グラスも読まなきゃだな……。

らんま1/2で水を被ると性別変わる設定がすごいって感じのツイートを見かけたけど、本書には能力者のなかに水に入ると性別を変えられる子供がでてくる。邦訳は89年だけど、影響あるかどうかは。

花田清輝『新編映画的思考』

映画雑誌に載った文章を中心に編んだ映画論集。1950年代中頃の原稿を集めたもので、題材になってる映画もほぼ知らないし背景にはマルクス主義や革命、大衆の問題というのが横たわっているのは窺えるものの、空いた時間に読む軽いエッセイ集として面白かった。この人の口癖として「まあ、そんなことはどうでもよろしい」という花田流の閑話休題の言い方が昔から記憶に残っててちょいちょい使った覚えがあるし、これを読んでるあいだ真似して使った言い方がいくつかある。どこで使ってるかは秘密。笑劇について政治的批判を行なう批評家に対して、「笑いにたいしては相当の抵抗力を示すこういう人びとにかぎって、涙にたいしてはいたってだらしがなく(中略)悲劇映画に出くわすと、さっそく、お得意の批判精神など、どこかへおっぽりだしてしま」う傾向を批判したり(210P)、「もともと、カメラによってとらえられた「本当らしい嘘」にあきたりないために、われわれは、漫画映画の「嘘らしい本当」におもむくのである。この根本のモティーフを忘れて、漫画映画の「嘘らしい本当」を「本当らしい嘘」に近づけようとひたすらつとめることは、まったく愚の骨頂というほかはない」(158P)とか、「演劇を否定し、小説を否定するところから映画がはじまる。あらためてくりかえすまでもなく、セリフによりかからず、観念や心理にとらわれず、ひたすらアクションを描こうとするところに映画の本質がある」168P、なんかが面白い。アニメの「嘘らしい本当」の箇所は結構思ってることに近い。花田清輝安部公房の関係で興味を持ったけど、『復興期の精神』とちくま日本文学の一冊しかまだ読んでなかった気がする。後藤明生の関係で読んだものもあったか。文芸文庫で五六冊まだあるから追々、と思って十年経ったものがいくつもある。

M・ジョン・ハリスン『ヴィリコニウム パステル都市の物語』

サンリオSF文庫で出ていた絶版だった長篇『パステル都市』に関連短篇を加えた一冊。『パステル都市』は古代文明の遺物を兵器に転用している騎士と女王の世界で戦争が起こり、鬱屈した剣士の過去の仲間達との関係と古代文明の遺物の謎が描かれるSFファンタジー

パステル都市』は今読むと多くの人がこういうのに見覚えがあると思うのではないか。『風の谷のナウシカ』の元ネタだと言われてるのもそうだけど、何者をも切り裂くエネルギー剣と騎士と女王の物語はスターウォーズっぽいし、飛行艇やら殺戮機械やらメカニカルなファンタジーはFFぽくもある。原書は1971年、初訳は1981年。主人公テジウス=クロミス卿の造型も、帝国最強の剣士と言われながら詩人を任じて塔にこもる隠遁者で陰のある性格なのは、この世界の砂漠から古代の遺物を掘り起こして活用技術がないから兵器にでもするしかない退廃的な雰囲気と軌を一にしている。

塔にこもっていたクロミス卿のもとにある日飛行艇が落ちてきて、という冒頭もナウシカっぽいと思ったけどそれはともかく、そういう導入から戦争の始まりを知り、騎士団の仲間と合流したりする冒険が始まるわけで、シンプルなストーリー展開と独特の世界観の描写が良い。ファンタジー風に見えてパステル都市ことヴィリコニウムのSFっぽい建築や、主人公に行き先を示す使いの鳥が人工知能機械仕掛けだったりする部分は素直に楽しい。小人と呼ばれる技師がパワードスーツを着込んで活躍したりして、メカメカしさとファンタジーの絡みが印象的。

ここからはネタバレしていくことにするけど、
二人の女王をめぐる戦争のなかで現われる殺戮機械の存在が後半の鍵になっていて、技術レベルが低くて滅んだ文明の遺物を武器にするくらいしか活用できないという状況から、殺戮機械の謎を解くことで死からの再生の技術が手に入ることになる。幸福な結末に見えて、クロミス卿が「死について思いなやむことはなくなった」ヴィリコニウムを後にするのは、妹の死に罪悪感を持ち続けるからでもあり、再生という死を無化する技術に対して背を向けるのは、科学技術に対する文明批評の意味合いもあるだろう。ここらへんなるほど宮崎駿っぽい。

不死への拒絶が根底にあるように見え、遺物の別様な活用も、昔の仲間達との再会が裏切りの悲劇になるのも、死を思うクロミスのラストの態度もその現れと言えないか。ヴィリコニウムが通常のシリーズとは異なりパリンプセスト的だと言われるのもその一環ではないか、と。一度終わったものはそのまま続くわけではなく改鋳される遺物のように似た素材をシャッフルして新しく別の物が作られる、というような。併録の短篇群が同じ時間軸を共有しているかどうかも定かではないし、「ヴィリコニウムの騎士」はそうした万華鏡的なシリーズ性のマニフェストに見える。

「ヴィリコニウムの騎士」のタペストリーから見えるヴィジョンはこちらを見返してもいるようで、複数の別の時間軸を見せてもいるようだし、「俺は人生をどう生きればよいのか?」に対して「これまでと同じように生きる必要はない」「われらはおのれの生きる世界を自ら作るものだ」(30P)という返答はその都度その都度作り直されるものとしての生、まるでゲームのプレイのような複数の可能性としての世界を示しているように思える。パリンプセストといえばそもそもこのヴィリコニウムという地名はスコットランドにあるらしく、それに虚構を重ね書きして作られたものなわけで。

以上ネタバレ含んだ感想。

このシリーズをまだ読んだことない人はまず長篇『パステル都市』から読むのを勧める。最初の短篇群から読むと設定や何やらが説明されずに出てくることになるし、短篇は『パステル都市』の描写を踏まえたものがあるので、最初に読むとわからないことが多い。話が一番わかりやすいのも『パステル都市』だと思う。『パステル都市』という主軸を据えてから短篇群を別側面からのアプローチとして読んで行く方がわかりやすい。私は雑誌で短篇を先に読んだ時は今ひとつ掴めないなと思っていたし、執筆が後になる短篇のほうが文章が入り組んでくる印象もある。

山本貴光編『世界を読み解く科学本』

科学者25人の100冊という副題があり、さまざまな研究者を中心に、ライターや編集者やSF作家なども含めた面々による科学本ブックガイドを集めた一冊。原本も七年前だけど最近科学系の本を読んでないので、今勧められる本は何だろうと思って読んだ。素粒子物理、宇宙、進化、生物その他さまざまなジャンルのさまざまなブックガイドになっていて、各人の原稿の書き方もさまざまで一人が全部を書いたものとは違った多様性がある。この多数の本のなかで別々に二度挙げられているのがドーキンスの『進化とは何か』で、これは気になった。ドーキンスは『進化の存在証明』も積んだままなんだけども。積んでる本も数冊挙げられてて、やっぱあれは良いやつなのかと思ったのも多い。ウィルス進化論を説いた『破壊する創造者』はタイムリーな、と思いつつしかし文庫版が品切れ高値になってるな。しかし、八章の記述は胡散臭いところがあった。子供との体の触れあいは発達障碍の症状を軽くさせるという記述も、そういうもんだったっけ、と疑問符が浮かんだ。

岡和田晃編『いかに終わるか 山野浩一発掘小説集』

NW-SF誌やサンリオSF文庫の監修など日本のニューウェーブSFの立役者として知られる著者の単行本未収録作を主に集めた一冊。資本や権力の旗振り役となりかねない「未来学」的なものを徹底的に否定する反SFのSF。「死滅世代」や「都市は滅亡せず」などの短篇はポストアポカリプス的な雰囲気が漂っており、その手の作品が数多く出ている今ではおなじみの風景ともいえるけれど、未来への希望や人間性の賛美を徹底して拒絶するようで、人間性や恋愛をも拒否している点はJ・G・バラード以上にドライにも思える。

「死滅世代」は恋人が惨殺される様子を傍観していた主人公は生殖を拒絶してもいて、そして廃墟と化した都市は「人々の怠慢のおかげで静か」(47P)ですらある、緩やかな終焉の様子が描かれる。「都市は滅亡せず」はむしろこのスローガンへの否定によって綴られていく終末SF。破壊的なアンモラルさのシュールな短篇「グッドモーニング!」のナンセンスは、「宇宙を飛んでいる」での「私は何の目的もなく宇宙を飛んでいる。ただ宇宙を飛んでいるだけであって、原因もなければ結果もない。全てのことが論理的ではなく、でたらめなのである。ただそれだけだ」(100P)と、宇宙船というSFガジェットの意味の転倒にも繋がっている印象がある。未来に対する終末、SFガジェットの意味性の反転や、外宇宙が内宇宙へ転じるように、外への志向が内へ反転し屈折するのがニューウェーブSFの特徴のようにも思えるし、そうしたところが上昇が下降になり、地と図が反転するパターンを多用するM・C・エッシャーと非常に相性が良いんだろう。荒巻義雄エッシャーネタで一冊書いているし。そうした意味でエッシャーの絵を題材にショートショートが二十数本連ねられる連作掌篇はこの作者らしさが簡潔に現われているようで面白い。

私小説的と言われる「子供の頃ぼくは狼をみていた」もしみじみとした良さがあるけど、狼、革命の象徴か何かのようにも思える。反SFのSFとは言ったけれど当然そこにはそもそもSFへの関心があるからなわけで、読んでいると結構ダイレクトに非日常への渇望が感じられる部分も多い。印象にある限りだと、どうやらそういうときに青や水色が関わってくるように見える。「X電車で行こう」の別バージョンともいえる短篇は「ブルー・トレイン」。

ブルー・トレイン、青い列車。ぼくの前に一度は姿を現わしていながら、再び消えてしまってあばれ廻る奇妙な列車である。それはやはりぼくの、それ迄の生活環境の中では考えることのできないような大きな存在であり、自分の好きな、走りたいレールを平然と走り抜ける楽しい自由な列車なのだ。(136P)

「嫌悪の公式」では「日常的な生活サイクルから出てみたい。ただそれだけのことなのだ」(242P)という主人公を誘うのが「水色のワンピースの女」だった。青、水、それは空なのか海なのか宇宙なのか。『裏世界ピクニック』でも青は特権的な色だけれど、これは外、非日常の象徴にも見える。「ギターと宇宙船」には「宇宙は素晴しい、それは夢なのだ。それが生活であってはならない。船乗りなら誰でも宇宙で生活する故に、宇宙を冒涜しているような罪悪感にかられるのだ」(161P)という記述がある。宇宙という夢の反転と屈折、革命の似姿なのか、とは思ってしまう。

「地獄八景」は死後の地獄をコミカルに描いた最後の小説で、天国への階段で昇天していく姿が描かれるのだけれど、地獄の現状とともにネット網の整備によって、「地獄はもう一つのグローバルな世界となった」わけで、もう一つの現実になった地獄から再度脱出する話だったんだろうか。天国へ昇ってゆき「おやすみやすらかに!」で閉じられる最後の小説、あまりにも最後の小説らしすぎてそこに強烈な悪意すらあるのか、ないのか、そんなアンビバレンスな気分にさせられるところもこの作者らしいのかも知れない。

60年代から2010年代まで、作者のキャリア全体をカバーするように多彩な作品が収められていて、入門篇にもなる一冊だろう。せっかく持ってるのに積んだままになっている長篇や刊行が予告されている時評集など、他の文章とあわせて読んでみたくなった。