イボ・アンドリッチ『イェレナ、いない女 他十三篇』

ユーゴスラヴィアノーベル賞作家の初期散文詩、代表作『ドリナの橋』の核となる短篇や表題の幻想小説等の短篇小説、ニェゴシュについての講演等のエッセイ、年譜や長文の解説含め、多民族の入り交じるボスニアに生まれた作家の彼岸への理想を託した橋の詩学を集成した一冊。通例イヴォ・アンドリッチと表記されることが多いけど本書ではイボ表記。
宰相の象の物語 (“東欧の想像力”)サラエボの鐘

一昨年、二〇年ぶりの作品集『宰相の象の物語』が刊行され、隔年でアンドリッチの新刊が出るというのも驚きだけど、今度は恒文社九七年刊『サラエボの鐘』の大幅増補版といえる一冊。収録短篇では「三人の少年」「アスカと狼」「イェレナ、いない女」が増補され、これらは雑誌や選集に既訳があるけれど、元々山崎訳だった「三人の少年」以外の二つは別題のものを山崎佳代子が新訳している。ほかに散文詩二篇も山崎によって新訳されており、目次以上に大きく内容が入れかわっている。エッセイも旧版で七ページだったニェゴシュ論が三〇ページ近い講演に差し替えられており、なにより五〇ページに及ぶ訳者解題が作家の人生と作品を丁寧に論じており、既訳の文献一覧もあり(「象牙の女」収録の『東欧怪談集』が漏れている)、資料面でも充実したアンドリッチ作品集として決定版と言える一冊だろう。

巻頭に置かれたエッセイ「橋」は、

人間が生きる本能に駆られて築き、建てたものの中で、私の見るところ、橋よりも優れ、価値あるものはない。

と始まり、橋のさまざまを描写したのち、「こうした橋はどれも、本質的にひとつで、同じように注目に値する。なぜなら、人が障害に出会い、障害を前に立ちどまることなく、それぞれの理解や好みや周囲の状況に応じて克服し、乗り越えた場所を示すからである」とし、「無秩序、死、あるいは無意味といったものを、克服し乗り越えなくてはならない」、「われわれの希望はすべて彼岸にある」と結語する、アンドリッチのマニフェストのような一文。障碍を越え別の物を繋ぎ、ひいては理想への道を示す橋という象徴に、アンドリッチの姿勢が窺える。

フェルディナント皇太子夫妻を射殺したガヴリロ・プリンツィプが所属していた青年ボスニア党の中心的な存在だったアンドリッチはサラエボ事件の後ポーランドから帰国し、逮捕され最終的にスロヴェニアマリボルの刑務所に収監される。詩や小説にはこの投獄体験の反映と思われる部分が散見される。

最初に置かれた短篇「アリヤ・ジェルゼレズの旅」は、英雄叙事詩の主人公を近代小説的世界に置き直すかたちで書かれた小説で、ビシェグラード、サラエボなどを舞台としながら、女性を求めて三度拒絶される様子を描いており、美、理想への望みを仮託した表題作「イェレナ、いない女」とも共通する構図を持っている。

サラエボを通りすがった姉妹が、蛇に噛まれた少女を見つけ、対処しようもなく薬もない貧しい状況に心を痛める姉とその姉が泣き止むことだけを考える妹、という社会性にまつわる話になっている「蛇」、解説によると、イスラム教徒のムスリム人、正教徒のセルビア人、カトリッククロアチア人の家族を描く「三人の少年」では、それぞれの文化の家族のなかで、ここを逃げ出したいと思う少年の姿も描かれている。旧版では「サラエボの鐘」と題されていた「一九二〇年の手紙」では、ボスニアの「憎悪」が語られる。ボスニア・ヘルツェゴビナでは他の国にも増して「無意識の憎悪に駆られて、人が互いに殺したり殺されたりする」と語られ、

然り、ボスニアは憎悪の地です。それがボスニアです。
中略
対照的に、これほどの強い信頼、気高い強固な人格、これほどの優しさと激しい愛、これほどの深遠な感情、献身、不動の忠誠、これほどの正義への渇望が見られる土地は少ないともいえます。98P

とも語られる、ボスニアの相矛盾する様相を描いて緊張感がある一作だ。

『ドリナの橋』の核という「ジェパの橋」では、橋を建てたあと、宰相を賛美する詩文を橋に刻みたいという請願に対し、宰相が結局全て削って「名前も標識もない橋」が残るという「沈黙」のテーマが見られ、これは散文詩エクス・ポント(黒海より)」の同様の表現と繋がるものでもある。

寓話的な形で作者の芸術への姿勢を示したものでは、「アスカと狼」が印象的だ。旧訳では「子羊アスカの死の舞踏」とも題されていた短篇だけれど、擬人化された子羊が、狼と出会った時に舞踏を舞って気を引くことで死の危険から生を繋ぐという話で、バレエに「芸術と抵抗の意思」を込める一作。

長い年月の後、今日も、彼女のバレエの名作は演じられ、そこでは芸術と抵抗の意思が、あらゆる悪に、そして死そのものにさえ、うちかつのです。141P


投獄時代に書かれた部分を持つ散文詩二篇は投獄、挫折の苦悩と外への夢を綴ってもいて、沈黙、神、貧困、さまざまなテーマが織り込まれている。

いや、私は記憶してほしくない。礎に黙する意思のように、無名で無言であればよい。足跡も名も残さずに消え失せればよい。私の暗い人生が――罪と苦悩が――おまえたちの白い道にけっして影を落とさなければよい。186P


すべての思想の最後の表現、すべての努力のもっとも単純な形態――それは沈黙だ。196P


今の時代、人間の行動を引き起こす主要な、しばしば唯一の動機は恐怖だと、私は見た。パニックの、不合理な、しばしばまったく理由のない、しかし真実の、深い恐怖。205P


 限りない善を夢みる。それをだれかに注ぎ、だれかに注いでもらいたい。それを夢みるのだが、私は独りだ。
 私の中で、ひとつの詩句が揺れる。贈り物とそのお返しのように、だれの目にも触れず花ひらき、咲きほこり、枯れ落ちる花の幻のように。私は座ってペンをインクにつける――と、おや、こんな本が机の上にある。ふうん。まったく、なにをしようとしていたのか。そう、詩だ。ああ、どんな詩だ。頭が痛い。私はペンを投げ出し、散歩に出る。
 それでも、やはり、文章をいくつか残せたらと思う。精神の不安や、色褪せることなき夏の午後や、人生の曲がりくねった道の、このわずかな悲しみと美しさを長く長く保つような、そんな文章を。214P

帯にも引かれている「エクス・ポント(黒海より)」の結語はこうある。

 生きている、という事実そのものが、私に安らかな喜びを与える。
 私は人びとに、彼らの仕事に、大きな愛を感ずる。幸福と不幸に、罪と情熱とそこから来るすべての惨めさに、闘いと挫折に、謬見と苦悩と犠牲に、この惑星の上の人間にかかわるすべてに、大きな愛を感ずる。
 人間の喜びの涸れることなき泉から、私もまた一滴の滴を飲み、人類が担う巨大な十字架の一部を、私もまたしばし担うという一時の、だが計り知れぬ幸せを、感じる。


 目にするものはすべて詩であり、手に触れるものはすべて痛みである。255P

幻想の女性を追い求める表題作*1には理想、希望を追い求める姿が込められ、収監中に書かれた散文詩には投獄体験の挫折と苦悩についての文章が綴られ、同時に社会的不公正についての抵抗の意思もまた書き込まれており、社会的不公正を、現実を見つめ、しかし彼岸への理想を手放さない姿勢がある。「ボスニアは憎悪の地です」と小説に書き込み、それでも民族共存の理想を橋という象徴に込めるのがアンドリッチの芸術ということだろう。


高くて買えない書店に並ぶ本の書名などからどんな内容なのかを妄想していた少年時代を回想するエッセイや、モンテネグロの統治者にしてセルビア正教会の司教、そして詩人だったニェゴシュを論じた「コソボ史観の悲劇の主人公ニェゴシュ」も興味深い。

それはたんに二つの信仰、国民、人種の争いではない。東洋と西洋という二大原理の衝突なのだ。闘いは主にわれわれの領土で演じられ、その血ぬられた壁によって民族的統一体を二分し分裂させる。それがわれわれの運命だった。その二大原理の闘いにわれわれはみな翻弄され投げ出され、どちらの側にあろうと、それぞれの側で、同じ意義と、同じ勇気と、それぞれの正義への同じ確信とを持って闘った。309P

しかし、これを読む限りニェゴシュはモンテネグロの人でモンテネグロ文学としか思えないけれど、ルリユール叢書ではセルビア文学と分類されていて、これはどういうことなんだろう。

多民族環境を織り込んだ歴史と土地を描いてて静かな緊張感と重厚な雰囲気があり、作者の姿勢に信頼感があるのがノーベル賞作家らしいところか。民族自認としてはセルビア人なんだろうけれども、来歴からも作品からも、アンドリッチはユーゴスラヴィアの作家と呼びたいところだ。
このブログでのアンドリッチの記事は他にこれも。
closetothewall.hatenablog.com
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ルリユール叢書ではニェゴシュの大冊も同時に刊行されたけどさすがに手が出ないな。

手持ちの関連文献。アンドリッチに触れた文章が入ったものはもっと他にもあるけどとりあえず。

「三人の少年」は、「現代思想」1997年12月臨時増刊「総特集ユーゴスラヴィア解体」に山崎佳代子訳で掲載されていたもの。ドイツ語からの重訳だった「子羊アスカの死の舞踏」は『世界動物文学全集3』に収録されていた。解説では藤原英司が、学校へ行ってるなどの擬人化をしたかと思えば動物的な行動を強調し、擬人化したかと思えば別に人間を登場させるという擬人化手法のモザイク的な混乱を、これは新しい手法ではないか、と書いているところが面白かった。

本書に入ってない短篇として、最近新装版が出た『東欧怪談集』に「象牙の女」が、『世界短編名作選 東欧編』には短篇「窓」が収録されている。「窓」は少年を主人公に、近所の嫌われ者の老婆の家の窓を割ろうと言い出した友人を制止したら、自宅の玄関の窓を割られ、父に理不尽な鞭打ちを食らう、という話で、差別と暴力の奇妙な因果というか、結句にある「意味もない悪と、不可解で混乱した責任」の理不尽さ、がある。別訳はノーカウントとするとこれで短篇は全部手元にあるな、と思ったら『ノーベル賞文学全集13巻』に受賞講演の翻訳があることを知った。

東欧怪談集 (河出文庫)

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*1:「イェレナ、いない女」は田中一生訳では「イェレーナ、陽炎の女」と題されていた。解説ではイェレナがHelena、ギリシャ語で陽光を意味する言葉を語源とした名前とあり、なるほど田中訳はこれを勘案して陽炎と意訳したんだろう。題としては「陽炎の女」のほうが据わりがよく印象的だと思うけど、訳としては山崎訳が元の意味に近いということか。