朴裕河 - 引揚げ文学論序説

引揚げ文学論序説 - 株式会社 人文書院
人文書院のサイトには各種書評へのリンクがある。
2008年以来朴裕河が発表してきた引揚げ文学に関する論文や講演を一冊にまとめたもの。著者の言に従うなら「引揚げ文学」についての始めてまとめられた書籍になるだろうか。

著者は十人に一人が引揚者だったという体験の膨大さに比べてその記憶はあまりにも忘れられていることを指摘する。引揚げが日本において「国民の物語」、「公的記憶」にはならなかった理由を、植民者たちという「加害者」のものだったこと、また引揚者は戦後帰還した内地において、差別、蔑視されたことなどがあるとしている。そして引揚げが文学事典の類いに記載がないことを指摘する。

しかしながら、「帝国」と「帝国後」をとらえる引揚げ文学の存在は、「内地」中心の文学観をアジアに広げる視点になりうるのではないかと著者は言う。引揚げ文学の研究は「「内地」中心主義と混血文化の切断と「定住者」中心主義の上に築かれた、「日本近代文学」と「日本現代文学」の組み替えさえ迫るかもしれない」という。そうして戦後国内における「異邦人性」を持ち続けた存在としての引揚作家たちが本作で論じられる対象となる。

著者の引揚げ文学の総論部分は、原型が立命館大学のサイトに公開されているので、まずはそこから読んでみるのがいいだろう。
「引揚げ文学」に耳を傾ける - 立命館大学

本書には漱石『明暗』に出てくる小林が朝鮮行きになっていることについての講演や、小林勝の諸作、湯浅克衛「移民」についての論考などがあるけれども、とりわけ丁寧に論じられていて、本書の核となっているのは後藤明生論だろう。

著者は、「植民地や占領地以外には「故郷」がないと感じていたひとたち」、つまり典型として「敗戦当時の少年少女たちこそが、「引揚げ文学」の主役なのである」(15-16頁)と言う。この場合、漱石はもちろん、植民地で育ちながらも引揚げを経験していない湯浅よりも、敗戦まで内地体験のほとんどない後藤明生が「引揚げ文学」の恰好のモデルケースになる。

その後藤明生『夢かたり』(76年刊)についての二つの論考は、子供の目から見た植民地の光景における、植民者と被植民者の関係を丁寧に取り出した「内破する植民地主義」と、植民地で育った者の戦後の身体感覚について論じた「植民地的身体の戦後の日々」。二つ合わせて朝鮮にまつわる過去と現在から照射したかたちだ。

いずれも、作品の語りのなかから、植民者が必ずしも優越的地位に安住できたわけはなく、その優越意識が不安にさらされていること、朝鮮と日本の境界が相互に浸食されている状況を取り出す。子供故にその禁じられた境界を越え出て行く場面や、植民地育ちの人間にとって気づかないうちに日常語に朝鮮語が入り交じっていることなど、植民地の日常においてはどうしたってお互いに影響し合う。これは当時においてもそうだし、そして数十年経った現在時においても引揚者が自分の日本語にどうも自信がない、というような状況をもたらすアイロニー、「内破する植民地主義」を指摘する。

そもそも中期後藤明生について長い論考はほぼないので、この論はそれだけでも貴重だし、引揚者後藤明生についての論としても拙稿の重要な先行研究となっている。国会図書館の関西館にしかない「日本學報」という韓国の学術誌に載っていて参照が難しかったのが一般書として刊行された点、とても意義がある。

『夢かたり』のほぼ前半について論文二本を費やして論じたことで丁寧な読み取りがされているけれども、反面、『夢かたり』論としては作品後半への踏み込みがされていない憾みがある。朝鮮在住時を主に描いたのは前半なので妥当ではあるけれど、後半は同郷ながらも語り手とは違うスタンスの人たちが出てきて、語り手の認識を相対化していくからだ。従姉や特に母の存在等、この別視点は三部作にかけてのテーマとなるわけだけれども、本書では母や従姉や同郷の友人らが語り手に対して持っている意味があまり意識されていない。

それともかかわるけれども、たとえば本書のなかで気になったのは、148Pにある「チョコマンナノーソク」のくだりだ。朝鮮人の子供のつたない日本語を日本人少年が笑いものにした場面があると述べた後で、「チョコマン」が朝鮮語だったことでそれが言葉の混交の場面だと著者は言うけれど、この場面はもっと別の意味がある。

「カミサマニ、タテマツル、チョコマンナ、ノーソクハ、アリマセンカ?」(小さいロウソクのこと)

という朝鮮人の子供の不慣れな日本語を節回しや手真似をして「大笑い」したこの場面は、語り手もまた「コウゴグシンミンを笑ったコウコクシンミン」にほかならなかったことを示しているはずだ。そしてこのことを語り手はまったく覚えておらず、何十年ぶりかに再会した田中から聞くことで知る、という過程が重要だ。自身もまた無邪気に差別構造に乗っていたわけで、その「笑った」ことが無意識にされたものだったからこそ、加害者としての意識が容易に忘却されていたことを露呈した場面だからだ。

もっといえば、「朝鮮人くさい」という父の言葉が分からない、と語られたりして、積極的には差別に荷担したことがなかったかのような叙述が続いたなかにあって、語り手もまた植民地における差別的振る舞いとは無縁ではなかったことがわかる場面だ。著者は「少年がまだ差別意識に汚染されていない」と言うけれども、これは語り手を無垢に見ようとしすぎている。小学生ころの少年が差別意識と無縁なわけがあるだろうか。植民地の差別構造をまだ内面化していない子供、という書き方をしているところもあるけれども、子供こそ無邪気にその、周囲の環境にある差別構造を体現してしまうものではないか。

著者は「内破する植民地主義」で触れたこの場面について、「植民地的身体の戦後の日々」のほうで、きちんと加害体験に気づく過程だと指摘している(176P)けれども、これがノーソクのくだりと同じ場面についての指摘だとはわかりづらい。笑いものにした加害の場面だということはきちんと指摘してはいるけれど、この場面についての著者の言及の仕方は私には少しばかり違和感がある。

それと、著者は『夢かたり』について、後藤の個人的な体験が時空間の領域を広げて「国家」や「世界」の体験となり、結果として「歴史」となることを目指している、と書いている(136頁)けれど、これは明確に違う、と思う。むしろ後藤としてはこれは歴史あるいは政治とは違う、あくまでも個人的な体験として局限して語っている。ここらへんは私の後藤論の第二部のテーマになるので、ここでは書かないけれども。

もう一点細かいところだけれど指摘したいのは、159Pの注11において、川村二郎が後藤を批判したという記述だ。「植民地に対して日本人がどういうことをしたか」を「問題的に書こうということは、一切しない」と川村が批判し、坂上弘が擁護したと著者は書いているけれども、川村は先の一文に続けて「だから、しないことによって、個々のイメージ、あるいは風景というのは、とても鮮明に出てきています」として、「その鮮明さが僕には好ましい」とむしろ好意的に評している。川村はこのアンビバレントな事態について、それでいいのか、とはいうけれども、川村と坂上は順接して話している(「文藝」76年6月号)。川村のこの発言は私も好意的なものとして引用したのですぐわかったけれど、これはややアンフェアな引用ではないか。

本書に収められたのは『夢かたり』論だけれども、当然後藤の引揚げ体験としては『挾み撃ち」やその他の諸作も重要で、特に『挾み撃ち』での土着からの疎外体験は「定住者中心主義」を批判する著者にしてみれば重要な論点になるはずだ。また後藤はずっとマンションアパート住まいの、根っからの非定住者だったことなど、著者によって書かれるべき本論はまだまだあると思われる。

私は私で初期からの後藤を引揚げの視点から通時的に検討した拙稿でカバーしたつもりなので、挾み撃ち以後を論じる第二部をそのうち発表できればな、と。そこで同郷の友人や母の存在について引揚げ三部作を通して扱ったので。

全体についていえば、『明暗』の小林がそうだったように、貧困故に移動していった人々の存在を指摘し、植民地という場所は内地の増えすぎた人口を放出するための帝国日本の棄民の場所だったと論じ、その記憶が見落とされていたことは、最初の棄民に続く〈記憶の棄民〉になっていたとする指摘は重要だろう。この二重の忘却は後藤明生の論じられかたを見るにつけ、正しいと思う。後藤の引揚げ体験は論及においてほとんど中心に捉えられることがなかった。

この忘却の問題として、本書で扱われた小林勝や湯浅克衛は、短篇がアンソロジーで読めるくらいで、著書が現行きわめて入手困難なのは一例だろうか。

渡邊一民や磯貝治良などによる、日本文学のなかの朝鮮を探る試みなどはあったけれども、それとはまた違い、植民地から本国へ移動した引揚者による引揚げ文学という視点はまだこれからだろう。その意味で小著ながらも重要な一冊。

また、著者は「日本學報」2012年11月号に、「「引揚げ」と戦後日本の定住者主義」という論文を発表している。文学論ではないので本書未収だけれど、今めくってみたところ、本書のなかで見た文章が散見されるので関連のある部分を引っ張ってちりばめてあるようだ。

なお一点、「植民地的身体の戦後の日々」の註16、「植田康夫の書評クリニック」の出典は、「諸君」1979年3月ではなく、79年7月。

そういえば本書でも引かれる成田龍一の論考は「引揚げ」と「抑留」を論じたものだけれど、抑留文学、というカテゴリはあるのか。抑留者の文学、というと石原吉郎が浮かぶけれど(拙稿と同じ季刊「未来」に現在郷原宏の石原論が連載されている)、石原は帰還したとき、両親を亡くしていたため親族の元にむかったら、まず「赤」でないことをはっきりさせ、「赤」ならばつきあえないこと、精神的な親にはなれても、物質的な親にはなれないこと、祖先供養をしなければならないことを最初に言われたという話があり、引揚者のそれにくわえ政治的な排除も受けていた。石原論のように、個々の作家の抑留体験を見るものはあるとして、抑留者の文学を横断的に見たような研究はありそうだけれど。
シベリア抑留者たちの戦後 - 株式会社 人文書院
これはちょっと違うか。

渡邊利道/J・G・バラード『ハイ・ライズ』(村上博基 訳)解説(全文)[2016年7月]|Science Fiction|Webミステリーズ!
また、この植民地上海出身のJ・G・バラードの解説で渡邊利道が書いている、朝鮮出身の後藤と満洲出身の安部公房、そしてヌーヴォーロマンの作家が植民地出身だったりすることを指して、「みな戦争や植民地での体験によって古典的な人間性に強い懐疑を抱き、十九世紀風のオーソドックスな小説技法に積極的に揺さぶりをかけ続けた作家たち」だとする指摘は興味深い。

しかし、本書を読んでも、著者がなぜ慰安婦問題で大きな事件を抱え込んだのか、ややわかりづらいところがある。右派的な植民地主義の肯定者ではないし、ジェンダー問題についても踏み込んで論じており、問題意識もある。ただ、この記事を書きながらぽつぽつ読み返してみるとき、日本人と朝鮮人のあいだの境界がくずれ、言葉が混交し、またお互いに助け合った人たち、あるいは日朝の子供同士のほほえましい場面、といった支配関係を越え出る瞬間に着目する方向性は、行きすぎれば注意を要する議論ではある。当該書籍は読んでいないので触れるべきではないかも知れない。とりあえずのメモとして。

笙野頼子 - さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神

群像 2017年 04 月号 [雑誌]

群像 2017年 04 月号 [雑誌]

身辺理層夢経のシリーズとして書き継がれている今回は、タイトルそのものに強烈な主張を盛り込んだ笙野頼子の現在地点。

「さあ、今こそ文学で戦争を止めよう、この、売国内閣の下の植民地化を止めよう。10P

私小説にもかかわらず、若宮ににという荒神と笙野自身の語りという二重化した形で自身を語る実験的私小説ぶりはあいかわらずで、猫と暮らした幸福を小説というフィクションのなかで保存する方法などもいつも通りだけれど、ここで主題になるのはタイトル通りキッチンのこと、食卓のことだ。食卓と生活が政治と直結する回路を通して、経済と暴力による収奪から生活を守ろうとする意思に貫かれた作品。

膠原病の症状として突然死ぬことがあるという不安を抱きながら、つねにこれが「絶筆」となりうるかも知れないという危機意識のなかで書かれ、易疲労の体を押してデモに参加したり、『ひょうすべの国』という作品においても政治への危機を語り続けてきた。

文学に何が出来るのかだって、お前ら、原発とTPPの報道が「出来て」から言えよ、小説が「届かない」のはてめえらが隠蔽したからだろ。こっちは十年前から着々とやっていたよ。悔しかったらむしろ、お前らが文学に届いてみろ、小説を買いも覗きもしないで読む能力なくて、それで「文学に何が出来るんだ」じゃねえわい、ばーかばーかばーか。57P

TPPへの危機意識は薬価上昇が難病患者の語り手と猫の生活を直撃することで、生に直接関係するからだ。生そのものが国際政治そのものと直接関係する視座が近年の笙野作品の基盤となっている。

そして笙野の作品にはつねに自己とそれを批判的に捉える、後藤的に言えば楕円の目があり、語りの二重化のほかに、自己が基盤としてきたものの崩壊を繰り返し味わい、そしてそれを受けてなおも足場の再構築を繰り返してきた。

それは前半では政治の変動のなかで、TPPがトランプ当選によって流れるとか、過去作で未来史として据えていたはずのディストピアが五十年早く現実化してしまうことなどのほか、自分の体質が難病の膠原病だったことがわかるとか、家族関係での自己史の根本が覆るとか、そして今作では自分が野良猫を助けたのではない、自分は猫に助けられたのだ、と猫語の「翻訳」を書き換える場面がある。

それは、冬の公園でずーっと鳴いて呼ぶ猫、死にかけていると思ったらそうでもなかった白鯖。で? 必死の呼びかけに渾身のお願い、そこに打たれて私は連れ帰った。暴力猫だった、……
 しかしこれ。この冒頭から全部、嘘だった。逆だった。むしろドーラは私を助けようとして公園にかけつけ、私を捜し出してくれて生きさせてくれたのだった。72P

猫は語り手(=笙野と呼ばれていて、「沢野千本」といった虚構化がされていない)にとって生きる理由そのものともなり、これまさしく正しい意味で「信仰」の書だ。国家神道から神を切り離し、暴力と収奪の宗教を拒否しながら自分なりの「信仰」を手ずからくみ上げる笙野独自の信仰の姿がここにある。


今作の核は食べることにあって、「蓄えよ、冷凍せよ、そして資本主義から逃走せよ、男の命令からも」41Pとか、「ご飯という神様」42Pなんていう印象的なフレーズがありつつ、「人との食卓が辛い」という語り手の暗い過去が後半の主題となる。

「私の母は料理が上手すぎたし、食べ物についても知りすぎていた。それが不幸だった。料理で身を滅ぼした」「男尊女卑とかを脱構築するための下手な、破れた、満足な、楽しい料理を私はずっとやっていたい」「私のお節はけしてお節とは呼べない代物であったが故に、まともに作っていないが故に幸福を呼んだ」(83P)

この母の不幸と語り手の食卓の幸福が何に由来しているのかがわかるのが後半で、語り手の幼少期の食卓の様子はほとんど父から母へのDVと、両親から語り手への児童虐待が延々続くような感じで圧巻と言うしかない。家族から笑われ、怒られ、そのため、病院で症状を説明するとき「痛い」という言葉を「習う」までわからなかった、という下りが衝撃的だ。つまり、家庭での扱いによって、自分が何か被害を受けているという主張を持つ「痛い」という言葉が禁じられていたような状態だったわけだ。それが今でも確実に尾を引いている。

「ご飯のとき家にお父さんがいると自分の家じゃないみたい」136P

母や父からの扱いを微細に描き出していて、虐待家庭のドキュメントを読むようなつらさが充満する後半だけれど、語り手は憑きもの落としのように語りながらしかしこうも書いている。

うちの親は悪くない。悪いのは戦争と、一番最初養子話の時に出た「○○家」という家格差、家差別だけだから。123P

と、両親への憎しみを語ることはしていないのが非常に印象的。56年生まれの笙野の両親となると戦中生まれで、

母は殴られて、教練をされて、「男になった」のだ、勤労奉仕で徹夜させられて覚醒剤を配られ、鉄砲の弾の「おしゃかばっかり作って隠しに行った」って。一番誇らしげに言う記憶は、被暴力の事だった。123

両親の結婚の過程に家差別があり、その怨恨が母から子への小言となっていたこととか、母が戦後初の国立大学の女子学生のうちの一人だったとかで、新聞のインタビューを受けるぐらいの人物だったのが、高学歴ということで攻撃されたり、大企業に就職して差別されたりといった挫折を体験したことなど、さんざん酷い仕打ちを受けた母の生涯に対しても寄りそって語っている。「農学部農芸化学科」出身とかで食物への理系的知識が豊富で、ネットのない田舎で未知の食材を調理したり、あるいは近所の人を集めて料理教室を開いたり、そうした、

母の「業績」を覚えているのはもう私だけだ。台所であったことは誰も知らない。それは個人の個人による個人のための「発明」にすぎないから。129P

妻とも呼んだ猫ドーラの生をフィクションのなかで保存する語りのなかで、歴史には残らないような女の歴史を語り、母への追悼と慰霊として書かれているのが本作だろう。そしてその女の歴史の舞台となったキッチン、食卓が政治的抵抗に繋がる回路を描いている。

なかなか奇遇なのは同号に土井善晴のエッセイがあり、

しかし、稼ぎ手として、また、子育てをしながらでも、今だに、家事に取り組み、プレッシャーを感じて、見えない要求に苦しんでいる人が、ほんとうに多くいるのです。だから、そんなご馳走は、毎日は不要であること、簡単な料理しか作れなくても、負い目を感じる必要はないことを、最小限のそれでいいと本人にも、家族にも知らせたくて著したのが、『一汁一菜でよいという提案』(グラフィック社)です。177P

と書いていることだ。

「群像」は笙野さんから恵贈頂きました。ありがとうございます。
来月書籍化。

その他情報リンクはこちらから。
群像2017年4月号に笙野頼子新作長編小説「さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神」

北海道新聞に笠井清論を書きました。

Twitterで告知したまま忘れてましたけれど、さる3/28の北海道新聞夕刊で、連載企画「現代北海道文学論」の一環として私が担当した笠井清論が掲載されました。

北海道、札幌のプロレタリア文学運動の重要人物で、90年に亡くなるまで活動を続けた詩人です。
連載・特集:どうしん電子版(北海道新聞)
こちらにてウェブ公開されていますのでご参照を。

札幌プロ文学運動覚え書 (1976年)

札幌プロ文学運動覚え書 (1976年)


言及した木村友祐「幸福な水夫」はすばる2010年2月号掲載の作品。強引な父のわがままからある温泉宿を目指して、車いすの父と語り手とその兄とが下北半島を北へ上っていく道中を描いた小説。下北の地理と、嫌っていた父の歴史が絡んで、地方からの怒りを放つ、とても爽やかな家族小説でもある。父がとても問題のある人物で、わがまま、暴虐で。でも、人にはいろんな歴史があり、事情がある。かといってその暴虐さが許されたわけでも克服されるわけでもなくて、ここらへんのバランスがいい。書き手とダブる語り手の自己批判もそのバランスを支えている。こちらもお勧め。

すばる 2010年 02月号 [雑誌]

すばる 2010年 02月号 [雑誌]

内向の世代の「内向」についてのメモ

先日Twitter内向の世代について「小田切秀雄が言った「内向」とは政治参加の対義語としてのそれなので、雑誌社や団地の人間関係について書いていた後藤は、その意味で「内向」とされるわけです」などと書いたんだけれど、去年ぐらいに私信として内向の世代について書いたことがあったのを思い出したので、もうちょっと丁寧に文脈を把握できるように、文献情報を追加してここに載せておきます。以下は内向の世代初出だと思われる記事。クリックした先でオリジナルサイズを表示で読めるはず。

*1

                                                                                                                • -

いちおう、内向の世代というと、昭和一桁あたりに生まれて、1960年代後半ごろに出てきた人たち、というのが大枠になるかと思います。小田切秀雄の列挙したのは「古井由吉後藤明生黒井千次阿部昭、柏原兵三、小川国夫その他、批評家では川村二郎、秋山駿、入江隆則饗庭孝男、森川達也、柄谷行人その他」*2です。で、川西政明は雑誌「文藝」の事情として、高橋和巳三島由紀夫の死によって、文藝の四本柱のうち二本が欠け(残りは吉本隆明埴谷雄高)ることを危惧した編集長が誌面の刷新を行うに当って、阿部昭黒井千次後藤明生坂上弘古井由吉で70年に行われた座談会のメンバーを中心にした、と書いています*3。じっさい、内向の世代のこの時期の作品はけっこう河出書房新社から出てます(後藤は文藝にはあまり書いてないのに河出からよく出ている)し、新鋭作家叢書も内向の世代が多い。

座談会は秋山駿を加えたのも含めて四回行われていて、おおよそこのメンツが内向の世代の代表的作家と言って良いと思います。黒井千次自身も、文芸文庫の内向の世代アンソロジーでこの座談に言及していて、帯にも伝説の座談、と書かれています。76年7月の早稲田文学では、このメンツプラス高井有一内向の世代を振り返る座談会をやっているのが面白いです。雑誌「文体」の編集委員古井由吉後藤明生坂上弘高井有一ですから。

文藝の最初の座談会は、70年3月、内向の世代という言葉が出る(71年)前で、ここで集められた人達は、第三の新人のあと、石原、開高、大江といった文学的主張があった人達に比べて、それがあまりない、という紹介から始まっていて、後藤は社会的契機と個的な契機のつながりが曖昧に見える、というのが私たちの特徴ではないか、ということを言ってるんですね。それで、最近やめた後藤以外はみな勤め人だという話もされていて、自分たちの文学世代としてのあり方、が議題になっています。「現代作家の条件」というのが座談のタイトルです。新進の作家のそうした傾向がこの時点ですでに編集にも作家側にも共有されていたわけで、小田切はこれにキャッチーなフレーズをあてはめた面があります。

内向の世代というのを言い出した小田切秀雄の主張は、脱イデオロギーの「デガージュマンの内向の文学」*4、というもので、満州事変から四〇年という年に、満州事変以来転向と脱イデオロギーが進んだことを重ね合わせて問題としています。まあつまりはそうした情勢が戦前を思わせる、ということですね。

で、これはそもそも川村二郎の「内部の季節の豊穣」*5という評論への批判でもあったわけですけれど、川村自身は自分はその年における作品の傾向としてそれをいったわけで、小田切はそれを新進の文学世代にすり替えている、ということを言っていて、世代の問題ではないと指摘したりしています*6

田切にとって、小田実高橋和巳といった世代の次に来たのが、古井由吉後藤明生といった作家だったのは非常に不満だったようですけれど、結局のところこれって社会的批判のなさ、あるいは政治的立場のあいまいさへのいらだちにみえるわけです。小田切の「文学的立場」という雑誌に西田勝「古井由吉後藤明生」という評論*7が載っていて、これはまあ当時の二者の作品を並べてそこに外向性がない、として批判する、みたいな評論なんですけれど、そういう政治的立場からくるものすごくイデオロギー的な裁断が、内向、という言い方にあります。同じ号で小田切は、内向の世代を批判して李恢成を評価する文章を載せてるのがわかりやすい。しかし、後藤明生は卒論のゴーゴリ論からずっと、そうした政治的見方を拒否してきた人なわけです。

77年に小田切古井由吉「女たちの家」を批判しつつ、黒井千次の「五月巡歴」という、メーデーに参加した主人公が一緒に参加していた友人の裁判に証人として出る、という導入をもつ作品を高く評価して、内向の世代の枠を破り出た、といって内向の世代終結」を宣言するんです*8。小田切黒井千次のその手の作品を評価するのはすごくわかりやすいわけで、その文章の最後に、「内向の世代終結と、村上龍外岡秀俊中上健次らによって異質の新たな文学動向」が始まっている、と言うわけです。

                                                                                                                • -

という私信からの抜粋。つまり内向の世代の内向とは性格的傾向のそれではなく、社会性、政治性についてのイデオロギーの問題として小田切秀雄によって命名されたことが始まりになっていることは忘れてはならない、ということです。そうでなければ、文学者なんてみな内向的だろう、といった全然別の議論が空転するだけになるので、まずはここらへんの基礎的文献において、内向と言う言葉のコンテクストを把握する必要がある、ということでした。川村二郎と小田切秀雄のズレも重要ですね。

内向の世代に誰を入れるか、ということには幅があって、これというものが言いづらいですけれども、たとえば小田切の列挙したメンツを基準にするとか、文藝の座談会を基準にするとか、まあいろいろあるかと。「国文学 解釈と鑑賞」2006年6月の内向の世代特集には内向の世代といいつつ、大庭みな子、高橋たか子はまだいいとして、金井美恵子まで入ってたりします。

文藝の座談会についてはこちらの『アミダクジ式ゴトウメイセイ【座談篇】』に収録されます。
つかだま書房 | 新刊予定

とはいっても私も後藤を追うばかりで内向の世代という括りでは全然追えていないので、いろいろと不備も多いかと思います。メモとして参考になれば。

*1:小田切秀雄満州事変から40年の文学の問題(上) "まだ"と"もう"と」東京新聞71.3.23夕刊

*2:小田切秀雄現代文学の争点(上)"内向の世代"形成をめぐって」、東京新聞71.5.6夕刊

*3:『昭和文学史 下巻』、『新日本文壇史 10巻』。この二つは微妙に違いがあるもののほぼ同じ文章

*4:前掲小田切秀雄現代文学の争点」

*5:「文藝」70.12

*6:川村二郎「二つの-mentの谷間で―「内向の世代」解嘲」、「文藝」76.8

*7:季刊「文学的立場」六号、72.1

*8:「文学的な波頭での経験―"内向の世代"終結と「五月巡歴」等」、「すばる」77.6

映画『kapiwとapappo 〜アイヌの姉妹の物語〜」上映とトークイベントに行ってきた

2017年4月1日〜30日『kapiw(カピウ)とapappo(アパッポ) アイヌの姉妹の物語』 | CINEMA Chupki TABATA
昨日、田端のCINEMA Chupki TABATAで行われた、映画上映および佐藤隆之監督と写真家の北川大氏のトークイベントに行ってきました。

映画は、佐藤隆之監督によるドキュメンタリー。床絵美――カピウ(カモメ)と郷右近富貴子――アパッポ(花・福寿草)というアイヌの二人の姉妹の生活を追いつつ、はじめてのデュオライブを行うまでの毎日や企画へのスタンスをめぐってのすれ違いを描きつつ、当日のライブをたっぷりと映したもの。トークイベントは、佐藤監督と『アイヌが生きる河』の著者北川氏によるもので、これがスリリングな興味深いものだった。

アイヌの普通の生活

まずこの映画、カピウとアパッポの物語は、前述したように姉妹のライブに至るまでを描いたもので、撮影者はその生活に黒子のように影に徹して撮影しており、その存在が消えているかのような印象すらある。私は当初映画でインタビューされている海沼武史という絵美さんの音楽プロデューサーで映像作家でもあると紹介された人が今作の監督なのかと勘違いしていた。インタビュー映像が挿入される場面もあるけれど、監督は徹底して介入しない、という立場を守っている。

そうして映し出されるのは、アイヌにかかわる仕事をしつつも、ごく普通に子供の世話もし生活している普通の人としての二人だ。劇中で海沼氏は、和人の侵略によってアイヌ語を話さなくなったことでアイヌは消えた、アイヌアイヌの歌を歌っているときにしかいない、という極端なロマン的芸術観でアイヌを捉えようとしているけれども、映画は全体として、普通の生活者としての二人とその生活のなかにアイヌがあるということを描いているようにも見える。

当然最後に待ち受けるクライマックスとしての二人のデュオライブはとても良くて、土着的な歌唱とリフレインには暖かみとともに呪術的な眩惑感がある。これについては実際に聴いた方がいいだろう。

さて、映画はアイヌ文化というものをこれこれこういうものだ、という解説をしない。歴史や文脈を説明しないし、あるいは政治的な現況について語ったりはしていない。これは非常にわかりづらさも生んでいる気はするけれども、そうした日本のなかでアイヌとして生きているということの日常、がそのまま提示されているともいえる。アイヌということが否定論にも晒されていたり、多くの人はアイヌの生活にどこかファンタジーを抱いているという現在において、そのままある、ということが見られることには想像以上に価値があると思う。

「透明」さの問題

そして、その介入しない立場についての問題を指摘したのが上映後のトークイベントでの北川氏だ。

北川氏は『アイヌが生きる河』の執筆過程において自分が直面した危機について語った。それは、二風谷に取材したこの写真つきの著書をまとめるさいに、アイヌと自分の関わりを少年時代に遡って思い出していたとき、アイヌの友人を揶揄する言葉としてアイヌという言葉が最初自分に入って来たと。そのアイヌの友人が揶揄されいじめられていた経験が、今二風谷でアイヌと暮らすきっかけにもなったけれども、よくよく思い出してみると、その友人をアイヌと揶揄する先頭に立っていたのは他ならぬ自分だったことを思い出したという。

アイヌが生きる河

アイヌが生きる河

この自己欺瞞に直面した体験の話は非常に興味深く、アイヌ問題とは和人問題に他ならないというテーゼの実例でもある。だから、北川氏は海沼氏のアイヌ観についてきわめて鋭く問題化する。海沼氏はアイヌにかかわる和人によくいる支配欲で動く典型ではないか、と。北川氏は、海沼氏のアイヌはもういないという発言の場面について、私ならそこで三十分は時間を掛けて掘り下げる、とも言う。確かに、海沼氏の物言いはプロデューサーとはいえ何かやたらと上から目線、というかパターナルなところが目についていて、それは私も気になっていた。アイヌはもういない、と言いつつアイヌの絵美さんに対応する海沼氏の態度は、あえて言えばモラルハラスメント的なそれだ。

映画において、後に車両誘導の仕事をしつつ、原発事故で逃げたヤツはもう戻ってくるな、殺すぞコノヤローという場面を入れているあたり、監督も海沼氏をヒールとして作中に置いているのではないかと思うけれども、否定論じみた持論を註釈なくそのまま映してしまうことの暴力性の問題は残る。

北川氏は映画について、撮影者、監督を消す「透明な文体」だと評したけれど、それはそのまま、否定論に場所を与えることになってしまう。

これはトークイベントで出た話だと思うけれども、阿寒湖のアイヌコタンは、二風谷と違ってもともとそこにコタンがあったわけではなく、ある種観光のための人工コタンだという。だとすればそこで民芸喫茶を営んだり船上でムックリを吹いて見せたりして観光客相手に仕事をしている富貴子さんが、デュオライブについての諍いで、私が出たいと言ったわけではなく、そういうことに決まっているからやるんであって、それは仕事だからだ、といった時の「仕事」ということにはかなり複雑な意味があるように思う。

この映画には普通に見ただけではわからない、そういう重層的な歴史性、社会性が裏にあって、それはアイヌという存在の現在と密接に繋がっている。それらをあえて切り捨て、ファンタジーとしてのアイヌ観を海沼氏に代表させて向こうに置きつつ、現実の景色と生活のなかのアイヌという存在を映したのがこの映画だろうと思う。

北海道の美しい風景、子供の声が騒ぎ立てる雑然とした生活、そして先祖から伝わるアイヌの歌、それらを受けとめつつ、そのまわりにあるアイヌをめぐる状況についての注視が求められる作品でもあるわけだ。

おそらくこの映画には、膨大な註釈が必要でもあって、だからトークイベントで批判的な見地から北川氏がさまざまに語ったのはとても良かったと思う。

というわけで、映画も面白かったけれども、それを問い直すトークイベントがあることで、より映画を立体的に捉えることができる面白いイベントでした。

ただ、イベントの時間が遅くて、七時から上映、トークイベント終了が十時前なのでそれがちょっとアレ。帰宅に二時間近く掛かってしまうので。

季刊「未来」の後藤明生論第三回「ガリバーの「格闘」」についての補記


連載第三回の掲載された季刊「未来」2017春号が出ました。
「何?」から始まり、「一通の長い母親の手紙」「書かれない報告」「隣人」「疑問符で終る話」と、70年連作を一通り論じています。他に「ああ胸が痛い」も言及。この紙幅なのでさすがに一作ごとの文章量が当てられないのが心残りではあります。

Twitterでも写真に撮った冒頭の引用部分、画像だと見づらいですけれど、ここは初期短篇のなかでも特に引揚者の陰惨さが出たところで、非常に印象的なところです。

いくらか自分なりにこれまではほとんど引用されていないな、という箇所があってそれは以下のような、「百姓」への憎悪の部分です。

土地、土地、土地! まったくご先祖様はありがたいものだ! 実さいご先祖様がハダシでこやしをまいた田圃から彼らは札束を穫り入れたようなものだった。

さらに、「近郷の百姓どもは、有史以来空前の土地ブームというもののために、頭がおかしくなっているのだ」、「みんな気が狂ってしまっているのだ」という、相当アレな部分。ここ、凄いでしょう。中傷を振りまいていて、一見ぎょっとするところですけれど、これこそが土着と漂着の断絶を示すポイントだと思います。

次回からはいよいよ『挾み撃ち』論に入ります。かなり新視点があると自分では思っているんですけれど、どう受け取られるものか。

以下出典注補足

●26頁

男の父親が、縁もゆかりもない見知らぬ北朝鮮の山の中の、朝鮮人部落の狭いオンドルの一室で、何日間かにわたって黒い血を鼻と口から吐き続けたあと息を引き取ると、着ていた厚い陸軍将校用の毛シャツとズボン下の間から、ぞろぞろとシラミが這い出してきた。祖母はそれを一匹ずつつまみ取って口へ入れながら、もう半年早かったらなあ、立派なお葬式だったのになあ、と口の中のシラミをかみつぶすように繰り返し繰り返しいった。三十年以上も朝鮮で暮したのに、選りも選ってなあ、こんな誰も知らんとこで、誰も知らんとこでなあ。あんたも朝鮮の土、おじいちゃんもみいんな朝鮮の土になってしもた、あたしもあんたと同じ朝鮮の土になってしまお。ぶつぶついいながら、男の父親が死んでちょうど一週間後に祖母は死んだ。

『何?』新潮社、一九七〇年、四八頁。

なにしろそこには、朝鮮の土となったところの父親と祖母が土葬された山に生えたツツジを食べたと書かれているからだ。そのツツジ入りの米の粉団子で男たちは飢えをしのいだのだった。つまり男は朝鮮の土を食べたわけだ。

前掲『何?』、四九頁。

●27頁

男が出会ったのは日本で初めての蛇だった。日本へ帰国した男が二十五年目に初めて一対一で向い合った日本の蛇である。したがって男がおぼえた満足は、北朝鮮の蛇を殺した男と、現在の日本で生きている男とが、日本の蛇を殺すことによってはじめて結びついたための満足であったと考えられる。

『書かれない報告』河出書房新社、一九七一年、一〇三頁。

●29頁

はっきりしていることは、唯一つだった。住居はすでに男の一部だ。同時にもちろん、男は住居の一部でもある以上、一日たりとも男が住居を離れて自分を考えることなどできないはずだ。

前掲『書かれない報告』、六〇頁。

●30頁

土地、土地、土地! まったくご先祖様はありがたいものだ! 実さいご先祖様がハダシでこやしをまいた田圃から彼らは札束を穫り入れたようなものだった。

前掲『何?』、九二頁。

「ああ胸が痛い」で、団地で違法な路上販売をする農家の息子が、何度取り締まられてもふてぶてしく再来するさまを眺めながら、自らが売り払った土地に戻ってこずにはいられない「地霊のような亡霊」だと語る場面
『私的生活』新潮社、一九七二年、一九八頁。

「唯一つの住居であり、そこにしか男の住居はない」

前掲『書かれない報告』三〇頁。

しかしながらわたしはここで、いわゆる故郷喪失ということばを用いて何ごとかを語ろうとしているのでは、もちろんない。すでにそんな年でもないと思うし、また故郷喪失者ということばは、もはや現代においては、人間の代名詞とさえなっているといえるからだ。

前掲『書かれない報告』二〇三頁。

季刊「未来」の後藤明生論第二回「回帰する朝鮮」についての補記

連載第二回の掲載された季刊「未来」2017冬号が出たようです。
今回は前回を継いで植民地朝鮮をはじめて正面から描いた「異邦人」、「笑い地獄」そしてさしあたり70年連作と呼んでいるうちの最初の2作、「誰?」と「何?」を扱っています。


前回に続き、紙幅の関係で削った出典注等を補足しておきます。

引用出典

●30頁

「わたしは、生まれは朝鮮人ですが、今はもう立派な日本人です。ですから、お国のために喜んで息子を兵隊にやります」

「異邦人」、『関係』皆美社、一九七一年、一二八〜一二九頁。

「逃げない」と少年はこちらをにらんだまま答えた。「お前たちが帰れ!」

前掲『関係』、一三九頁。

●31頁

「〈朝鮮〉および〈朝鮮人〉とわたし自身との関係が、運命の問題としてふたたび、北朝鮮で生まれて戦後引揚げてきたわたしの現在と、いろいろなかかわりあいを持ちはじめているためである。」

前掲『関係』、二一六頁。

●34頁

「すでに男からは、彼自身であることさえ失われている。男は存在しなくなった。ゴーストライターの男はいまや、彼自身の手によって書かれた週刊誌の記事の中に、消滅する。」

『何?』新潮社、一九七〇年、七五頁。

「記憶には場所が必要です。(中略)ところがわたしには何もありません。記憶というものに必要な場所がどこにも見当らないのです。お母さん! わたしがいま住んでいる団地は、お母さんも何度か見たでしょう。わたしはこんな見も知らぬところへ流れ着いているのです。ここでは毎日毎日、記憶が失われてゆきます。それも他ならぬわたし自身の、飢えに関するものなんですからね。まさしくここは、記憶を抹殺する流刑地のような場所です。」

『何?』新潮社、一九七〇年、三〇頁。

補足など

落選作を集めた本というのは、『読売短篇小説集』文苑社、一九五九年。これは現物未確認。

注5の補足として、近代文学館の「新早稲田文学」第二号には「高見順氏寄贈 日本近代文学館 39.6.8」の印がある(昭和39=1964年)。そのほかは紅野敏郎文庫のもの。『壁の中』を読んだ人は、この高見順との奇縁に驚くのでは。

「犀」に参加。実際に誌面を見てみると、「犀」同人として名前が載るのは、一九六五年春季号(3号)から。

「笑い地獄」。「現点」におけるインタビューによると、これは「人間の病気」が芥川賞候補になったさい、受賞第一作として「文學界」の要請によって書かれ、「無名中尉の息子」と同時に提出して、採用されなかった方だとのことで、執筆時期自体は六七年中ということになる。

平凡出版を退職。「国文学 解釈と鑑賞」一九七三年、五月、一二二頁の池内輝雄の記事によれば、退職後も「現在は小説執筆のかたわら週刊誌の無署名執筆者(ゴーストライター)のようなこともしているらしい」とある。週刊誌時代も無署名記事を書いてたはずだけれど、退職後もしていたということで、『誰?』あたりの記述はかなり事実に近いのかもしれない。またこの池内記事、前年の「國文學 解釈と教材の研究」七二年六月の記事とほとんど同じ原稿だった気がするので、あとで再確認する。

「誰?」において「ゴーストライター」が消えたことと、「何?」において職安通いを続けていること、また母親等の描写は、この二作が連続している印象を与える。しかし、作品集に採られる際、この二作はつねに発表と逆順で収められている。『後藤明生コレクション2』でおそらく初めて発表順で収録されるはず。

1/6Twitterポストを追記。


「新早稲田文学」については、6号まであるのが確認できるものの、近代文学館で実見できたのは1.2.5.6のみ。また、この書影、乾口さん編の『日本近代文学との戦い』の年譜に似たものが載っていたのを見た人は多いはず。それは5号の書影。
連結したTwitterポストをブログに引用すると、勝手に繋がれた状態で表示されるみたいだ。