笙野頼子 - さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神

群像 2017年 04 月号 [雑誌]

群像 2017年 04 月号 [雑誌]

身辺理層夢経のシリーズとして書き継がれている今回は、タイトルそのものに強烈な主張を盛り込んだ笙野頼子の現在地点。

「さあ、今こそ文学で戦争を止めよう、この、売国内閣の下の植民地化を止めよう。10P

私小説にもかかわらず、若宮ににという荒神と笙野自身の語りという二重化した形で自身を語る実験的私小説ぶりはあいかわらずで、猫と暮らした幸福を小説というフィクションのなかで保存する方法などもいつも通りだけれど、ここで主題になるのはタイトル通りキッチンのこと、食卓のことだ。食卓と生活が政治と直結する回路を通して、経済と暴力による収奪から生活を守ろうとする意思に貫かれた作品。

膠原病の症状として突然死ぬことがあるという不安を抱きながら、つねにこれが「絶筆」となりうるかも知れないという危機意識のなかで書かれ、易疲労の体を押してデモに参加したり、『ひょうすべの国』という作品においても政治への危機を語り続けてきた。

文学に何が出来るのかだって、お前ら、原発とTPPの報道が「出来て」から言えよ、小説が「届かない」のはてめえらが隠蔽したからだろ。こっちは十年前から着々とやっていたよ。悔しかったらむしろ、お前らが文学に届いてみろ、小説を買いも覗きもしないで読む能力なくて、それで「文学に何が出来るんだ」じゃねえわい、ばーかばーかばーか。57P

TPPへの危機意識は薬価上昇が難病患者の語り手と猫の生活を直撃することで、生に直接関係するからだ。生そのものが国際政治そのものと直接関係する視座が近年の笙野作品の基盤となっている。

そして笙野の作品にはつねに自己とそれを批判的に捉える、後藤的に言えば楕円の目があり、語りの二重化のほかに、自己が基盤としてきたものの崩壊を繰り返し味わい、そしてそれを受けてなおも足場の再構築を繰り返してきた。

それは前半では政治の変動のなかで、TPPがトランプ当選によって流れるとか、過去作で未来史として据えていたはずのディストピアが五十年早く現実化してしまうことなどのほか、自分の体質が難病の膠原病だったことがわかるとか、家族関係での自己史の根本が覆るとか、そして今作では自分が野良猫を助けたのではない、自分は猫に助けられたのだ、と猫語の「翻訳」を書き換える場面がある。

それは、冬の公園でずーっと鳴いて呼ぶ猫、死にかけていると思ったらそうでもなかった白鯖。で? 必死の呼びかけに渾身のお願い、そこに打たれて私は連れ帰った。暴力猫だった、……
 しかしこれ。この冒頭から全部、嘘だった。逆だった。むしろドーラは私を助けようとして公園にかけつけ、私を捜し出してくれて生きさせてくれたのだった。72P

猫は語り手(=笙野と呼ばれていて、「沢野千本」といった虚構化がされていない)にとって生きる理由そのものともなり、これまさしく正しい意味で「信仰」の書だ。国家神道から神を切り離し、暴力と収奪の宗教を拒否しながら自分なりの「信仰」を手ずからくみ上げる笙野独自の信仰の姿がここにある。


今作の核は食べることにあって、「蓄えよ、冷凍せよ、そして資本主義から逃走せよ、男の命令からも」41Pとか、「ご飯という神様」42Pなんていう印象的なフレーズがありつつ、「人との食卓が辛い」という語り手の暗い過去が後半の主題となる。

「私の母は料理が上手すぎたし、食べ物についても知りすぎていた。それが不幸だった。料理で身を滅ぼした」「男尊女卑とかを脱構築するための下手な、破れた、満足な、楽しい料理を私はずっとやっていたい」「私のお節はけしてお節とは呼べない代物であったが故に、まともに作っていないが故に幸福を呼んだ」(83P)

この母の不幸と語り手の食卓の幸福が何に由来しているのかがわかるのが後半で、語り手の幼少期の食卓の様子はほとんど父から母へのDVと、両親から語り手への児童虐待が延々続くような感じで圧巻と言うしかない。家族から笑われ、怒られ、そのため、病院で症状を説明するとき「痛い」という言葉を「習う」までわからなかった、という下りが衝撃的だ。つまり、家庭での扱いによって、自分が何か被害を受けているという主張を持つ「痛い」という言葉が禁じられていたような状態だったわけだ。それが今でも確実に尾を引いている。

「ご飯のとき家にお父さんがいると自分の家じゃないみたい」136P

母や父からの扱いを微細に描き出していて、虐待家庭のドキュメントを読むようなつらさが充満する後半だけれど、語り手は憑きもの落としのように語りながらしかしこうも書いている。

うちの親は悪くない。悪いのは戦争と、一番最初養子話の時に出た「○○家」という家格差、家差別だけだから。123P

と、両親への憎しみを語ることはしていないのが非常に印象的。56年生まれの笙野の両親となると戦中生まれで、

母は殴られて、教練をされて、「男になった」のだ、勤労奉仕で徹夜させられて覚醒剤を配られ、鉄砲の弾の「おしゃかばっかり作って隠しに行った」って。一番誇らしげに言う記憶は、被暴力の事だった。123

両親の結婚の過程に家差別があり、その怨恨が母から子への小言となっていたこととか、母が戦後初の国立大学の女子学生のうちの一人だったとかで、新聞のインタビューを受けるぐらいの人物だったのが、高学歴ということで攻撃されたり、大企業に就職して差別されたりといった挫折を体験したことなど、さんざん酷い仕打ちを受けた母の生涯に対しても寄りそって語っている。「農学部農芸化学科」出身とかで食物への理系的知識が豊富で、ネットのない田舎で未知の食材を調理したり、あるいは近所の人を集めて料理教室を開いたり、そうした、

母の「業績」を覚えているのはもう私だけだ。台所であったことは誰も知らない。それは個人の個人による個人のための「発明」にすぎないから。129P

妻とも呼んだ猫ドーラの生をフィクションのなかで保存する語りのなかで、歴史には残らないような女の歴史を語り、母への追悼と慰霊として書かれているのが本作だろう。そしてその女の歴史の舞台となったキッチン、食卓が政治的抵抗に繋がる回路を描いている。

なかなか奇遇なのは同号に土井善晴のエッセイがあり、

しかし、稼ぎ手として、また、子育てをしながらでも、今だに、家事に取り組み、プレッシャーを感じて、見えない要求に苦しんでいる人が、ほんとうに多くいるのです。だから、そんなご馳走は、毎日は不要であること、簡単な料理しか作れなくても、負い目を感じる必要はないことを、最小限のそれでいいと本人にも、家族にも知らせたくて著したのが、『一汁一菜でよいという提案』(グラフィック社)です。177P

と書いていることだ。

「群像」は笙野さんから恵贈頂きました。ありがとうございます。
来月書籍化。

その他情報リンクはこちらから。
群像2017年4月号に笙野頼子新作長編小説「さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神」