『失われた世界』『妖精の到来』『うろん紀行』最近読んでた本 2021.12

ドイル本はもう一冊読むつもりだったけど年を越しそうなのでひとまず記事にまとめる。

アーサー・コナン・ドイル『失われた世界』

南米の台地に恐竜の生き残りがいるという情報を得たチャレンジャー教授と、思い人から結婚の条件に名声を求められた新聞記者が出会い、科学者と冒険家を加えて探索に赴くSF長篇。有名すぎる作品で、こうしたサブジャンルの始祖となったという定型の力強さがある。

現地民との友情関係を加えて換骨奪胎するとドラえもんの長篇になるような感触があり、四人のパーティの個性などとともに未知の世界への冒険は今では使い古された話のようでもやはり面白い。偏屈で攻撃的なチャレンジャー教授のクセの強さはホームズとはまた違った個性だ。記者の語り手の動機から始まり、チャレンジャー教授の話が非難を受け意固地になっておりそのハードルを越えるためのやりとりや、同行者からその資質を認められるまでなど、キャラクターの描写や旅立つまでに三分の一を費やしていて、荒唐無稽な旅へきちんと手続きを踏んでる感じなのも良い。

しかし進化のミッシングリンクとしての野蛮な猿人が出てくるあたりは、ヨーロッパ白人を頂点にした種のヒエラルキーからくる時代的な描写だ。「優越種であるはずの人類」215Pとか、「人間が覇者となり、人間未満の野獣はふさわしい住まいへ追い返された」266Pとか。驚いたのは、語り手を旅立たせる動機になってる女性が英雄になった男の妻となることで羨望されたい、というトロフィーワイフならぬトロフィーハズバンドというかそういう欲望をあけすけに語ってるところで、これはヴェルヌの『地底旅行』を踏まえてずらしたものなのかな。

この創元SF文庫での新訳、チャレンジャー教授シリーズ全五作は文庫三冊に収まると思うのでほかのも新訳で出して欲しいところ。『毒ガス帯』と『霧の国』はSF文庫に古い訳があるけど。『霧の国』は心霊現象を扱ったものらしく、ドイルの妖精への傾倒とも関連して気になるところ。

アーサー・コナン・ドイル『妖精の到来』

コティングリー村の事件として知られる妖精を写した写真をめぐって、ストランドマガジンにドイルが書いた記事やそこに至る経緯、批判と反論をまとめ、ドイルの元に送られてきた妖精目撃証言や神智学から見た妖精についてなどを論じた一冊。

今では、紙に描いた絵をピンで固定して撮影したものだと明らかになっているものの、本書は1922年に書かれたもので同時代の証言として色々と面白い。写真について、「絵画的な飛び方であって、写真的な飛び方ではない」78P、というそのものずばりの指摘がある。写真自体は偽造や加工がされたものではないというのは再三書かれているけれど、それはつまり特撮というかトリック撮影だからだ。読んでいて思ったのは、霊視者とか識者みたいな人が妖精の分類やら知識を滔々と述べるところにくると途端に胡散臭くなるな、ということだった。ドイルの元に送られてきた世界各地からの妖精証言なんかはまだ微笑ましく読めるんだけれど、後半のやけに妖精に詳しい識者の話になると見てきたように話をする詐欺師という印象しか持てなくなる。

たとえ目には見えなくても、そういう存在があると考えるだけで、小川や谷は何か新しい魅力を増し、田園の散歩はもっとロマンティックな好奇心をそそるものになるであろう。妖精の存在を認めるということは、物質文明に侵され、泥の轍に深くはまりこんだ二〇世紀の精神にとって、たいへんな衝撃となると思う。54P

とドイル自身は言っている。

つまり地球上には、想像もつかない科学形態を後世に切り拓くかも知れない不可思議な隣人が存在しており、われわれが共感を示し援助の手を差しのべれば、彼らは奥深いどこからか、境界領域に現われるかも知れないのである。114P

怪奇現象の謎を解いていくミステリにしろ、南米に恐竜が生き残っている可能性を描くSFにしろ、方向性は両者で逆とはいえ、どちらも現実の隣にある不可思議なものを志向する点では似ているし、ここにある妖精への関心もやはりそれらとは別のものではないんだろうなと思える。

わかしょ文庫『うろん紀行』

うろん紀行

うろん紀行

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本を読むとは読者それぞれの時と場所によって別のイメージを生む現象だとし、さらにそこに作品の舞台やゆかりの地を訪れて見聞きしたその人固有の経験という二重の旅を仕掛けながら、そのあわいに著者の人生の物語が浮かび上がってくる読書紀行。

『タイムスリップ・コンビナート』の海芝浦、『濹東綺譚』の玉ノ井こと東向島、『挾み撃ち』の蕨、上野、亀戸、御茶ノ水など、作品の舞台でその本を読むかと思えば「スーパー・マーケットの天皇」だからコストコで『万延元年のフットボール』を読んでプルコギベイクを食べるなど突飛な発想の旅もある。

「海芝浦」の章では思い浮かべていたものが実は字面にない自分の勝手な想像だったことに気づいて、「同じ場所にたどり着くことはできない」ものとして小説を読むことを規定する。そしてそれ故にこそ読む装置としての「わたし」が輪郭を与えられ、その物語が始まることになる。

読まれてはじめて小説は生まれる。けれども、小説が読まれるというその現象は、読者によって、時と場所によって、違うのだ。再現性は不確かなのだ。であるならどうしてわたしたちは、同じ小説を読んだふりをして語らったりするのだろう。15P

「『濹東綺譚』は書かれたときからすでにファンタジーだった」26Pと考えながら元カフェの建物を探してみる「東向島」、「小説には、誰もあえて話さないような見向きもされない現実が、現実以上に鮮明な現実として存在している」38Pという『ベルカ、吠えないのか?』の「犬吠」。『挾み撃ち』の「蕨、上野、亀戸、御茶ノ水」はきちんと御茶ノ水の橋の上から始まるし当初の予定を天気でキャンセルしての偶然の出立にもなってて、元ネタを踏まえつつ偶然の脱線を仕込みながら北海道つまり「外地」出身という朝鮮生まれの後藤明生との偶然の符合をも取り込んでて面白い。

題材になってる二〇近くの作品の内、読んだことがあるのは半分ほどしかないし内容を忘れてるのも多く、ちゃんと仕込みに気づいてないかとも思うけど、太宰「富嶽百景」の「河口湖」は、作中で結婚が題材になってるようにある店で女性の一人旅について質問され、入籍する予定を口にする。店の人に女一人で旅は珍しいとか結婚予定はとか聞かれるの直球のセクハラだとは思ったけれど、この結婚という話から次篇の『さようなら、ギャングたち』を読む「金沢文庫」に繋がっていて、そしてこの「金沢文庫」は本書のなかでもとりわけ印象深い一篇だと思う。

『さようなら、ギャングたち』は未読だけれど、自分の名前を自分で付けるようになる世界を描いた作品を題材に、結婚を機に名字が変わる経験と「わかしょ文庫」のペンネームを自ら付けたこと、そして北海道の祖父が年老いて「もう、誰が誰だかわからんな」と言ったことが絡み合う。名前と私と虚無の「まっ白」。

虚無に飲み込まれようとする祖父の代りに、わたしが言葉を尽くしてあげたい。まるで輸血みたいに、わたしの言葉を祖父の身体に注ぎ込みたい。(中略)
わたしは「わかしょ文庫」だ。他ならぬわたし自身がそう決めた。81P

という言葉と私の新たな人生について。

読むこと、書くこと、名前という人生の始まりと、誰が誰だかわからなくなる人生の終わりとがここに凝縮されている。実人生を生きる私、書く人としての私、本のなかの物語、祖父の物語という多層的な重なりは、この読書紀行のなかでも白眉だろうと思う。

そして「ニューヨーク」で現地の人から、ここではそれぞれの人種が混ざり合わず、それぞれ概ね決まった仕事、将来を選ぶことになる人生の様相を知り、連載の最終回の十二章に至る。人生への決意とも読める十二章で、「バベルの図書館」や「夢十夜」の運慶の挿話を引きつつ、誤字脱字がそのまま印刷されているという『うわさのベーコン』を読みながら、を誤字と誤謬に満ちていても、それが自分の道なんだと思い定める。

でもどこかにあった最善や最良をつかみとれなくても、つかみとったものが最も自分にふさわしいものだったのだと信じたい。156P

旅に歩いた最後に、家から徒歩10分のホームとも言える近所で連載最終回を迎える帰るまでの旅。

書き下ろしの三章も面白くて、特に「まんが道」回の「ンマ~イとコロッケパンに食らいつく二人やキャバキャバキャバキャバと笑う森安などを模写したシールを作っては、身の周りのものに貼ってお守りにしていた」177P、という下りは一行で著者が変な人だということがわかって良かった。

最近読んだ東欧文学、エリアーデ、パヴィッチ、ミュラー

ミルチャ・エリアーデ『ムントゥリャサ通りで』

ルーマニア出身の宗教学者にして小説家による中篇小説、一読しただけだけどこれは相当の傑作でしょう。思い出すのはカダレ『誰がドルンチナを連れ戻したか?』で、東欧の伝説と政治劇を推理小説的な枠組みで語った幻想的な中篇という点でも似ている。

ファルマという元小学校校長を名乗る老人が、ボルザという少佐を訪ねてくるところから話は始まる。老人の言うボルザの過去とボルザ自身の主張が噛み合わず、政治的に不穏な気配が出てきたことで老人は保安警察に連行される。そして老人は千夜一夜物語のように不思議な話を語り続け結論を引きのばす。そこでは、水の溜まった地下室に印を見つければ彼岸へ行くことができるという話を信じた子供達が印を探し回っているうちに、本当にラビの息子ヨジが水中へ消えてしまった事件が語られ、突飛なその話はしかし、当時の新聞で行方不明の事件がきちんと載っており裏付けが取れてしまう。そんな話のなかで出てきたダルヴァリという人物は二十年ほど後、飛行機に乗ったまま消えてしまい、リクサンドルという人物も消息が分からなくなっており、政治的亡命の疑いのあるその件の糸口を老人の話から掴もうとするもののその話をするにはもっと時代を遡る必要がありますと長広舌を始めてしまう。

核心に至る問いをつねにはぐらかすように、他にも子供が空に放った矢が落ちてこなかった話、身長二メートルを超える女性が無数の男たちや果ては動物と交わった話、街中の人間が小さい箱に収まった奇術師の話などなど、ファルマの話は真贋が疑わしい伝説、御伽話の様相を呈していく。際限なく引きずり出されてくるマジックリアリズム的な話の面白さだけではなく、とりわけ面白いのは終盤でルーマニア社会主義政権における政治的策謀が表面化してくるところで、ファルマの語りの整合性やなぜ取り調べを続けていたかが推理小説的に謎解きが展開されるところだ。

老人の人を煙に巻く話の不整合が指摘され、御伽話や幻想的な話が一挙に現実的な枠組みに収まるかと思わせる。ここは、ファルマの話が現在において前近代の伝説やフォークロアの古層を掘り起こそうとすることと、ミステリという近代の枠組みとの拮抗を描いているようでとても面白い。『聖と俗』は読んでいないけれども言ってみれば「政(治)と(民)俗」の絡み合いとでも言うような構図が決着せず、その両義性が生き延びるようなラストは印象的で、検察官(インスペクトル)と視学官(インスペクトル)という重なりとともに冒頭に繋がる螺旋的な構成も決まっている。インスペクトルの重なりとともに誰が誰なのかが不分明になる政治的状況は、ミステリか幻想かという問いそのものが宙吊りされているようでもある。語られる内容の繋がりや、話を理解するには百年前から始める必要があるという語りの哲学やら、もっと細かく読む必要もあると思うけれど、これは面白かった。

カダレのドルンチナとも同じく、前近代の伝説を現代の政治状況と接続する手法はなぜか東欧的に感じられる。社会主義政権の閉塞感に対する抵抗が共通するのだろうか。あるいは迷宮性も説話的な幻想性もどっちもカフカ的なものともいえるかも知れない。あるいはこれも変身譚と読むこともできるか。

いやまあともかくキレ味鋭い高濃度の中篇で非常に格好いい小説だった。こうした海外文学中篇としてはカダレのドルンチナやらマルケスの『予告された殺人に記録』やらを思い出した。良いよね、中篇。私の一気に読める分量の上限がここらなので、そのなかでぎゅっと詰まってると非常に気持ち良い。

そういや安部公房ロブ=グリエを引いて現代文学における推理小説について語ってたエッセイがあったと思うんだけどなんだか忘れてしまった。

新装版が出ると聞いてそういや持ってるなと思って読んだんだった。

ミロラド・パヴィッチ『十六の夢の物語』

『ハザール事典』など様々な仕掛けを施した作品で知られるセルビアの作家による幻想短篇集で、そうした実験的作風以前の単発の短篇を日本独自に編んだもの。一篇十頁ほどのなかに、東欧、セルビアの歴史を背景にした時空を越える夢の物語が展開される。どうしても凝った仕掛けが先に立つ『ハザール事典』や『帝都最後の恋』などは、読んでみるとそこには優れた怪奇幻想物語が展開されているのがパヴィッチ作品だったわけで、本書に収められた単独の短篇群はまさに作者の怪奇幻想作家としての魅力を十分に見せてくれるものになっている。

浩瀚セルビア文学史の著書を持つ文学史家でもある作者らしく、中世から現代に至るセルビアクロアチアスロヴェニアといったユーゴ圏やポーランド、ウィーン、コンスタンティノープルといった東欧周辺を舞台に、しばしば中世の修道士などの宗教や伝説を題材にしていて豊富な学識を感じさせる。

誰かに殺される夢を見る劈頭の「バッコスとヒョウ」が、1970年に見た夢のなかで1980年製の服を着ていたり、1724年の絵画に描かれた人物と自分が似ていたり、自分と似た人物を目撃するなど、時間や虚実を越える不可思議さなど、短いながらも本書所収の幻想譚のショーケースにもなっている。

戴冠できなかったセルビアの王の名を代々守るために、喋れず書けない秘密を守る人間と、名前が書かれてしまった時のための人質が用意されている、という導入から、白紙の本に載っている詩を訳すことを命じられた修道士と、未来の罪のために現在において処罰される因果の逆転を描いた「アクセアノシラス」は、ある種ボルヘス的な不可解なロジックが充満していて、セルビア王の戴冠のために修道院に扉が作られるという伝説や白紙を翻訳するという仕事やらで結果と原因を裏返しにする描写が重ねられ、それがさらなる仕掛けに繋がっている一作で、本書でも特に印象的な一篇だ。こう書いてみると何のことだかわからないけど、色々込み入ってるので現物をどうぞ。

一番長い、ある令嬢の人生を描いた「沼地」は特に良いものの一つ。急激に成長し急激に老化した息子という現象に絡む因果が様々に展開されたあとの着地はことに印象的。収録作には最初に色々な地名や歴史的背景が語られてて、あまり頭に入ってこないことも多いんだけれど、今作はそれも伏線になってくる。戦後に戦前の建物を人の記憶から再生したワルシャワの街並を題材にした「ワルシャワの街角」や、盲目の修道士の夢治療の結末を描いた「出来すぎの仕事」も面白い。「裏返した手袋」は啓蒙主義と民衆の迷信の物語が、中盤から結構驚かされる展開になってて、ただ何故こうなるのかよくわかってない。他にも演劇の戯画化か政治批判かの「カーテン」や、誰もいないはずの扉のガラスのなかで数人が賭博をしている「朝食」、スルタンからモスクのなかのモスクを建てよ、しかも聖ソフィア寺院より高くても低くてもダメだと命じられ、聖ソフィア寺院のコピーを作っていく技師の「ブルーモスク」など。

ドゥブロヴニクの晩餐」などは特にオチの意味がよく分からなかったりするんだけれども、それでもどれも楽しく読める短篇群で、長くても20頁ちょっとという簡潔さと並製200頁ほどのコンパクトな手に持ちやすい本書の体裁もあいまって、非常に手頃な一冊になっている。

パヴィッチはユーゴスラヴィアというよりはセルビアに愛着があるという政治的スタンスの人だったと記憶しているけれども、本書でも短篇の背景にはしばしばセルビア王国の衰亡が窺える記述があって、そこもなかなか興味深い。作者には70以上こうした短篇があるらしいからさらなる翻訳も期待したい。ボルヘスもだけれど、中世の修道院や学者の書いた小説という点でエーコを思い出したりする。

ヘルタ・ミュラー『澱み』

ルーマニア出身のノーベル文学賞作家の第一作品集で、ルーマニアのドイツ系少数民族シュワーベン人の村の様子を子供視点でスケッチしたり、都会に出て職場で意見を述べて職を追われた経験など、自伝的な要素が含まれる、表題中篇と多数の掌篇から構成された一冊。

冒頭の「弔辞」は、死んだ父の戦場での強姦や村で妻を寝取っていたことを口々に糾弾される不思議な掌篇で、ナチスに協力して東欧侵略の尖兵となったりソ連によってシベリアに抑留されたりと加害と被害双方を体験しドイツ語を話すルーマニアでの少数民族の経験が反映されていると解説されている。解説にあるように物語的ではなく細部を描写していく文章でかつルーマニアにおけるドイツ系少数民族の村というなかなか複雑な事情のある場所をそういう文体で描いているので読み始めはどういうことなのか分かりづらいところもあるのでこれは解説を先に読んだ方が良いかもしれない。

表題作の「澱み」は、村の様子を子供の視点から捉えた中篇で、耳にカナブンが入ったエピソードから蝶を殺した話に腐肉、腐敗の汚穢のモチーフが散りばめられつつ、母が結婚して生気を失ったようになる鬱屈が描かれ、これは主人公が母から繰り返し暴力を受ける伏線にもなっている。一貫したエピソードではなく、語りはしばしば連想に連想を重ねてさっきの話はどこに行ったんだろうという発散的なものになっていて、叙情性や感傷性が排された叙述はやや読みづらいけれども、女の顎から生えた髭が編み物に織り込まれていくという幻想的な描写が紛れ込んだりもする。

いつだって私は道のりを前にして最後尾に取り残されたまま、何一つとして追い越せないのだ。ただ顔に埃を浴びせられるばかり。そのうえ、たどり着くべきゴールはいつまでたっても現われる気配がなかった。25P。

澱み、どん底、の陰鬱な閉鎖性が虫や動物の死や生とともに描かれ、「何から何まで丸見えで、どこもかにも手が届き足が伸ばせる、みんなが一様に不安に脅えている、というのも、村が際限なくどこまでも続くからだ」68Pという感慨が語られもする。

職場で意見を言ったら迫害された作者の体験を寓話化したような「意見」は、主人公がカエルと呼ばれているんだけれど、「澱み」末尾を見返すと、カエルの鳴き声が死を象徴するような不穏な描写で出てきており、ここにも何らかの連繋があるのかも知れない。そういう細部の繋がりはたくさんありそう。

「詩的言語」と言われるようになかなか面白い文章も多くて、たとえば上に書いた表題作だと「編み物をしていると、女たちの顎から髭が生えだしてきて、やがてどんどん色あせていき、ついには白髪になる。ときにはその髭の一本が紛れ込んで靴下に一緒に編み込まれることもある」44Pとか、「長距離バス」の「荒れ野を男が一人横切っていった、一人きりだ。それは半分気狂い、半分アル中、あわせて一人前の人間だった」178Pは印象的。最後の「仕事日」の文法はおかしくないのにすべてがおかしい逆回しの世界のような掌篇も結構面白い。

表題作では「村のみんなも「孤独」という言葉を知らず、だから自分たちが何者であるか、分からずにいるのだ」118P、というくだりがあって、まさになにか澱んだ雰囲気が濃厚に漂っている作品集になっている。

最近読んでたSF 2021.11

フィリップ・K・ディック『未来医師』

21世紀の医師が突然25世紀の未来にタイムスリップしてしまい、そこは若者しかおらず怪我を治癒することが罪となる異常な社会だった、というところから始まる時間SF。1960年発表のディック初期の一冊で、まあ普通かなという感じ。火星が「収容所惑星」になってたりするのは宮内悠介『エクソダス症候群』を思い出したりするし、白人のアメリカ侵略を阻止するための歴史改変が後半のキーになるとか、白人の主人公が未来ではマイノリティになったり、また未来人は「インディアン」の子孫だったりして随所に植民地主義への問題意識があるんだけれど、そんなに掘り下げもされるわけではない。管理社会的な人口統制や宇宙行ったり後半の時間パズルの展開とか、これらそこそこ面白そうなガジェットも掘り下げずにテンポ良くB級SFとしてまとめる感じでまあまあ面白いけどまあまあだなあという感じ。コロナワクチン一回目接種の待機時間に読んでたのを覚えている。

N・K・ジェミシン『第五の季節』

数百年ごとに破滅の「季節」が訪れる世界で、オロジェンという大地を操る能力を持つがゆえに差別される者たちを描く破滅SF三部作第一部。この巻ではファンタジー色が強く、世界をじっくりと描き込んでいて読み応えはあるけど話は途中で終っている。なので現時点ではなんとも言えない感じだ。

オロジェンの息子を殺され娘を夫に連れ去られた母、能力故にひどい扱いを受けていたのが守護者に見出され拾われた少女、オロジェンとしての任務に旅立つ女性の三つの視点から、オロジェンという被差別種族の女性の立場からこの世界を見ていくことになる。この巻では読んでておかしいなと思うところが次第に総合されていくギミックがあり、なるほどな、とはなるけれどやはり話は序盤が終わったところ。かわりに能力者のそれぞれの成長具合から、学園もの、任務に就く能力者もの、そして中年というライフステージそれぞれから世界を描いてる。差別や破滅、オロジェンもまた管理され支配される存在だったりと、さまざまな抑圧のなかで生きる女性を描いている。女性視点を貫くほか、登場人物も肌の色が濃い人が多いのは意識的だし、エピグラフがなによりそういう、差別される存在に対するテーマを示している。島でのパートでは子作りを任務としていやいや性交をしていた男女が、ある男性を二人がともに愛してしまい、三人での関係によりいっそう欲望を増す複雑な性生活はちょっと面白い。ここの共同体はいくらか理想的なものかも知れないけれども、悪徳によって成立している点で相対化されてもいる。錆び、地下火、などの間投詞的な言葉は、オーマイゴッドなんかの代わりで、この世界にキリスト教がないという示唆だろうか。そして最後のセリフももしかしてここって、という示唆。そこで一気にSFになる。まあとにかくは二巻以降を待つしかない。

エリザベス・ハンド『過ぎにし夏、マーズ・ヒルで』

ネビュラ賞世界幻想文学大賞を受賞した四つの中短篇が収められており、妖精の伝説、双子の子供とおもちゃの人形劇、通信が途絶えた外界、ライト兄弟以前の飛行機の映像といったものを題材にしたファンタジックで叙情的な物語でかなり良い。SF選集と書かれていて作者もSF出身と見なされてるようだけれども、本書では「エコー」意外概ね幻想小説、ファンタジーという印象。そういうジャンル問題は置いておいて、シェイクスピアや神話などを絡めたり、演劇や再現映像を撮ろうとするなど芸術、フィクションへの意識が随所にある抒情的小説だ。

表題作はHIVに冒された父を持つ少年と何か病になっているらしい母親を持つ少女が海辺の「スピリチュアリスト・コミュニティ」のマーズ・ヒルで、死について考えたり妖精のような存在の伝説に触れたりする日々を描く、シェイクスピア『夏の夜の夢』が引かれるファンタジー

悲しみとは国なのだ。おそるおそる入っていくか、警告もなしに投げ込まれる場所。一度そこに――形もなくうねる暗黒と、絶望のにおいの中に入ってしまったら、立ち去ることはできない。33P

そんな悲しみの国に訪れた一夏の奇跡だけれど、ただのハッピーエンドで終わらないニュアンスがある。

本書でも最長の中篇「イリリア」は、双子の父親から同日に生まれた似た者同士の二人が互いに愛し合い過ごした時間や場所の一場の夢のようなかけがえのなさを、隠し部屋で見た幻想のおもちゃの劇場やシェイクスピア十二夜』の舞台という演劇・幻想の空間を用いて語っていてこれは傑作だろう。

伝説的な女優だった曾祖母は子供達に興味を持たず、一族のあいだには演劇に興味を持つ人間はほとんどおらず芸術など稼いだうちには入らないという実業志向が支配しており、自分を美しくないと思うマデラインも美声を持つローガンも、「スポイル」、台無しにされようとしていた。ローガンは特に兄から虐められるし、二人は似た者同士(キッシングカズンズ)という言葉を冷たく投げかけられており、これはいとこや似た者同士という慣用句としての意味のほかに、文字通りの意味での二人の近親間恋愛を怪しみ侮蔑するような意味合いが込められていると思われる。

二人でいることが当然でお互いに愛し合う二人は、ローガンは歌の才能を、マデラインも演劇への興味を抱き、そんななかローガンの部屋の奥に隠し部屋を見つけ、壁の隙間から誰もいないはずなのに動いている不思議な人形劇を目撃する。二人で共有する秘密の劇。ローガンの天性の資質に対してはマデラインは劣等感を持っていたけれど、唯一演劇に理解を示すおばのケイトによると、芸術とは教えられる技術でマデラインには教える余地があるけれど、ローガンは教えるところがなく、しっぽが犬を振り回す、という慣用句で才能に振り回されていると言う。

そうした子供時代のクライマックスが高校でシェイクスピア十二夜』の演劇をやる場面だろう。タイトルのイリリアとは『十二夜』の舞台となる場所で、アルバニアのあたりの古名というより、この時の成功した公演や人形劇、二人の過ごした今はない場所をも含めた多義的な意味がある。虚構の、演劇の上で再演された夢としての「イリリア」。本作はそうした子供時代を描いているのとともに、二人の生年はおそらく1950年代後半で、10代の頃にベルベットアンダーグラウンドのアルバムを聴き、911以後の時代を生きる、変わりゆくアメリカの半世紀を背景にした小説でもある。

「エコー」は孤島に暮らす一人の女性が外界とのつながりを徐々に失っていくポストアポカリプス的な短い作品で、エコーといえば当然ナルキッソスの物語が引用されつつ、静かな終末の寂寥を感じさせる。

「マコーリーのベレロフォンの初飛行」は、三十年ほど昔にスミソニアン博物館に勤めていた男三人が、当時の憧れだった上司の末期に際して彼女がある事件で燃やしてしまったライト兄弟以前の幻の飛行機の映像を再現しようとする中年男性たちの青春という、「イリリア」とも似た再演の物語だ。テレビ番組を作ってたり博物館でミニチュアを作ってたりする男たちと、妻を亡くし息子と暮らしている主人公が、その息子の友人を加えた五人で、その再現映像を撮ろうと映像の舞台になった島まで出かけるロードノベルの雰囲気もあり、女性の死期と映像の再現と青春の再演が絡み合う。その過程で妻を亡くした主人公の悲しみの感情のありようが描かれてもいて、表題作の「悲しみとは国なのだ」の言葉がここにも響いている。

三作が世界幻想文学大賞受賞作という通りファンタジックな道具立てを用いた叙情的小説集で、特に「イリリア」が抜群だけど全体にも充実した一冊と思う。

シェルドン・テイテルバウム、エマヌエル・ロテム編『シオンズ・フィクション』

イスラエルの現代SF――スペキュレイティヴ・フィクション――を集成したアンソロジーイスラエル自体が聖書とユートピア小説から生まれた本質的にSFの国だと説き起こすイスラエルSF史概説も含まれた700ページに及ぶ大冊。スペキュレイティヴフィクションという括りで、必ずしもSFだけではなく、ゴメル「エルサレムの死神」という死神と結婚する話や、宇宙人と喋る驢馬と友達がカルト宗教教祖になる本書でも特に印象的なペレツ「ろくでもない秋」はしんみりくるコメディで、そうしたファンタスティックな話も含まれる。

他には、情報のバックアップとしての図書館と人格のバックアップが絡むランズマン「アレキサンドリアを焼く」や、最長の中篇でテレパス能力を持つ少女が自殺した少女の心を探ってゆくハソン「完璧な娘」は特に読み応えがあり、誰も悪気はないのに行き場のない悪夢に落ち込むフルマン「男の夢」、終末後の世界で子孫を残すために後味の悪いラストが待ってるリーブレヒト「夜の似合う場所」、二人の男が愛した女性を救う運命線を探る「白いカーテン」、立体パズル早解きの架空競技をめぐるショムロン「二分早く」、SFの登場人物が現実化する夢が悪夢に反転するアダフ「立ち去らなくては」等々。

所々宗教的なニュアンスが感じられつつも、概ね21世紀の作品と言うことで必ずしもイスラエルユダヤっぽいというわけでもない。先端科学的なものというよりは、概説にあるように一般に「ファンタジーやSFやホラー」として言及される「思弁的文学」という観点で選定されていると思われる。

なお、全十六篇中七篇が女性作家によるもので、ここら辺のバランスも考慮されているのか、元々女性が多いのかどうだろう。「完璧な娘」と「ろくでもない秋」がとりわけ印象的な一冊と思うけれど、全体的にもなかなか悪くないなという感想。そして本書の一番偉いところはこの大部のアンソロジーを全訳したことだろう。創元SFで最近出てるテーマアンソロジーは収録作が半減していたりするので。あっちの原書はこれより大部かも知れないけれども。

イスラエルSFということでイスラエルジャズ、ダニエル・ザミールを聴きながら読んでた。動画はイスラエル国歌という。アルバムを聴くと現代的なジャズに民族的な要素が混ざってきて独特な感触がある。
https://www.youtube.com/watch?v=vwhTxzcaDJwwww.youtube.com

One

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  • The Eighth Note
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岡和田晃編『再着装(リスリーヴ)の記憶』

ポストヒューマンSFRPG『エクリプス・フェイズ』の世界設定を用いたシェアードワールド小説を集めたアンソロジーで、技術的特異点以後義体を乗り換え、自己を複製し、外惑星圏まで人類が進出した世界を舞台に、ケン・リュウはじめ海外作家と日本作家が集う。はしがき、コラムや用語解説を随所に入れてあるので私のようにEPを知らずとも読んでいけるだろう。全体は三部に分かれており、火星から太陽までの内惑星圏内が舞台の一部、木星以遠の外惑星圏が舞台の二部、そして身体性にまつわる思弁を扱った作品を集めた三部という構成になっている。

第一部は、入れ替え可能な義体とデータ化した魂、自己の複製という本作のベースとなる設定の導入ともなる作品が並んでおり、死を体験することをテーマとして紀貫之の引用はそういうことかと納得させるケン・リュウ作品を劈頭に、伊野隆之、吉川良太郎、片理誠作品など義体を活用した逃亡、追跡劇が多く、活劇的な楽しさで牽引する。

第二部は音楽をテーマにした伏見健二「プロティノス=ラブ」や料理のアンドリュー・ペン・ロマイン「宇宙の片隅、天才シェフのフルコース」、知覚と身体の関係の岡和田晃(原案齋藤路恵)「蠅の娘」などとともに、題材を語りの手法によって表現してみせたマデリン・アシュビー「泥棒カササギ」など、自己と身体性が問われる作品が多い。

第三部では、ポストヒューマンの時代においてレトロな趣向をあえて取り入れてみることで生まれる状況が描かれていて、石神茉莉メメントモリ」は「玩具館」というアンティークショップのようなホラー、幻想小説的舞台から、VR、鉱物のなかの時間やヴァンパイアという題材を混ぜ込んでいて印象深い。

本書のなかでも印象的なのが待兼音二郎プラウド・メアリー」で、人工子宮が普及し妊娠が行なわれなくなっている時代において妊娠して子を生むとはどういうことか、というのを腹を痛めて生む実子というような保守的な観念にも寄りかからない道を探していくような叙述はスリリングでもあって面白かった。

図子慧「恋する舞踏会」では身体の性別が可変的でセクシャリティが多様になった状況で古典主義回帰の流行が起き、爵位継承や令嬢のデビュタントという絢爛な催しのなかでのロマンスが描かれるのも、未来的技術でのレトロ趣味という第三部の象徴のような一幕の光景を見せてくれる。このなかで予知夢を収集して分析する役所が出てくるのはカダレ『夢宮殿』を踏まえたものなのか偶然なのか気になる。ハヤカワSF文庫の『スティーヴ・フィーヴァー』以来のポストヒューマンSFアンソロジーとのことで、ポストヒューマン入門としても面白いんじゃないかと。

SFマガジン」2021年6月号「異常論文特集」

書籍化前に積んでたのを読む。論文形式のフィクションに異常やらとつけるのはツイッターバズ文体的誇張に見えてどうかとは思ったものの試み自体は興味があった。読んでみると特に最後の二篇で近代日本と怪談のテーマが立ち上がってくるのが面白い。

論文形式つまりノンフィクションの顔をして書かれるフィクションというのはむしろ近代小説の古典的な形式に回帰してるようで、さも当然のように小説として語り始められる小説よりも形式への意識が強く出てくるし、いっそう事実と虚偽の境界が揺らぐところがあるように思える。その点で特に印象的だったのは倉数茂「樋口一葉の多声的エクリチュール」で、樋口一葉の文体分析の部分は概ね実際の論文にもありそうな叙述で、一葉入門のような読み味がありながら、二十二宮人丸についてのあたりから怪しくなっていって近代以前の文体論が怪談と密接に繋がってくる。テクストを読んでいくことがテクストに潜む怪異を解放してしまう恐怖、のメタフィクション的ホラーの様相があり、その面からはもっと踏み込めそうなそうでもないような。そして参考文献に挙げられた本を持ってたので該当ページを開いたらそんなこと一切書いてなくて、嘘引用なんですよね。その村上重良『国家神道と民衆宗教』は新装版のほうを持っていたので、版面は古いままだしページ数もさほど動いてないだろうと思って開いてもその前後も大本教についての部分で人丸なんか出てきそうになくて、この一応本を開いてみるところまで合せての虚実の皮膜に触れる感覚があった。

その一つ前にある大滝瓶太「ザムザの羽」ではテクストをめぐる分裂が描かれていて、ザムザが二人いて二重化している点もそうだし、テクストを挾んで同一人物が書く側と書かれる側での分裂を起こしていて、ディックの『ヴァリス』の他に、Kといえばでカフカ漱石が混在させられたりする。「ザムザの羽」に二人「K」がいたかと思えば「樋口一葉の多声的エクリチュール」にも「K」が出てきて、これにはちょっとしたホラーを感じたけれど、作品分析の生み出す恐怖や近代の怪談がテーマになっている「無断と土」と一葉論とで連続しているのはやはり意図してのものか。

鈴木一平+山本浩貴(いぬのせなか座)「無断と土」は最も長い一篇でかなりの密度の情報と作中作の組み立てが込み入っていて、なかなか読みこなすのが難しい。あんまり把握できていないんだけど、日本近代と怪談、詩、天皇制、VRゲームその他もろもろ。「上演」というキーワードが一葉論とも通じていて、それが恐怖と関連してたりもする。一葉論でもあった語りの現前性についての問題は、論文形式を採っているこの特集の作品にとっては重要な論点で、一葉論と「無断と土」ではともに「上演」という言葉が共通しているのは偶然ではないはずだ。読むこと分析することが「上演」になるというか。ここはちょっと未整理。

そういえば手記や書かれたテクスト、という形式の小説をたくさん書いた作家としては安部公房が浮かぶ。よくある小説で書かれる文章は、書かれたものなのにそれが現実のどこにもないということがしばしばあり、そこに迫真さ、現前性があっても宙に浮いたような違和感を覚えることがある。論文や手記という書かれた言葉の形式を採ると、現在形の文章が使えないために最後の二篇の「怪談」や「上演」という手法になるのかも知れない。一葉論文は言文一致体が現前性を作り出したこととそれが隠蔽したものを論じつつ、怪談的恐怖の現前性を別の形で取り出そうとしたものなわけで。

一葉論文も「無断と土」も、作品読解の過程で恐怖に類する感情を惹起せしめるような手法で書かれているけれども、現在進行形で語りを進められない論文形式においては、作品を読み込む分析過程そのものが台本を演じてリアリティを出す「上演」としてあるような印象があった。

他に、柞刈湯葉「裏アカシック・レコード」はなんと言うかこういう形式の模範的なスタイルってこれかな、というようなところがありちょっと円城塔っぽさもある一作で、なかなかちゃんと面白くて良かった。

小川哲「SF作家の倒し方」はおいおい内輪ネタか、と思ったら出てくるエピソードがどれも破壊力が高くて、こういうスタイルのエッセイとして面白く読んだ。これ、出てくるエピソード、どれも本当なんだろうか。マシンガンエゴサーチは私も目の当たりにしたのでよくわかるけれど。

アニメはいかにレンズの効果を模倣してきたか - メディア芸術カレントコンテンツ
余談。感想書いてる時に思いだしたのがこのアニメに取り入れられたカメラレンズの表現についての記事。アニメにおいてはリアリティを出すためにレンズ表現を導入し、異常論文でも叙述のフレームとして論文という形式を採ることで現実性の担保としている、というかなんというか。そして安部公房は手記という形式とともにカメラにもこだわりがあり、監視カメラが出てくる『密会』や箱から覗く『箱男』、そして戯曲を書いて演劇スタジオを作っていたことなどを思い出して、ここまで書いたことが全部そこに収斂していくようだ。

酉島伝法『るん(笑)』

「群像」に発表した「三十八度通り」とそれに続ける形で「小説すばる」に発表した二篇を加えた中篇集。これは怖い。疑似科学やスピリチュアルと科学の立ち位置が逆転した世界で、癌を「蟠り」や果ては「るん(笑)」と言い換える精神論や素手のトイレ掃除、マコモ風呂など怖気を振るう風習が日常となり、著者お得意の人外譚を描く造語技術が異形の日常にも活用されていて鮮烈。

病院や薬の服用が忌避され、乳酸菌が入れてあって何ヶ月も水を替えない風呂とか、米にかける「ミカエル」という得体の知れない何かとか、食べるものに尿を混ぜられたりとか、免疫力を高める水だとか、EM菌、風水、その他周波数だとかなんやかんやの偽科学が生活を支配する。どれも生々しく気持ち悪くて、そして違和感がありつつもそれを普通だと思っている人たちの日常と特殊な語彙のベールの向こうにある、現実に何をしているのか、がじわじわと分かってくる怖ろしさはかなりのものがある。そういう気持ち悪さとともに精神的な束縛もあり、子供は常に監視されているし、思考盗聴を防ぐためのアイテムが貧富の差を目立たせるものにもなっている。人々は血縁ならぬ「心縁」の繋がりがどうだとかで水や諸々のグッズを買わされたり、結婚式以外にも離婚式やひとり結婚式などことあるごとに式をやらされる。子供は神代文字由来だとされる漢字の書き取りを「書き詰めさせていただく」と言い習わされ、このきわめて「修身」的な教育は国家主義の下にあることが匂わされている。

序盤、一本一本というものの数え方が「にっぽんにっぽん」と言っているところでぎょっとさせられるんだけれど、このスピリチュアルなニセ科学と言葉の変造はもちろん、事実、状況の正確な把握を困難にするもので、国家主義的な隠蔽ときわめて相性がよいばかりか、それを目的にすらしている様子がある。龍というものがあるのは何かファンタジー要素だろうかと思っていると終盤正体がわかるところは、この世界全体の仕組みが見えてくるようなインパクトがある。偽科学とともに、おそらくは隠蔽、ごまかし、詭弁という政治の世界での言葉の崩壊がこの作品群の発想の根っこにあるのではないか。「未曾有」の読みが「みぞゆう」なのもその露骨なヒントだろうし、出てくるもののいくつかはEM菌や親学など時の大臣が関係してもいたものを思い出させる。言語の変容と科学の退潮のなかで、国家主義とともに相互監視の草の根のファシズムのような動きが捉えられてもいる。

多くの人の場合、ニセ科学がおかしいと感じるの科学的ロジックよりも、常識的にあり得るかどうかというようなものではないかと思うし、その時、周りが全てオセロのように反転したら、そのおかしさは果たして感じ取れるものだろうか、という生々しい恐怖を感じさせてくれる。と同時に、そこに欺瞞と詭弁で押し通す政治が絡んでくれば、という問題でもあり、権力によるプロパガンダデマゴーグは喫緊のニュースでもあるわけで、三十八度が平熱になった世界、というのはたとえば感染症対策が失敗した後でそれを認めず誤魔化した状況のように解釈できないでもない。

「千羽びらき」では病状の進行が字面において病垂の文字が増えていくという手法で演出されていて、特にそれについて触れることなく言葉が禍々しくなっていくのはなかなかの恐怖だ。病気は「丙気(へいき)」だし、「猫気(びょうき)」という忌み言葉とともに猫が排除された世界でもある。

一読しただけでは作中事実を掴み切れていないけれど、酉島伝法作品としてはもっとも入りやすいかも知れない。『オクトローグ』は結構自分には難物だったけど、これは全然読みやすいので。言語の違和が手法として大きい一見ふわっとしたディストピアものという点で多和田葉子の『献灯使』と結構似ている。

最近読んでた本 2021.10.

米澤穂信『いまさら翼といわれれても』

古典部シリーズ第六弾、文庫出てすぐ買ったのに二年寝かせてしまった。折木の過去やモットーの原点、伊原の漫研での諍いの結末、千反田の心境を簡潔に示した一言にたどりつく表題作などなど、部員の過去と未来の結節点となっている短篇集。

弁護士という将来を意識しはじめた福部の「箱の中の欠落」、折木を軽蔑した中学の事件の真相にたどり着く伊原を描いた「鏡には映らない」、「無神経」な振る舞いを避けようと真実を探る折木を描いた「連峰は晴れているか」の序盤三作は部員それぞれを探偵役にして個々人の行動原理を描いてる。折木のモットーの原点となる、他人に便利に使われる小さな悪意に気づいたエピソードを語る「長い休日」は同時にその明ける時が来ることを示して終わっていて、将来の話では前述のもののほか、伊原の未来への決断を描く「わたしたちの伝説の一冊」がその役目を果たしている。

そして将来が既に決まっていたはずの千反田の「自由」を描く表題作。子供ながらに家に縛られ責任ある人間として生きようとしてきたことも充分に重いけれども、そうした人生が急に前提からすべてが崩れ去ってしまうという二重の屈折が刻まれる苦さは相当のものがある。三人の生きる指針とその未来への道を描いた後に千反田のそれが無惨に消え失せる話を置くというなかなかの仕打ち。自由、歌、翼、というポジティブな象徴が反転してしまう蔵という「箱の中」。雨、箱、休日等々、収録作のタイトルが微妙に表題作の内容にも掛かっている感じもするけれどどうだろう。

で、面白いは面白いけれど、カードゲームアニメにデュエルがあるように必ず推理要素があるのがちょっと窮屈じゃないかなと感じてしまうのは私が専らキャラクター小説的に読んでるからだけではないような気もした。まあミステリだからミステリ要素があるのはそうなんだけど。同時に、最近小市民シリーズ読んだ時にはあまり思わなかった覚えがあるからこのシリーズの方針かも知れないけど、人間の身近な悪意が思ったよりも嫌な気分にさせられるところがある。殺人者出てくるよりもじわっと嫌な感触がある。

これは「鏡には映らない」が特にそうで、その嫌がらせ仕込むのそいつバカすぎないかと思ってしまう。悪意や悪人の底が浅いと主人公たちを引き立たせるための書き割りにすぎないように感じられてそこにこそ嫌な感じが出る。表題作は露骨な悪人がいないところが余計に苦みを増していて効果的ではあった。伊原の反省した?からの「隣に座って!」はちょっと萌えキャラが過ぎるぞ、とは思った。

平野嘉彦編、柴田翔訳『カフカ・セレクションⅡ 運動/拘束』

カフカの中短篇をテーマ別に三巻に分け、短いものから順に収めていくというちくま文庫独特の編集を行なったセレクションの二巻。当時買い損ねていまちょっとプレミアだけどブックオフで二巻だけ発見。本巻の訳者は作家でゲーテ研究の柴田翔

夢のようにもどかしいすれ違いを描いて非常にカフカ的な徒労感がある「珍しくもない出来事」や、ヨーゼフ・Kが自分の名前を彫られた墓石を見る夢「ある夢」とかシュヴァルツヴァルトで崖から落ちて以来「私は死んでいます」と1500年はしけ舟に乗り続けている「狩人グラフス」、『木のぼり男爵』みたいに空中ブランコの上に住む曲芸師の「最初の悩み」と断食芸の衰退を描く「ある断食芸人の話」などのサーカスもの、親への罪悪感?が断罪される奇怪な「判決」、処刑機械に士官自ら乗り込みすべてが崩壊する植民地の「非西欧圏的」な裁判制度の一コマ「流刑地にて」、そして最も長くてしかも未完の、もぐららしき生き物が自身の巣造りについて省察する「巣造り」。最後にマックス・ブロート兄弟との旅行を描いたエッセイを収める。「巣造り」はたぶん初めて読んだけど、安部公房を感じさせる閉鎖環境での完全な巣をめぐる思考の堂々めぐりが面白い。

「私はまたしても完全無欠な巣穴造りの夢に耽り始めるのだ」241P、と言うように決してなしえない「完全」を目指してあっちが気になりこっちが気になり、外に繋がる巣穴という原理的に排除できない「穴」をめぐって考察を続け、ついには自分より大きい何者かの生き物が近くに現われる予感で終わる。閉鎖環境が舞台の「巣造り」は「運動/拘束」というテーマの典型のようでもあって、そして「ある断食芸人の話」の「断食に完璧に満足する見物人となり得る可能性を持つのは、ただ彼自身だけだった」108P、という「巣造り」や「流刑地にて」の士官などの独身者の系譜にも繋がるものだろう。

一冊ものの作品集は数多いけど、カフカの短い作品を網羅した選集がいま入手できるものがなくなってるので、ちくま文庫カフカセレクションは復刊してほしいね。池内訳のUブックスのものでも短篇の巻は高値だった気がするし。

コナン・ドイルシャーロック・ホームズの帰還』

久しぶりにホームズ読んだ。ライヘンバッハの滝から復帰したホームズが描かれる第三短篇集。恐喝王ミルヴァートンの話そのほか、法より道義を優先してしばしば殺人犯を見逃すことがあるのがそういやそういう人間だったなと。短篇なので合間の時間にサクサク読めてしっかり楽しめるのとこれ翻案ものアニメとかで見たやつの元ネタかなってのも時々あったりして色々面白い。アガサって人物やチェスタートンという地名が出てきてお、と思った。光文社のホームズ新訳全集は未読があと四冊残ってる。

坂上弘『ある秋の出来事』

訃報を聞いて、そういえばまともに作品読んでないなと最初の作品集のこれを持っていたので手に取った。しかしこれほど合わない本は久しぶりで読むのがつらかった。難解とかいうわけでもないんだけどとにかく文章が入ってこないしところどころいつ誰が何をしているのか把握できなくてストレスばかりが溜まった。家族との軋轢や男女の関係といった青年の鬱屈を描いていて、特に家族関係は兄や母、父との問題が諸篇に共通していて連作のようにも読める作品群で、まあ女は妊娠し堕胎し死ぬという昭和のよくある純文学だったりするんだけどそれ以前に全然作品に入り込めない。表題作はそこそこ読めたけど、とにかく相性が悪いとしかいいようのない感覚で、何が悪いと言ったら自分の頭が悪いんだろうと思うけど、さすがに二十歳の頃の第一作品集だけでなんとも言えないので中後期のものもなんか読んでみないとなと思った。

ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』

一人しか入れない国や機械と生体の組み合わせでできた人間たちという童話的な世界観で、国境地帯の警備官が強権的行動とカリスマによって成り上がる独裁者の誕生を描いた、アメリカの作家による「ジェノサイドにまつわるおとぎ話」。

解説では911イラク戦争愛国者法、アブグレイブなどが触れられてるけれど、相手の土地をどんどん奪う周囲を包囲してる国というのはパレスチナ問題を連想した。外の国というのはイスラエルかなって。まあそういう何に当てはまるかというのはいいとして、短いしさらっと読めるけど評価は難しい。土地や自然を税と言い立て奪っていく暴力、権力に追従するメディアはともかく、日々の楽しみのためには世界のどこかで不幸があるのはよくないという微温的善意、最後に創造主がものごとを解決する宗教的救済はどうだろうというのもあるけどこの粒度で独裁者を語ることにどういう意味があるのか、と疑問に思ってしまった。

コミカルで童話的な感触は悪くないけど、何にでも当てはまりそうな抽象的独裁者と人種差別、のように普遍的すぎると具体性やリアリティを失ってしまうのではないか。詳細すぎると長いと文句を言い、短すぎると具体性がないという面倒な読者に自分がなってる気がするけど、今ひとつ手応えを感じない。というか作者の政治的スタンスを知らないけれど、フィルに虐げられた国を助けに行く「大ケラー国」には民主主義国家にして「世界の警察」というアメリカ的なものを感じてしまう。テロとの戦いと称して戦争をしかけるアメリカ的なものを肯定しているように見える。暴力はいけない、という正しさが防衛の名目での侵略の正当化に繋がるように、独裁者は悪、という理念が武力を含めた介入の正当化になってないかという懸念を感じる。アメリカにおいて今作がどう受け取られたものなのかは詳しく知らないけど、どう読んだらいいのかよくわからないな。

高原英理『観念結晶大系』

ビンゲンのヒルデガルトからノヴァーリスニーチェユングなど鉱物志向の系譜を独自の人物も交えて点描する第一部、ヴンダーヴェルトという鉱物でできた異世界を描く第二部、現実で人が結晶化するSF的な第三部を通して真理、永遠彼方への憧れを結晶化させた幻想小説

永遠、普遍の真理の象徴としての石、鉱物というモチーフを中心に、「心に結晶を育てる」人々を描いている。第一部は歴史上の人物や架空の人物を散りばめながら、さまざまな鉱物幻想のありようが各所に配置されていく布石のような感があり、これは第三部で形を明確にする。第二部では大きな結晶を中心に回っていて思念が石になったりする不可思議な世界のさまざまなエピソードや博物学的描写とともに、この世界の真理の探究と空の果てへの憧れを抱いて高位の飛宙士を目指す二人の物語となる。それと同時に、自由と相反する独裁者の暴虐も。第三部では第一部の鉱物幻想を共有する登場人物たちが次々と石となってゆく奇妙な病を発症していく様子を医師の視点から批判的に描きつつ、全体主義化する政治のありようが二部に続いて描かれていて、鉱物幻想、結晶化とそうした政治性が密接なものとして描かれている。

作中人物の言葉にこうある。

理想主義が内に向かったときには、例えば結晶観想のような超越への志向となったが、それが外へ向かったときファシズムをはじめとする全体主義と独裁をもたらした。この二つは実は盾の両面なのである。320P

幾何学的、結晶的な整然としたイメージが全体主義と親和的だというのは確かにそうで、鉱物志向の持つ永遠、無限への憧れの帰結がそうした危機と隣り合わせだということは本作の印象的な部分で、郷原佳以はドイツロマン派とナチスの問題に対する著者の応答だと指摘していてなるほどなと。作中の鉱物志向についてある重要な人物は、人付き合いや他人と共同作業をさせられるのが苦手だという性格で、そうした性格と石化する人たちの世界観に共有のものがあるとされている。第三部は石化症で時間感覚が他人とかけ離れていくポストアポカリプス的な世界になるのも孤絶の一つの形だろう。

石に惹かれ、石を夢見、石になりゆく人々の「鉱物志向性」を丹念に描き込んでいく小説で、第一部のオカルト的な歴史から鉱物志向を系譜づけたり、作中人物が「石の観想法」を広めていたり、本作自体が孤独を好みながらその志向において共鳴する、鉱物幻想に惹かれる人との共鳴に賭けられている。

『ゴシックハート』に「人間の外の世界に目を向けてしまう異端者」というゴシック性の指摘があったけれども、本書の鉱物幻想も芯にはそうした異界への憧れが感じられる。タイトル、装幀で気になった人以外にも、エヴァンゲリオン使徒ラミエルが一番好きだったという人に、オススメ、かな……?

西崎憲『未知の鳥類がやってくるまで』

空を渡る誰も見ることができない行列、つねに同級生が持ってきていた軽い箱、校正刷りを紛失した編集者の奇妙な週末、生まれる前の赤子の冒険、自称宇宙人の島田、とSFとも幻想小説ともつかない、現実を半歩ずらしたような光景を淡々と綴る少し奇妙な小説集。

SF系の媒体に載ったものも多いけど、SFマガジン掲載の「廃園の昼餐」は一応理に落ちる感じはありつつも他はだいたい明確なルールやロジックで落とさないように書かれていると思しく、言葉で現実をじりじりとずらしていくような、そういう不可思議な浮遊感を味わえる。「東京の鈴木」は鈴木を名乗るテロリズムらしきものの話なんだけど、ここに出てくる首相の描写には具体性がないのに、政商のほうは言動や童顔という形容が明らかに竹中平蔵をモデルにしているのが面白い。首相は変わっても政商は変わらないっていう叙述になっている。

現実というのは、夢の論理を使って人間が作ったものだ。29P
どこかに旅をすると空想するわけではない。自分が現在いる場所を旅行で訪れたように空想するのだ。見慣れた土地を初めて訪れたように想像するのである。177P

という箇所は本作の方法の一端を示しているようにも見える。二つ目の引用、ちょうど最近翻訳が出たメーストル『部屋をめぐる旅』についての言及のように見える。暗くなっていく街のなかを描写しながら、「灯火がつく瞬間はつねに脅威の瞬間だ」(144P)という一文がなかなか印象的だった。

みすずはずっと本が好きだった。本は扉であり道だった。けれどあらゆる場所あらゆる時間には入ったことのないドアが無数にあり、入ったことのない小道が無数にあったのではないか。220P

林美脉子『レゴリス/北緯四十三度』

著者最新の詩集で、北海道侵略者の屯田兵の末裔という植民地の問題を沖縄とも繋げつつ、被害者の血が染みこむ大地と男性原理の屹立する塔という上下の構図の頂上に勅諭する高御座の天皇を位置づけ、雪のごとく舞うレゴリスに闇を照らす光を託すような絵が浮かぶ。

今までは宇宙的なスケールという印象があったけれど、祖父の遺した「屯田兵手牒」を題材に自身の歴史や身体に歴史的な加害性とジェンダー構造の被害性の双方を読み込むと同時にコロナ禍の日常など身近な地点からアイヌへの加害そして天皇の責任にまで、地面から見上げていく視角を感じる。

加害の歴史を忘れ
逃げ切るおまえ
侵略者の末裔の
足底の痛みよ 29-30P

死者の特権はもう死なないことだが 見返してくる骨のまなざしは生きた姿で追い迫り 無数の鋭い眼光に睨み返される その怨の罪業に追われ 地誌の汚れたぬかるみを 這う 40P

こうした大地の底に這うような歴史の闇を看取しながらそびえ立つ塔に男性原理ひいては天皇の姿を読み込むなかに、次のような散る光がよぎっていく印象がある。

レゴリスが太陽の光を乱反射し
自らを明るくして闇を照らすが
零れ落ちてくる被害の歴史は暗く
あったことがなかったことにされた 17P

どう対応しているかは確認できてないけど小熊秀雄の「飛ぶ橇」へのアンサーだろうと思われる「飛ぶ屯田兵手牒」で、散らばって飛んでいく細切れの屯田兵手牒も、上と下のあいだで浮遊するイメージがあるように感じられる。

逆井卓馬『豚のレバーは加熱しろ(二回目)』

異世界での旅と帰還を経て、今度は転移者仲間とともに再び異世界へと転移してイェスマ制度からの解放を目指し戦乱の地に身を投じる連続シリーズに突入した模様の第二巻。一巻の最後は蛇足とも思ったけどこれはこれで悪くない。異世界転移だけれど豚なので戦うこともできず、状況から推理をめぐらせる安楽椅子探偵じみたところがあるのはそのままに、今巻ではイェスマという奴隷解放闘争において、その奴隷以下の家畜の豚というラインが示されているのが今後の展開の布石だろう。あんまりな呼称など罵られることへの嗜癖というのも地味にこの階級や上下関係に絡んでくる感じなのは笑って良いのか企まれたことなのか。一度別れたジェスと再会するのに、旅を忘れるという試練を与えられてそれを乗り越えることでジェスと豚のコンビが再び組まれたここからが本番かな。

アレクサンダル・ヘモン『私の人生の本』と『ノーホエア・マン』と『愛と障害』など

松籟社の〈東欧の想像力〉シリーズにエクストラとしてエッセイ集が出ると聞いて、そういえば出た当時話題になってたけど読んでなかったアレクサンダル・ヘモンの第一長篇からはじめて結局既訳書を全部読んだ。

『ノーホエア・マン』

アメリカ滞在中にボスニア紛争によって故郷サラエヴォに帰れなくなり、そのままシカゴに残って英語で書くようになったボスニア出身の作家による第一長篇。作者とも似た境遇の青年の人生を様々な語り手から描き出し、その技法に故郷を離れた人間の分裂的な様相を埋め込んでいる。これはだいぶ良かった。

紛争の悲惨なニュースが届く国外の生活と、故郷でバンドをしたりしていた青春時代を描きつつ、そのどうしようもない分裂というのがおそらく謎の語り手「私」と「ヨーゼフ・プローネク」という主人公とに引き裂かれ、100年前のスパイとも結びつけられていく。プローネクの名も、キエフで彼に恋心を抱くシェイクスピアクィアリーディングを研究しているゲイの名前もが最終章の実在のスパイのくだりに埋め込まれており、亡命者とスパイとを名の複数性において重ね、さらにメタフィクション的な虚実の皮膜のなかに折り込んでいく手の込んだ相対化がある。

スラヴ圏からアメリカに来て英語で書いた作家と言うことなどでナボコフの名前が出ることも多いけど、今作の内容には『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』的な分身的な語りを連想した。ディック『暗闇のスキャナー』なんかも。書き出しの「別人になる夢」やシャム双生児の話が出てくる一章はかなり露骨に分身の示唆がある。

最初の章でボスニアから亡命してアメリカで英語教師の職を探している語り手「私」が同郷のプローネクの姿を認める一章から、サラエヴォで親友とビートルズの楽曲を演奏したり、詩を書いていた青春時代、プローネクの父の故地ウクライナキエフブッシュ大統領の演説を聴き、アメリカでグリーンピースに職を見つけ寄付金を募りながら色んな人と出会い、恋人に始終英語の定冠詞や助詞の文法ミスを指摘されて、バケツで水に沈められるネズミを目の当たりにして怒りが爆発するくだりなどの移民プローネクの人生とともに、故地ボスニアでの惨劇を親友からの手紙で知るやるせなさも描き込まれる。

亡命地アメリカでお前は誰だと問われて、毎回違う人間、「誰でもない人間」に成り代わることが、語りの形式に捉え返される。タイトルや二章の表題「イエスタデイ」はサラエヴォ時代のプローネクがバンドをやっていた頃に演奏していたビートルズの楽曲に由来する。

副題に「プローネクの夢想」とあり、そういえば

分かちあえない記憶は夢想になり、ささいなことがらにあふれた人生は伝説になる。51P

という印象的な一文があって、ささいな描写と分かち合えない記憶というのが本作の骨子のように思えてくる。

『私の人生の本』

〈東欧の想像力〉のおそらくはノンフィクションを扱うスピンオフシリーズ〈東欧の想像力エクストラ〉第一弾はヘモンの自伝的エッセイ集。母国語と英語、戦争の前と後、サラエヴォとシカゴなど幾つもの分裂において、それでも物語ることを選ぶ「人生」の諸相。本書原題はThe Book of My Livesとあり、所収エッセイの半分ほどにLife、Lives、人生、生活と言う言葉が表題に入っている。

妹が生まれた子供の頃のこと、新聞の文化面の記者として活動していた頃のこと、山小屋にこもって本を読んだ生活、家族の食卓、飼い犬をボスニア脱出にも同伴させた家族、内戦が始まり友人が民族主義を煽りファシストとなったことや、ボスニアを離れシカゴで暮らし始めサラエヴォとシカゴの都市の違いに直面したこと、信仰のように毎週土日にサッカーの試合を開催する男、父親とのチェス、そして生まれて九ヶ月の娘が闘病の末亡くなるまでの著者のさまざまな人生が描かれる。

最初に書いたようにこれらのエッセイに散見されるのは分裂、引き裂かれてあること、複数のもののあいだにあるということだ。とりわけ本書表題エッセイ「私の人生の本」(原題ではLife)は、『ノーホエア・マン』の直後に読んだので、わずか数ページの文章なのにとても重い一撃を食らった気分になった。シェイクスピア学者のニコラ・コリェヴィチ教授はヘモンが文学の指導を受け、エッセイのライティングを教わった恩師といっていい存在だった。しかし

コリェヴィチ教授はラドヴァン・カラジッチ率いる悪意に満ちた民族主義政党であるセルビア民主党の幹部になった。111P

かつて教授と同じ道を歩きながら肩に手を置かれたことに「境界を越えてくれた」親密さを感じた後、人種差別を煽るカラジッチの隣にいた教授と記者として境界を挾んで対面する。著者は教授の「ジェノサイド的な傾向」に気づけたのではないかと悩み、「悪」に影響を受けた可能性に苛まれる。上で『ノーホエア・マン』は「手の込んだ相対化」がなされていると書いたけれど、これを読むとその理由がよくわかる。自身の故郷、人生の分裂とともに、それを語る文学、芸術自体に「悪」、内戦への加担の契機がないかということがおそらくはあのメタ的な構成を必要としたわけで、そのことには気づかなかった。

また、コリェヴィチ教授の授業ではニュークリティシズム的な立場から詩を分析し、テクスト以外の作者の伝記的背景や政治的立場を排除して読むことを学んだという。そして芸術のなかにぬくぬくしていれば歴史や邪悪から逃れ果せると信じていたことが、いまの彼の「ブルジョワ的戯言」への憤りとなっているという。作者や政治性を排したテクストの分析という方法がそれまでの読解への抵抗的スタンスではあるにしても、ここで著者はそうした脱政治的な文学理論が「悪」に加担することとどこか繋がるのではないかと危惧しているわけだ。

本書にはサラエヴォがいかに著者の内面と切り離せないものかが描かれてもいる。

当時の私は、知覚と表層、嗅覚と視覚を収集し、サラエヴォの建築物と相貌を完全に内面化した。しばらくして、内面は外面と切り離せないことに気づいた。肉体的にも、精神的にも、私はところをえたのだ。122P

そしてアメリカで、サラエヴォで破壊された建物の写真を渡され、場所を特定する「死体の身元確認のようなもの」をしていた経験。写真をばらまいたように心が乱れる、という歌があるけれど、そんな破壊されたサラエヴォを見て、「もし心と街が等しいのなら、私は心を失っていたのだ」(134-5P)と書いている。

移民がおかれた状況は、自己他者化にもつながる。故郷喪失がもたらすのは過去との――かつて別の場所で存在し、行動していた自己との関係の希薄化である。つまり、その場所で自分をかたちづくっていた性質と交渉の余地がなくなってしまうのだ。移民は存在論的危機である――なぜなら、不断に変化する存在論的環境のもとで自己のありかたを交渉しなくてはならないからだ。故郷を失った人間は、ナラティヴの安定を求める――これが私の物語だ!――それは、理路を整えたノスタルジアのかたちをとってあらわれる。24P

故郷喪失者の安定したナラティヴへの欲望とともに、そのナラティヴを記す文学という方法への不安が入り交じったところに第一長篇のあの構成があるのかも知れない。


最後に置かれた「アクアリウム」は希少難病に罹った九ヶ月の娘にまつわる長めの文章で、夫婦と三歳になる長女とでその状況に直面した様子が描かれている。「非定型奇形腫様ラブドイド腫瘍」という病名で、三歳未満の生存率は10パーセント以下だという。幼児に行なわれる度重なる手術、急変する容体に振り回されるなか、ふと他の人たちとまったく違う世界に住んでいる、自分たちはアクアリウムのなかに閉ざされていると感じる。そんななか妹とも親とも引き離されがちな長女エラはイマジナリーフレンドを作り出し、さかんに会話を始めた。

ミンガスと言う名になったその想像上の友達はエラの言語能力の向上に寄与し、慰めにもなり外界からの情報を処理するツールにもなっていた。作家でもある著者は、架空の登場人物たちや物語というものが、理解できないものを理解し、言語を生成し吸収するプロセスと結びついていると分析する。

物語の想像力(ナラティヴ・イマジネーション)――ひいてはフィクション――は、生き残るために必要な進化論的手段だった。私たちは物語を語ることで世界を紡ぎ、想像上の自分とつきあうことで人たる知恵を生み出したのだ。217P

アクアリウムという断絶、イサベルの死という喪失を語る言葉。内戦と亡命を小説で語った著者が、子の喪失と外界との断絶のなかで言葉、物語とは何か、を問いながら言葉にしているのが「アクアリウム」だろう。本書は先に引いた「他者の人生」の一節ともども、さまざまな人生の分岐、分裂のなかで物語ることや「私」とは何か、が問われ続けている。

宗教の一番卑しむべき誤謬とは、苦難を貴いもの、啓示や救済に至る道の第一歩であると説くところにある。イサベルの苦難と死は、あの子にとって、私たちにとって、世界にとってまったくの無価値だった。イサベルの苦難の対価は、その死だけだった。学ぶ価値のある教えなんてなにもなかった。誰かの益になる経験なんてなにも得られなかった。222P

ボサナツ(ボスニア出身者)ではあってもボシュニャクボスニアムスリム)ではないというのがヘモン及びその作品の語り手の属性だけれど、それはこんなところにも顔を出している。

本書は『ノーホエア・マン』がなぜあのような分身的でもある複数の視点から描かれたのかということのヒントにもなるし、解説にある、本書の表題が複数形なことの理由を問われて答えた、アイデンティティとは中心や本質ではなく複数の人生の可能性が実践できる領域だという言葉も印象的だ。

ヴェバにあちこち見せて、シカゴについて、エッジウォーターでの私の生活について話をするうちに、私の移民としての内面はとっくに、アメリカという外面と混ざりだしていたんだと気づいた。シカゴのかなりの部分は私の中に入ってきて、そこに居ついてしまっていた。いまとなっては、すっかり自分のものだ。私はシカゴをサラエヴォの目で見ていた。そしてこの二つの街が絡まりあってひとつの内面のランドスケープを創り、そこで物語が生まれていく。一九九七年春、初めてのサラエヴォ訪問から帰ったとき、帰ってきたシカゴは私に合っていた。故郷から、故郷に戻ってきたのだ。139P

著者にとってサラエヴォとシカゴとが二つの故郷となったように、そうした複数形のありようをあるひとつの物語のうちに統合しようとせず、さまざまな人生の可能性の実践として、想像上のそれをも含めた言葉による対話によって、想像力と物語を肯定しようとする本のようにも思える。

本書は小説家の背景や小説の裏面を明かしたものとしても読めるけれども、ボスニア内戦での亡命者の人生について語った自伝的な本としても興味深い一冊だ。ナボコフの文体に学んだというヘモンを、ナボコフの翻訳や研究書も刊行している秋草俊一郎が訳しているというのも面白い。また、ヘモンを訳していた岩本正恵が2014年、50歳で亡くなっていたのを知った。子宮頸癌だという。ヘモンが二作目以降訳されていないのはそれがあったからか。そしてマトリックスレザレクションズの脚本に参加しているとは知らなかった。ウォシャウスキー姉妹もシカゴ生まれという縁もあるのかも知れない。アレクサンダル・ヘモンとSF作家のデヴィッド・ミッチェルが監督とともに共同脚本だという。

そういえば『ノーホエア・マン』でスパイが出てくるけど、こちらにもル・カレのスマイリーシリーズを若い頃夏になるといつも読み返していた、という記述がある。

『愛と障害』

同じくヘモンによる短篇集で、サラエヴォの少年時代や家族とザイールで過ごした夏、アメリカで仕事を始めた頃のことや作家となってからのことなど、作者を思わせる語り手の思い出を語りながら、連作的な短篇の連なりからはやがて文学への愛と文学という障害の両面が浮かび上がるように読める。

冒頭の「天国への階段」は、家族と現コンゴのザイールで過ごした少年期の思い出を描いており、真夜中にドラムを叩く現地で知り合った男とロックなどに触れる、さまざまな思春期の様相が描かれながら、最後には少年は目の前に突き出されるその男のペニスの暴力性が自意識を打ちのめす壁のようにして現われる。鳴り響くロックミュージックと少年の自意識、外への志向とその壁。

本書には外と内の境界、それを越える移動の要素が多くの作品にあり、続く「すべて」は冷凍庫を買いにサラエヴォからハンガリーとの国境近くの街に行く様子が書かれ、そこで見たアメリカ人夫婦の妻が自分と関係を持ちたいはずだという妄想から暴走し、ホテルマンに殴打されるオチとなる。「愛と障害」という書名はこの短篇のなかで引用される自作の詩の題で、「世界とぼくのあいだには壁があり/僕はそれを歩いて通り抜けなければならない」というもの。しかしここで買った冷凍庫はサラエヴォ包囲という壁のなかで電力が途絶え、すべて溶けてしまった。

後の短篇でも出てくるけれども、本書の少年期の語り手には性欲や粗暴さが目立っており、それは「愛と障害」に示唆される外への志向と表裏一体のもののように思われる。しかし、サラエヴォ包囲という著者自身の帰郷を阻んだ壁のように、しばしば壁や暴力が短篇を終わらせる。

ここまでの短篇でコンラッド『闇の奥』やランボー詩集を携えていた語り手と「ボスニア最高の詩人」の交流を描いた「指揮者」は、内戦を外で見た語り手と、内から見ていた詩人がアメリカで再会する。詩人のその後の仕事や内戦での戦争犯罪の証拠集めをしていたアメリカ人弁護士との結婚など、詩人の人生がたどられていき、詩を書かなくなった語り手は再会した詩人に「知ってるか、わたしはおまえの詩を書いた」と言われるけれど、どれかは不明のままだ。内戦直前のサラエヴォを想起させる911以後のアメリカの俗悪さのなかで、飲んだくれとなった詩人の思い出に込められた詩と紛争以前のサラエヴォへの哀惜。

われわれは今ほど美しかったことはない。93P

虚構を憎む父が映画を撮ろうとした時のことを回想する「蜂 第一部」は、真実と虚構についての主題を父の視点からたどっていて、真実を撮るためのはずなのに台本を作り何度も撮り直した皮肉な体験が思い出され、内戦後カナダに移住していた父から届いた原稿の表題が短篇のタイトルになっている。父の祖父がウクライナから持ち込んだ養蜂についての歴史を語ったその原稿では、第二次大戦時チェトニクに脅され置いていった巣箱が隣人に盗まれたり、伝染病で打撃を受けたりという歴史の記述が途中で終わっている。ボスニア内戦後、カナダへ移る時に置いていった巣箱はセルビア義勇兵に破壊されたと語り手は補足する。家族の養蜂の歴史をたどる父と、自身の物語を小説として書く語り手で、どこかしらやはり似たもの家族の話になっているのが面白い。そして映画という演出された真実という部分は、この次の短篇で描かれるテーマでもある。

その「アメリカン・コマンドー」は、作家となった語り手のことを映画にしたいという若者に応えて、カメラの前で子供の頃友達とアメリカ特殊部隊のつもりで自分たちの「領土」を侵略してきた工事現場に対して破壊活動をしていた、という話を縷々語り続ける一篇。領土を区切るフェンスを越えて侵入し、破壊活動を行なう語り手たちの姿には先に述べたような外と内と暴力の要素が顕著に現われており、そして過激化していく特殊部隊ごっこの思い出話は次第に本当かどうか怪しくなってくる。「嘘は、僕らの任務には絶対に欠かせない一部だった」(178P)とあるように。印象的なのは、撮る前にカナダの両親の元を訪れていた若者から、子供の頃の語り手が知らなかった母親の癌治療のことを知るくだりだ。何故その年の夏休みは毎年行かされていた祖父母の元に行かなかったのか、その謎が解ける。一族のなかでただ一人物語を語るプロ――「僕が唯一の語り手のはずだった」という確信が揺らぐわけだ。

最後の「苦しみの高貴な真実」は、書くことについてとりわけクリティカルな意味を持っている。作家となった語り手が、ボスニアを訪れたピュリッツァー賞受賞のアメリカの作家と知り合い、実家に招く。マカリスターというおそらく架空のその作家と家族との会話は、その後マカリスターの作品に使われる。しかし、そこでは語り手はヴェトナムで戦死した兵隊となり、父から息子は優れた作家かどうかを問われたことが戦死した息子はすぐれた兵士だったか、という問いに変換されている。作家らしい体験の「翻訳」といえるここで小説は終わっており、印象的ながらもこの事態の意味はよくわからなかった。なるほどと思ったのは藤井光の移民作家の小説における「翻訳」についての論文で、ここではボスニアの作家としての「僕」とその家族の物語が、ヴェトナム戦争というきわめてアメリカ的な物語のなかに収奪されていると指摘する。(藤井光「オリジナルなき翻訳の軌跡 ダニエル・アラルコンとアレクサンダル・ヘモンにおける複数言語と暴力性」(「文学」2016年9、10月号))外と内の構図はこうして、書くことと書かれることへ変奏される。

「天国への階段」や「すべて」での文学、書くことへの憧れから始まった本書は、作家になってから「アメリカン・コマンドー」の信憑しがたい自分語りとともに家族のことを他人から聞く語りの死角に直面し、父の原稿を読む側になり、そしてマカリスターによって書かれる側へと送り返される。連作のような短篇集は全体としてそういう構成になっており、本書の「愛と障害」という表題はおそらくはこの文学をめぐる表と裏を指しており、そこにあるいはサラエヴォ包囲という壁のモチーフが滲んでいると読むこともできなくはない。

書くことを主題化したものとしては『ラザルス計画』が特にそうらしく、これがよく代表作だと言われているので訳されないかな。

他のヘモン関連書籍

以上三冊で既訳書は全部だけれど、短篇が他に一つ訳されている。

柴田元幸選『昨日のように遠い日 少女少年小説選』、には未訳の第一短篇集『ブルーノの問題』から「島」が柴田元幸訳で収録されている。子供の頃に伯父の住む島を訪れた夏の日々が、断章形式で小さな記憶にも触れつつ描かれている。ここにもウクライナからボスニアに養蜂を持ち込んだのは自分たちの一族だという話や、スターリン時代にアルハンゲリスクやシベリアに送られ、誰彼が殺されたという経験を聞いたりする。同一の短篇が「島々」という題でこちらに訳されているらしい。

また、ヴィエト・タン・ウェン編『ザ・ディスプレイスト』という多数の難民作家が「場所を追われた者たち」について書いたエッセイ集に、「神の運命――ボスニアからアメリカへ」という一文を寄せている。これは自分の体験ではなく、内戦時にあるムスリムの男が収容所に入れられ、そこを脱してさらにアメリカまで来た壮絶な物語を聞き書きしたもの。兄を殺されたこと、同性愛者だったこと、逃げる途上で守護天使を見て、そしてアメリカに渡って、同性愛者として宗教コミュニティから排除された経験を語る。この本自体がトランプ大統領が生まれたことをきっかけに企画された本で、このエッセイにも「ぼくはイスラム教徒で難民で同性愛者です」「トランプの完璧なターゲットですね」という言葉がある。

早稲田文学2014年冬号」には都甲幸治との対談が掲載されている。『私の人生の本』刊行にまつわるもので、ナボコフの影響とともに学士論文の対象にしたというジョイス、そしてダンテなど「構築的」な作品の影響を語っている。その都甲幸治の主に未訳の本の紹介をした書評集『21世紀の世界文学30冊を読む』に、『愛と障害』(『愛と困難』と試訳されてる)、『ラザルス計画』の書評が載っている。同著者の『生き延びるための世界文学』では、第一短篇集『ブルーノの問題』の書評があるので、特に未訳の作品についてはこちらを参照するのが良いと思う。

柴宜弘、山崎信一編『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』

参考に読んだもの。明石書店のおなじみのシリーズ、エリア・スタディーズの一冊。多民族共存の象徴的な土地が民族主義の煽動によって分断され、ボスニア内戦に至り陰惨なイメージに彩られてしまったこの国の歴史と、現在さまざまな融和への取り組みを取り上げる。

ボスニアユーゴスラヴィアのなかで唯一多数派民族のない地域名称による構成共和国で、そのために「ユーゴスラヴィアの縮図」とも呼ばれていたという。多民族共存だからこそ、民族主義の煽動が深い民族間暴力に至ってしまったわけで、隣家の住人に家族が殺された類の記憶はそうそう癒えるものでもない。内戦や民族浄化によって、混住していた地域も棲み分けが進んでしまっており、地域のみならず学校においても一つ屋根の下で二つに分かれて授業を受ける光景が日常となっている。政治においても民族主義的な政党が有力で、この分離傾向と融和の理想のジレンマが本書では様々に論じられている。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナはデイトン合意によって、セルビア人のスルプスカ共和国と、クロアチア人とボシュニャクボスニアムスリム)のボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦という二つの政体によって構成される連邦国家として再出発している。しかしながらクロアチア人の政体を求める声も依然強いという。デイトン合意については、内戦を終わらせることには成功したけれど、国家を自立させることには失敗した、という言い方がされてもいる。新憲法の制度的不備があっても合意の一部なので見直しが難しいことや、国際機関、上級代表事務所が持つ強い権力が国内政治の空洞化をもたらしてもいるという。

多民族共存の地が二十世紀に入って二度にわたる民族間暴力にさらされた歴史をたどりながら、政治、文化、社会の様相を各章コンパクトに述べつつ、概説的な全体像がイメージできる。ボスニアはボスナ川に由来し、ヘルツェゴヴィナというのは「公(ヘルツェグ)の土地」に由来するらしい。ソール・ベローの『ハーツォグ』というのも同語源だろうか。意外なことに一章、角田光代が書いてたりする。

現代文学を扱った章でヘモンについても触れられており、ヘモン作品で少し出てきた伝統音楽セヴダ、セヴダリンカについても一章あてられている。

初の短篇集とか創元日本SF叢書とか、最近読んでた日本SF

最近読んでた日本SF。溜めてたなかでも最近の作家多め。創元日本SF叢書はある程度フォローしておこうと思って読んだので、ここでデビューした作家の一作目はひとまず全部読んだかな。この記事を上げてすぐ新しいのが出るけれども。創元SF短編賞受賞作は年刊傑作選に載るのでそれを手始めに単行本を読んでいると、ハヤカワからデビューした作家は全然読んでない……。

大森望編『ベストSF2020』

創元から版元を変え、編者一人となって継続された年刊日本SF傑作選新シリーズ。漫画や希少作を入れるなどバラエティに富んだ創元版に対して、こちらは長さや所収書籍が出たばかりなどの配慮をせず上位からできうる限りベストを選ぶという方針になった。今作の400ページ程度のも密度が高くて良いしどっちが良いかは難しい。収録不可だった伴名練作は既読だったので事なきをえた。石川宗生と陸秋槎、草上仁は既読だったけど再読。ベストはオキシタケヒコ「平林君と魚の裔」だろうか。やはり力作の陸秋槎「色のない緑」と飛浩隆「鎭子」が印象的。

「平林君と魚の裔」は『原色の想像力2』収録作の続篇で、そっちも面白かった覚えがあるけど、こちらはまた出色。ユーモラスな宇宙SFの体裁で話を広げつつ、銀河通商圏全体を支配する図式が露わになって地上と宇宙を意外な形で接続しながら、コミカルなオチに繋げる快作。風呂敷の広げ方とたたみ方が良い。

「色のない緑」は前は説明過多かなという印象があったけど、再読すると意外にすらっと読めて前の時より印象が良くなった。人工知能の判断の問題を指摘する論文を人工知能が判断できるのかという、ブラックボックスから人間が疎外されていく悲劇をタイトルの解釈と絡める。また新型インフルエンザによって繁華街が衰退し社会状況が変わっていく様子が描かれている、ひどく予見的な部分は再読するまで忘れていた。今回、巻末参考文献に「コロナ社」とあるのについ目が行った。

飛浩隆「鎭子」は不妊と幻想のなかの破壊と再生、そして緑を絡めて重層的でにわかには解釈が定まらない作品で、これが「天皇・平成・文学」に寄せられた理由もちょっとわからないところが多い。皇室の後継者問題と皇居とその植生ってことなんだろうか。経済的侵食、というところもあるか。「森は部分的には崩壊するのだろう。そして別の部分がしぶとくみにくく生き延びるのだろう。でも、もしかしたら意外と美しいものになったりするかもしれない」(419P)、という部分に不妊二人の組み合わせが描かれることの意味があるような気もする。

空木春宵「地獄を縫い取る」はポルノをめぐる地獄を描いて力作だと思うけど、ちょっと気になるところもある。児童ポルノを取り締まるための囮作りがそのまま性犯罪者的な詭弁に取り込まれてしまう様子を描いてもいて、序盤で大人と男を使い分けている箇所があってこれは、と思ったらやはり、性表現問題で論者が作者や読者を男と決めつけるセクシズムの発露のような問題を指摘するところはわかるものの、女性同士の話にすることで問題の相対化になりかねないともいえるので。セクシズムに合流してしまう「フェミニズム」の問題は私も何度か書いたことがあるんだけども。

円城塔「歌束」は短歌を湯通しすると新たな姿を見せる、という不可思議な言語遊戯を描いた良い話。岸本佐知子年金生活」は一発ネタではあるんだけど、未来社会の描写に多和田葉子の『献灯使』っぽさがある。草上仁「トビンメの木陰」は再読だけどやはりキレ味があって改めて良い。これ、後書きから読む読者がいるからと配慮したように思わせてかなり本篇のネタバレに近い話をしてくるのが面白い。片瀬二郎「ミサイルマン」はモルゲッソヨこと弾丸マンを思い出した。外国人労働者をこき使うことへの諷刺ではあるけど、「スリーパーセル」的排外主義ぽくも見えてしまう。

創元版だとあんまり印象に残らないのや大家のものなど時にどうもなと思うものもあったりするけれど、新シリーズは密度は高い。その年のSF概況や推薦作リストなども参考になる。もう一つ短篇集が出るので許諾出なかったヤツは、どれだろうなあ。

宮内悠介『超動く家にて』

バカSFと言えるタイプの作品を多く集めた短篇集。元々作者はミステリ志望だったとのことでミステリネタも多く、それゆえか作中のゲームも、また小説の語り自体も「ルールに則ったゲーム」の様相を呈している。これは科学法則を扱うSFと同根なのかも知れない。思えばデビュー作『盤上の夜』はその名の通り盤上遊戯を題材にしたものだったし、ミステリこそ書き手と読み手のルールに則ったゲームに他ならない。ヴァン・ダインの二十則で一篇書いた「法則」もあるけれど、とりわけ表題作と「星間野球」にそうしたゲームの要素が色濃い。

「超動く家にて」は一ページごとに叙述トリックを仕込むことを心掛けたと言う通りのめまぐるしい荒唐無稽な一作で、マニ車のイラストの二段構えのネタには思わず吹き出してしまう面白さがあるんだけど、叙述トリックはつまり明示した部分以外でいかに読者を騙すか、という方法で、「星間野球」での、野球盤をめぐって盤上と盤外、そしてルールに明示された文言を逆手に取る激しい騙し合いがなされることとほとんど同じ事態を描いている。驚くべきは「星間野球」が最初『盤上の夜』の最後の一篇として書かれたということで、確かに盤上遊戯だけども……。

冒頭の「トランジスタ技術の圧縮」もエクストリームアイロニングから発想したんじゃないかという荒唐無稽な競技=ゲームをめぐる一作だった。「ゲーマーズ・ゴースト」は作中に出てきた要素がそれぞれ捨てるところなく上手い具合に繋がっていく構成が良いし、そこにやはりゲームが出てくる。そういう意味で本書は作者のミステリ、SF、小説の根底にゲームがあるのではという作家的資質の一端を垣間見せているようにも思う。作風の多面性を見せつつその根底にある一貫性。本人が麻雀プロ志望からプログラマーをやっていたという経歴もなにか根っこで繋がっている気がする。

そのほかでは「アニマとエーファ」も非常に良かった作品で、アデニアという小国の失われていく孤立言語で物語を作成する自動人形を題材に、抵抗組織や革命などの騒乱のなか、生き延びた人形が物語を綴り続けることで言葉を守り、物語と人間との関係を描いていて、短篇として良い。

全てがそうではないけれども、内容、語り双方の意味で「ゲーム」小説集とも言えそうな一冊。単行本で持っていたのが読む前に文庫化してしまった。文庫の方でちょっとオマケがあると聞いて、本屋でどこだろうとしばらく探してしまった。

宮内悠介『カブールの園』

著者初めての純文学作品と銘打たれた一冊。表題作はアメリカの日系三世の女性が大戦中祖父母がいた日本人収容所をめぐる歴史を知ることを通じて母との関係を描き、併録作「半地下」は親のない姉弟がいかに生きるかを描いており、ともにアメリカの日本人を題材にしている。

「カブールの園」は芥川賞候補になったもので、日系三世の主人公がいじめられていた過去の克服を目指すVR心理療法、世界中から音楽のリミックスができるアプリ開発、そして第二次大戦中の日本人強制収容所に祖父母が収容されていた歴史や、母も日系人故の差別を受けた経験をたどり返す。「わたしは虐められていただけ。人種差別なんて受けていない! 断じて!」(69P)というセリフにあるように、自分が日系人差別を受けていたのではなく、豚のように太っていたから虐められただけだ、という否認が語り手のウィークポイントでそれがタイトルに絡む。親に語った架空の学校生活や、自分は虐められていただけという虚構の否認を辞め、日系人としての自分自身を再認し、人前でもあえてアジア人として自分を押し出し、「虚構のオリエンタリズム」を自ら演じることで生きていくことを覚悟する、虚構の活用によって自己を肯定するラストは良い。その途上、日系アメリカ人の出した同人誌のなかで、「アメリカの日本文芸は一代限りの、それは悲痛極まりない行爲である」(77P)、という子供が日本語を知らない状況を論じた「伝承のない文芸」という文章についても触れられており、日系人の文化の断絶も描かれている。ハーフやクオーター(と硬貨)を連想させる冒頭の分数やテーマと絡まる現代的電子ガジェットの配置、差別されていたことへの否認から改めて日系人としての自身の歴史を知り、母との和解へと至る物語など、良くできているし面白くもあるけど、どうも物足りないという印象もまた強い。

芥川賞を取れるような作品をきっちり仕上げてきた気はするんだけどそれゆえかよくできてるって感じが先に立つ。その点では22歳の時に書いた作品を改稿したという併録の「半地下」が、小説としては素朴なようでも非常に強い感慨を与える作品になっていてむしろこちらに好印象を持った。アメリカで父が失踪してしまい、まだ幼い姉弟が身寄りのない状況に陥るんだけれど、そこでプロレス団体の社長に拾われ、姉は異色のレスラーに、弟は学校に通うことになる。そういうちょっと突飛な設定があるけれど、むしろ日系人の少年が過ごした少年時代の様子を細かく描くことに力点がある。姉がプロレスで稼ぐことを「彼女の民族性を切り売っての金なのだ」(178P)、という場面がある。プロレスという虚実皮膜のショーによって少年は生きており、そして姉の事故が少年に自分はフィクションの上に積み上げた足場の上にいた、ということを痛感させる場面は「カブールの園」と通じるテーマがある。フィクションによって生きている、ということが露呈する瞬間が二つの作品に描かれており、それは「英語が自分の中の日本語を追いつめ、日本語が自分の中の英語を追いつめる」(191P)、「英語と日本語の戦う戦場が僕だった」(192P)、という分裂のなかにある存在と必然的な関係があるのだろうか。著者自身、10年ほど「半地下」と同じニューヨークに暮らしていたらしくその経験が投影されているようにも思うし、そういう「私小説」的な読み方を誘う点で、じつはこちらのほうが「文学」ぽいかも知れない。しかし確かに作者の生々しい何かが出ているように感じられるのはこっちだ。

芥川賞は落ちたけれど三島賞を受賞している。そのさい、選考委員からは「半地下」の評価が高く、二作揃った『カブールの園』という一冊に対しての授賞だ、という話があったのは自分も同じ意見だった。

円城塔『シャッフル航法』

今んとこ最新の短篇集。ひとことではなんとも言いがたい独特のロジックによって組まれた別の世界のありようを描き出す文章はこちらの認識を絶妙にひび割れさせる。段落の字数が一文字ずつ減っていく「φ」や、文章がシャッフルしていく表題作の実験性も派手だ。

数学や物理や情報理論とか由来に見える理論の異質さを小説に具体化したような印象があり、そういう奇譚として読んで面白いしそれで良いかなとも思うんだけど、改めてこれは何を書いてるのかと思い返すとなかなか難しいなということを読みながら思っていた。しかし「犀が通る」の序盤に、自分が決して店員の某さんに名前を呼びかけることはないだろうな、という記述があって、その後にさまざまな名前のバリエーションを空想するところは奇妙に印象に残っていて、この別様の可能性への意識がそういえば強く感じられるなと。SFというのは元々そういうジャンルなのでそれは当然でもあるだろうけれど、「(Atlas)3」の「複数の主観の間に膨大な不整合が存在していることが知られるようになった世界」というのも、ラファティのある短篇を思い出させる、自分の見ている世界が全てではない相対性の認識の契機というか。

本書ではいろいろな形態の知性、人間、世界が描かれている。ヴァリアントと言う言葉が何度か出てきたと思うけど、表題作のように一つのものが複数化して分裂していくというモチーフも、この世界がいまこのようにあることへの不思議さ、ということの表現の一つだろうかとも思える。この世界が一つだと言うこと、私が一人だと言うこと、その別様のあり方をたどるとたとえば「Printable」のような世界が生まれる。読んでいて、ベケット『モロイ』の有名な末尾、「真夜中だ。雨が窓ガラスを打っている。真夜中ではなかった。雨は降っていなかった」を思い出す。この二つの矛盾する文章のその間に作品世界が生まれているように感じられる。そうした世界とは何かを認識するインターフェースを攪乱させるのが文字の操作、という気もする。あり得ないものがあり得る世界を構想するような設計といえば、陸秋槎「色のない緑」がそういえばそういうつくりだった。

柴田勝家アメリカン・ブッダ

著者初の短篇集。話題作「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」や南方熊楠孫文が出てくる『ヒト夜の永い夢』前日譚その他、災害でVR世界に退避したアメリカ人に語りかける仏教徒の「インディアン」を描く表題作など、民俗学とSFを掛け合わせた作風が基調。

しかし評価の高い「雲南省スー族~」はするする読んでいたら終わってしまったという印象。生まれた時からVRゴーグルを付けて生きる少数民族のドキュメントという形式なんだけど、取っ掛かりを固めたところで終わったような感じでピンとこなかった。何か読み逃してるんだろうか。

最初で不安になったけどそれ以降は楽しい。実在の岩手の粒子加速器を題材に、未来の自分が危険を教えてくれるとある女性の人生を描いた「鏡石異譚」、壁に塗り込められた死体が次々に出てくるホラー「邪義の壁」、物語をウィルスとして扱う「検疫官」などがあるけど、面白かったのはロンドン時代の南方熊楠孫文が探偵役の「一八九七年:龍動幕の内」と表題作かな。探偵ものはやはりキャラが強ければ強い。「検疫官」は年刊傑作選で既読で、その時はあんまりと思ったけど改めて読むとそんなに悪くないと印象がちょっと変わった。空港の使い方がいい。

アメリカン・ブッダ」はウィルス禍でアメリカが衰退し、多くの人がVRの加速した世界に住み始めて長年が過ぎ、ある時仏教を信じるインディアンを名乗る男がVR内部の「Mアメリカ」の人々に語りかけるという一作で、ジャック・ロンドン『赤死病』×イーガン『順列都市』とも言えるか。交流が途絶したインディアンを残してVR世界に退避した、建国以来のアメリカの侵略の罪の問題なんかは、Uブックスの『赤死病』収録作の黄禍論的な背景を先住民側から逆照射するものとして読むこともできるだろう。VR感染症のテーマが時事性を踏まえつつ加速時間の大ネタに逢着するのはなかなかの技で笑った。仏教徒のインディアンを名乗る民族が「ポモ族」の一部とされてる、って部分はポストモダンの略なのかなと思ったら実在する部族だった。

柞刈湯葉『人間たちの話』

書き下ろしやデビュー以前のウェブ投稿作品までを収めた著者初の短篇集。冬に閉ざされ北国仕様に改造された生物たちの生きる未来や、『1984』のパロディ、宇宙のラーメン屋台、部屋に現われた巨岩の話のほか、人間と地球外生命との関係を描く表題作が特に印象的。

「冬の時代」は雪に包まれた未来を描くポストアポカリプスもの。作者が椎名誠『水域』オマージュだと述べていて、私は未読だけどなるほどみんな大好き不思議生物環境を旅する話だ。水、氷ときてもう一方には暑熱のオールディス『地球の長い午後』を思い出す。「たのしい超監視社会」はオーウェルパロディで、監視社会をストレスフルなものではなく、監視相手と友達になったり相互監視に報酬をもたせることで、積極的に監視社会に協力する状況を設定してみるもの。明るいディストピアアイロニー。強権的な監視社会のその後の姿、かも知れない。

「人間たちの話」、地球外生命とは何かという問いを表題通り「人間たちの話」として描いていて本書でも一番良かった。なにより、「地球のすべての生物は、およそ三八億年前に生まれた単一の細胞の子孫である」ということへの驚きと不可思議さというのは私も抱いていたものだったからだ。それと共感性に欠ける主人公の科学者と親に捨てられた少年が科学の言葉でコミュニケーションをとれる関係が良かった。地球生命に他者はありうるか、という問い、他人と自分の共有しうるものと地球の生命の孤独を絡めて、表題の言葉が印象的に響く。

「宇宙ラーメン重油味」はちょっとレトロなSF風味があってどことなく草上仁的な軽快なSF短篇で良い。次の「記念日」はマグリットの同題作品を踏まえたもので、リアクションはほぼないながら部屋に現われた岩はじっさいに主人公の家族で看病してるっていう変な話。雑炊が勝手に冷蔵庫に入っていたというのもそうだけど、部屋にないと明言されてる洗面器がその後寝込んでる主人公の枕元に置かれていたりする。アポトーシスの話と絡んで彼の死を予期した岩が助けに来た話で良いのかな。なんとなく感じてたけど、方言らしい「うるかす」という言葉が使われてるしやはり北海道が舞台だろうか?

最後の「No Reaction」はデビュー前のウェブ投稿作品らしい。透明人間とあるネタを絡めた短篇だけど面白いところはネタバレになるな。ところで「人間たちの話」の次の「宇宙ラーメン重油味」で地球外生命が現われ、その次とは「記念日」は主人公が30歳で共通し、「記念日」と反応を返さないことで「No Reaction」が繋がり、この話のラストから後書きの冒頭が繋がっているように、明らかに短篇の何かの要素でしりとり、リレー的な仕掛けがあると思うんだけど意図されたものだとしたら「冬の時代」からも何か繋がりがあるかも知れない。

一度も年刊傑作選に収録されたことがないのでこれまで作品を読んだことはなかったと思うんだけど、前から積んでる『横浜駅SF』のほうもそのうち、と思っている。

宮澤伊織『裏世界ピクニック5』

百合ホラーSFシリーズ五巻目、鳥子の告白を経ての空魚のヘタレぶりを描いたり、見る者こそ自分自身のことが見えないと一人称視点の死角を生かしたり、ラブホ女子会のコメディからマヨイガで過ごす完結した二人を見つつ、最初の敵と再遭遇。

「ポンティアナック・ホテル」は鳥子に迫られるなか二人きりでラブホ女子会に雪崩れ込むのを阻止しようと小桜茜理夏妃を加えて五人で開催することになった顛末で、百合コメディとしてはたいへん楽しいパートになってて、説明の曖昧さのせいで夏妃のなかで空魚が性豪の印象になってるのが笑う。

裏世界で出会った犬と老婦人のエピソードの二人だけで完結している世界を作ってそこに暮らしているというのは、ある意味で空魚と鳥子にとってのロールモデルでもあるような形に見える。百合的にはやがて君になるの喫茶店の二人というか。犬と老婦人にしてちょっとずらしてるけど。衣装替えシーンの挿絵が欲しかったけどあの二人を絵にしないわけにはいかないな。狩猟で肉をゲットしたとして、紅茶とかはどこから手に入れてるのかと思うけど、マヨイガだから生活必需品も自然に湧き出てくるのかも知れない。八尺様が再登場したけど、もしかすると肋戸救出篇もそのうち書かれるのだろうか。謎が残ってるしそういう含みはある。

宮澤伊織『裏世界ピクニック6』

百合ホラーシリーズ第六弾、初の長篇ということで「劇場版」を意識して、寺生まれのTさんという突然現われ一喝して怪異を除霊してしまうギャグ的な存在が今作では裏世界との繋がりを切断される脅威となる話で、ストルガツキー兄弟の『ストーカー』の土台にレム『ソラリス』をやるという趣向を感じる。

前巻から引き続き空魚の他人に向き合うという課題が展開されているけれど、これは裏世界が恐怖という感情やネットロアという物語の形式の「インターフェース」を通じて人間とコンタクトしようとしている『ソラリス』的テーマとも繋がっていて、空魚も裏世界も人間との向き合い方を探っている。百合が俺を人間にしてくれたという作者の有名な言葉があるけれど、そうした人間と向き合うことというのをその「百合」を通じて展開していくところに作者にとっての必然性があるんだろうし、それがハマった実話怪談を通じてなされるところにも作者の恩返しという側面が窺える。恋愛が絡む鳥子とは別に友人・仲間の茜理との関係も重要、という感じ。他人に興味がない人間が自分がハマった多くの物語あるいはフィクションを通じて他人との回路を探っていくというのはなかなかオタク的なコミュニケーションとも思うし、空魚の言うことには私も読んでてめちゃくちゃ身に覚えがある。

アパートの地下の「ちくわ大明神」みたいな突如無関係な言葉が挾まるのにスルーする会話が結構怖かった。ドゥルーズとかラカンとか引用する文化人類学のくだり、ツイッターでバズってたのを読んだ覚えがある。しかしまあ読んでると茜理のセリフに富田美憂の声がめちゃくちゃ聞こえるようになったし、あんな子供みたいななりなのに大人をやろうとする小桜さんが素敵でしたね。少女を追いかける場面、デ・キリコの絵のような雰囲気を感じた。

藤井太洋『公正的戦闘規範』

商業誌デビュー作から伊藤計劃トリビュート、書き下ろし作品等を収めた著者初の短篇集。システムエンジニアSFというかAI技術が進んだ直近未来を舞台に、テロ、植民地、保守革新分裂のアメリカなど、さまざまな分断をコラボレートしうる技術のありようを探る。

Gene Mapper』のスピンオフ「コラボレーション」のインターネットが途絶した世界にしろ「第二内戦」の保守とリベラルに分断されたアメリカにしろ、大きな分断とそれを媒介する技術というモチーフが通底している感触がある。技術の弊害といかに活用しうるかとも言い換えられるテーマ。

表題作「公正的戦闘規範」は伊藤計劃トリビュートとして発表された、中国のゲーム会社に勤めるウィグル独立派を鎮圧する部隊にいた男を主人公として、東トルキスタンイスラム国、というテロ組織によって殺戮ドローンがばらまかれた世界をいかに「公正」にできるかを描いている。主人公の名前「趙公正」は天安門で公正を叫んだ父の願いが込められているという由来がある。伊藤計劃トリビュート参加作家繋がりの仁木稔『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』が「戦いの物語を創作することで、世界の暴力性をコントロールする興業化された戦争」を描いているのを思い出した。

表題作と世界観を共通するらしい「第二内戦」は、テキサスを中心とした州がアメリカ自由領邦として独立してアメリカが二つに分断され、領邦では自動機器の使用禁止や銃を全市民に貸与する保守的な社会となっていて、この領邦での金融取引にかかわるプログラムの違法使用を調査するために潜入する。コンピューターを体内に内蔵した探偵がアナクロ社会に潜入するSF冒険小説の面白さがありつつ、「巡回セールスマン問題」を解決するAIの技術がもたらすものを描く点では「常夏の夜」とも題材を共有してて作品集としての連続性が高い。ただ、アンナのリベラルの高慢さについて掘り下げが欲しかったか。

読んでてこの本はこういうことだ、という言葉を思いついた記憶があるんだけど一晩寝たら忘れてしまった。何だったんだろう。しかし表題作で「ピックアップトラック」が何度か言及されるの、伊藤計劃が「藤原とうふ店」ぽい車出すネタオマージュだと思うんだけど、ネタがわからない。

高島雄哉『ランドスケープと夏の定理』

創元SF短編賞受賞作とその続篇二作による「知性定理」をめぐる連作集。解説にあるように知性の相互不理解を描くレムと反対の、知性は相互に理解可能なだけでなく未来の理論を現在にも持ち込めるという超理論をベースにどでかい風呂敷を広げまくる理論派SF。

この知性定理をベースに、ラグランジュポイントに浮かぶ実験施設で小さな別の宇宙を捕まえてそれを計算機にしたり、主人公から分離した仮想人格を妹っていうことにしたり、姉の仮想人格を兆の単位に増殖させたり、アニメのSF考証などをやってきた作者らしい派手なアイデアがバカスカ出てくる。

理論を理解できてるか怪しいけど、相互に理解可能で時間的先後関係も乗り越えられるとなると、知性・理論とは非常にメタ的な何かになる、というか逆にそういうものとして知性を定義しているのかも知れない。また、小さな別の宇宙を研究室に保持して、それを計算機として使うっていうアイデアがあるんだけど、これってその宇宙での物理法則の働きそのものを計算として捉えてる感じだろうか。私たちの宇宙でたとえばものを落とした時、重量物をある空間に置くことを入力として、落ちて地面にぶつかってとまる、というのが演算結果というか。宇宙という計算機。そういうアイデアSFの濃度とともに、世界的天才の姉に使われるシスコン弟と、傍若無人なブラコン姉、自分の分身の妹とかなんかそういうラノベ感ともまた違うオタクっぽさのあるキャラ造型で進んでいくところも特色だろう。知性を希望として捉える志向が印象的な一作。

ただ、結婚して何の疑問もなく妻や子が夫の姓になる箇所は気になった。グリーンランドが故郷とあったけどデンマーク国籍だとしたら夫婦別姓制度はあるし、あえて同姓にしたのかも知れないけどそこら辺何も書かれてなくて、日本での感覚のまま書かれてるようにも見えた。

門田充宏『記憶翻訳者 いつか光になる』

創元短編賞受賞作「風牙」を始まりとする連作集の単行本から新規に四篇追加して二冊に再編集された記憶翻訳者シリーズ第一巻の一つ目。過剰共感能力と記憶翻訳、疑験都市といったSF設定のなかで記憶と感情という私と他人の境界をめぐるドラマが描かれるSFミステリ。

過剰共感能力とはミラーニューロンの働きの過剰で他人の感情を自分のものと混同してしまい、強度のものでは自他の区別がつかなくなる。共感ジャマーによってそれをコントロールした主人公珊瑚は、その共感能力によって人の記憶を他人にも読めるように翻訳する技術のエキスパートとなった。本作はその珊瑚の勤める会社九龍が開発している記憶翻訳技術やさまざまなファンタジーの住人の体を体感できる仮想の世界といったテクノロジーのうえで巻き起こる事件の謎を探っていくSFミステリといえる。記憶翻訳と疑験都市というアイデアによって私と他人のほかさまざまなアプローチがある。

デビュー作「風牙」は、死期が迫っている九龍の社長不二が昏睡し、その記憶に潜っていくことで彼の昏睡の謎と愛犬との思い出に触れる犬小説。過剰共感能力が他者を自己と混同してしまう「閉鎖回廊」と、未完成な技術のせいで自分の記憶が自分のものと感じられなくなった「いつか光になる」は記憶と自他の区別をめぐってまさに対照的なテーマになっていて、後者が新しく書かれた必然性が明確だ。「いつか光になる」の作中作が「いつか私になる」(「やがて君になる」を思い出させる)と題されているのは、記憶と感情という私の根拠をめぐるものが曖昧になるところにドラマがある所以。過剰共感能力という障碍で人生にさまざまな欠落がある人たちと、技術によって得たもの得ようとしたもの得られなかったものについて、事件の謎と心の物語が重なった普遍的な魅力のあるエンターテイメントになっている。

しかし、共感能力が他人の感情を推測ではなくテレパシーのように直接把握できるという根幹設定はやっぱり説明できるロジックがなかったのか気になった。ここを飲み込まないと話が進まないけど。関西弁で喋り倒す主人公は別人の視点の時切り替えがわかりやすいのはなかなかの利点。あと記憶翻訳と疑験都市という二つの主要設定が似ていながら実は微妙に違う感じがして話としては面白いけど設定が頭のなかでなんかうまく繋がらない感じがある。

門田充宏『記憶翻訳者 みなもとに還る』

記憶翻訳者シリーズ第一巻その二。作中の団体が自己と他者の区別のない起源への帰還を主張するけどそれはまんま本作の主軸の逆になってて、本作は親子、つまり人間が生まれること、私という存在が他から確立されて生きるその時間をめぐる物語になっている。

「流水に刻む」は疑験都市に現われた正体不明のいたずら少年をめぐる親子の物語で終盤では最近も現実に起きた出来事を思い出させる。これが父子関係だとすれば「みなもとに還る」は母子関係の話になってて、死後の生をめぐっても照応関係があるか。みなもと、には親子関係の意味も感じられる。「虚の座」は珊瑚の父の罪の物語で、ここではあまり終わった感じがなくて原本の『風牙』だとこれが最後になってたのはシリーズの区切りとしてやや収まりよくない感じだから本書で後日談を加えてあるのは良い。それでも不二や父のことなど、あまり区切りがついた感じはないけど二巻目は既に出ている。

長谷敏司の『風牙』版の解説は文庫版とは違ってて、表題作について猫に後れを取っている犬SFのオールタイムベスト級の傑作だといい、身近な異種知性としての犬の素晴らしさを熱弁する様子が読めるので一読の価値がある。

松崎有里『イヴの末裔たちの明日』

創元日本SF叢書で「短編集」と副題が付くのは連作形式でない短篇集のことかと思うけど、本書の幾つかの作品には直接の繋がりがあったりする。多くが男性を主人公に科学的好奇心を主調としながら、表題作と最後の作で女性の側から応接する構成が印象的。

最初の牢獄でタイムマシンを作る「未来への脱獄」はややピンとこなかったけれども、次の「人を惹きつけてやまないもの」は120ページほどの中篇で、言ってみればサイモン・シンの『フェルマーの最終定理』と『暗号解読』を「ビール(予想or暗号)」の一語で繋げたような構成を採る。「ビール予想」を解こうとする21世紀の数学者パートと、ビール暗号を解こうとする19世紀のトレジャーハンターという直接繋がらない両者を交互に語りながら、謎の解明に突き進む男の業を描いててとても読ませる。シンの両著を読んでるとあの話か、とわかりやすいし逆にここからそっちに行く手もある。ただ、未解明に終わる上21世紀パートはUFOが現われ話が発散的になって、オチがつく話にはなっていない。

その次の表題作はAI技術の発展によって多数の人間が技術的失業に陥った社会におけるフィクションとしての生きがいを描いたもので、古典的なようで現代的でもある好SF短篇といった感じ。「まごうかたなき」は古い日本を舞台に、人を食う怪異を退治するために立ち上がる村人たちと、彼らに武器を提供する介錯人を描いたもので、短篇としてまとまりは良いけどここに収録された意味はなんだろう。そして「方舟の座席」は、表題作のタイトルの由来は今作にあるとも思える一作。

ここで明示しないけど直接繋がりがある諸作以外にも、最後まで読むと最初に「未来への脱獄」が置かれているのも短篇集としての意味がきちんとあるように見える。


しかし「人を惹きつけてやまないもの」に出てくる、ABC予想の証明のために作られたという宇宙際タイヒミュラー理論、以下のような代物らしい。

宇宙際タイヒミュラー理論は手強かった。ここでいう宇宙とは数学を行う舞台である。通常の数学はひとつの宇宙内ですべて完結するのがあたりまえで、そこに疑問を呈した者はこれまでだれもいなかった。ボーヤイとロバチェフスキーが独立に非ユークリッド幾何を生み出す前はだれも平行線が交わる可能性など思いつきもしなかったのと同じである。宇宙際タイヒミュラー理論 では複数の宇宙を設定し、問題を解くためにその宇宙のあいだを行き来する。宇宙際の際とは、この行き来することを意味する。学際領域などというときの際と同じ用法だ。(98P)

この証明のために異なる宇宙を行き来するという突飛な手法、これ完全にニンテンドー64マリオストーリーを最速クリアするのに電源入れたままゼルダの伝説カセットを抜き差しするやつじゃない? 発想おんなじじゃない? ゲームのリアルタイムアタックやめちゃくちゃなやりこみはその世界の理を追求する点で物理学に似てくるとはよく思ってるんだけど、ABC予想の証明とマリオストーリーの攻略で似た発想に出会うとは思わなくてかなり驚いた。専門的には全然違うよっていわれそうだけど。
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久永実木彦『七十四秒の旋律と孤独』

ロボットだけが動ける超次元航法の間隙の時間での戦いを描いた創元SF短編賞受賞の表題作と、その「マ・フ」というロボットが人間のいない惑星で自然を観測しつづける一万年のあと、人間と出会うことで巻き起こる事件を描いた連作を収める、螺旋的構成の連作集。

表題作の鮮やかさは以前にも書いたけれど、ここでのマフの名前や角笛という音楽的モチーフ、その他さまざまな描写が以後のマフクロニクル連作でも随所に異なった形で配置されており、序章のモチーフを変奏しながら始まりに戻っていくような印象を与えるものになっている。読めばわかるものから私も気づいてないものもあるだろうし、その詳細はここには書かないけれども、時間が経過するなかで人間とマフの立場がお互い入れ替わるように描かれながら、決まったことだけを続ける機械がさまざまな経験を経て変わっていくロボットと人間の関係がある。生命としての人間と、無尽蔵なエネルギーを内蔵する観測者としてのマフのズレを描いて、人間性の寓話のような古典的な趣きがある。

マフも口頭で喋るし体内機構の可換性もなくてそこは人間にも近い個性があったり、解説にもあるように人間の映し鏡のようで、事実その立ち位置は入れ替わっていく。螺旋というのはマフのエネルギー源でもあるけど、表題作のあとにこの言葉を加えることで全体の構成が組まれたのかな、というキーワードになっている。ロボットの設定など随所がレトロ調なところもあり、表題に感じられるように叙情的なSFという印象が強い。そして猫SFでもある。

石黒達昌冬至草』

書き下ろしとSFマガジンに出た一作以外は文芸誌に発表された作品で、うち一つは芥川賞候補作を収める異色の作品集。癌治療に携わる医者による医療・生物学SFと言える作風で架空の病気、現象をたどる面白さとともに戦争、北海道炭鉱の強制連行などの歴史も描き込まれている。

冒頭「希望ホヤ」は三十ページほどで著者の作風をさらっと示すような一篇で、神経芽細胞腫に冒され死期を待つばかりといわれた娘が、ある珍しいホヤを食べるとみるみる回復していき、父はそのホヤから抗癌作用を抽出しようとするけれども難航する。娘と人類を天秤に掛ける「悪魔」の話。

表題作「冬至草」は北海道で見つかった放射能を帯びる植物の謎を探っていく話で、その植物はじつは人の血を吸って輝く特性を持っていて、研究していた戦前の人間が血を与え続けてどんどん衰弱していった様子が次第に明らかになっていくという怪奇生物学SF。そこに戦前日本の朝鮮人強制連行の歴史や、兵器開発の一環として研究が認められたことで戦後に記録が残らなかった皮肉などもありつつ、「放射能を貯め込んで積極的に死を迎える生物の必然が分からなかった」という困惑を経て、冬至草の恐るべき可能性に到達する。

この二作は人間の行いで絶滅してしまったかも知れない生物を描きながら、癌という厄介な病や生物を利用した兵器という、医療にも兵器にもなる科学という営みの様相を描き出していくのが感じられる。

「月の・・・・」は、自分にしか見えない手のひらの月、という他人と共有不可能な狂気じみた幻想を主軸にしながら、他人の狂気のなかに潜む歴史を垣間見る瞬間を描いている。公園で出会う月が見えるらしい老人は認知症を患っている様子だけれど、うわごとのような言葉には満洲、戦争、捕虜、地雷といった言葉が散りばめられていて、戦争の傷跡が月の光のなかに照らされるのは表題作にも通じる。

書き下ろしの「デ・ムーア事件」は、「月の・・・・」を踏まえて書かれたような印象がある。自分にしか見えない火の玉という明暗入れ替わった現象を描いているのもそうだけれど、精神的な病気かと思っていたらウィルス兵器の可能性という方向に向かっていくからだ。狂気、病と戦争の要素は随所に窺える。

芥川賞候補になった「目をとじるまでの短かい間」は、都会から戻って実家の病院を継いだ医者の男が大腸癌で死んだ妻の検体を製薬会社からの引き渡し要求に応えないでいる日々、一人娘とともにさまざまな患者たち、あるいは死を間近に見ながら終末期医療の様子を叙景するといった塩梅の静かな一篇。

「アブサルティに関する評伝」は細胞増殖に関するノーベル賞級の発見を報告したアブサルティという科学者がその実、実験データを捏造していたことに同じ研究所で親しい間柄だった語り手が気づいて、という作品で、しばらく前の日本の事件とも酷似した内容でなかなか驚かされる。しかしアブサルティのデータ捏造に対する考えは言ってみれば確信犯、思想犯ともいえるもので、科学においては結論が正しければ過程はどうでもよいとする意見を持っていた。「科学を作った天才は、科学的思考に優れていたというより、むしろ直感に優れていたんです」276P。手続きと結果に対する考え方に真っ向から叛逆する思想犯としてのデータ捏造。科学の営みをさまざまに描いてきて最後にこれが置かれているというのは、その科学の営みそのものをいったん相対化して突き放してみせる仕掛けのように見えた。

日本で最高のSF作家に石黒達昌を挙げる石黒達昌ファンブログ管理人伴名練による傑作選が来月出るとのことで、本書からは三作が収録予定。私はまだ『人喰い病』と本書しか読んだことがないので紙では入手が難しくなっている作者の再刊は喜ばしい。まあ電子ではおそらく全小説が読めるんだけど。

最近読んだ本

倉数茂『忘れられたその場所で、』

東北の町で拘束・絞殺された死体が発見され、刑事が事件を追ううちに近代史のなかで忘れられた排除と暴力の歴史が浮かび上がる社会派ミステリ。著者が発表している七重町シリーズの三作目にあたるけれども、作風を仕切り直しているので主軸を楽しむにはここからでも問題はない。

端正な警察小説という感じで不可思議な殺人事件、意外な線から広がる背景、その名前はさっきどこかで……というのが繋がっていくミステリとしてのリーダビリティを持ちつつ、ハンセン病隔離政策の問題を拾い上げ、身体障碍者を弟にもつきょうだい児の刑事を主人公として語っていく。同じく七重町を舞台にした『黒揚羽の夏』、『魔術師たちの秋』に続く三作目で、これらも戦後日本の「過ぎ去ろうとしない過去」を扱っていたけれど、前二作はジュヴナイル幻想ミステリという風合いで子供達が主人公のシリーズだった。引き続き千秋と美和は登場するけれど、大人を主人公に仕切り直した形となる。

 「秋」が出たのが2013年で続きが出るのに八年掛かっている。おそらくこうしたテーマを語るのに少年達を主人公にしたままでは難しかったからではないか。連想したのは作者の前作『あがない』で、タイトル通りの過去の贖罪というテーマが、土地の歴史という七重町シリーズのそれと合流した形に見える。土地の歴史と主人公の過去の罪とを重ねる今作の構成こそがジュヴナイルスタイルで続きを書くことができなかった理由だろうか。私自身も読んでから八年経っているので前作の内容をほとんど忘れてしまっているけど、高校生になった美和の幻視や、大学生になった千秋の行動はそちらから続いている。夏、秋から続く「七重町の冬」とも言える今作だけれど、持ち越した内容からして「春」が書かれると見て良いのだろうか。倉数作品と言えば水のエレメントで、夏の水たまりや秋の書き出しにある水は今作でも雪として冒頭から現われ、地下に流れる水という不穏さの象徴としても出ていてやはり、と思った。

佐久間文子『ツボちゃんの話 夫・坪内祐三

表題通り坪内祐三と20年連れ添った妻が語る氏の人となりや生活そして人間関係が種々語られていて興味深いのとともに、還暦以来怒りっぽくなり喧嘩が多くなったという晩年に対して、楽しかったことを思い出してその印象の塗り替えるためにも書かれたという一冊。

夫への追悼でもあり、雑誌出身の坪内祐三と新聞記者出身の著者との双方の視点での出版業界の内幕でもあり、時に共同編集のようにもなってた二人の仕事の裏話や前妻との話。特に印象深い三冊に『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲がり』『『別れる理由』が気になって』『文学を探せ』が挙がっていて、『『別れる理由』が気になって』は私も雑誌連載始まった時におお、と思って本も買ったのに小島信夫のほうを読んでからと思って10年以上積んだ宿題になっているのを思いだした。坪内祐三、断片や記事をちょいちょい読んでるけどまとまってはあんまり読んでこなかった。

独自のルールに強いこだわりがあり理不尽に急に怒り出すことがあるというのは著者も「器質的な」ものだろうという通りに思える。それと酒の飲み過ぎとかいろいろ。歯科医を除いて病院嫌いで自分から病院に行ったのは妻が知る限り一度だけ、というのはかなり危ういと思った。病院行くのを避けるために自分の不調も隠していたんじゃないかと思えるからだ。私の隣室に住んでいた老夫人から朝、夫が朝寝床で冷たくなっていたと言われたことがあって、奥さんは夫は病院にほとんど行ったことがない、と言っていたのを思い出す。そういう人は無理な我慢をして急に亡くなってしまう印象がある。

方向音痴が凄かったという話があって偶然の場所に行き着くことや、書店街を歩いていて偶然人と出会うとか、雑誌といういろいろなものが偶然出会う場所というのが重要なのかな、と思う。慶応三年生まれの同時代性とか、横の広がりへの関心。ゴシップ好きと人間オタク。英文科の修士まで行った人で、『変死するアメリカ作家たち』というのを未來社の「未来」に連載していたというのは知らなかった。明治文学の印象が強かったので英文学やってた人という印象がなかった。亡くなるときでも20の連載を抱えていたというのはすごいしそんなに書けるのはそれだけの読む量があるわけで読むのも書くのも遅鈍にすぎない私には到底想像しえない領域だけど、そんな彼にも私が一つ勝ってるところがあって、私はまだ折りたたみ携帯を使っているということです。

単著の一つもなく知り合いというわけではないはずの私に本書が献呈されたのは不思議だと思っていたけれど、文中の坪内氏の返礼を期待しない振る舞いを読むとなるほどそれに倣ったのかなと思うのと、夫のことを忘れないでいて欲しいという意味があるのかなと思った。面白い一冊でした、ご恵贈ありがとうございます。

G・K・チェスタトン『裏切りの塔』

「信仰と同じように、懐疑も狂気であり得ると考えたことはありませんか?」

中短篇四作と戯曲を収める南條竹則による新訳作品集。なかでも「高慢の樹」と本邦初訳の戯曲「魔術」の迷信や超常的なものを否定する合理性や理性の高慢を批判する長めの二作が面白かった。合理主義や無神論、科学主義的な思考が、一見不合理に見える現象という現実を拒絶して狂っていくもう一つの「信仰」ではないかと問う。

「高慢の樹」は奇妙な植物による怪異をめぐっての物語で、中篇の長さでなかなか込み入った展開をしていく密度のある一作。推理小説で理性を懐疑するという逆説が効いている。

チェスタトンの文章はなぜか普通の小説の倍くらい読むのに時間がかかるんだけど「魔術」は戯曲形式で読みやすい。妖精話を信じる姉とアメリカ帰りの合理主義者の弟という英米の構図に奇術師が絡んでその対立を描くんだけれど、御伽話をめぐって最後にハッピーエンドになるのがとても良い。「幻想的喜劇」という通りだ。「狂人とは理性以外のあらゆるものを失った人である」という作者の言葉が解説に引かれている。

ほかに「剣の五」は息子が放蕩とギャンブルの挙句の決闘で殺された、というところからの真相の解明がちょっとしたロマンスに帰結するあたりはすっと読める。表題作はハンガリーの辺境にある「トランシルヴァニア王国」を舞台にしてるけど、この設定、「スキタイ=パンノニア=トランスバルカニア三重帝国」という国を作ったデヴィッドスン『エステルハージ博士の事件簿』を思い出させるし、あっちの人もあそこら辺に架空の国作りがちなのがわかって面白い。

違星北斗歌集『違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を』

27歳で病没したアイヌ歌人の短歌のほか、俳句、詩、童話、その他散文や友人と作った同人誌一冊まるごとなど、さまざまな文章を山科清春の丁寧な註釈、解題、解説によって、北斗の思想的変遷のなかでの位置を把握できる決定版的な一冊。

『コタン』という遺稿集が過去数度出ていたけれど本書では編集を全面的に見直し、発表年月を付して時系列順に並べることを基本とし、さまざまな誤りも訂正したものになっているという。年譜も付された資料的価値の向上とともに「同化」についての解説など、現在のアイヌ差別への奪用をも批判する。大和民族=シサムから差別され、和人許すべしと燃えた頃から、親切な人に触れて態度を転換し、和人への同化ではなくアイヌとして日本人になるべく覚醒を呼びかけた思想的変遷がたどられた解説は必読。その思想を見ずに「同化」の一語で同化肯定派とするアイヌ差別者の理解がいかに転倒したものか。

北斗は「鮮人が鮮人で貴い。アイヌアイヌで自覚する。シャモはシャモで覚醒する様に、民族が各々個性に向かって伸び行く為に尊敬するならば、宇宙人類はまさに壮観を呈するであろう」239Pといい、アイヌということを隠して和人化することを批判し、多民族共生の夢を語った。

短歌も、アイヌへの檄や和人批判、薬の行商人として歩いた経験を歌ったもの、病床の苦しみや、日記の最後にある「世の中は何が何やら知らねども死ぬ事だけはたしかなりけり」まで。

印象的な歌としては、副題にとられた「アイヌと云ふ新しくよい概念を内地の人に与へたく思ふ」がある。北斗の歌には「シャモと云ふ小さな殻で化石した優越感でアイヌ見に来る」「シャモと云ふ優越感でアイヌをば感傷的に歌よむやから」といった和人批判のものがあるけれど、そうした蔑視としての「アイヌ」を「よい概念」として内地に「与へたく思う」という優越感の切り返しが鮮やかに響く。

短歌のなかで音の面で印象的なものが一つある。「熊の胆で助かったのでその子に熊雄と名附けし人もあります」。これは五七五七七じゃなくて五七七五七、になるのかな。普通の文章みたいな自然さなのに区切りが妙でなんだこれはと字数をいちいち数えてしまうようで面白かった。

ハンディで手に取りやすく周到な編集が施されていて、私もだけれど名前は有名なのに断片的にしか知らない、という人にも勧められる一冊になっている。

ロバート・シルヴァーバーグ小惑星ハイジャック』

64年発表の作者の初期の長篇。小惑星探鉱に繰り出した主人公が金になる鉱脈の星を見つけて帰ったら登記申請どころか自分の存在が記録から消される陰謀に巻きこまれ、という話を200ページ以下の分量で一気に語りきる古典的SF小説の佳品。

伊藤典夫訳ということではジャック・ヴァンスの『ノパルガース』も大家の短い長篇ということで思い出すもので、ヴァンスはB級感あふれる独特の一作だった覚えがあるけどこちらは短いなかに謎とサスペンスと出会いと別れというジュヴナイルの匂いも感じられるような良さがある。

SFファンにはエースダブルの片割れ(『ノパルガース』の後書きでも訳者はエースダブルについて語っている)として書かれたというとイメージが伝わりそうな、あえていえばベタで古い宇宙SFなんだけど、こういう新奇性があるわけでもないSFを読むのも楽しいなというのを思い出させてくれる。

ゴールドラッシュにもなぞらえられた探鉱に繰り出す、自由と一攫千金を夢みる男と帰りを待つ婚約者と、という構図で描かれる宇宙がアメリカSFを感じさせるけれど、巨大企業が世界を支配する姿に訳者は現代中国を示唆しており、主人公の独立と自由を求める姿に現代性を見ての訳出だろうと思う。

シルバーヴァーグ、実は長篇を読むのは初めてだったりする。『時間線をのぼろう』は積んでる。小説工場の異名を取る多作家で、あなたにはスランプがないのかと聞かれ、15分ほど書けなかったことがある、と応えたというエピソードには唖然とさせられる。

キジ・ジョンスン『猫の街から世界を夢見る』

ラヴクラフトのドリームサイクルものを下敷きにしたらしい世界幻想文学大賞中篇部門受賞作で、夢の国から逃亡した女学生を追う数学科教授の女性が世界を経巡る旅を描いて、世界を変える夢を見るフェミニズム小説にもなっているファンタジー

距離が一定ではなく空に星が97しかない、われわれにとっては「夢の国」の世界の街、ウルタールの女子大学で数学科の教授をしているヴェリット・ボーがある時、担当している女学生が「覚醒する世界」、いわゆる「現実」からきた男に連れられて向こうの世界に出奔してしまったことを知る。そしてヴェリットは女学生を探しに「夢の国」を縦横に旅し、さまざまな光景や危機に際しながら「覚醒する世界」を目指すことになる。いまや55歳になったけれども若い頃には危険を顧みずに世界を旅した経験があり、その頃のことを思い返しつつの再びの旅路は己の人生を顧みることにもなる。

本作はこうした異世界の旅を描いているけれども、「夢の国」と「覚醒する世界」のギミックなど、女性の不在を指摘されているラヴクラフト作品を女性の視点から読み換える意味があるように思われる。「いつになったら、女は男の物語の脚注以外のものになれるのか?」158Pとあるように。数少ない女子が通う大学が出発点で、数学科教授の女性が主人公で女学生が「覚醒する世界」へと出て行ったという始まりからしてかなりフェミニズムを意識しているのがわかるし、本作では夢見られた世界「夢の国」が気まぐれな神々が街を破壊したり父祖の因縁に囚われる固陋な世界としてある。そして邦題の「世界を夢見る」や原題のThe Dream-Quest of Vellitt Boeのドリームクエストというのは、夢の世界の探求というだけではなく、自由な解放された世界を夢見るという意味も込められたものじゃないだろうか。目覚める、というと啓蒙的な意味でも。

さらに、夢を見るというのはフィクションを読むことでもあり書くことでもあって、作者と同い年の主人公が若い頃の旅を回想しつつ旅しているというのは、ラヴクラフト作品を熱心に読んだ若い頃と今との関係でもあり、本作は小説を読むことと書くことを夢の多義性において書いた小説でもある。

私はドリームサイクルものの作品を読んでないけれども、幻想的な異世界を旅するファンタジー小説の面白さだけではなく、そうした夢見られた世界から覚醒する夢を見る現実との接続の面でもなかなか面白い小説だった。文字大きめで200ページちょっとの短い長篇のサイズ感も良い。

猫の街、カルカッソンヌって地名が出てくるけど、「ナイトランドクォータリーvol.19 架空幻想都市」でダンセイニとフォークナーのが訳されていたのを読んでたので、予習したところだ!ってなって、解説みるとなるほどラヴクラフトの初期作品がダンセイニの影響がある件の示唆なのか、というのがわかる。

玩具堂『探偵くんと鋭い山田さん2』

探偵の息子の高校生が隣の席の双子姉妹と探偵の真似事をやるミステリラノベ第二弾。てこ入れくさい水着表紙はどうかと思うものの日常学園ミステリでの相談者らの事情が主人公たちチームのありようにも重なり、死を近くに感じてしまうような虚無感のなかで前を向いて生きていく理由って何なのかみたいな思春期の悩みに焦点を当てて、三人のユニットがその虚無感を脱して楽しさを見出す場所になっていくのがかなりいい。

ネトゲのプレイヤーと会って誰がどのキャラをやっているのかを当てるゲームや、この高校の文芸部員だった教師が昔原稿を隠された事件の犯人は誰だったのかという謎、フォローしてるインスタグラマーが自殺しそうだというのでその人を探し出して止めて欲しい、という依頼の三つの事件が舞い込む。

どの話も総じて、前向きに生きていくことをめぐるテーマを持っていて、失意によって夢を奪われた経験から立ち直って新しい目標を見つけたり、生きている理由がわからなくなったり、あるいは誰かと一緒なら前を向ける、ということだったりの心情はすべて探偵ユニットたる主人公たちにも重なってくる。処世に長けた甘恵のほうがある種の虚無感を抱えているわけだけれどそれが主人公との出会いで「探偵」という楽しさを知ることができたというのは雪音のほうもまた「探偵」が自分の存在価値をめぐる試みとしてある、というのも青春小説だなって感じ。人の隠したい事情を追い回すことでもあるけど人に向き合う契機でもあるという感じに「探偵」を位置づけるのはわかるけど、謎は自然科学でもよくない?とは思う。まあミステリだしお悩み相談ものに近い設定ではあるから無粋か。ネット小説投稿サイトがカクヨムしか出てこないの笑った。

双子姉妹が存在するとそれだけで百合だっていうセンサーが反応してしまう。じっさい、双子だけどお互いへのコンプレックスやライバル感情のありようは結構そうだし姉妹との三角関係だしそれっぽくはある。公式ツイッターが二巻発売した翌月以降更新してなくて売り上げが続巻ラインを超えられなかったのかなって思った。もう何巻かやってもらいたいけど。帯で告知されてたコミカライズもどうなったのか。

発売した月に探しても近場の書店になくて、色々探したら小口研磨されたやつしか見つからなかったラノベが最近二つあるんだけど、続刊するのか不安になるな。

トネ・コーケン『スーパーカブ

天涯孤独で趣味もない女子高生がカブを手に入れた生活を描くラノベ。漫画版を知っててアニメ見た時その違いに驚いて一回原作読まないとなと思って読んだ。カブを手に入れたことで広がる世界の描写は良いんだけど、小熊のカブ主義化が説得的に描かれていないと思う。

地の文は三人称で小熊自身のモノローグが直接書かれることはない。だから地の文でのカブや地理についての知見は必ずしも小熊自身の思考ではないと読めるんだけれど、結局そこが曖昧になり随所で語り手と小熊が一体化している感じになる。マニアックなカブオタクが憑依しているような。私は免許もバイクも持ってないので、小熊がバイク屋でカブを見た時、走行距離が500kmというのを「しか走っていない」という判断をしているのに、え、そうなの?と驚いたし、時折現われるカブは世界で最も優れたバイク、というのも根拠なく当然の前提のように出てきて首を傾げざるをえない。

堅牢さ、普及台数、その他カブが名機といっていい機種なのは理解できるけど、小熊がもし金持ちでも別の土地に住んでても自分はカブに乗るだろうと思う箇所があっていつのまにそんな?って思う。ここに主観と客観、あるいは作中人物と作者の思考の混濁があるように思う。三人称で小熊自身との距離を持っていたように見えて、女子高生が最初のバイクで体験するあれこれと作者自身のカブ観がごっちゃになってるように見えるし、パンク少年のエピソードなどこだわりとマウンティングを取り違えてるようなところもあってちょっとどうだろうなと。

カブのような普及しまくったものにあえてこだわるのは結構なマニアだと思うんだけど、偶然カブを安価で手に入れた他のバイクに乗ったことのない初心者がすぐそういう価値観を共有しているのは、礼子の存在や小熊の境遇を考えてもやはり、いつのまにそんなにこじらせたんだと思ってしまう。最初のバイクに愛着を持つこととカブというバイクが優れている、と思うことは違うし、カブ乗りに仲間意識を持つのはわかるけど、それが「優れた機械」という選民意識と繋がってるのがどうにも厳しい。アニメでここら辺とパンクエピソードを削ったのは妥当だろう。パンク少年蹴を飛ばすのはナンパ行為よりカブ乗りとしてこいつはダメだという見下しなわけで。小熊の話を読んでたはずが作者の偏狭なこだわりを読んでる気分になる。アニメはそういう臭みをかなり抜いていた。別にキャラが偏狭なこだわりを持ってても良いんだけど、それが客観視できてない感触が強い。

アニメで削られたのはエピソード単位だと修学旅行行く途中のパンク少年の話と、その前に自力でパンク修理するきっかけになる道に釘埋めてたそば屋の話と、ピクニックの話か。漫画、アニメ、原作小説とメディアミックス三種全部目を通したのなんて他にあったか覚えがないけど、これやると個々のメディアの違いがわかってなかなか面白い。スーパーカブは実は漫画版のほうが一番印象が違うかも知れない。漫画的なコミカルさがあるから。