カート・ヴォネガット「国のない男」

国のない男

国のない男

カート・ヴォネガットが亡くなった。この本は、まるで彼の遺影のように正面にヴォネガットの写真を配して、帯にはさようならとまで書かれている。彼の本は和田誠の装幀以外には考えづらいものがあるが、この遺影式装幀はなかなか適切なものに思える。

この本は彼の生前最後の著作と言うことで、ベストセラーにもなったらしい。確かに、この本は彼のエッセイのうまさが存分に発揮された本で、薄くてイラストも要所に配され、読みやすいというかなり売れそうな本だ。ただ、彼のエッセイ集は早川文庫から出ていた二冊の方が面白かった覚えがあるがいまは入手困難だろう。

彼の文章には、ペシミスティックな世界観とそれをユーモアに変えてみせる強靱さが同居している。ヴォネガットは非常に悲観的な見方をする人なのだけれど、同時にとてもポジティブな姿勢を持ってもいて、そんな彼のユーモアは人をとことん絶望させるのと同時に、人をどうしようもなく笑わせてしまう。

「ユーモアというのは、いってみれば恐怖に対する生理的な反応なんだと思う」とヴォネガットは書いている。そして、ローレル・ハーディについて、彼らのジョークには悲劇的な要素とともに、とてもやさしいところもあった、と書く。これはそのままヴォネガットにも当てはまることだ。

スローターハウス5」がわかりやすいが、彼は絶望の底でその絶望自体を笑いに変えてしまおうとする。それは単に不謹慎なブラックジョークというのではなく、絶望を生きる人が前を向くために必要な「生理的な反応」だ。彼の笑いは地球人類にかんするペシミスティックな観点に基づきながらも、積極的に前向きに生きていこうとする姿勢を失わない。そこが、感動的だった。

そして、そこがセリーヌと違うところだろう。ヴォネガットが本書で紹介している産褥熱の予防方法を確立したゼンメルヴァイスという医師*1についての評伝を書いたルイ=フェルディナン・セリーヌ*2の小説は、ペシミスティックな世界観と非常にヒューマニスティックな点でヴォネガットととても似た資質の作家だと思うが、彼の態度はどこかやけっぱちで投げやりなところがあり、絶望の底を覗き込みすぎたように感じる。

まあ、それはいいとして、ヴォネガットが紹介している言葉で、とても感動的なものが一つある。インディアナ州出身の社会主義者で20世紀前半のアメリカで活動していた社会党のメンバー、ユージン・ヴィクター・デブス。彼の大統領選挙戦での言葉らしい。

下層階級がある限り、わたしはそのうちのひとりだ。
犯罪者がいる限り、わたしはそのうちのひとりだ。
刑務所にひとりでもだれかが入っている限り、わたしは自由ではない。

私の知るなかでもっとも印象的な政治家の言葉だ。政治の理念として、いままさに必要とされているのはこうしたものだと思う。この言葉には、社会において下層階級、犯罪者が生まれるのは政治の失敗に原因があるのであり、彼らを出来うる限りその状況から救い出すことがまさになすべきことである、という理念が語られていると思う。

政治がなすべき最優先目標はまさにそのようなことだと思うのだが、いまの日本では下層階級、犯罪者をいかに隠蔽し、隔離し、排除するかということに血道を上げている。