大江健三郎 - みずから我が涙をぬぐいたまう日

みずから我が涙をぬぐいたまう日 (講談社文芸文庫)

みずから我が涙をぬぐいたまう日 (講談社文芸文庫)

久し振りに大江の本を読んだ。以前、初期作品から順に読んでいくというのをやっていて、「洪水」までは行ったのだけれど、そこでぱったりと止まってしまっていた。で、岡和田さんid:Thorn群像新人賞最終選考まで残った大江論を個人的に読ませてもらったのをきっかけに、大江ツアーを再開してみようかと思って以前に買ってあったこれに手を出してみた次第。

この本は表題作と「月の男(ムーン・マン)」の天皇三島由紀夫というモチーフで通底する二作品を収録した二部構成のものとなっている。直接には1970年の三島の自決を受けて書かれたものだという。

表題作はかなり凝った作りで、重量級の中篇だ。まず、つねに水中眼鏡を掛けていて、自分は末期癌の患者であると信じている病床の男が語り手となっていて、テクストはその男の発言を傍らにいる「遺言代執行人」が書き留めたものだということになっている。さらに、そのテクストで男は自分のことを三人称つまり、「かれ」とやや距離を取り客観的な風に語っている。そしてその地の文には括弧書きで「遺言代執行人」による註釈というかツッコミが入ることがあり、その括弧の中でしばしば代執行人と男の議論が行われる。そのうえで、この作品の文章は意図的に翻訳文体的な込み入った構文で書かれている。

ざっとこれだけの形式上の仕込みがあり、さらに繰り返し男に対して、あなたは末期癌ではない、という病院側の指摘が差し挟まれる。

男の主張に対して、これだけの不信、相対化の手法が用いられているという点ですでにして異様なこの中篇で語られる核心の出来事というのは、「万延元年のフットボール」でのものとかなり似通った敗戦時の父にかんしてのことだ。

そこでもう一つの仕掛けがあり、父を男はつねに「あの人」と呼ぶ。その「あの人」は敗戦時に決起を試みるのだけれど、それは表向きの話で、実態はきわめてみじめな結果に終わる。男の語りの屈折は、その恥辱を隠蔽するような物語を語ることの痕跡としてある。

この小説における「恥辱」にはもう一つの側面があって、それは天皇のために死ぬことができるか、という命題をめぐるものだ。これは父の決起騒動と男の少年時にかかわり、この小説の大きなバックボーンとして存在している。同時に、この小説での父が「あの人」と呼ばれることの意味が、男=父=天皇という三位一体説のような連続性を意図したものであることもわかってくる。

この小説では、男の主張する物語、ロマンといったものが、徹頭徹尾批判と解体の俎上に上らされながら書かれている。とすれば、三島の死に際して書かれた、この天皇小説の眼目というのは非常に明快ですらあるとは言えるだろう。しかし、この小説の仕掛けの込み入り具合と、読みづらい文体、記述、描写の密度の凝縮度はかなり読み応えのあるものになっていて、大江らしさを詰め込んだような印象がある。


もうひとつの「月の男」はもっと読みやすい。こちらも「あの人」という用語が用いられていて、それが直接天皇を指すところでは上記の作とつながりのある連作なのは明白なのだけれど、反捕鯨運動とアポロ計画を描いたこの作品においてその意味合いは上記の作のようにわかりやすいものではない。読みやすいし話がわかりにくいことはないのだけれど、話の意味が、なんというか難しい。作中で「ムーン・マン」と呼ばれるNASA有人宇宙船基地からの脱走兵は二十世紀の現人神「あの人」に月旅行を否定してもらいたがっている、という形で天皇が現れる。

渡辺広士の解説によれば、ある面では天皇を肯定的に扱っている作品ということで、渡辺は「奇異な話」とも言っている。確かに奇異な話だ。

捕鯨運動を扱ってはいるものの、作中に出てくる活動家に鯨肉をだまして食わせるシーンが出てきたり、捕鯨問題に対しての大江の実際のスタンスは知らないけれど、小説においてはそうした運動に対しても距離をとった描写をしているのが面白い。というか、大江の小説というのは露悪的というか、猥雑なもの、愚劣なものなども積極的に描写したりしていて、そうした描写の幅と深度はかなりのものがある。巷間では綺麗事左翼の典型みたいに言われることが多いのだけれど、エッセイ、評論集の類をほとんど読んでない私からすると、そのイメージのギャップに驚く。

なかなか好対照な二作収録の本書だけれど、どちらも短いながらも高密度で非常に読み応えがあり面白い。なんにしても、やはり小説家としての圧倒的な膂力が印象に残る。