最近読んでた本2023.11

高田公太『絶怪』

実話怪談本。著者が序文で、それまで怪談で怖いだけなのはダメだと変化球を投げていたのを、あえてストレートな恐怖譚を収めたと言ってるのもあるせいか、冒頭の「我が家」から、呪いとして理に落ちそうなところでずらす不可解さが印象的な話だったりする。

続く「テント」もあり得ない現象と異様な状況がありつつ、それが分かりやすい呪いの物語として解決しないという不可解さがあっていてなかなか面白い。かと思えば、「可愛い子には」のオチは確かに怖いけどそれじゃない!って思って笑った。「コンビニ伝説」の、異界への入り口がすぐそこにあることが逆に人を誘惑するのもなかなか良い。作品集としては「不安」というほぼ一ページに収まる掌篇が一話ごとに挾まれているのは本として面白い構成。

巻末の「ここに漂え」は実話怪談本のなかにあって事実を元にした小説という体裁で書かれている短篇で、こうなると何が何だか分からないけれども、被害者女性の晴らせぬ恨みを小説と言うことにしてぶつける志向は、怪談がしばしば被害者の怨念を代弁する機能を持っていることの反映なのかも知れない。

ただ、本書で一番怖かったのは「海」の「芳雄」さんなんですよね。普通に考えたら誤植なんだけど、これはただの間違いなのか、あるいは意図的なものなのかと混乱して、怪談本に誤植の形で知らない人が急に出てくるのは正直メタ怪異っぽくてリアルにぞっとしましたからね。語りがバグるのが一番怖いというか。

蛙坂須美『怪談六道 ねむり地獄』

『代わりに読む人0』でご一緒した実話怪談作者の初単著。冒頭の「噛夢」は歯にまつわるいやな生々しさとともに体験者が変容を遂げているという怖さがあり、冒頭から何篇かはこういう体験者が既に「向こう側」に行っている事例が続いていて、怪異がすぐそこまで迫っているギリギリ感で攻めてくる。聞いた話を語るという実話怪談の形式では当人の死にオチは不可能だけど、既に異質な認識に染まってしまった人とも言葉を交わすことはできる。それが恐ろしい。語りこそ読者が直接触れるものなわけで、本書はこの語りというインターフェースに意識的な点が特徴ではないか。

そもそも序文の「こんな話を聞いた」の連発は漱石夢十夜』の「こんな夢を見た」だし、ちょうど真ん中あたりにある「病膏肓」の「あなたは今、怪談本を読んでいる」という導入はおそらくはカルヴィーノ『冬の夜一人の旅人が』か、あるいは他のメタフィクション小説に参照元があるはずだ。帯にある「現実と非現実の境目が溶ける瞬間の恐怖」、「ねむり地獄」という題や元のタイトル案だった「奇睡域」という汽水域をもじった言葉などのように本書では夢と現の境界が意識されており、メタフィクションの引用も虚構と現実の境目をそこに重ねる意図があるからこそだろう。

ホラーと夢とメタフィクションは境界が溶けるという点で重なる点があり、だからこそ漱石メタフィクションが召喚されている。しかし本書は「実話怪談」なので一般の怪奇幻想小説とは異なり、語り自体をバグらせるわけにはいかない。そのギリギリを突いたのがカフカ感のある「K鍼灸院」だろう。別様のリプレイをするように二度同じルートを雰囲気の違う形で繰り返すというテクニックを使っていて、読者もまた違う次元に迷い込んだような感触をもたらす効果があるけど、しかしこれは「実話怪談」でやるには暗黙の前提?を踏み越えかけてる気もする。

これやって良いんだ?と思ったのは「土地」だ。ある場所で何度も事件が起こり店が建て変わっていった経緯を複数の人間の話から再構成する一話で、基本的に一人あるいはその知り合いぐらいから話を聞く場合が多い「実話怪談」としてはかなり珍しい手法で面白い。

タイトルに応接する一作として「ファントム・オ・テアートル」がある。自分だけしか見えていない不思議な存在を描いたもので、「現実に紛れ込んだ夢の断片」なのかと考える本作の冒頭には「現実と夢とは実のところ地続きなのではないか」という一文があり、境目は常に溶けていると示唆する。その意味では「犬目耳郎」の現実そのものが反転していくさまは夢を介さない分またいっそう恐ろしいとも言える。しかしそもそも「実話怪談」というジャンル名にしてからが撞着語法めいたもので、現実と非現実はそもそもそこから境目が揺らいでいる、とも言える、本書はそう思わせる。

加藤一編著『妖怪談 現代実話異録』

あやかしテーマの実話怪談本。最初の話に天狗が出てきたりするけれども、そういう既存の妖怪になる以前の、何か得体の知れないものとの遭遇の色が濃い。終盤には民俗学的知識を踏まえたものも配置され、末尾の長尺話は力作。

序文でも妖怪に言及しながら怪異全般、神や精霊との境界が曖昧なものだと書かれているように、そういう見慣れた妖怪として固定化される以前の現象なのが「妖」を冠した本書の肝だろう。民俗学知識を踏まえつつそれではないものとしてずらす「ちまりの話」もそうした一作。「ちまりの話」「しいらくさん」「ゥフゥヌン ヮヌゥーノッ――奇譚ルポタージュ」の三作は民俗学知識を交えたり家に伝わる正体不明の社だったりあやかしものの話らしくて面白い。「籠蛙力行」の謎めいた単語もなんかそれっぽくて印象に残る。

読んでておお、と思ったのは「デコトラ」の、長距離ドライバーは体の右側を日焼けしてしまうものだというところ。遭遇した人物が同業者らしいのに日焼けがないので怪しむ描写があり、この細部のリアリティは良いなと。「蛇精の菊」は『雨月物語』のタイトルっぽい。

しかしこれに限った話でもないけど、ホラーと差別は相性が良いのでいかにそれを避けるかが現代ホラーの一つのポイントになってるなというのは感じる。古典的なホラーをズラしていくというのも新鮮味とともに差別的な物語性の相対化でもあるというか。

鈴木悦夫『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』

幸せな家族という保険会社のCMの被写体として選ばれた一家が、いざ撮影を始めようとしたら父が、兄が、と次々家族が亡くなっていく連続変死事件の当事者となった小学生省一の語りで事件の様子が描かれていくジュヴナイルミステリ。

以下特にネタバレとか配慮しないで書いていく。

犯人はもう最初のプロローグでこいつ以外ないだろとわかるので実質倒叙ミステリの感触があるけど、事件の内実や何故こんなことがという部分は謎めいた形で進んでいく。それでも父と姉に怪しい関係がありそれが犯意かと思ったり、犯人は一人ではないのかもなど、結構読んでて迷わせられる。

「幸せな家族」を裏返してその実不幸せな家族だったという単純な露悪ではないだろう。父の姉への態度はやや熱心すぎてここに父の性虐待などがあるのかもと思ったけれどもそうではなく、事件の真相ではお互いをかばいあってこうした展開をたどる共犯関係の、「幸せな家族」ではあるわけだ。言ってみれば、時間差の一家心中のような状況が起きていて、大切な家族だからこそ殺すという慈悲的殺人が含まれている。まあ一人以外は。「頭の悪い男の子が大嫌い」という言葉がなかなか鮮烈で、約一名だけ誰にも庇われていないのが何か本作の黒い穴のようでもある。

作品自体もインパクトがあるけれど、本作が悪意を向けているのは幸福が絵になるなら不幸もまた絵になるというメディア、資本主義のありようだろうと思われる。ビデオカメラ、CM、テレビ週刊誌含めたマスコミ取材、そして語りに用いられるカセットテープと、道具立てには新しいメディアが溢れている。省一の罹った「たいくつ病」とはまさしくこの80年代的メディア環境そのもので、それこそが人を殺すものでもあり、プロデューサーやカメラマンの動き方が示すように幸福も不幸も美人も「絵」になるわけで、それに対抗するためにはこの複雑な陰惨さを向けるほかない、とでもいうような。

しかしこの家族の中心は姉なんだな。兄が非常に厳しい扱いを受けているのは唯一姉の魅力を認めない人間だからなのではないか。姉が褒められると不機嫌になって自分を中心にしようとする態度で、父からも省一からも姉からも嫌われているわけで。最初も最後も姉の存在ありきの話。

でも一番驚いたのは「その頃はやった唄」というのが実際にある詩だということだった。JASRACの登録番号が付記されてて、山本太郎の『覇王紀』という詩集も実在している。曲がどういうものだったのかはさすがにYoutubeとかにもなかったけれども、実際にあんな見立て殺人にぴったりの曲があるとは。

そういえば、この小説には服装に関する描写がほぼなかったと思う。服装の描写はすぐ古びると考えていたか、子供向けで服の描写は要らないと考えたのか。

花田清輝『箱の話・ここだけの話』

本と本の合間に時々読んでる花田エッセイ、本書は特に短い文章が多くて移動中やちょっとした空き時間に読むのにちょうど良い。老いの話や刺青の話、戦地で劇場を建てて演劇をした『南の島に雪が降る』に触れた文章が印象的だった。

花田の天邪鬼というか皮肉屋ぶりが面白くて、歌舞伎を褒めるとなにかと面倒になると言ってこう書いている。

わたしは、関根弘が、「佐多稲子は、もはやプロレタリアの魂をうしなっている。なぜなら、かの女は有頂天になって、カブキをみに行っているから。」といったような意味のことを口走ったので、すっかり、頭にきてしまい、佐多稲子をひいてはカブキを、口をきわめて礼讃し、長年の知り合いであるかれと、一時、絶交してしまった。14P

「口をきわめて礼讃し」、面白い書きようだし蔑視されたものを瞬時に庇いにかかる反射神経はすごい。
ここらも良い。

おもうに、もしも森鴎外が、かれの息子にもまさるとも劣らぬほどに耄碌していたなら、かれの歴史小説は、いっそう、精彩をはなったのではなかろうか。36P
 
山之口獏小野十三郎中野重治は、みな、わたしの古い知りあいだ。あえて知りあいといって、友だちとはいわない。わたしには友だちは一人もいない。77P
 
わたしは、小島政二郎を、近代以前の視聴覚文化を血肉化している点において、作家としては、永井荷風谷崎潤一郎の血族であり、近代の活字文化に首までどっぷりひたっている森鴎外芥川龍之介とは、およそ縁もゆかりもない人物ではないかとおもうのだ。116P

豊島与志雄が『ジャン・クリストフ』を訳したのはまだ許せるけど「『レ・ミゼラブル』を訳したのは終生の恨事」だと言っていたという話が紹介されてるんだけど、何でなんだろう。

反戦的であるということ」という文章が『南の島に雪が降る』という戦地で劇場をやったノンフィクションに触れている。世の中の縮図としての軍隊にはさまざまな職業人がおり、彼等の力によって劇場を建設し、芝居を演じる、そんな話に触れながら花田はこう言う。

軍隊もまた、さまざまな「平和の仕事」に従事していた職業人たちの集団であって、そんな連中が、みずからのプロフェッショナリズムにてっしていれば、いやでもかれは反戦的にならざるを得ない、というのが、わたしの大凡の見当だったのである。「文学はあくまでも平和の仕事ならば、文学者として銃をとるとは無意味なことである。」と称して、断固として銃をとることを拒絶するというのなら、わたしにもわかる。しかし、小林秀雄のように、そういったあとで、言葉を続けて、「戦うのは兵隊の身分として戦うのだ。銃をとるときがきたら、さっさと文学など廃業してしまえばよいではないか。簡単明瞭なものの道理である。」というのでは、首尾一貫しないことはなはだしい。すくなくともそこには、プロフェッショナリズムの片鱗さえみとめられないのだ。145P

花田は階級意識よりも職業意識を尊重するという。「わたしは、職業意識と縁のない階級意識を、すこしも信用するわけにはいかないのである。」(146P)しかし階級意識と縁のない職業意識があればどう思うのだろうか。現実を見ないための職業意識。それが今現在を支えているような気がしないでもない。
kadobun.jp
現在、地味な仕事を貫くことはここでも触れられている。
「軍事大国ロシアの侵略に直面しながらも、人々の中のあるものは銃を取り、パン屋はパンを焼く。お笑い芸人は笑いに徹し、鉄道員は一日たりとも鉄道を止めず、ITエンジニアはサイバー空間でロシアと戦う。」
しかし『乱世今昔談』と『箱の話』から適宜取捨して本書を構成してあるらしく、独特の編集をしている。

R・D・レイン『好き? 好き? 大好き?』

サブカルその他さまざまな場所でオマージュされてきた異色の精神科医として知られる著者の詩的作品集。精神医療の現場での経験を元にしたと思われる対話から数行程度の短いものまで。表題作は素直に読めるけれども全体像は掴みづらい。

第一の詩篇「蕩児の帰宅Ⅰ」は認知症の父と母、息子との場面が描かれていて、瞬間瞬間に息子のことを忘れていく父親との会話がト書きなしの会話文だけで構成されているのがなんとも印象的。浮気関係の交錯を記す「寓話」連作はサリーアンテストみたいでもある。

最も長い「どうにもしかたがない」はなかなか緊張感があって、治療者と患者の関係らしい「彼」と「彼女」の会話のなかで彼女が幾度も「どうにもしかたがない」と繰り返しており、これがある種の「治療」への抵抗のようにも読める。男と女、医者と患者という上下関係への違和。「わたしはありのままのわたしとはちがうわ」「わたし自身なんてなくしてしまったわ」という述懐や、彼の「きみはなぜ しじゅうぼくに楯突くのかね?」「しじゅうあなたに楯突いてなんていないわ」というやりとりのなかで「おねがい わたしをたすけようとするのはやめて」と治療への批判が入る。ここで彼女がリフレインしてきた「どうにもしかたがない」が医者と思しき彼のセリフとして「どうにもしかたがないんだ」と発されるのがクライマックスのようで、精神病の治療という概念そのものに対する緊張があるように思える。もう一点ここには君は「ロボット」なのか、と問う箇所がある。

他の詩篇でもロボット的な題材が幾つもあり、ねじが抜けてるという言い方があったりして、解説でも言及されているように精神病者がロボット的な存在に陥る「石化」を精神病治療の一つの症状として批判的に描写しているんだろうと思われる。

第47篇の意味がわからい箇所が気になって原文を探したら脚韻がしっかりと踏まれた詩の形式になっていてこれは原文を見ないと読んだことにならない作品なんだなとわかった。「あれはなんでも」が最初「あればなんでも」の誤記かと思った。MENを人間と訳してたり、韻文は訳しにくいな。

はつかねずみを食べるのが好きだったが
あれはなんでも
ほくが十歳のころ
いま食べるのは人間だけど
あんなにうまくはないんだな 117P

原文はこう。

I liked to eat mice
that was then
I was ten
now it's men
they're not as nice

同じことを繰り返して訊ねる幼さを感じさせる「彼女」のリフレインが印象的な表題作では「彼」が彼女の問いにほとんどおうむ返しに肯定していくなかで「わたしのこと おかしいと思う?」「だって そこがいいんだなあ」というやりとりが挾まるのが良いところですね。

レインは制度的な精神病治療に対して批判的な反精神医学運動に携わっていたとのことで、「どうにもしかたがない」の「治療」への批判などは明確なその現れだと思われる。だからこそ、解説で本書の純粋さや美しさを褒めあげる美化志向はかなり問題だと思う。サブカルチャーにおける本書を元ネタにした作品群については参考になるけれども、本作の社会性・政治性・批評性を削ぎ落とすようなこの態度は、病者の聖化というか他者化というか、本書で批判されている「石化現象」そのものではないのか。

小山田浩子『工場』

新潮新人賞受賞のデビュー作他二作を収める作品集。謎めいた工場で必要性の分からない仕事に従事する労働者たちを描く表題作や鈍臭い女性社員を中心に会社組織の人間関係を描く「いこぼれのむし」と、労働とともに妊娠や動物の繁殖が描かれており、つまり「生産」の諸相と読める。

発達障碍というか社会にうまく馴染めない人間の疎外感を描いている印象も強いけれども、熱帯魚趣味の友人の死の知らせを受けて最後に会った時のことを回想する短篇「ディスカス忌」が挾まると、本書はずっと繁殖のこと、人間と動物というか、動物としての人間を描いてるような印象が出てくる。

短い「ディスカス忌」が地味に作風の種明かしのようになっていて、赤ん坊の誕生と熱帯魚という人間と動物を繁殖において重ねることと、途中に出て来た貧しい母子家庭が浦部の妻子の今後のイメージを先んじて作中に描く時間的順序の入れ替えという技法のコンパクトな提示に読める。

まあそういうことは良いとして表題「工場」は、労働がむしろ社会との関係を危うくする疎外感をもたらす不条理さを描きつつ、巨大工場の異様なスケールや不可思議生物などにSF的なサービス精神もあって、かなり楽しく読める中篇になっている。正社員、派遣、契約と三人の視点から描きつつ、校正、シュレッダー、コケによる緑化計画というそれぞれの仕事が時折繋がる仕掛けも良いし、時間軸のトリックは驚かされる。社員食堂が社内に100ある工場って何だよっていうのとか、川に架かる橋を歩いて渡るのに一時間かかるとかいう大きなハッタリも面白い。

「工場」の謎生物のレポート、灰色ヌートリアや工場ウは他でも出てきているのに洗濯機トカゲというのは他で見てないのに唐突にここで出てくるのが異様で、現実感を揺るがせる小さなヒビにも思えるけれど、よく読むと実は他で描写されてたりするんだろうか。黒い工場ウは生活環がわからず、子供の姿も見えず成体だけがいる繁殖の過程が不明の動物なことが不穏さを醸し出しているんだけれど、何ものかを生産する場所としての工場にこのウがいるのは奇怪で、ここが印刷工場でもあるっぽいこととあわせてコピー・複製の象徴なのかも知れない。

中篇「いこぼれのむし」は女性を主として描く人間関係の描写が綿密で、疎まれ孤立しているその鈍臭い女性社員をめぐる状況はなかなか生々しくやや読んでてつらいところもある。「工場」はそのハッタリの効いたスケール感や幻想性で楽しく読める。サービス精神とはそういう意味もある。帯にある「この労働は、ブラック?ホワイト?」という文言は全然本作そんな話じゃないだろと思ったけど、「いこぼれのむし」は主人公奈良が鬱病と思われるけれどもむしろ病んでいるのは職場の方ではないかという展開で、これは確かにそうかも知れなかった。主人公が自分の垢を食べてる結構ゾッとする描写があって、なにか精神の不調を抱えているのはそうかもとも思っていたので、著者がそうではないと言っていたのは意外に思うところがあった。鬱病とは言わずとも何か病んでいるんだとは思っていた。しかし、そういえば主人公がまわりに自分は鬱だと思われていると気づいたところにこんな文言があった。

ただ、私にとっての普通が、彼らにとっては病と見まがうばかりの不幸だったのだ。304P

そう、そういう話だった。

読んでて特に笑ったのは「「メンタルヘルス・ケアハンドブック~あなたもわたしもなやみにサヨナラ~」という大便のようなタイトル」(39P)という一文で、これは普通なら「クソみたいな」と言うところだと思うんだけど「大便のような」という端正な表現が非常にツボに入った。ここに付箋を貼っていて、読み終わった後にぺらぺらめくってたら、「メンタルヘルス・ケアハンドブック」は「いこぼれのむし」にも出てきていて、ここに既に出てたのか、と驚かされた細部でもあった。

allabout.co.jp
このインタビューのここ、最高だった。作中に出てこないと思った洗濯機トカゲもこれは作中のあの子供がいると思って書いてるものとして書かれているものなのではないか。

小山田 私は幻想のつもりはなくて、一応リアリズムと思って書いているんですよ。でも幻想ととってくださる方がいるのはありがたいなと。
 
――えっ。でも工場ウとか、洗濯トカゲとか、実際にはいない生き物が出てきますよね。
 
小山田 私にとってはいるんですよ。図鑑に載っていなくても、この世界にはいると思って書いています。