東浩紀氏の印象操作的「批判」について

社会は存在しない

社会は存在しない

先日のSF乱学講座で会ったとき、Amazonで在庫がなく、手配まで数週間かかる表示になっていたという話をしたら、岡和田晃さん本人にではこれを、と頂いてしまった「社会は存在しない」を読み終えた。

全体的な感想にこちらがあるのだけれど、
『社会は存在しない』限界小説研究会編 - logical cypher scape
これにレスポンスしている東浩紀の以下の文章を読んで唖然としてしまった。
批判について - 東浩紀の渦状言論 はてな避難版
「ある執筆者のあまりに論争的なスタイルには首を傾げました」と、東氏自身をも批判の対象にしているひとつの論文に言及しているのだけれど、意図的なのか自覚せざるものなのか、具体的な中身にまったく触れないその揶揄的な言及の仕方が、まさに印象操作と呼ぶほかないような代物となっている。

東氏の記事で名前を伏せられている論者は上述の岡和田晃そのひとだ。直接の知人がこんな訳の分からぬ印象操作にしてやられるのは耐えがたいので東浩紀氏の記事に強く抗議する。
以下敬称略

ここで東はまず岡和田論文の註釈における論争的なスタイルに疑問を呈している。「単純に無駄だ」と。そしてその批判が「必ずしも本文の文脈で必要とは思われない」かたちで続いていることを批判している。しかし、そもそも言うならば、註釈は本文には入らなかった余談や別の議論を参照するためにもなされるのであって、「本文の文脈で必要」なものに限るものではないはずだ。むしろ、註釈は詰め込みすぎてはいるとは言えるが、論旨と照らして不必要とは思えない。具体的な批判を名指しで行うことが不必要、だというならそれは確かに、この記事で東が行っているような婉曲的な批判を是とする立場からは不必要には見えるだろうというだけの話になる。

特に、この記事でもっとも問題なのは、そうした岡和田からの批判について、どういう論旨であったのかということに東が一言も触れていない点だ。内容についての検討をせず、ただ、「論争的スタイル」を問題にし、「○○を見落としているから貧しい」式の批判は「誰にでもできる」と切り捨てる。

なにか新しいことを試みることは、必ず、それまで触れられていたなにかを意図的に落とし、別のなにかを取り上げるという作業を伴うからです。

東はこんな一般論で誤魔化しているが、それを言うなら何かを書いたり、言ったりすることすべてにおいてそうであって、つまりはこれだけでは意味のない主張でしかない。岡和田は、たとえば宇野常寛の議論においてシュミットの「決断主義」が全体主義を擁護する結果になったことに対する批判的視座がなく、歴史性が欠落していること、そしてその「決断主義」がセカイ系の批判になるどころかその変奏に過ぎないと、論理の破綻を指摘している(同じ指摘はこの本の他の論者からもなされている)。そして、東と前田塁に対しては後期中上健次の姿勢が、「さながらフェティシズムや症例の一種がごとく矮小なものとされる」ことについて批判し、中上以降のいわゆる「ポストモダン小説」(青木淳悟の作品もこの関連において語られている)が何に抵抗しようとしていたかという問題意識がまるで無視されていることに危機感を抱いている(東に対する批判はもう一箇所ある)。

新しい試みがそうである、ということについては、そうだろう、としか言いようがない。問題は、そこで行われた、何かを落とし、何かを取り上げる作業における、その質のはずだ。岡和田は、宇野らの議論において何かが落とされていることそのものを批判しているのではなく、「何が落とされているのか」を指摘して批判している。

反論を行うなら、その「何」が落とされることは試みにおいて必然である、ということを指摘しなければならないはずだ。

しかし、東浩紀の記事においてはその種の具体性は何一つ明示されない。個別具体的な批判を一般論にすり替えて反論した風にみせる詐術でしかない。同時に、相手の批判を論証なくその程度の一般論で批判しおおせるような代物だとする前提を忍び込ませてもいる。

唯一具体的なのはデリダを援用した「散種」の理解が乱暴だ、という指摘だけれど、「根拠は言わないが間違っている」と言っているだけで、意味をなしていない。

10年前のぼくであれば、このひとのデリダへの参照の乱暴さ(「散種」の概念*1の理解)に難癖をつけることもきっとできたでしょう。むろん、いまのぼくはそんなことにまったく意味を感じませんが。

デリダの専門家の元で指導を受け、デリダ論を書いた東がそういうのなら、岡和田の散種理解はなるほど乱暴なのかも知れない。しかし、どう乱暴なのかを示してもいないため、ただの「言いっぱなし」でしかない。むしろ、きちんと根拠を挙げて難癖を付けるなら、明示的なだけ10年前の方がマシだといえるだろう。難癖なんてつけていませんよ、という難癖とはなんと高度な皮肉なのだろうか。

ここで東は、根拠を明示しないことで自分を相手より優位な位置に立たせようと試み、「難癖」を否定する倫理的な態度を採っているかのように自己を規定したがっているが、ただ「難癖」を付けるよりもはるかに醜い政治的なパフォーマンスと成り下がっている。また、この註釈で「揚げ足を取られるとまずいので」などと書いたりして、まるで岡和田が揚げ足取りばかりしているかのような言外の主張を滲ませてもいる。

もうひとつ注目すべきなのは註釈の2の方で、誰にでもできる批判だと岡和田を批判したその口で、「ぼくもむかしはしたことがあります。そしてそれを恥ずかしいと思います。その点を誤魔化すつもりはありません。ただいまでは、なるべくそういうことはしたくないと思っている」と殊勝な自戒を記し、「批評家の最低限の倫理」として「とにかくいまのぼくとしては、批判をするときはなるべく相手の可能性の中心に降り」ていきたい、などと言っているのだけれど、当の東のこの記事自体が、言及対象の論文についてろくに具体的な反論をするでもなく印象批判に終始し、あまつさえデリダ理解が間違っているが根拠は言わない、という自身のメタレベルを確保する振る舞いに及ぶような訳の分からない代物でしかなく、「むかし」どころか現に今そこで自分がやっていることの「恥ずかし」さが分かっていないことの方を「恥ずかし」がるべきだろう。あまりに自分が見えていないではないか。自戒を書く側から裏切り続ける高度な自虐プレイか何かだろうか?


さらに悪質なのは、岡和田の論争的な姿勢について「そこにはある意志を感じざるをえない。それが研究会全体の党派的見解でないとよいのですが。いや、むろん、そうではないと信じています」などと、限界小説研究会自体に疑いのまなざしを向けているところだ。

読めば分かるように、この本はそもそも、宇野常寛の議論に対するカウンターを企図して企画されたもので、元よりそういった意味では党派性はあり、そしてそれは明示されている。さらに、セカイ系を肯定的に捉えようとするこの本の中で、題材もそうだが「セカイ系」自体に批判的な岡和田論文は明らかに浮いている。本人もそれは自覚しており、

「今回お声をかけていただいた際、「僕は『セカイ系』について書くのであれば、批判的にしか立論できないのですが、それでもよいのでしょうか?」と馬鹿正直に問いました(笑) 普通ならば即座に却下されるところですが、なんとOKをもらったのです。研究会のイデオロギー的な偏向のなさに、私自身、驚きました」
『社会は存在しない』(南雲堂)に青木淳悟論を書きました。 - Flying to Wake Island 岡和田晃公式サイト

と書いている。

本全体としては東浩紀の議論を受けたものの多いこの本のなかで、ひとり強く東批判を行っている岡和田の存在を見て研究会の党派性を疑う、というのは妙だ。どんな「党派的見解」を妄想したのか。むしろ岡和田論文の存在は、研究会がそのような党派性を帯びていないことの証左と考えられるだろう。冗談のつもりなのか分からないにしても、東の波状言論からデビューした論者もいる研究会にむけて、おまえんところのこれ、どういうことや、とヤクザな因縁を付けているようだ。

最後のこれも素晴らしい。

まあ、そのひと個人については、ここまでぶちあげた以上、このあとにはきっと、数百字での言いっぱなしに終わらない、ぼくや宇野くんの本質を突いた批判が待っているのでしょう。文芸誌かどこか派手な場所で。

せめてそれを期待します。

何の具体的な反論もなしに、批判をただの「言いっぱなし」だとレッテルを貼ってすませたうえ、文芸誌に派手に書ける機会がそうあるわけではないだろう新進の批評家にできるもんならやってみろ、と挑発をしているわけだが、そんなにきちんとした批判を読みたいなら、自分で自分の「思想地図」に派手に書かせればいいではないか。期待しているというからにはそれ相応の対応をするべきだろう。「せめてそれを期待します。」


つまるところ、東は批判された理由をすべて外部化しようとしている。相手を変な人扱いして自分を無辜の被害者の立場にスライドさせようとしているわけだ。具体的な論点を無視して「ある意志を感じ」たり、研究会に「党派性」を嗅ぎつけたりと、私が以前「陰謀論的」だと批判した批評家とかなり似た感触だ。以前にもその時書いたけれど、これが、笙野頼子が批判し、岡和田論文でも論じられていた「おんたこ」そのものといえる。その意味では、岡和田論文に東批判があったのは必然的なことだったとは言えるだろう。

なんというか、人の党派性を疑ってみせるけど政治的でないフリをして一番政治的なのは本人だし、可能性の中心に一番降りてないのも本人だし、揚げ足をとっている(というか、根拠明示しないんじゃとれてもいないけど)のも本人だし、まるごと自分自身を論駁しているコントぶりはいったいどうしたことなんだろうか。まるで笑えませんが。


しかし、去年末の南京事件についての対応(挑発したことにほっかむり、とか、直接テクストを読まずに伝聞で批判してみたりとか)と考え合わせると、東浩紀って自分が批判されたときに、とても特徴的なリアクションをする人なんだなということはよく分かった。


今回の件と以下の記事の件との類似性に注目。
実録・「おんたこ」とは何か - Close to the Wall
あるいは、「おんたこ」でこのブログを検索するとわりと面白いと思います。
「おんたこ」の検索結果 - Close to the Wall