鶴田知也 - コシャマイン記・ベロニカ物語

アイヌの蜂起で名を知られるコシャマインの名がある「コシャマイン記」で第三回芥川賞を受賞したことで文学史に異彩を放つものの、現在ほぼ忘れられた作家と思しき鶴田知也の作品集。この短篇集はその鶴田知也作品のうち、北海道二海郡八雲町を舞台にした作品を編んだもの。

鶴田知也は元々プロレタリア文学の作家として出発した人で、堺利彦葉山嘉樹は高校の先輩にあたり、葉山との交友をきっかけとしてプロ文雑誌「文芸戦線」に書き始めたのだという。高校時代はキリスト教に興味を持ち神学校に入学してもいる。鶴田自身は神学校時代にOBの牧師宅で出会った八雲町出身の人物の誘いで八雲に訪れ半年ほど滞在し、ユーラップコタンの首長イトコルらとの親交を深める。これがその後の北海道ものの作品の舞台となっている。

アイヌを主人公とした作品はふたつあり、「コシャマイン記」と「ペンケル物語」がそれにあたる。コシャマインとはいっても、史実「コシャマインの戦い」を素材にしたものではない点は注意。同じく、オニヒシ、シャクシャインという名前も登場するが史実とは異なる。

コシャマイン記」は部族の英雄の息子でありながら、同族らの裏切りのなかで逃亡を続け、最後には和人の裏切りにあって殺されるコシャマインの生涯を叙事詩的な文体で描いた異色の作品で、同じく叙事詩的な文体を用いた「ペンケル物語」ともども、和人の抑圧のなかで、アイヌ同士が相互に分断されていくさまを描いている。

日本の近代化の下で迫害されていった民族の英雄を、反近代的な叙事詩的な文体で描くというのは非常に面白い。けれどもアイヌ民族のことが叙事詩的なスタイルで描かれるというのはある種のオリエンタリズムによるものとも言えるのではないかとも思う。まあ、文芸文庫はさすがに面白い作品を拾ってきたな、と思った。鶴田知也の本は現行ではこれ以外入手できるものがなく(芥川賞全集などでは読める)、小説の単行本としては1976年以来の刊行となる。それぐらい忘れられていた訳だ。

ただ興味深いのはむしろ、この後に収録されている作品かも知れない。鶴田のアイヌを主人公とした作品は二つしかなく、他の北海道ものの短篇は開拓のために渡ってきた和人たちを中心にしている。農業に苦心し酪農に突破口を見つけるという開発の歴史が語られているものもあり、農業や酪農にかんする描写がかなり詳しく、開拓の苦難の歴史が一人一人の農民の生活に着目して描かれていて面白い。地味ながらもしっかりと生きていく人々に対する視線が暖かい。素朴ではあるけれどその分素直に読める好作品だと思う。

しかし、これらの開拓こそが、アイヌの生活を破壊していったと考えるとことは複雑だ。「コシャマイン記」では和人の行いを批判的に描いてはいるものの、開拓もので描かれているのはアイヌを追いやった行為そのものとも言えるからだ。私の目には鶴田の立ち位置はこのふたつの作品系列で矛盾、分裂しているように見える。この分裂こそ、アイヌを描く和人という立ち位置に必然的に入り込むものだとは言えるのかも知れない。それは向井豊昭もそうだ。和人たる私たちは、この分裂をこそ読まなければならないだろう。

ただ、鶴田自身、この矛盾をどう考えていたのかはわからない。そもそも矛盾だと思っていたのかどうかも判然としない。解説において川村湊プロレタリア文学弾圧などによって不利な立場にあった鶴田が、芥川賞を取るなど話題性のあるアイヌものをこの二作しか書いていないことは、自身の和人たる立場からアイヌを描く欺瞞性を悩んだからではないかと書いているのだけれど、鶴田の発言、エッセイなどの根拠に基づくものではなく、推測でしかない。また、当時の共産主義社会主義運動にとって民族問題をすくい上げることができていなかったという思想的限界もあわせて指摘されている。

向井豊昭は和人がアイヌについて語る矛盾そのものを作品の中心的モチーフとして、その実験的な手法において展開してきた訳で、そこから見ると鶴田の作品はとても物足りないところがある。かといって鶴田の小説を低く位置付けたいわけではない。北海道をアイヌ、和人双方の面から描いてみたこの一連の北海道ものの作品群を今から見れば、その歴史的、思想的、文学的限界が露わになっているとはいえるけれども、むしろそれゆえに見るべきものがあるのではないか。

鶴田知也は小説家としてはそれほど活動していなかったのか、著作の多くは農業関連書籍、あるいは草木の画帳だった。