清水克行 - 日本神判史

日本神判史 (中公新書)

日本神判史 (中公新書)

前ブログで紹介した「喧嘩両成敗の誕生」の著者清水克行による新著。前著は中世から近世における紛争の事例をつぶさに見ていくことで、喧嘩両成敗という法が前近代の野蛮さを示すものではなく、当時にあって合理的な紛争解決の一手段としてあった、ということを論じる法制史の趣のある著書だったけれども、本書もまた神判―神明裁判―というややマイナーながらもインパクトのある題材を論じていくことで、紛争解決のあり方を通じて中近世法制史を辿る著書となっている。

喧嘩両成敗という題材勝ちな面もあってキャッチーなタイトルだった前著に比べると、タイトル的にはやや地味というか何だか大仰な感のある本書だけれども面白さは劣るところはなく、熱湯に手を入れて火傷するかどうか、あるいは焼けた鉄を目的の場所まで運べるかどうか、というどう考えても不合理な神明裁判のあり方から、科学なき時代の「合理的」解決法を描く手さばきはやはり見事で、やや付け足り的とはいえ世界史上の類似例を探って類比的に神判史をひもとく部分など、新書判の概説書として非常に行き届いた構成になっている点もポイントが高い。

本書では「起請」を軸に述べるのだけれど、そもそも起請というのは神仏に自身の主張が事実であるとの誓願を行い、それが破られた場合にそこに記した神に罰を受けてもいい、ということを記した文書、あるいはその行為そのもののことをいう。鉄火起請や湯起請はそのうえでさらに、自身を危険にさらして正しい主張をしたものには神の加護があるから大丈夫なはずだ、ということを試す裁判の形を取る。

鎌倉時代から戦国、江戸初期にかけての三つの起請を辿っていくことでその時代の神判のあり方を探っていくことになる。

鎌倉時代に行われていたのは、参籠起請と呼ばれるもので、これは起請文を書いた後、神社の社殿に数日(七日、あるいはさらに七日)こもってその間に自身の身体や親族に異変が現れるかどうかを見るというものだった。しかし、これはそもそも被疑者に「失」が現れることが少ないので事実上汚名をすすぐシステムになってしまっていたうえに、日数も掛かるということで、室町時代にはいると次第により即時的で失が現れる可能性がより高い湯起請に取って代わっていくことになる。

著者が史料に現れる湯起請を見つかる限り数え上げて統計を取ってみたところ、湯起請においては有罪と無罪の確率がちょうど半々という結果が出ている。かなりそれらしい数字、に思える。内容としては犯人探し型が六割、紛争解決型が四割という内訳になっている。湯起請は室町時代に集中的に現れ、その原因にはくじ引きで選ばれた将軍、足利義教の存在が大きく、確かに彼が一時期多くの湯起請を行ったとはいえる。その意味で、湯起請は上からの専制的なシステムだというような議論も行われたけれど、義教以前にも湯起請の例が見られ、さらに民衆の側からの希望によって行われた例も多く、そうした単純化はできないと著者は言う。

ではなぜ、湯起請が求められたのかというと、著者は先行研究を要約してこう述べる

湯起請は事件の真相を究明したり、真犯人を捕縛することに目的があったのではなく、共同体社会の狭い人間関係のなかで互いが疑心暗鬼になり社会秩序が崩壊してしまうことを食い止めるため、誰もが納得するかたちで白黒をつけることで、共同体内不安を解消することを目的としていたのではないか P62

そもそも、何もやたらに湯起請が行われたわけではなく、論争や犯人探しがその前にこれ以上ない、というほど究められた後で、どうしようもなくなったところで持ち出されるのが起請だった。その意味で、秩序維持のための最終的な手段としてあったということがいえるだろう。

もうひとつ、紛争解決型のものについては、それがしばしば一方の当事者から持ち出される例を挙げ、湯起請を持ち出すことで相手をひるませて訴訟を有利に持ち込もうとする場合があることを示す。さらに、きわめて不利な状況に追い込まれた側が、一発逆転を狙って湯起請を持ち出す例もあり、無理を通すための起死回生の策と化している場合もある。前にも書いたとおり、湯起請の有罪率は半々だったので、圧倒的不利にある者が賭ける価値はあったのだろう。

著者はここにもうひとつ、時代の流れのなかで証拠と認められるものが口頭の約束から文書へと切り替わりつつあることを指摘する。そのなかで、自身の権利を保証するものが口約束や記憶しかない場合、湯起請に持ち込むしかないということが起こった。これは過渡的な現象で、結局時代の趨勢が文書主義へと切り替わってしまうと湯起請は行われなくなっていく。

次に足利義教が湯起請を多用したのは何故か、という問いに進む。足利義教が湯起請を多用したのは、じつはその政権初期に集中しているという。目の上のたんこぶだった重臣がいなくなり、自身のやり方を思うように行うことができるようになると湯起請は行われなくなる。つまり、これは重臣たちの存在があって思い通りにならないとき、自身の恣意性を隠して意志を通そうとするときにもちいられたものだったという。

これは「喧嘩両成敗の誕生」で、「喧嘩両成敗法」が専制的な強権の発動というよりは、強権の発動ができない状況での紛争解決の手段としてもちいられるもので、むしろ強権の不在を示すものだと論じられていたことと通じるもので、為政者主導の湯起請は為政者の権威が不安定だった時代特有のものだったという。

このさきの戦国時代や江戸時代の為政者のように、彼らの意志や理非に基づく判断で裁許が行えるのならば、そもそも鬮取りや湯起請など不要なはずだろう。しかし、家臣団の集団意志(「衆議」)がそれなりに尊重されていた室町時代においては、彼らは「神慮」に頼らなくては、反対意見を打破できなかったのである。P141

これは江戸初期に行われた鉄火起請についてもいえる。

彼らが神判を許容していたのはひとえに彼らのつくりだした近世権力がいまだ未成熟で、多くの人々を納得させるだけの統治機構や理念を整えていなかったからだった。とくに、この時期に頻発していた村落間相論は、つねに複雑な利害がからみあっており、公権力とはいえ、へたに首を突っ込んで一方に肩入れすると、かえって自体を泥沼化させてしまい、自身の威信を削ぐ血管になりかねなかった。そのため、初期においてまだ不安定な近世権力は村落間相論などの問題については、主体的な理非判断を回避し、その解決を神判に委ねざるをえなかったのである。P199

しかし、湯起請は室町の百年間に渡って行われたのに比べると、より過激化した鉄火起請はじつにそのピークが二十年間ほどの期間に集中していて、すぐに流行が去ってしまう。しかも、室町時代よりも近い時代にもかかわらず、湯起請の事例の半分ほどしか史料に見いだせないことから、それほど広く行われたものではなかったのだろうという。

鉄火起請はその事例を見てみると、しばしばチキンレースの様相を呈していたり、小細工をして自身を有利に導いたという話が伝わっていたりと、むしろ「神慮」を蔑ろにしかねない状況が多々見られる。実行者も湯起請の場合はその村の有力者だったりするのに対し、鉄火起請では村に滞在している浪人などが駆り出される場合があり、人身御供に近いものだったという。しかし、鉄を握って不具になることがあるので、村では実行者に対しては手厚い保障を行い、六代後までそれが続いた例などがある。このような仕組みは村落共同体の危機管理の精緻化であると同時に、「神慮」の加護があるから大丈夫、などといえなくなっている状況があると著者は指摘している。神慮の絶対性の低下とともに、試練が過激化していく状況は神判のあり方が末期的なものとなっていたことの証とも言えるだろう。近世権力の安定とともに、鉄火起請は姿を消していく。


というわけで、各時代の起請を見ることで、法を貫徹する権力が不安定な時期における過渡的な紛争解決手段として起請が求められたありさまを見てきたわけだけれど、たとえば地域の秩序維持のために起請が行われ、犯人を見つけ出すという事例は現在においても全然他人事ではないとしか思えない。足利事件なんてその良い例ではないか。科学的捜査が進歩し、証拠に基づく合理的な犯人探しが行われるようになったような気がしているけれど、いくつかの有名な冤罪事件なんかは白黒半々の湯起請に訴えた方がまだマシでは、ということを思ったりする。


面白いのは鉄火起請によって決着を付けられた村落間の境界は、現在でもそこに記念碑や松が植えられたりしていて、当時の伝承が今も語り伝えられている場合があることだ。たとえば、横浜市川崎市の市境は鉄火起請で決められたものだという。横浜市青葉区鉄と川崎市麻生区早野との境がそれで、境界に植えられた松が「鉄火松」と呼ばれていたらしい。松は既に枯れてしまって今は跡を示す石碑があるだけになっている。さらに興味深いのは、勝者の早野側では地域の歴史教育のなかでこのエピソードの紙芝居を作ったりしているのに対し、敗者の横浜側では、役人に賄賂を渡して不正が行われたという話が語り伝えられているのを著者は聞いている。室町の湯起請でそういう事例が聞かれないのは、江戸初期というのは現在も続く地域社会の枠組みの多くが形成された時期だからだという。

著者がここら辺のことを調べるために各地をフィールドワークした結果も非常に面白い。