笙野頼子 - 小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神(後篇)

すばる 2010年 10月号 [雑誌]

すばる 2010年 10月号 [雑誌]

早速発表された猫ダンジョンの後篇。
前回はこちら
笙野頼子 - 小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神(前篇) - Close to the Wall
掲載紙の刊行ペースの関係で序章の後篇より先に出てしまうあたりややカオス。刊行計画等についてはモモチさんがブログの方で「群像」でのエッセイに触れてまとめておられるので、そちらを参照。
「群像」2010年10月号に笙野頼子の随筆 | ショニ宣!
その群像エッセイを読むと、やはりこの連作は書けない理由について書いていく予定とのこと。そして、この猫ダンジョンは、全六章予定の内のまだ序盤にすぎない。それでもたぶん前後篇あわせて300枚くらいはあると思うので、各章ごとに単行本化していくのではないか。とすると全六冊となり、「おんたこ史」三部作以上の大シリーズと言うことになるけれども。

今回は先の話を継いで、猫の介護や荒神、若宮にに、もうひとりの自分「あたし」のことなどが語られていく。今回ちょっと気になったのは、鬼畜系ライターと呼ばれる村崎百郎氏が読者に殺される事件があったけれど、そのことが作中に触れられていて、またさらに後半でネットでずっと狙われているとか、脅迫状が来たこととか、そういう素性の知れない相手による不安を語っている(ここで、「さるところの既女板等」なら住所を特定したりするだろうと書いているところがあったりする)ところだ。

ただ、ここら辺は「説教師カニバット」の「巣鴨こばと会」をモデルにしたと書いてあるように、フィクションぽいところがあるのだけど、「何度会ってたって、今後はどんな読者も家の前まで来ただけで通報するからね」とあって、脅迫状は本当に来たものなのかわからなくなってくる。

前回ではそれっぽく理屈っぽいまとめをしてみたけど、後篇はやはりこちらの想定みたいなものをどんどん引っかき回していく。理論的にまとめられる構図、自我の再編に伴う格闘、みたいなものは確かにあるのだけれど、語り、叙述の乱調ぶりがそれをどんどん引きずり回していく快感がある。若宮ににの三分裂した語り口調や、私が分裂した二人(とりあえず、「私」と「わたし」で現されている様子)、語りの調子が変わっていくスタイル等々。ともかく、笙野頼子は語りにつねにノイズを放り込んでくる。語りが単線的に、平板にならないように、オノマトペをたたき込み、調子を狂わせ、公式的な美しい文体にならぬように、一人称さえも分裂させて語っていく。

狂気や殺意を書かせると逸品なのが笙野頼子なのだけれど、同時にやはり「幸福」がキーになっていると思われる。老化現象のひとつ、光視症に罹っているらしいことを踏まえての、特にこういう描写。

借り物の体で景色を見てきた、つまり視覚が私にとって所有の一歩で自我の体感の根本だったのだと実感した。角膜の傷をこえて敢えて見る景色は健康な目で見るのとは微妙に違う。でも見るのは嬉しい。着ない服を見て喜んでいたり、人もこないのに花を買ったりして、庭園水晶を握り込んで、私を所有をして自分になって来た。家に住んでいる。猫のためでもある。でも家を眺めると嬉しいのだ。一方飛蚊症でうざい視野に目を閉じるとそこには心の財産が広がっている。150-151P

借り物の体と所有、視覚の関係が幸福ということのなかに捉えられていて非常に印象的。所有と自我の関係は以前からの笙野の関心ごとで、また傷ついた目、ということには「おはよう、水晶、おやすみ、水晶」での傷のある水晶のイメージを呼び起こす。

死や殺意、あるいは笙野自身の老化、そして猫の迫りつつある最後というのがここ最近の作品につねに忍び寄っていて同時に、だからこそ大切にしたい「幸福」が非常に印象的に描かれる。それがすごくいい。

作品はまだまだ序の口だ、という感じがする。


で、やはり読んでいて思うのは笙野頼子の書く「金毘羅」的体験、自分は普通の人間のコミュニケーションが分からないとか、そういう体験についての記述はとても自閉症の人の事例を思い出させる、ということだ。病気について素人が云々するのはよくないし、作家の作品を「症例」に押し込めてしまうおそれもある。さらに、相手を病だと名指すことは、相手の行動を全てその病のせいにしてしまう言説に与することになりかねない。ここでいくら私がそのつもりがないといっても、結果的にそういう抑圧を強めてしまう可能性はある。もちろん、私としては、事例と似ている、という以上のことを言える知識も経験もないのだけれど。

こちらのブログでもその旨書かれていて、そしてオリバー・サックスの火星の人類学者を例示している。
辺境からの便りーーポストコロニアル文学と批評をめぐって: 天才と障碍(その2)
私も読んだ「火星の人類学者」で出てくる、まるで「火星に降り立った人類学者」のようだと自分を評するテンプル・グランディンの様子と、笙野頼子が書くことはとても似ている。「おんたこ」に出てくる「火星人」はこれと何か関わりがあるのだろうか。

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

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オリヴァー・サックス - 火星の人類学者 - Close to the Wall
動物感覚 アニマル・マインドを読み解く

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そしてもう一つ気になったのが「クラスター水」。ドラに少しでも水を飲ませたりするために買ったものらしい。「vivo」という商品が出てくるのだけれど、私にはどうしてもニセ科学商法にしか見えない。都からも以下のような発表があるように、「クラスター」って言葉を使った水関係のものって個人的には全てニセ科学商法だと思ってます。いや、私に断定は出来ないけど、限りなく怪しい。
http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2005/02/20f2f100.htm
こういうの、「おはよう水晶」でも一度出てきて、でもすぐにかかりつけの獣医師に一笑に付されて辞めていたはず。

最近ようやくメディア報道されてきたホメオパシーがそうであるように、ニセ科学を利用したニセ医療ビジネスの広がり方が見えた気がする。ただ、これは別に害があるものじゃないタダの水だと思うので、味がよいなりなんなりのプラスがあるなら声高に言うこともないかも知れない。高いなら話は別だけれども。