前回のに続いてメモその2。今回で八巻まで行ったから、次回で終わりかな。
失われた時を求めて〈5〉第三篇 ゲルマントの方〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
- 作者: マルセル・プルースト,鈴木道彦
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そこで語り手は今度はゲルマント公爵夫人に心を奪われて、ストーカーまがいの真似に走ったり、親戚であるサン=ルーが兵役で駐屯している場所に赴いたりと、なんとかお近づきになろうと涙ぐましい作戦を立てる。
そんななかで次第に重要な意味をもち始めるのがドレフュス事件だ。サロンの人々から使いのものまであらゆる人物たちがこの事件を口にし、世論はまっぷたつになっている。
ドレフュス事件とはユダヤ人将校に対する冤罪事件として知られている。対独スパイの証拠となるメモが発見されたことから始まり、このメモの筆跡からユダヤ人のアルフレッド・ドレフュスが逮捕、有罪とされた。事態に疑念を抱いたドレフュスの兄らが調査をはじめるなか、情報部長のピカール中佐は、メモの筆跡はドレフュスのものではなく、元参謀本部のエステラジー少佐のものであることを突き止めた。しかし、この訴えは参謀総長らに握りつぶされ、ピカールには圧力が加えられ、捏造の証拠で有罪にされるなどして左遷された。ところがメモは新聞に掲載され、ドレフュスの兄は真犯人エステラジー少佐を告発するに至る。ここでも軍法会議はエステラジーを無罪にするなど嘘と工作を続けていく。
十九世紀ヨーロッパの反ユダヤ主義の象徴とも言える事件で、ただの冤罪事件ではなく、反ユダヤ主義、愛国主義、その他さまざまな議論を含んで、非常に紛糾したものとなっていく。エミール・ゾラが当局を糾弾する文章を書いたことが有名だ。ユダヤ人として出てくるブロック(この名は、ユダヤ系の歴史家マルク・ブロックの姓と同じものだろうか)は後半でサロンに現れ、ドレフュス事件を話題にして煙たがられる描写などもある。ドレフュス事件に対してどのような姿勢を現すかがきわめて重要な意味合いを帯びてくる。
この巻ではそんなに話が進むわけではないのにやたらと長い(全巻最長)ので挫折する人も多いらしいけれど、ドレフュス事件にまつわる人間模様はそれまでの関係に新たな光を当てていて非常に面白い。ドレフュス事件そのものも興味深く、簡潔に解説した註も面白い。
ちなみに、事件の真犯人エステラジーは、Esterhazyと書き、ハンガリーの一大貴族エステルハージ家の人間だということをさっきドレフュス事件をWikipediaで調べていて気がついた。本文を読んでいたとき「エステラジー」では気がつかなかった。同じ一族のエステルハージ・ペーテルというハンガリーの小説家がいて、ユーゴスラヴィアの作家ダニロ・キシュの友人であり、その死のニュースに触れたときのことが記されている「ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし」が松籟社から出ている。キシュにもエステルハージ家の人間を題材にした短篇がある。
失われた時を求めて〈6〉第三篇 ゲルマントの方〈2〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
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その後、語り手はバルベックで出会ったことのあるステルマリア夫人に入れ込んで(移り気過ぎると呆れるばかりだ)、なんとか会おうと画策していたとき、アルベルチーヌの訪問を受ける。アルベルチーヌは以前出会ったときとは様子が変わっていて、以前拒まれたことが今は受け入れられそうになっている。そこにフランソワーズが入ってきて邪魔をされるあたりは漫画みたいな展開だ。アルベルチーヌが去ったあと、ステルマリア夫人との約束を取り付けるのだけれど当日になって反故にされてしまう。ここのあたり、以前拒まれたアルベルチーヌが受け入れる姿勢をみせながらも、語り手の関心はステルマリア夫人にあり、しかし、ステルマリア夫人から拒まれる、という入れ構造になった構成はおもしろい。
そして後半、ゲルマント家のサロンに招かれ、そこでの人々のやりとりが延々語られるのだけれど、これが結構うんざりするところかも知れない。当代最高ともいわれる社交界での、鼻持ちならないコミュニケーションを皮肉にそして丹念に描いているわけで、これが丹念かつ丁寧なだけに読んでいる方のうんざり感も相当なものになる。しかもそういうやりとりが数百ページにわたってつづくわけで、挫折ポイントといわれるのもわかる。
まあ、ここを乗り越えてしまえば、シャルリュス男爵と語り手の対面場面で語り手がぶち切れる下りとかの面白いやりとりがあるので、頑張ってください、と。
しかし、前巻につづいて名前ネタだけど、ユダヤ人「ブロック」をあえて「ブロッホ」と違う発音で呼ぶ場面があるのだけど、これを読んで、ドイツのヘルマン・ブロッホの「ブロッホ」というのもユダヤ系の名前だったのか、と気がついた。
失われた時を求めて〈7〉第四篇 ソドムとゴモラ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
- 作者: マルセルプルースト,Marcel Proust,鈴木道彦
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前巻ではドレフュス事件が本作での人間関係を眺め直す新たな視点を提供していたけれど、本作では同性愛が登場人物たちをまたさらに異なった関係の元に置き直す。語り手にそのことを促す大きな事件のひとつは冒頭に語られるシャルリュス男爵とジュピヤンの出会いを目撃したことだけれど、もうひとつの大きな事件は、アルベルチーヌに同性愛の疑いがかかるところだ。疑いどころか、語り手はアルベルチーヌとその友人が胸を触れさせながら踊っているのを目撃してしまう。さらにはブロックの妹とその友人の女優がスキャンダルを起こすなど、さまざまな同性愛の事件が起こっている。
ドレフュス事件とユダヤ人に続いて人間関係が大きく違って見えてくる同性愛の要素が現れたことでいよいよ佳境に入った感があり、これらがどう展開していくのかと気になり出す巻となっている。
そして重要なのは、序盤からの本作の重要なテーマとなっている無意志的な記憶の主題が、祖母の死を介してふたたび現れるところだ。前巻での祖母の死についてはやけにあっさりとした叙述で終わった感があったのだけれど、本書の中盤、二度目のバルベック滞在で語り手ははじめて本当にその死を受け止めることになる。
シャンゼリゼで彼女が発作を起こして以来、はじめて私は無意志的で完全な記憶のなかに、彼女の生き生きとした現実を見出したのだ。こうした現実は、私たちの思考によって再創造されないかぎり、私たちにとって存在しない(さもなければ、壮大な戦闘にまきこまれた人間は、みな偉大な叙事詩人になってしまうだろうから)。こうして、祖母の両腕のなかに飛びこんでいきたいという狂ったような欲望にかられながら、私は今しがた―事実のカレンダーと感情のカレンダーの一致をしばしば妨害するあのアナクロニズムのために、祖母の埋葬から一年以上もたって―はじめて祖母が死んだのを知ったところだった。
339P
この真の哀しみに襲われる場面は、第一篇のマドレーヌの挿話と対比的であるばかりでなく、一度目のバルベック滞在での語り手のマザコンぶりを辿り返しながら語られ、語り手にとっての祖母の存在の大きさが実感される場面であるだけに、きわめて印象的な挿話となっている。
失われた時を求めて〈8〉第四篇 ソドムとゴモラ〈2〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
- 作者: マルセル・プルースト,鈴木道彦
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ソドムとゴモラの後半というわけで、ここではソドム=男の同性愛と、ゴモラ=女の同性愛にまつわる話がより深まっていく。シャルリュス男爵はヴァイオリニストのモレルを囲うようになり、モレルの関心を惹くために滑稽なまでの醜態をさらす。第一巻で、ヴァントゥイユ嬢とその女友達が同性愛にふけっているのを主人公は目撃していて、そのことを知らないアルベルチーヌがそのヴァントゥイユ嬢と親しいことを明かしてしまったため、アンドレとアルベルチーヌが「ゴモラ」の関係にあるのではないか、という前巻からの主人公の疑いは、確信に変わってしまう。
それまでアルベルチーヌと別れたがっていた主人公は、彼女が「ゴモラ」の女だということを確信したあと、急にある決意をし、この篇の最後でそれを母親に告げる。第四篇終わりになって、どうやらついに物語がある方向へと向かいだしそうな雰囲気を告げている。これまでも別に物語が全く進んでいない、というわけではないのだけれど、ここに来て土台固めが終わった、という感じがした。
第三篇に比べると、ずっと読み進むのが早くなった気がする。この巻はずいぶん面白くなってきている。文章にもだいぶ慣れて、特に同性愛のテーマが投入されてからは人物関係がより立体的になり、隠し事のある人間の挙措、というものが微妙に喜劇的な様子を生み出していて、より楽しく読めるようになったからだろうか。
また、この巻では20世紀冒頭の時代状況を反映してか、馬車以外の交通手段が大きく取り上げられている。今巻では鉄道の車内でのやりとりがかなりの分量を占めているし、自動車が登場して時間と空間の意味合いを大きく変えてしまう様子が描かれている。
最後にとても印象的な一文があったので紹介する。語り手はまず、世に認められている価値をほとんどどうでも良いと思っている人間(主人公もそうだ)は、幻影を必要としている、という。しかし、幻影はすぐに消え去ることがある。主人公がこれまで追い求めてきたジルベルトやゲルマント夫人、初めて見たときのアルベルチーヌなどなど、を思い返す下りにつづいて、こう語る。
こうした幻影、追い求めては忘れ去り、また新たに探し求める幻影、それもときにはただひと目会いたいがために、また束の間に消える非現実の生活にふれたいがために、追い求めた幻影、バルベックでたどる数々の道は、そうしたもので満ちていた。その道の木々、梨やリンゴや御柳などは、きっと私よりも長生きするだろう。そう考えると私には、それらの木々から忠告をもらうような気がした、さあ、永遠の休息を告げる鐘がまだ鳴らないうちに、そろそろ仕事にとりかかる時間だよ、と。
355P
ここでの「仕事」は、主人公がずっとやろうと思っていてしかし手を付けていない小説を書くことを指しているのは明らかで、この下りはこの小説が終盤にさしかかりつつあるということを非常に強く感じさせ、淋しさをも感じさせる部分だった。
と、そんな感じでこれから終盤にさしかかろうと言うときに、なんと「失われた時を求めて」の個人全訳がこれから二種が並行して刊行開始となるという話を耳にした。ひとつは既に光文社古典新訳文庫で第六篇「消え去ったアルベルチーヌ」を出している高遠弘美氏が光文社古典新訳文庫から、そして吉川一義氏が岩波文庫から双方全十四巻で刊行予定という。
個人全訳何種類出す気なんだよと突っ込まずにはいられない。しかも今年出るヤツは二つとも文庫初出というのはすごいな。これだけ長大な作品の全訳がすべて文庫新刊で手にはいる(ことになる)というのは驚嘆すべき。
失われた時を求めて〈1〉第一篇「スワン家のほうへ1」 (光文社古典新訳文庫)
- 作者: マルセルプルースト,Marcel Proust,高遠弘美
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完結するまでは死ねない 高遠弘美『失われた時を求めて』刊行開始 - オシテオサレテ
と思っていたら高遠氏のブログに貼られていたこちらの記事では、高遠訳第一巻からの文章が引用されている。私はまだ現物を見ていないので、申し訳ないけれどここからちょっと孫引きさせてもらって、鈴木訳と比べてみよう。
高遠訳
もうすぐ午前零時になる。午前零時。それは旅を余儀なくされて、見知らぬホテルで寝なくてはならない病気持ちの男が、発作で目が覚めた拍子に、ドアの下から差し込む一条の光に喜びの声をあげる頃おいである。ああ、よかった。もう朝になった!もうすぐ従業員たちも起こされるだろう。そうしたら呼び鈴を鳴らせばいい。誰かが助けにきてくれるはずだ。助けてもらえるという期待が、苦痛に耐える勇気を与えてくれる。
鈴木訳
やがて十二時だ。それは、どうしても旅行に出かける必要のできた病人が、見知らぬホテルに泊まることになり、発作を起こして目がさめたときに、ドアの下からさしこむ一条の朝の光を見つけて喜ぶ瞬間である。助かった、もう朝になったんだ! じきに従業員が起きてくる、呼び鈴も鳴らせるし、助けにも来てくれる。楽になれるという希望が、苦しみに堪える勇気を病人に与える。P30-31
こうして並べてみると、高遠訳が日本語としてより洗練された訳になっているという印象だ。鈴木訳は翻訳文体っぽさが残っている。あと、高遠訳は句点を増やしている。正確さはよく分からないけれど、文面だけ見た読みやすさではこれだけ見るととりあえず高遠訳なのではないか。高遠訳では、「それは旅を余儀なくされて」からの文章で、主語(病人)を文章の真ん中あたりに置くことで一文の骨格を見通しやすくしているのが大きな違いか。鈴木訳だと、「病人」が最初の文に出てきてから「喜ぶ」までが遠い。プルーストは長文が多いので、こうした工夫は読みやすさにかなり貢献すると思う。
高遠氏が既に訳している「消え去ったアルベルチーヌ」はとりあえず買ってみて、底本の解説のところだけざっと見たのだけど、既に存在する個人全訳のどれとも異なり本文の長さが半分以下(文庫では190ページ程度)というかなり異質のバージョンになっている。この版はプルースト本人が最後に手を入れたものらしく、その点で鈴木訳の底本選択に異議があるようだ。高遠、吉川の個人全訳は、この「消え去ったアルベルチーヌ」の巻では何を底本にするのだろうか。
プルーストの誕生日に : 高遠弘美の休み時間・再開(告知板)
http://book.asahi.com/clip/TKY201007100151.html