坂口尚 - 石の花

石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)

石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)

ユーゴスラヴィアはしばしばこのように表現される。

「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国*1Wikipediaより

本作は第二次大戦下、ナチスドイツの侵攻にさらされたユーゴを舞台にしている。村を襲撃されゲリラに身を投じることになった少年クリロを主人公に、チトー率いるパルチザンへの参加、王制派レジスタンスチェトニクとの内紛、ユダヤ強制収容所の惨状、そして第二次対戦終了までを描く歴史長篇漫画だ。文庫版全五巻。

開巻冒頭ではスロヴェニア地方東北部の自然あふれる穏やかな情景を描き出していて、カラーページの美しさには目を奪われる。序盤はその村に赴任してきた教師と教え子たちの自然、空想などについてのやりとりが描かれるのだけれど、幸福な世界はドイツの侵攻とともに崩壊し、少年クリロの同級生たちは無惨に殺され、家族とも離ればなれとなってしまう。ドイツはおろか、同国内の反共抵抗組織チェトニクとの抗争、クロアチアの過激派組織ウスタシャはセルビア人狩りを行うなど、同国人までもが血で血を洗う戦争がはじまる。

そうしてクリロはゲリラ、パルチザンの戦いへむかう。しかし彼はつねにその戦い=人殺しを正当化しきれず、悩み続けることになる。パルチザンでの友人のユダヤ人は、タルムードの「迫害するもののなかにいるよりは、迫害されるもののなかにいる方がよい」という文句を引用し、やはり人殺しの正当性を納得しない。

そうした彼らの「男らしくない」態度は、周囲の人間たちからつねに批判にさらされつづける。クリロの心情は、この人殺しの正当性への疑義としかしそれでも戦わなければならない、という現実の間で立ち往生する。それに加えて、敬愛する兄がドイツのスパイで、兄によって殺されかけたことから、信頼を失いかけている。

クリロはこの現実と不信のなかで揺れ動く。作中では、ナチスドイツの侵攻はもとより、チェトニクとパルチザンのように同国人同士の争い、民族間での対立、そしてパルチザン内部でもユダヤ人ということで蔑まれるクリロの友人や、捕虜をリンチで虐殺する様子など、様々なレベルで殺し合いが描かれる。戦争のなかで、暴力があらゆるところに広がっていく。パルチザンには報復を正当化し捕虜を虐殺する者もいれば、クリロの言うことを理解し、助言してくれるブランコという男もいる。そしてクリロは内通者を見つけ、はじめて人を殺す。しかしそれでもクリロは人殺しを正当化できない。標榜される現実主義というのは、現実に飲み込まれた現状追認主義でしかないことがしばしばある。クリロはそのことにずっと抵抗し続ける。

ここでとても面白いのは、人殺しを正当化することに対し、ブランコは「現実を合点する(飲み込む)」という表現をしていることだ。こういう時、現実に飲み込まれる、と表現することが多いけれど、そういう受動的な文章ではなく、現実を飲み込むのか否か、という能動的な文として現れることは本作の核心だと思う。「飲み込まれる」という形で、それが自然で、選択の余地がなく、仕方のないことだ、という発想を否定し、飲み込むのか否か、として私たちの選択、意志の問題だということを浮かび上がらせているからだ。

戦後、クリロは町でチェトニクに食糧をやったとしてある男が住民にリンチをうけ殺される様を目の当たりにする。クリロは戦争は未だつづいているのだと言う。そして、村役場のGHQが戦争だから仕方ない、と述べたところから議論が始まり、以下のようなやりとりに至る。

「しかし……一人ではできんよ 一人で世界を変えようなんて無理だ 絶対不可能だよ!!」
「それが本音だったんですね………… またしても現実の方をのみこむんですね あなたは心から平和を望んじゃいないんだ!!」
249-250(原文傍点を太字に変更)

ラストで、「現実を現実と認めてしまったら、それまで」として、クリロたちは、鍾乳洞で石を花だと言った彼らの不思議な先生の言葉を理解する。「石の花じゃないけれど、石の花」。石の花というタイトルは現実を飲み込まない力強さへの願いとして名付けられたのだろう。

執筆されたのは83年から。88年頃に加筆され、今読めるのはその版だ。ユーゴスラヴィア連邦政府から表彰されたという。今はもう亡いユーゴ。ユーゴ解体にともなう内戦を私たちは知っているけれど、それでも、それゆえにこの作品は迫ってくる。圧倒的な一作。


なお、この作品の考証に協力しているのが現在ユーゴ史といえばこの人、という柴宜弘。今作の考証協力を依頼されて会ったとき、小学校の同学年だったことに気がついたという。柴氏は最終巻に解説を寄せている。最終巻には坂口氏本人のエッセイもあり、ユーゴへ取材旅行に行ったときのことが書かれているのだけれど、現地で同行した案内人が、山崎洋という人物で、ゾルゲ事件リヒャルト・ゾルゲの息子と書かれている。え、マジで? どういうつながりなんだよ、と思って調べてみたら、山崎洋氏は、ユーゴ人ジャーナリストと日本人女性との子で、父はゾルゲ事件連座して獄中で死んではいるものの、ゾルゲは父ではないようだ。勘違いなんだろうけど、今の版は直っているんだろうか。
山崎洋 - Wikipedia
山崎洋氏はベオグラード在住の研究者で、「古事記」をセルビア語に訳したりもしている。
なお、講談社漫画文庫版の装丁はミルキィ・イソベ+安倍晴美。イソベ、こんなところにも。

大判での刊行も。

石の花 上 (光文社コミック叢書“シグナル” 11 坂口尚長編作品選集 1)

石の花 上 (光文社コミック叢書“シグナル” 11 坂口尚長編作品選集 1)